曦澄③「道侶の契りを結ぼうと思ってるんだ」
師兄からの報告を受けたのは、雲深不知処で開かれた清談会の最終日だった。会も終わり、蓮花塢への帰路に着こうとしたところで、珍しく真剣な顔をした魏無羨に呼び止められた。あまりの仰々しさに付き添いに来ていた師弟たちを下げたところで伝えられたのが先の言葉。
そもそも数日前、雲深不知処に到着した初日に声をかけられた時から、魏無羨が何かを言いたそうにしていたことには気が付いていた。気が付いていながら無視をしたのは、未だ微妙に残るわだかまりのせいだった。
彼が一度死んでから十三年以上の時が流れた。
顔を見るのがも嫌だった頃までの恨みはもうない。けれど今更どう声をかけてもいいかわからない。だから、なるべく関わらずにいたほうがきっと互いのためになる。それが、観音堂での決着がついた後に江晩吟がひっそりと下した結論だ。そんな気持ちを知ってか知らずか、魏無羨の方もこれまでの数ヶ月は必要以上に江晩吟に関わってこなかった。
「……誰と誰が?」
それなのに、今更突然話しかけてきたかと思えば、突拍子もない内容すだったものだからつい無視もできずに反応してしまった。
「もちろん俺と藍湛の話さ」
魏無羨はにっこりと笑いながら、当たり前のように隣り合って立つ藍忘機に視線を向ける。その笑顔を見ながら、何も言わずに木偶のように立っていた藍忘機の表情が少しだけ緩んだ。
「こんな報告、お前は受けたくないかも知れないけど……。やっぱり江澄にはちゃんと自分で言いたくて」
「……」
「それと、すぐには無理かも知れないけど……もし、お前がいつか俺たちの関係を許してくれたなら、師姐達にも一度挨拶させてほしいと思ったというのもある」
魏無羨が江晩吟の顔色を伺いながら申し訳なさそうに言うのを、江晩吟は狐につままれたかのような気分で聞いていた。師姐達へ道侶の契りを結ぶことを挨拶をしに蓮花塢に来る。江晩吟がそれを許すはずがないと言わんばかりの口ぶりは、きっと過去に祠堂に入った二人を江晩吟が強く咎めたことがあるからだろう。
「……俺は」
何を言おうとしているか自分でもわからないまま口を開くと、魏無羨の表情に少しだけ緊張が走った。それを見て隣に立つ男が、冷たい視線を江晩吟に向ける。最強を謳われることもある実力者に、自分の最愛の人を傷つけるものは許さないと言外に伝えられる。
「……お前達がいいなら、道侶だろうが何だろうが好きにすればいい。俺には関係のない話だ。報告の件も……好きにしろ」
「江澄!」
応戦するのも嫌になり、吐き捨てるように言えば、みるみるうちに魏無羨の瞳が輝き出した。まずい、と思った時にはいつものうるさい大袈裟な仕草で抱きつかれる。
「流石は江澄!ありがとう」と熱烈な抱擁を贈られれば、まるで昔に戻ったようで、そこまで悪い気はしなかった。……が、隣の男が先ほどよりよほど恐ろしい顔をして自分を睨みつけているのを見て寒くなる。
「離れろ!」
「あー江澄、つれないこというなよ。てっきり、俺には関係ない!二度とその面見せるな!と斬って捨てられると思っていたから、受け入れてくれて嬉しいのさ」
「だからって抱きつく奴があるか」
「照れるなって」
「照れてない!」
「魏嬰」
受け入れられたことに気を良くして調子に乗る魏無羨を制したのは、藍忘機だった。静かな声で伴侶の名を呼ぶと「そろそろ行かないと、邪魔になる」と、魏無羨の肩に手を当てて引き離す。江晩吟のことを気遣っているようでありながら、嫉妬故の行動なのは間違いがないだろう。
「おっ、帰るところだもんな。そしたらこの話はまた今度詳しく!それまで息災で」
「……ああ」
魏無羨も藍忘機の言葉に素直に従って、江晩吟から離れる。嵐のような勢いで帰っていく二人を、江晩吟はただ呆然と眺めていた。
「……道侶」
混乱する頭を整理したかった。額を押さえながら先ほどの会話を思い返し、つぶやいて見る。
含光君と夷陵老祖が道侶になる。
道侶。道侶……?
「江宗主」
頭痛がしてきたところで、後ろから声をかけられた。驚いて振り返れば、先ほどの清談会を取り仕切っていた男ーー藍曦臣が立っていた。
ぎくりと、肩が震えそうになるのを我慢する。
「これは、藍宗主。何かありましたか?」
「いえ。頭を押さえていたので、心配になって……薬師を呼びますか?」
「心配ご無用。その、少し……混乱する話を聞いただけだ」
藍曦臣とはあれからーー江晩吟が彼に頼み込んで抱いてもらった日からーー差し障りのない無難な関係が続いている。お互い、完全に元通りの関係に戻すことなどできるはずもなく、どちらからともなく一線を引くようになった。
彼への想いに燻るものがないといえば嘘になるが、江晩吟自身も時とともにその気持ちは胸の奥に押し込められるようになった。幼くて弱かった自分が、苛まれる孤独感から逃げたくて寄りすがっただけの一方通行の恋だった。時々思い出しては、己の愚かさを自覚して戒めとするだけに留められるようになっている。
とはいえ、こうやって突然話しかけると少しだけ動揺してしまうのも本音だった。取り繕う暇がないまま、つい先程の混乱を伝えてしまう。
「ああ。もしかして、弟達の話を聞いたのかな」
「……そんなところです」
この人は藍忘機の兄なのだから、もちろん2人のことを知っているだろう。自分以外にもこの話を聞いた人がいるのだと思うとひどくほっとして、江晩吟はやっと少し冷静になって息をつくことができた。
「報告するために蓮花塢まで足を運ぶべきか悩んでいたみたいだが……突然訪ねて怒らせるのも避けたくて、貴方がここに来る日を待ったようです」
「そうか……」
「先程、彼らとすれ違った時、とても嬉しそうな顔をしていたのは貴方からの許しを得たからなのですね。もしかしたら貴方は二人の関係をよく思っていないのかと思っていたので、安心しました」
弟に代わって礼を言いますと、軽く頭を下げられれば混乱は更に大きくなる。男同士、しかもあの二人が道侶になるなどという突拍子もない話を、常識人だと信じていた藍曦臣すら当たり前のように受け入れている。未だ思考が追いつかない江晩吟は、一つため息を落とした。
「よく思うも何も……俺は、あの二人がそんな関係だと、今初めて知った」
思わず呟けば、目の前にいる藍曦臣が僅かに目を見開いた。いつも余裕の笑みを浮かべる男にしては珍しい素の表情をめずらしく思う。何に驚いているか分からず、視線を向けたまま首を傾げる。
「それは……あの、本当に?」
「もしかして、気が付いていないのはおかしなことだったのか」
言いにくそうに尋ねられ、その理由を推察してみる。先程の魏無羨の「今更」という言葉や、藍曦臣の「反対している」という口ぶりから、皆が一様に二人の関係を認識していることが前提だったと気がついた。
質問に質問で返せば、藍曦臣は是とも否ともつかない曖昧な表情で微笑んだ。それはどう見ても江晩吟を気遣った表情だった。
「もしかして俺は、周知の事実を自分だけ知らずにいて、今更驚いているのか」
「……周知、とまでは」
濁した言い方が答えだった。
色恋沙汰に疎い自信はあったが、自分だけ何も気づかずにいたのだと思えば己の未熟さを突きつけられたようだった。しかもそれを人に知られたとあれば、あまりの羞恥に耳が赤くなるのを感じる。
「……今のやりとりは、忘れてくれ」
「はい、わかりました」
こういう時、聡い男はありがたい。江晩吟の動揺を見透かした上で、余計な詮索をしてこない。これ以上墓穴を掘る前にこの場を離れたくて、江晩吟は挨拶もそこそこに歩き出す。
とにかく蓮花塢に帰ろう。
まだ頭の中で先程の魏無羨とのやりとりが整理できておらず、一人になって考えたかった。
「江宗主」
後ろから真剣な声に呼び止められて、思わず足を止めてしまった。何となく、振り返ることができないまま立ち尽くしていれば、藍曦臣が一歩だけ自分の方へ歩み寄ってくる音がする。
「大丈夫ですか?」
今日の天気でも尋ねるような、多くを含まない静かな問いかけだった。
けれど江晩吟にとっては、一番聞かれたくないことだった。
蓮花塢に温氏が攻めてきた時から、或いは魏無羨が夷陵老祖となって死んだ時から、彼を恨んでいた十三年、恨む理由がなくなった時、そして今ーー江晩吟はずっと大丈夫ではなかったから。
このタイミングで、優しく投げかけられた問いは、己すら騙していた江晩吟のことを最も容易く切りつけた。
心にぽっかり空いた孤独を、見透かされた。
道侶になると告げられた時、魏無羨と藍忘機がどうというよりまず「ずっと共にあるためには、そんな方法があったのか」という驚きが胸を満たした。目から鱗とはこのことだ。
もし、契りを交わしたのが自分だったら魏無羨が雲夢を捨てることはなかったかもしれない。どうして思い付かなかったのだろうかと、一瞬そんなことを考えてから、自分の浅ましさにゾッといた。
魏無羨相手に慕情を抱いたことはなかったし、これから先もないだろう。
自分の側に魏無羨がいる未来ーー雲夢双傑の夢を捨てきれず、どうしたら全てを失わずに済んだのかと未練がましく考えているに過ぎない。
そんな理由だけで道侶になったとしても最後にはダメになるのは火を見るよりも明らかだし、そもそも、魏無羨は藍忘機だから話を受けたのだ。
夷陵老祖として周り中敵だらけだった魏無羨を信じたたった一人だ。全てを敵に回しても彼を守ろうとした藍忘機だからこそ、二人は共に歩くことを決めたのだ。
結局自分はダメだった。
愛す覚悟も愛される覚悟も、信じる強さも守る力もなかったから、全て失って、一人になった。
そんなことはもうずっと前からわかっていたはずなのに、今更自分が孤独であることを突きつけられた気がして、突然突きつけられた報告を処理できずに途方に暮れている。
「……大丈夫とは?心配されることは何とない」
そんな柔らかい部分を目の前の男に見せるわけにもいかず、江晩吟は表情を引き締めて振り返ると、キッパリと告げた。江晩吟の答えに、藍曦臣の瞳に心配の色が浮かんだのはきっときのせいじゃない。昔から、この男相手には自分の本心を隠せない。そもそも江晩吟を孤独の沼に突き落とした第一人者であるこの男から哀れまれていることが、ひどく不快だった。
「失礼する」
今度こそ振り返り、歩き出す。
もし追いかけられて、慰められでもしたらどうしようか思ったが、それ以上藍曦臣が追いかけてくることはなかった。そのことに肩透かしをくらったような気分になっている自分に気がついて、がっかりした。
蓮花塢に突然の来訪があったのは、それから二月後のことだった。
珍しく討伐の依頼もなく、忙しい日ではなかった。宗主としての執務を淡々とこなしていた江晩吟の元に、慌てすぎて青い顔をした門弟が飛び込んできた。
「宗主!大変です」
「何事だ。いちいち取り乱すな」
「すみません。しかし、来客が」
騒がしさに思わず眉間の皺を深めれば、門弟の顔色は青を通り越して白くなる。容量を得ない説明を怯えた様子で喘ぐようにしながら、門の方を指す様を見て更に腹立たしくなった。今日は誰からも来訪の願いは届いていないはずだ。約束もなく突然訪れる非常識は誰かと、視線で続きを促せば、門弟は「藍氏です」とやっとのことで絞り出す。
「藍宗主がお一人でいらしてます」
「は?」
宗主が付き添いのものもなく、事前の約束もなく一人で訪れることなど本来はありえないことだ。
「そういうことはとっとと言え!」
江晩吟は勢いよく立ち上がると、門弟に一言噛み付いてから部屋を後にする。
何か、公にはできないような事件でもあったのだろうか。もしくは今後の清談会で提案する議題がうまくまとまるように水面下で密約を結びに来たとか。それにしても、雲深不知処と蓮花塢は随分の距離がある。門弟も引き連れずに一人で来るというのは、何か不自然な話だった。
執務を取り行っていた部屋を出て、離れた門まで駆けつける。
「藍宗主」
いくつかの角を曲がって蓮花塢自慢の大門までたどり着くと、門の前にすらりと背の高い長髪の男の姿が見えた。必死に中に入るようにと勧める江氏の門弟達の提案を微笑みながら辞退している。
「勝手に来てしまったので、江宗主の許可をもらってから入らせていただくよ」
「そんなわけにはいきません。宗主もすぐに来ますので、中へお入りください」
「藍宗主!」
慌てて声をかければ、江晩吟の声を聞いて藍曦臣はまるで旧友と再会した時のような晴れやかな笑顔を浮かべた。どういうことだ、と思う。この十数年、適度に距離を空けて関わらないようにしていたはずだったのに。
自分の認識する距離感との違いに戸惑いながら、江晩吟は藍曦臣のすぐ側まで歩み寄り、両手を合わせて頭を下げる。藍曦臣も江晩吟に向けて美しい姿勢でお辞儀を返した。その所作のあまりの美しさに隣にいた門弟がほうと息をついたのは気のせいではないだろう。
季節は初夏とは言え、雲夢は姑蘇よりずっと暑いだろう。金丹で調節して、汗ひとつかいていないけれど、普通の人ならじっとりと汗をかくような陽気だった。
「これは江宗主、息災そうでなによりです」
「藍宗主こそ……来るとわかっていればこんなに暑い中おまたせさせることもなかったのに」
「突然すみません。近くに夜狩に出たので、ご挨拶させてもらえればと立ち寄らせてもらっただけなので、立て込んでいればこれで失礼します」
涼しい物言いについ嫌味を返したのに、藍曦臣は気づいていない風を装って笑う。食えない男だ。先日の一件以来、江晩吟はすっかりこの男のことが苦手になった。
「客人を門前で返すほど雲夢江氏は不躾ではない。長旅でおつかれだろう。雲夢で羽を休めるがよい」
「感謝します」
案内して差し上げろ、と藍曦臣に見惚れてている門弟に声をかける。門弟が江晩吟の言葉に慌てて表情を引き締めるのを見届けてから、江晩吟は執務に戻ることにした。
なぜ、と。
執務室で書類と向き合っても、頭の中には幾度とも同じ疑問が浮かぶ。多忙の藍曦臣がわざわざ蓮花塢まで足を運ぶとなれば相応の理由があるはずだ。いくら突然の来訪とはいえ、本来であれば宗主である自分が対応するべきだったのに、この前のことを蒸し返されるのが嫌でつい他の者に案内を任せてしまった。私情を挟むわけにはいかないと、今更ながら反省する。
昼下がりにここにきたということは、今日はきっと泊まっていくことになるだろう。それならば夕餉は馳走を振る舞って、きちんと自分が相手をしなければ。
「江宗主」
「おわっ」
自らに誓ったところで突然名を呼ばれ、跳ね上がりながら間抜けな声をあげてしまった。藍曦臣は江晩吟の気の抜けた声に一度驚いた後、ふわりと笑う。
「仕事中にすみません」
「いえ……何か?ウチの者はどうしました?」
「ここまで丁寧に案内してくれましたが、江宗主と話があるからと下がってもらいました。少しいいですか?」
「……少しなら」
「ありがとう。ここに来る途中に雲夢では蓮の花が見頃だと聞きました」
話というのが何なのか構えていたのに、藍曦臣は飾り窓から外を眺めながらのほほ
んと尋ねてくる。
「そうだな。蓮花塢から街へ続く外堀にも蓮が咲いているので、もし見たければ舟を出そう」
「是非、見させていただきたい……それで江宗主、できればあなたに案内していただきたいのですが。やはりお忙しいですか?」
「いや……仕事は大方終わった」
できれば辞退したかったが、これだけ面と向かって頼まれて断るわけにもいかなかった。
部屋の外に待機する弟子たちに声をかけ、船の準備をするように命じた。
藍曦臣を引き連れて何槽かの船が控える水辺に案内しながら、落ち着いて船に乗るのはどのくらいぶりか考えてみる。
蓮の咲く時期になると雲夢の門下生たちはよく船を出し、蓮の花を愛でたり実を食べたりして過ごす。昔は江晩吟もよく目的もなく小船を出した。いつだって、傍には姉や師兄がいて、目的なんてなくても共にあるだけで楽しかった。
あの頃の幸せな日々を思い出してしまう気がして、全てを失った日から私用で船を出すことは無くなった。
できれば二人で、という藍曦臣の提案を受け小舟には二人で乗った。江晩吟が船を漕ごうとすれば「私が」と、楽しそうな顔をして櫂を取られる。客人にやらせるのはどうなのだと思いつつ、楽しそうなのでそのままにすることにした。