つるこい 微睡みの中、香ばしい匂いが鼻腔を擽りゆっくり瞼を持ち上げた。鶴見さんの好きな珈琲の香り。リビングで過ごしているだろう気配だけで、このベッドで過ごした数時間前が一気に脳を駆け巡った。集まった熱を放出させるようにぼふっと大きな音で枕に顔を埋める。
初夜の翌日がこんなに気恥しいものだとは思わなかった。
授業があるからといって先に家を出る鶴見さんを見送るまで、頑張っていつも通りを装ったがお見通しだっただろうか。どこかまろやかな雰囲気の鶴見さんに、休んでからのんびり行きなさい、と髪を撫ぜられた体温を逃したくなくて暫く頭を押さえていた。
四限の講義のために構内のカフェで時間を潰すも、この大学内に鶴見さんがいると思うとじんと重い腰も相俟り昨夜を思い出してしまう。おす〜と気の抜けた挨拶をしながら勝手に向かいに座ってきた杉元が零したヨーグルトにさえ喉を鳴らしてしまって重症だと思った。スッスッと一度読んだスイーツの記事をスクロールしていく。
「鯉登なにみてんのそれ」
「…あ?…あぁ、なんかプリンのやつ?だな」
「…テキトーだな、見てたんじゃねぇの?なんかあった?」
「別になんもなか」
勘のいい杉元は首を傾げてくるが、よもや情事に気を取られているだなんて言えるはずもなく。ふいと携帯に視線を落とすが、面白くなさそうにこちらを見つめてきているのが視界の端にうつっている。
「ふーーーーん?あの人関係かと思ったけど違うんだぁ」
かつかつと前歯でプラスチックのスプーンを噛みながら、私の背後へ顎をしゃくるような動作が見えた。あの人、と言われ条件反射で振り返ったそこには鶴見さんがカフェカウンターで女子に囲まれる様子で。鶴見さんの神色美若たるお姿に魅入られたキラキラ着飾る女の群れは面白いものではなかったから、すぐに目を逸らした。
「今日も人気者だね、彼氏サマは」
「せからしか杉元」
鶴見さんに気付いてほしいようなそうじゃないような。いつもなら群れなど気にせずすぐさま傍へ向かうのに、どうにも昨夜が頭から離れなくて躊躇った。
「今日は行かないんだな」
「……行かん」
「…なぁに?喧嘩でもしたわけぇ?」
「ちっ!ちごぉ!!……っ、バカ言うな、仲良しに決まっとるだろ」
は〜〜…とわざとらしい大きな溜息をつかれ見当違いのことを言われては声が大きくなってしまい慌てて息を潜める。横目で確認したが鶴見さんはメニューに釘付けになっているようで、ほ、と胸を撫で下ろした。杉元の、じゃあなんなんだよとぶつくさ呟くのが聞こえたが言い合いになる予感がして無視することにした。
そこにいると考えるだけでドキドキと鼓動が早まる。ここはカウンターと離れていてしかも柱の影の席だ。端っこにいる私のことなんて見えていないのを分かっていても変に意識して姿勢を正してしまう。手元の珈琲も、ちび、とかわいこぶって小さく口に含む。
スマホなんかもう見てなくてただ機械的に指を下から上に滑らせているだけだ。
二一年も生きてきたのに、こと恋愛事になると何も上手く出来なくて、以前杉元に言われた「鯉登はウブすぎて小学生の方がまだ慣れてんぞ」が本当に正しい気がして忘れられないでいる。
先程自分で言った“仲良し”が脳内をぐるぐるしていた。お互いの熱を求めて絡めた指の強さ。汗が滲んでしっとりとした肌。ぱらぱらと崩れ落ちた前髪で増される色気。その髪が影を落とす瞳は鶴見さんがいつも飲むブラックコーヒーのように深く黒く艷めいていた。全部、全部細かく思い出せてしまう。
あ、と杉元の発した声に顔を上げるのと、よく知ったムスクを耳元に感じたのは同時だった。
「もう一番下のページのようだぞ?鯉登」