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    ohmita

    おひさまぱっぱか快晴レース↓

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    ohmita

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    まだ書き終わってネ~~~けど丁度いいとこまで書けたので尾鯉の日だから出します。
    谷崎潤一郎『人魚の嘆き』パロのなんちゃって中華風尾鯉。尾形が貴公子でおとのちんが人魚です。鶴見中尉とヴァシリちゃんもちょこっと出てくる。全部かけたらピクシブにあげます。

    #尾鯉
    koi

    人魚の嘆き「一つ箱が多いようだが。」
    紳士の穏やかな問いに、金の玉座へ身を凭せかけた若者は物憂げに答えました。
    「一つ増えても二つ増えても、あって困るものではないでしょう。どうぞ持って行ってください。――――まったく、恐ろしい程に上手くいった。」
    若者はいくらか酔った様子でありましたが、両の目だけはまるで獣のように爛々として紳士を見据えておりました。ところが紳士は、若者の眼差しを受けて畏れるどころか、子でもあやすように微笑みます。
    「私はきっかけを与えただけに過ぎないよ。君が思っている以上に、君の御父上は恨まれていたし弟君よりも君こそが当主に相応しいと思う者が多かった。それだけのことだ。」
    白々しい言葉を嘲り若者は唇を歪めて笑いました。若者の父は、そのまた父から受け継いだ武功を更に重ね、時の皇帝の覚えもめでたく、最早他人は羨むのを諦めるほどの巨万の富を拵えました。また若者の弟は父に倣い武を磨き学にも秀で、正妻の息子として大変立派な人でありました。
    しかし大変不幸なことに二人は立て続けに命を落とし、今玉座へ凭れている若者が、この由緒ある家もまた金銀財宝も、全て継ぐことになったのです。
    「満州へ行かれるのでしたか。」
    「ああ。申からの船を手配してある。しかしこれだけの財宝を運ぶのは、中々骨が折れそうだ。」
    「此処へ残られたら良いでしょう。阿片を育てるだけの土地のも、人も、この国には充分ある。」
    「まさか。折角君の国となったこの土地を、阿片窟へ落とすつもりはないよ。この国は美しく聡明な若き王の手で益々栄えるはずだろう?」
    「……は、ははははは!」
    紳士の言葉に若者はいよいよ呵々大笑しました。両手を叩き、背を丸め、しばらく笑った後に、口元だけは笑んだまま射貫くように紳士を睨みました。
    「分かっているでしょう。私は全てを枯らすつもりです。金も国も全て。父の得たもの、弟が継ぐはずだったもの、全て無価値だったと証明してみせる。」
    対して紳士は、先ほどと同じように穏やかな笑みを返しました。そして「そろそろ失礼しよう」と言い、膝をつき恭しく礼をしました。
    去り際、紳士は若者へ言いました。
    「向こうで新しい名を貰ったら知らせるよ。もし私がまたお役に立てるようなら、喜んで協力しよう。」
    「金が尽きたら教えてください。いくらでも差し上げますよ。」
    「ありがとう。それでは、さようなら百之助。」

    このようにして、若者は他に類を見ないほどに幸せな人間になりました。父や弟を慕って去る者も居りましたがその倍以上の人間が仕えるようになりました。皆どうにかして若者に気に入られようと様々な宝石や珍しい美酒、美しい絵画や工芸品を贈り、若者は益々金持ちになりました。
    年若くして莫大な財産と名のある家を継いだ彼はまた、生まれながらに美しい顔立ちをしていました。若者が当主になった日から、彼に見初められ召し上げられることが国中の婦女子の願いとなりました。
    かくして若者は、絢爛な御殿に国中の美女を集め、あらゆる土地の美味美酒を並べ、贅という贅を尽くした放蕩に耽る日々を送りました。
    そのうちに一人の美しい乙女が若者の情人になりました。鳥の鳴くように軽やかに歌う美しい声をした、けれど若者の言葉や仕草にはその声を返さずただ頬を赤らめる、慎ましく淑やかな乙女でした。
    ところが若者は日ならずして彼女へ飽きてしまい、また別の乙女を情人にしました。新雪のように美しい肌をした、踊りの上手い可憐な乙女でした。しかしこれもまた、じきに飽きてしまいました。
    その後も若者は美しく清らかな乙女を幾人も側へ置きましたが、長く彼に愛される者は遂に現れませんでした。物慣れぬ乙女が固い蓮の蕾の如く恥じらっているうちは、なんといじらしく可愛らしい娘かと若者も楽しい話を聴かせたり酒を酌み交わしたりするのですが、ひと月もして娘の方の蕾も開き若者に喜んでもらおうと愛嬌を見せるようになると、いつも途端に詰まらなくなってしまうのでした。かくも美しい蕾が綻べばさてどんな清らかな花だろうと心待ちにしていたのに、熟れて臭う蒟蒻の咲いたかのような、酷くがっかりした気分になってしまうのです。なれば最初から愛嬌のある女にしよう、と煙花の内から美しい娘を呼び寄せてみましたが、誰も半月と側へ居りませんでした。
    こうした若者の噂を聞きつけた奸商が、方々から御殿を訪れました。「どこそこという村に玉の如き美しい娘がおります」「ある山間に天女の娘と言われる美女がおります」そんなことを口々に述べてはどうにか若者から金子をせしめようとするのですが、
    「お前の言う女が此処に居る女たちより美しいのならば連れてくるがいい。」
    若者はそう言って奥御殿へ商人を連れていくと、煌々とした吊燈の下に百花のつづれ織りが広く敷かれ、中庭からの風が様々な果樹の馥郁たる香りを運ぶ、極楽もかくやと思われる広間で、数多の美しい乙女が酒を飲み歌を歌い弦を鳴らして舞っているのです。商人らは皆胆を潰し、これはとても騙せるものではないと這う這うの体で御殿から逃げて行きました。
    百年前の古酒であるとか、唐時代の珍しい酒器であるとか、美辞麗句を並べ若者を騙そうと試みる商人も居りましたが、これもまた家に伝わる美酒や芸術を散々に楽しんだ若者にとって見抜くのは容易いものでした。そしてこれは若者が生来得意とした技でしたが、芸術の鑑識眼以上に、『噓吐き』を見抜くのが非常に上手かったのです。軽い忠誠はすぐに暴かれ、狡い人間は皆大恥をかいて御殿を去るのでした。
    勿論、若者の欲を満たそうと正しい商人も居りましたので、彼らは皆あれこれ手を尽くして若者の為に良い物を集めてきました。しかし、美酒も美味も芸術も最良のものを味わい尽くしてしまい、いつしか若者は、心からの満足というものを得難くなってしまいました。
    当主となって二度目の春を迎える頃には何もかも退屈で、日がな一日牀から起きず、銀の煙管で阿片を吸いうつらうつらとするばかりになりました。家に居るから良くないのだと旅行をしてみても、家にあるもの以上に珍しいものは現れず、若者の心が浮き立つものはこの世から殆ど失せたようにさえ思えたのです。

    ある日、満州の何某という男の使いだという者が御殿を訪れました。
    若者はその何某があの紳士とすぐに気が付きました。使いの者は、これまで吸ったものより遥かに良質の阿片を若者へ献上し、更に曰く、若者の享楽は遠く満州にも聞こえている、数日の内に若者の心の燃え上がるような珍しく美しいものを持参するとの話でした。
    若者は、はたして満州に求めるようなものがあろうかと、心の予防の為諦めを覚えましたが、それでもあの紳士が言うのだからきっと素晴らしいものが来るのだろうと身の奥底に希望をくすぶらせ、彼の来るのを待ちました。
    やがてその日が訪れました。一見するとかの紳士とは思えぬ風体の男は、馴染のある声で話し、玉座へ座る若者へ、懐かしい微笑みを浮かべました。紳士の従僕の四、五人が、滑らかな天鵞絨に包まれた、身の丈より一回り大きなものを運び入れて若者と紳士の間へ置きました。「甕だよ」紳士は穏やかに言いその傍らに立ちました。
    「酒ですか?洮南香酒か、千山白酒か……。」
    「まさか、酒なら君の蔵に勝るものはないだろう。私が持ってきたのは、水底に住む人魚さ。」
    言いながら紳士が天鵞絨を引くと、透き通った玻璃の大甕が現れ、水銀色に輝く満々とした水の中に、人魚が居りました。若者は思わず玉座を下りて甕へと近づきました。
    御伽噺に聞く通りに人魚は人の上半身と魚の下半身をしていました。身の丈の半分以上を占める魚の部分は乙女の爪ほどに小さな黄金の鱗に覆われ、けれどその長さを甕へ収める為にとぐろを巻いた流線には孔雀羽や柘榴石の鮮やかさも映え、石林彩玉さながらに様々な美しい色がそれぞれの色を少しも濁らせずに混ざり合っていました。また尾鰭は鱗と同じく金色でしたが絽のように薄いので水の色を透かして微かな青みを帯びていました。枝へかけた天女の羽衣の裾が水へ揺らめけばこのようであったろう、長く優美な尾鰭でした。
    上半身は磨き抜かれた鼈甲にも優る美しい褐色の皮膚をしていました。若者が乙女へ贈った簪にもこれほど美しい飴色の輝きは見られません。吊燈と、またそれに照らされた黄金の尾との二重の輝きを受けて、肌理の細かな肌は眩い光沢を帯びていました。
    頸から肩へかけての直線的な造りや引き締まった腕の形は生気に満ち満ちた青年らしい体つきでありながら、そのしなやかな肉の内には人間を惑わす妖魔の血が巡っているらしく、見る者に名状し難い凄艶を感じさせました。それは人魚の顔立ちも要因の一つであったでしょう。
    人が水へ潜ると髪は気ままに浮き散らばりますが、人魚の髪は平生の人のようにその頭の形の通りにありました。耳の上半分を覆う程度の短な髪は春の宵に眠る烏の羽に見える紫烏色の艶を持ち、清洌な水の輝きを毛の一つ一つに含んでいました。その髪に覆われた頭の形はうら若き乙女の乳房より完全な曲線を描き、毛先のかかる首筋には艶かしい憂いが滴っていました。
    人魚は、天鵞絨の覆いを取られ明かりに曝されたのを恥じらうよう項垂れておりましたが、きつく結ばれた唇には嬌羞ではなく包羞忍恥の様がありました。閉ざされた瞼は微かに震え、この時の終わりをじっと待っている風でありました。若者はその丸い帷を上げこの人魚と見つめ合いたいと願って手を伸ばし、指先に冷たい甕が触れてようやく人魚との間の隔たりを思い出しました。まるでこの世には若者と人魚の他には何も無いかの如く、辺りの音も色も感じられないまでに見入っていたのです。
    離れて久しい興奮が胸に点るのを覚え、若者は改めて甕へ触れて、人魚の頬にするかのように冷えた玻璃を撫でました。
    紳士は薄笑いを浮かべた顔を甕へ寄せて囁きました。
    「君の主人となる貴いお方だ。顔を上げなさい。」
    その声がどのようにして玻璃と水を越え伝わったのか分かりませんが、人魚は俯いていた顔を静かに擡げ、瞼を開きました。
    その瞳は龍胆紫より一層深い色をしていました。人が及ばぬ遥か底の海をそのまま注いだと言われても疑いありませんでした。海には帆船を飲み込む巨大な海蛇やら足が一里もある蛸やら、様々な恐ろしい化物が居ると聞きますが、この瞳の前には千の化物が僕として額突いていたのでしょう。
    瞳の奥底から光を放つのは、生まれながらに王である者の威風と、人魚の他の全ての生物と化物への遍し慈悲でした。海よりもずっと小さな水へ閉じ込められてもその高潔は決して損なわれず、若者は人魚と見つめ合って、憐れみをかけられたかのような怒りと、子供としてあしらわれたかのような恥と、僕の列に並ぶことになろうともこの瞳に映された歓喜とか同時に沸き立ち、身動きせずその場に直立していました。
    若者の様を見て、紳士は狡猾な笑みを湛えました。
    「私の予想以上に気に入ってくれたようだね。君の為に捉えてきた甲斐があった。」
    「――――こんなものを何処で捉えてきたのです。」
    「朝鮮のはるか南の海さ。君が理解している通り、人魚というのは元々人間だった。遠い昔、哀れにも溺れたか自ら命を絶ったか、とにかく水で死んだ人間が人魚に……まあつまり、人間から卑しい化物に落とされたのが人魚だ。彼らの中には人間に戻りたいという原初の願いがあるので、此方へおいで良い人のもとへ連れて行こうと優しく話せば、無理強いをしなくともこんな風に甕に収まってくれる。ほら、人間を助け清く正しく生きたので御仏の慈悲を受け人間になった人魚だとか、或いは助けた人間に酷く裏切られたので水辺の怨念となって船を幾つも沈めた人魚だとかの話を、君も知っているだろう。」
    「そんなものは御伽噺でしょう。」
    「ところがそうとも限らないらしい。化物には魂が無く身が滅すれば再び蘇ることは無いが、人間と心を通わせ生涯の伴侶となった人魚は魂を得て我々の如く永遠の存在となるそうだ。欧羅巴の学者の説だがね。しかし阿蘭陀人だの露西亜人だのの肌を見ると真珠のように白く、海のように青い瞳をしている者が多いじゃないか。彼らの血筋を辿れば必ずどこかに人魚が居る筈だよ。子供の為の御伽噺ではなく、人間の成り立ちに関わる立派な学説だと私は思うが、如何かね。」
    「……つまり『これ』は私の伴侶となって魂を得る為に、南の海の水底から此処へ連れてこられたという訳ですか。私は『これ』に魂を与える為の道具だと?」
    「百之助、君はまだ若い。世の中に飽きてただ老いていく君を見るのは私の本意ではない。四百余州に君を満足させるものが無かったので海を探したまでだ。老婆心ながら申し上げよう。百之助、私はね、類い稀なものを受け継いだ君に、もっと美しく楽しい日々を過ごしてもらいたいのだよ。」
    人魚の面差しに、人間になりたい、魂を得たいという願いがあるようには見えませんでした。人間に成ると言うよりも落ちると表した方が相応しく思われる程、この瞳とこの姿のままで人魚は完璧であるように思えました。若者は人魚から目を逸らし、紳士へ皮肉な薄笑いを向けました。
    「不老長寿の霊薬としてお持ちになられたのかと思いました。」
    若者の言葉も聞こえたらしく、人魚はしなやかな体をぴりりと強張らせたように見えました。紳士は微笑み「人魚の肉にはそんな薬効もあると聞くね」と穏やかに言って、人魚へ聞かせない為にか、若者へ顔を近づけて耳打ちしました。
    「この子にさえ飽きてしまったのなら君の好きなようにすると良い。人魚の肉は珊瑚のように赤く、如何なる魚の肉よりも潤って、甘露よりも甘く芳しいそうだ――――噂だがね。」
    ぞっと凍るような瞳をすぐに伏せて、紳士は甕へ向き直り人魚の顔の側へ手を翳しました。これに人魚も応えて玻璃の向こうの手に頭を凭れるように身を傾けました。
    「心を通わせなければ人魚の声は聞こえない。此方の言うことは分かるようだが、私もこの子の声を聴いたことは無い。心が通じる内、初めは人魚の言葉で歌うように、次第に人間の言葉として聞こえてくるそうだ。水は海水でなくても川の水でも真水でも構わないが、彼らの故郷である水底と同じく冷たい水が良い。何、氷水のように冷やせと言うのではない。海面へ上がることもあるから多少温くったって良い。ただ風呂のような熱い湯に入れず、温くなったら少し水を入れ替えてあげれば良いのだ。」
    そうして紳士は、ただにっこりして若者を見つめました。言外に示された取引に若者は押し黙り、改めて人魚を眺めます。
    この場で若者が断れば、紳士は人魚を別の金持ちへ運ぶのでしょう。否、ただの金持ちではなく皇帝へ捧げるやもしれません。この人魚を一目見ればどれほど貴いお方でも心を奪われてしまうでしょう。あの美しい瞳に知らぬ人間が映り、初めて声を聞くが自分以外の者と空想すれば、それは若者にとって酷く耐え難いものでした。
    こうして若者は、紳士から人魚を買い受けたのです。

    美しい人魚の対価として様々な財宝を貰い受け、紳士は満州へと戻りました。
    「君が魂を得られることを祈っているよ。」
    別れ際に紳士が漏らした言葉は、不思議にも若者へ向けたように聞こえました。
    人魚が若者のものになってから、御殿はすっかり静かになりました。人魚の初めての声を聞き漏らさぬよう、昼夜問わず響いていた歌と踊りは絶え、乙女らは数人を除いて暇を出されました。奥御殿は吊燈の明かりもまばらに人気なくひっそりして、若者は睡房の帳を閉ざし、日がな一日、人魚と二人きりで過ごしました。
    ところが人魚は、声を聞かせるどころか甕の底で身を小さくして殆ど動かずに居るのです。若者はこれまで乙女にしてきたように、
    「お前の尾は長くてこの甕では窮屈だろう。お前が自由に泳げるような大きな甕を作らせるから、もう少し辛抱してくれ。」
    とか、
    「どうかそんなに悲しく伏せていないで顔を見せてくれないか。何もお前の嫌がるようなことはしないから。」
    とか、色々と優しい言葉をかけてみるのですが、人魚はさっぱり応じません。蹲っているそちらへ若者が寄ると、ふいと顔を背け甕の反対へ行って、しまいには尾の方を擡げて上半身を底へ突っ伏してしまうのです。
    また若者は、御殿に残した乙女たちを呼び寄せました。彼女らは特に歌や踊りや楽器に優れた者でしたから、人魚が楽しい気持ちになるように奏で歌い踊らせたのですが、人魚は少しも喜んだ様子を見せませんでした。こんなに強情なものですから、人魚は本当に人間に成りたいと思っているのか、紳士に騙されたのでないかと、若者は溜息を零すのでした。
    若者や乙女らがどんなに手を尽くしても人魚は靡かず、こんな具合で数日が過ぎました。甕の壁面に這う優雅な尾鰭越しに、力強い筋肉と艶めかしい皮膚とが人ならざる調和を保っている人魚の背をぼんやり眺めている若者のもとへ、夕餉が運ばれてきました。鶏肉の煮込みだの、帆立と海老のあんかけだの、フカヒレだの、ツバメの巣の粥だの、贅を尽くした美味が取り揃えられておりました。
    すると不意に人魚が振り返って、食卓に並ぶものを確かめるように甕の此方へ寄ってきたのです。若者は驚いて身を起こし、その時やっと、人魚がこれまで飲まず食わずでいたことに思い至りました。
    「お前腹が減っているのか――――あの人は水のことしか言わなかったぞ。人魚は物を食うのか?何を食うんだ?」
    若者は試しに粥を匙で掬って人魚へ見せてやりました。人魚はあの高貴な龍胆紫の瞳を子供のように丸くして匙を眺めたかと思うと、伸び上がって甕の水面から顔を出しました。更には縁に両手をかけ、下に居る若者を覗き込むのです。
    「待て、身を乗り出すな。甕がひっくり返る。今そこへ行くからじっとしていろ。」
    若者は家来を呼んで椅子や台を重ねて甕の縁に届く席をどうにか拵えました。若者はそこへ腰を下ろし、下に居る家来から食器を受け取ります。
    「ほら、食うか?食えるか?」
    若者が匙を向けると人魚は恐る恐る顔を寄せて少し香りを吸い込みました――――すると、僅かに痛そうな顔をして、ちゃぷんと水へ潜ってしまいました。
    「……あ、そうか熱いか……おい、これに氷を入れて冷ましてくれ。冷めたまま食えるものを持ってこい、なんでもいい。……悪かった、火傷をしていないか?」
    若者が優しい言葉をかけると人魚はそろりと顔を出し、じっと若者を見上げます。「食べたいものはあるか?」問いには答えず、輝く眼を幾度が瞬かせるだけでした。人魚の顔は水から出た瞬間は濡れているのですが、不思議なことに一瞬で乾いて、髪は子供のように柔らかくさらさらしていました。
    それから、冷ました粥や、蒸した鮑や野菜の和え物などあれこれを人魚へ差し出しますが、怪訝な顔をしたり嫌そうに顰めたり、どれも好みではないようです。生のイカや魚をそのまま見せましたが、顔を背けてしまい匂いを嗅ごうともしませんでした。
    どうにか興味を持ったのは、色とりどりに盛られた果物を見せた時でした。水底に果物の生える筈もないので珍しかったのでしょうか。若者が小ぶりで瑞々しい蟠桃を一口の大きさに切って人魚へ向けると、小さく口を開けてぱくりと食べました。
    やっと人魚の食べ物が見つかった喜びと安堵に若者は胸を撫で下ろし、「食えるか。もっと切ってやろうか。」と尋ねます。
    ところが人魚は首を横に振ります。気に入らなかったのかと若者はがっかりしますが、人魚の目はまだ果物の器を向いていたので、他のものも見せてやりました。
    西瓜は好みでなかったらしく赤い果肉を見せると嫌そうな顔をしました。山竹は一房食べましたが、蟠桃と同じくそれ以上欲しがる様子はありません。
    次に竜眼を剥いて見せると人魚は両目を大きく開いて、今すぐにでも欲しいかのように身を乗り出しました。
    「これが良いのか?中に種があるから飲み込むなよ。」
    若者が手本として一粒食べ種を吐くと、それを見つめた人魚は静かに頷きます。乳白色の果実を人差し指と親指で摘んで差し向けると、人魚の唇は若者の指先ごと喰み、離れました。冷えて柔い水蜜桃のような人魚の唇の感触を噛み締めて指先を擦り合わせつつ、若者は尋ねます。
    「美味いか。」
    ぷ、と吐き出した種を若者へ返し、人魚は初めて、にこりと微笑みました。
    その笑顔の、なんと可愛らしく美しかったことでしょう。額から鼻筋、顎の先まで、人魚の顔つきは水底の王たる気品が美しく整い合っていましたが、それが微笑みに柔らかく解けると、水底の王の末娘の如きあどけなさが浮かぶのです。この高貴で無垢な微笑は若者の心にすとんと落ちて、温かな蜜酒のように全身へ沁み込みました。
    「……もっと食べるか。」
    人魚は優しく頷いてじっと若者を見つめます。今朝までは目も合わせてくれなかったのに今はこんなにまじまじと見つめてくるものですから、嬉しいような呆れるような……いえ、実際若者はとても嬉しかったのですが、あれこれ手を尽くしてようやく人魚の微笑みを得たとはしゃいでしまえば、あらゆる歓楽を味わい尽くした者にあるまじき初心のように感じて、胸に躍る喜びを負けず嫌いの冷笑でどうにか抑えていたのです。
    竜眼を剥いてやると人魚はまた美味しそうににこりとしました。
    「これが好きなら、荔枝はどうだ。」
    熟れた赤い荔枝を見せると人魚は身を引きましたが、皮を剥いて水晶のような果肉を現すと竜眼と同じように喜んで食べました。
    「美味いだろう。さっきのものとどっちが好みだ?……しかし、海の底には果物なんて成らないだろう。お前海に居た頃には何を食べていたんだ?」
    尋ねると人魚は少し考えこみ、荔枝を指差すと剥いてとねだるように若者を見つめました。願いの通りに若者がしてやると、人魚は荔枝の甘い果肉を唇ではなく左の掌で受け取り、それを蓋するように右手を覆い被せました。本でも開くかの如く、重ねた手の一辺は付けたまま、ぱかっと開いて見せます。人魚は若者を見上げて、伝わったかと問うように首を傾げました。若者が首を捻ると人魚は同じ動きを繰り返します。
    「開くと身が出て……皮むき、じゃないな。箱……沈んだ船の積み荷?……でもないか、何だ……開くと荔枝が――――あ、」
    若者は閃くやすぐに家来に命じ、食器に沢山の真珠を入れて持って来させました。それを見た人魚は龍胆紫の瞳をきらきらと輝かせ、弾けるような笑顔を若者へ向けました。
    「お前真珠を食べていたのか……海の底なら貝も居るか。このまま食べるのか?」
    一粒摘んでやると人魚は嬉しそうに喰みました。かり、こり、と筍でも食べているかのような音をたてて噛んでいます。人魚が美味そうに味わっているので、そんなに噛めるものかしらと若者も小さな粒をとって口に入れましたが、とても歯が立たず種のように吐き出しました。人魚の歯というのは人よりずっと丈夫に出来ているようです。
    人魚は飴のように砕かれたであろう真珠を飲み込みます。そして若者を見上げてあの可憐な笑顔を湛えると、荔枝を指先でとんとんと叩いてねだるのです。「今度はこっちか。」若者は溜息を零しながらも荔枝を剥いてやりました。
    食わせた後に、若者はその手で人魚の髪に触れました。指の間に馴染み、さらりと零れていきます。若者はまた人魚の頬にも触れました。人魚は嫌がらず、若者を見つめたままほんの少しだけ微笑みました。
    「……荔枝と真珠が好きか。お前、本当は蒲州から来たのじゃないか?博打好きの野蛮な親類は居ないだろうな。」
    透き通った龍胆紫の瞳が自分だけを映しているのは、とても、良い気分でした。若者は人魚を撫でながら微かに歌いました。
    「雲鬢、花顔、金歩揺、芙蓉の帳暖かにして春宵を度る――――髪が短いな、お前が泳ぐ度に揺れる簪はさぞ美しかったろうに。」
    「――――、」
    若者の歌に合わせるように人魚が口を開きました。荔枝と真珠を食べた喉は、何処の国とも分からぬ言葉で、寄せては返す南洋の波の如く柔らかに歌いました。
    その玲瓏とした響きに若者は陶然としましたが、またも悪癖の負けず嫌いを覗かせ、唇の片側だけを上げ人魚の柔らかな耳朶を優しく抓りました。
    「待った甲斐があった。良い声だな、もっと歌ってみろ。」
    抓られた柔らかい痛みに人魚はムッと唇を突き出して、若者の手を払うと水へ潜り、顔と入れ替わって尾を水面へ出すや若者へ向けて飛沫をかけてやりました。人魚の無邪気な笑い声に似た歌は、甕の底にあっても若者の耳へ響きました。
    ともあれ若者と人魚は、この日から、少しだけ仲良くなったのです。

    翌日から、若者の食事と合わせて人魚にも果物と真珠が用意されるようになりました。氷のたっぷり入った盆の上に置かれた青磁の器が、昨夜若者が上がった台へ乗せられました。若者は甕の側に立って、水面から顔を出した人魚を見上げて言います。
    「種と皮は横の小皿に出せ。下げずにそこへ置いておくから、好きな時に好きなだけ食べるといい。良く冷やしてあるが温くなったら変えてやる。」
    人魚は大人しく聞いていましたが、若者が「分かったか?」と問うと小首を傾げます。そうして甕の縁に片腕を乗せて腕枕をすると、もう片方の手を擡げて指先で青磁の器をこつこつと叩き、嫋やかな笑みを浮かべて若者を見下ろします。
    「……俺が剥け、って?」
    「――――」
    肩へしな垂れ甘えて囁くような歌を返し、人魚はまた器を鳴らします。若者が黙って睨みつけると水へ沈んできて目を合わせて微笑むのです。人魚の唇から零れる泡は美しい珠となって上へ連なり、水面で音もなく割れました。
    若者は顔を苦く顰め大きく息を吐き、昨夜のように台へ上がりました。人魚もまた水面に戻り、嬉しそうににこにこしています。
    「あのな。俺は此処で一番偉いんだ。お前の主人は俺だぞ。」
    「――――」
    「本当ならお前が俺の為に果物を剥いて、酒を注いで、歌を歌って楽器を弾いて舞を見せて俺に尽くすんだ。大体こんなもの簡単に剥けるだろう。」
    若者は文句を言いながら荔枝を剥いて見せ、果肉を摘まんで人魚の口へ突き出しました。人魚は喜んで食べ一層晴れやかに笑います。そうして尾を甕の壁面に這わせ胸の辺りまで水から出ると、両の腕を伸ばしてそっと若者を抱きしめました。
    首に絡む人魚の腕はひやりとして、頬に触れる髪は柔らかく、体からは花の甘さに墨の清々しさを合わせたような香りがしました。『珊瑚のように赤く、如何なる魚の肉よりも潤って、甘露よりも甘く芳しいそうだ』紳士の言葉が、若者の頭に忽然と蘇りました。
    「――――」
    囁くように優しく歌い、人魚は組んだ手だけが若者の首にかかる程に腕を緩め、鼻先の触れ合うような距離で若者を見つめると匂いやかに微笑みました。突然のことに若者は、逸楽に明け暮れた貴公子にあるまじき様相で呆然とするばかりでした。
    人魚の両目はじっと若者を映します。その静謐な輝きを間近で受け、若者は観念して薄笑いを浮かべました。
    「全く俺は大変なものを買ってしまった。お前こそ正しく水辺の妖魔だ。お前、このまま俺を水に引き入れ溺れさせるつもりだろう、俺はお前がどんなに意地を張っても水を抜いて無理に引っ張り出すようなことはしなかったのに。お前は酷い奴だな。」
    若者がそう言うと、人魚は驚いた風に瞬きをしました。芳顔はみるみるうちに悲しく歪み、人魚は若者から腕を離して寂しそうに水に沈みます。若者は慌てて身を乗り出し甕を覗き込みました。
    「おい待て、今のは……冗談だ、本気で言っているんじゃない。ちょっとしたからかいだ、分からないか?」
    若者の必死な言葉にも人魚はきつく結んだ唇を解かず、今にも泣きだしそうな顔をして水面を見上げます。
    人魚が余りにも美しくて、我儘さえ可愛くて、見つめられれば何も言い返せず、どうにも人魚に夢中になっている自分が悔しくて、つい意地悪を言ってしまったのだ……と、若者は自分の胸の内が分かっておりましたが、それを素直に人魚へ伝えるのは、やはり持ち前の負けず嫌いが許しませんでした。
    「今のは嘘だ。なあ分かっただろう、上がって来てくれ。」
    若者の訴えに人魚はおずおずと浮かび、若者へ何か問うように哀切極まる声で歌いました。けれど歌の言葉は分からないものですから、若者は「悪かった」とただ謝ります。
    「――――?」
    人魚はまた何かを尋ねて、右手を触れるような形に丸めて若者へ伸ばしましたが、肌から離れた空で止めます。若者は意を得て、その手を掴み自分の頬へ触れさせました。
    「良い。好きなようにしろ。お前が触れたいなら触れて良いし、抱きしめたいなら抱きしめても良い。」
    「――――?」
    「……お前を酷いとも、妖魔だとも思っていない。」
    「――――、」
    人魚は左手も上げて若者の頬を包み、優しく撫でて微笑みました。
    そして若者の手を取ると、食器の中の真珠に触れさせます。
    「なんだ?真珠は剥くものがないぞ、自分で食えるだろう。」
    「――――」
    「……ああ分かった分かった、食べさせてやるから。」
    仕方なく真珠を摘まんで口へ入れてやると人魚は上機嫌になって、先刻とは真逆に自分の頬へ若者の手を触れさせました。若者は人魚の側から離れ難く、それは人魚の我儘の為だけとは言えませんでした。
    若者は牀を離れ甕の隣の高い席で一日を過ごすようになりました。乙女らを呼び出しては歌い奏で舞うのを二人で楽しみ、また二人きりで人魚に歌わせて夢現に酔うこともあれば、若者が古い詩句を読んで聞かせてやることもありました。
    本を続けて読めば喉の渇きは荔枝で足りず、ある時若者は家来を呼んで桂花陳酒を運ばせました。玻璃杯を満たす黄金色の酒の香しさにつられたのか人魚は水面から手を伸ばし、若者はすぐに杯を遠ざけました。
    「駄目だ、酒だぞ。呑むと喉から胃から熱くなる。お前、体の内なんて焼けたら困るだろう。」
    人魚は拗ねた風な顔をして、恨めしげに杯を睨みます。若者は人魚から顔を背けて喉を潤しました。
    けれど酒は温度を言うなら冷えているのです。飲んだ刹那は舌も喉も熱くなりますが、一杯程度では体の火照ることもありません。人魚が火傷をして困るのは人魚自身よりも若者の方でしたが、あんまり呑みたそうにしているのを叱って自分ばかり呑むのも気が引けます。
    若者は杯に残った酒に小指の先をつけ、それを人魚へ差し向けました。
    「そんなに吞みたいなら舐めてみろ。熱くても知らんぞ。」
    人魚は舌を出して小指から滴る雫を舐めました。それから若者の指先を柔い唇で咥え、蜜吸うように吸って若者を見つめます。
    「痛くは無いか。」
    「――――」
    「じゃあ次はこれだ。」
    若者は荔枝を剥いて酒へ浸し、それを人魚へ食わせてやりました。人魚は酒の珠を転がし、こくりと喉を鳴らして飲み込みます。痛がる様子も無いので、若者は杯を呷って底へ少しだけ酒を残し、それを人魚へ渡しました。人魚は両手で杯を受け、くーっと一気に飲み干しました。
    人魚は深く息を吸って初めて味わう酒の香を体いっぱいに満たし、名残惜しそうな一種の悲しみを持って吐き出せば、その呼気はちょうど満開になった中庭の桃の花を揺らす春風より芳しく若者の鼻先を撫でました。それは自分が酒を含んだ時よりもずっと、甘く蕩けるような香りでした。若者は苦笑いを湛えて人魚の手から空になった杯を取りました。
    「参ったな。他の酒も飲ませてやりたくなる。」
    「――――!」
    「違う、今飲ませると言ったんじゃない。ああクソ余計な事を言った、そのうちだ、そのうち。今はこれだけだ、あと一杯だけだぞ。」
    「――――」
    「あのなあ、俺は意地悪をしているんじゃないんだから、そんな目をするな。調子に乗ると酔って溺れ……はしないだろうが……明日の朝痛い目を見るぞ。」
    若者は杯に酒を満たして再び人魚へ与えました。「一気に飲むなよ。」窘めると人魚は不満そうに若者を睨みましたが、言うことを聞く心はあったのかはたまた最後の一杯を惜しむからか、そっと一口だけ飲みました。とても美味そうな、陶然とした顔は、見ているだけで此方も酔うかのようです。
    「吹いてくれ。」
    若者が顔を近づけて乞うと、人魚は優しく目を細め、口を窄めてふう、と息を吐きかけました。その香りの良さといったら、桂林の一帯も青ざめて花を落とすと思われました。若者はうっとりした酔い心地で人魚の頭を撫でました。
    「桂子、月の中より落ち、 天香、雲外に飄う、か。駱賓王だ。あとで読んでやる。」
    「――――?」
    「お前の口に咲いた桂花を知れば広寒宮の桂も萎れ、秋の月も今よりずっと暗かっただろう。悪い酒の飲み方を覚えたものだ。お前も俺も。」
    「――――」
    人魚は桂花陳酒に唇を湿らせて歌い、若者はいつまでもそれを聞いていました。

    さてこうしてひねもす一緒に居るとなると、若者は人魚の甕について色々と注文をつけたくなりました。今の甕でさえ高いのに、人魚が尾を存分に伸ばせるような大甕ではもっと困るでしょう。造らせていた職人らの方からも、透き通る薄さでたっぷり注いだ水にも割れない玻璃の大甕は難しいというので、寝転んだ時にちょうど人魚の顔が見えるような浅く広い風呂に似た甕を造るように変えさせました。
    そしてその甕に合わせて、人魚が縁から体を出して休む為の台だとか、凭几だとか、二人で掛けたり寝たりする為の羅漢牀だとか、その素材も翡翠だの、紫檀だの、飾りだの細工だの、あれこれ希望の通りに造らせるには、今居る職人だけで賄うのは難しいようでした。
    また若者は人魚の姿を絵に残したいと願いました。国に居る画家は大変腕の良い者でしたが、他の画家がどのように人魚を描くかも見てみたかったのです。そこで若者は出入りの商人に、絵でも工芸でも腕に覚えのある者を集めるように頼みました。話は国を越えて広く伝わり、四百余州から多くの職人が集まりました。
    あまりに多かったので一人一人会う訳も行かず、若者は御殿を広く開いて皆の自慢の品を持ち込ませ、芸術祭さながらに飾らせた中を歩いて品定めをしました。
    そのうち一つの絵に目を止めました。青々とした山野に紅白の梅の花が咲き誇る、花と葉に照る春の陽射しをそのまま移したかのような美しい絵でした。
    若者が立ち止まって仔細に眺めると、絵の傍らに居た画家は恭しく礼をしました。その目は氷のように青く、肌は雪のように白く、鬱金色の短い髪をしていました。
    「阿蘭陀人か?」
    「露西亜。」
    画家は辿々しい言葉で訴えてました。
    「私、描きたいでした、南の景色。明るい、美しい、ます。」
    「露西亜語で喋れ、少しなら分かる。ややこしい格式張った言い回しは使うなよ。」
    若者が露西亜語で返すと画家は驚いた様子でしたが、改めて礼をすると滔々と話しました。
    「私は露西亜の東、冬の長い寒さ厳しい村の生まれだ。美術学校で絵を学んできたが、私の国の景色ばかりではなく、美しく、暖かく、眩しい太陽の在る南の国を描きたいと思ってこの国に来た。私はこの国を描き、この国の絵についても学びたい。貴方の元ならそれが出来ると思った。」
    「なるほどな。この絵はこちらへ来てから描いたのか。」
    「そうだ。見たことのない美しい花だった。スケッチなら他にもある。」
    そう言うと画家は帳面を出して広げました。市の様子や人々の姿、寺の外観に仏像、山野を縫う長城の様等が、初めて見にした瑞々しい喜びを持って細やかに描かれていました。画家が素晴らしい腕を持っていることは間違いないようです。
    「絵はどのくらい学んだ。」
    「六つの頃からだから、ちょうど二十年目だ。」
    「……俺と同じか?今年二十六?」
    画家は目を丸くして何度も頷きました。その容貌から、若者も画家は自分より五つか十か年上と考えておりましたので、疑いをもって絵よりも更にじっくり画家を見ました。 
    白い肌は真珠のように、青い瞳は海のように。若者は、紳士の言っていた欧羅巴の学説を思い出しました。
    「……『人魚』を見たことがあるか?」
    「『ニンギョ』?すまない、その言葉は分からない。」
    「あー……水の側、海と川に居る、美しい、歌の上手い、人ではない生き物。」
    「……ああ、ルサールカか?それなら知っている。子供の頃に見た。ルサールカは海には居ない。川と、沼と、池と湖に居る。見た目は美しいが大抵悪戯で、水の中から冗談を言って嫌な気分にさせる。悪い奴は底なしの水へ引っ張って溺れさせようとするし、良い奴も居て嵐が来て水が増え危険なことを知らせる。私が見たのは美しい少女で、綺麗な声で歌っていたが、近づいたら泥をかけられた。」
    「そのルサールカというのは、下半身は魚の姿をしているか?」
    「魚?いや、人間そっくりの姿だ。」
    「……ルサールカと結婚した奴は居るか?」
    「ああ。私の周囲では居ないが、話を聞いたことがある。祖父母かその前の時代だと、ルサールカと結婚するのは珍しくなかったらしい。」
    画家は真面目な顔をして言います。どうやら紳士の話は嘘ではなかったようです。画家の言うルサールカは若者の人魚と少し異なるようでしたが、近縁の水の妖魔なのでしょう。
    人とルサールカの結婚は祝福され、ルサールカは魂を得て幸せになったのか。問いは一瞬、舌に紡がれかけましたが、それを画家に聞いて何になるのかと若者は歯を食いしばりました。
    若者は改めて絵を眺めました。異国の美しい画風は、この国の画家以外に人魚を描かせたいという若者の希望にぴたりと当て嵌まっていました。家来に御殿を案内させるから好きな部屋を幾つでも選ぶように、荷物を運び終わったら再び若者のもとに来るように告げました。画家は青い目を輝かせて若者に深く礼を述べました。また若者は、木の彫刻や、石の細工、他それぞれに腕利きの職人を選び御殿へ招きました。
    日を置かずに画家が挨拶をしに訪れ、若者は画家を睡房へ招き人魚と会わせました。初めて見る人魚に、またそれが大変美しいのに、画家は瞬きも忘れて呆然と立ち尽くしていました。
    「ルサールカに似ているか?」
    「――――ああ……いや……これは……」
    「まあいい。お前にはこいつを描いて欲しい。絵を学びたいなら他の画家の工房へ好きに入って構わんが、まず一枚描いてからだ。俺はお前の今の絵が気に入ったんだ。この国風の絵になられてからじゃつまらん。」
    画家は頷き、人魚へ近付いて構わないかと尋ねます。若者は絵の為ならよく観察するべきだから遠慮は要らないと、また睡房へ絵の道具を持ち込んでも良いと答えました。画家はそろりと玻璃の甕の前へ行き、それはちょうど人魚と出会った時の若者の姿のようでありました。
    水中でじっとしていた人魚は、側へ来た画家に応えるように甕の壁面に顔を寄せました。画家は人魚がすぐ目の前へ来たので驚きに身を竦ませますが、人魚はそれに構わず興味深そうに画家の顔立ちを見つめ、微笑むと甕の内から画家の目のあたりをこつこつと叩きました。
    異国の人魚の名残を、画家の瞳から感じたのでしょうか。人魚は自分と出会った時よりとにこにこしているので若者は少しつまらない気分になりました。
    画家は微笑の人魚へしばらく見入り、やがて溜息を零しました。
    「――――ルサールカとは似ていない。これが『ニンギョ』と言うのか。とても美しい肌をしている。南の国の目を焼くような太陽とエメラルド色の海に映え輝く栄光と、新月の暗い海の底に紛れ一人悲しむ孤独をもった、王の美しさだ。」
    画家の言葉は、若者が人魚に抱いた印象としっかり重なりました。この画家であれば必ず素晴らしい絵を描いてくれることでしょう。人魚が上機嫌で居たのは、それが分かったからなのかもしれません。
    画家は水中の人魚へ、若者にしたように頭を垂れました。
    「昔、私の国の女帝は琥珀を深く愛し、宮殿に琥珀だけで彩られた部屋を造った。もし女帝が貴方に会っていたらきっと琥珀の間の主人として迎えていたことだろう。美しい琥珀の『ニンギョ』、貴方を描かせていただき光栄です。」
    「――――」
    嬉しげな歌は水晶の粒になり、それが割れぬうちに人魚は若者の方を向いてにこにこしました。画家はその可憐な笑顔につられたかのように優しい顔をして首を傾げます。
    「今、何か言葉を?」
    「聞こえなかったか?」
    「いや、何も。」
    「……そいつが心を開くと歌が聞こえるようになり、更に慣れたら言葉を交わせるらしい。話は出来なくてもこっちの言葉は分かって……待て、お前露西亜語も分かるのか?」
    若者が怪訝な顔を向けると人魚は若者と画家を見比べて、短く歌うとまたにこにこしました。「海の言葉に国の違いは無いのか。便利な奴だな。」若者が呆れたように言うと、人魚は鼻先を上げて口をにんまりさせ頷きました。
    「……分かるようだから絵を描くのに注文があれば露西亜語で話しかけるといい。何か必要なものがあれば俺に言え。」
    「ああ、助かる……歌か、きっと美しい声をしているんだろうな。あの時のルサールカと、どちらが上手だろう。」
    画家は懐かしそうに目を細め、また頭を深く垂れました。人魚はそれを撫でるように甕の壁面を揃えた指先でなぞりました。
    じきに画家も人魚の歌を聞くのでしょう。若者は、また少しつまらない気分になりました。

    若者の予想は的中しましたが、更につまらないことに画家以外の者の耳へも人魚の歌が響くようになりました。
    まず毎日果物と真珠を運ぶ家来、また同じく温まる水を桶に二杯汲み出して代わりに砕いた氷を甕へ落とす家来、それから乙女ら、新しい甕や家具の為に人魚の尾の長さや今の甕を調べに足繁く通う職人たち。「お美しい人魚さま」「お可愛らしい人魚さま」と皆の優しい言葉と触れ合いに応えて、人魚は毎日嬉しそうに歌っていました。
    玻璃の甕の前で乙女らは琵琶や琴を鳴らし、人魚はそれに合わせて歌い、水中から玲瓏たる声を響かせます。その髪には乙女の一人が紅緋の紐で編んだ牡丹の髪飾りが留められていました。またそのしなやかな腕の為に作られた美しい翡翠の腕輪が右の手首に、大輪の蓮の花がいくつも彫られた金の腕輪が左の手首にありました。画家は少し離れた場所へ座り、熱心に鉛筆を動かして居ました。
    人の出入りも増えたので、若者がこれまでのように人魚と二人きり過ごせるのは、朝の早いうちか日の暮れてからでした。人魚はやはり若者がやらねば何も食べないし酒も呑みません。口へ入れてもらった真珠を噛み、若者が注いだ酒を呑んで、甘い息を若者へ吹き、甕の縁へ凭れて若者を見上げる人魚は、二人きり過ごす時間に心から安らいでいる様子でした。
    それでも、若者に人魚の言葉は聞こえてきませんでした。若者は自分以外の誰かが人魚と話し出すのではないかと気が気でなくて、
    「俺と過ごして楽しいのなら、他の奴らにあんなに愛想を振りまくのをやめたらどうだ。」
    とか、
    「隠れて別の奴と話しているんじゃないだろうな、誰がお前の主人か忘れたのか?」
    とか、ついつい辛い言葉を言ってしまうのです。すると人魚は決まって悲しい顔をして、小さな声で歌うと水中へ身を沈め、それ以上食べようとも呑もうともしませんでした。それが、悪いのは若者の方だと責められているようで、若者は余計に優しい言葉を忘れてしまうのでした。
    ある時若者は水面から顔を出した人魚の髪飾りに触れ、また柔らかい耳朶を指で摘まみました。
    「髪が短いのだから耳飾りも合いそうだな。針で穴を開けてやろう。」
    薄笑いを浮かべて言うと、人魚は大きく頭を振って若者の手を振り払うと両手で耳を覆い隠しました。
    「――!」
    歌とも言葉ともつかぬ短い悲鳴をあげて、人魚は水中へ隠れました。そして両耳を塞いだまま、どうしてそんなに意地悪をするのかと言うように悲しく若者を睨みました。
    その様に、若者は良くないことを考えてしまったのです。
    御殿の皆が傅くと知ってしまった人魚は、高慢にも誰が言葉を聞かせるのに相応しいのか値踏みしているのだ。驚かせたり怖がらせたりすればうっかり言葉を漏らして、自分がどれだけ思い上がっていたかも思い知り、若者を敬うだろう。
    少し意地悪をするくらい。少し悪戯をするくらい。主人は自分なのだから。人魚は自分に買われたのだから。
    若者は、そう思ってしまったのです。
    明くる日若者は、高い席へ人魚の盆と共に熱い湯と茶の一式を上げさせました。茶器を初めて見る人魚は目を丸くしていました。
    「あまり近付くなよ、熱いからな。武夷岩茶の良い物だ。お前は飲めんだろうが香りだけでもと思ったんだ。」
    若者はいかにも優しく言いますがその心はこれからする悪戯に弾んでいました。人魚はそんなこと露とも知らず、久方ぶりに若者が優しくしてくれたのが嬉しいのか微笑んで、言いつけ通りに少し離れたところから若者が茶を淹れるのを眺めていました。
    茶葉の入った茶壷に湯を注ぎ、茶海へ淹れたのを聞香杯へ移し、更にそれを茶杯へ移します。若者はこの時、聞香杯の中へ一寸ほど熱い茶を残したままにしました。
    それなのに全て注ぎきったふりをして、聞香杯を取って人魚へ向けます。
    「そら、嗅いでみろ。良い香りだぞ。」
    嬉しそうに側へ寄った人魚へ、若者は、聞香杯を落としました。
    緩い弧を描いてひっくり返るように水面へ落ちた聞香杯の、傾いた口から中に残った熱い茶が幾つか小さな滴になって、人魚の顔に散りました。さあどんな声を上げるのだろうかと、若者は口元に嫌な笑みを浮かべました。
    けれども人魚の声は全く聞こえませんでした。両手で顔を覆って、恐らく悲鳴をあげたかのように口を開けていたのに微かな音もせず、人魚は甕の底深くへ身を翻しました。
    きっと何か言っていたのです。沈んだ人魚の口からは大きな空気の泡が絶えず浮かび苦しそうに身悶えしていました。なのに若者には、何も聞こえませんでした。
    「……悪い、手が、」
    用意していた謝罪を水面からかけても人魚の声は少しも聞こえません。落とした聞香杯が静かに沈み、底にのたうつ人魚の尾に落ちました。人魚は大きく身を震わせて尾を引き寄せ、聞香杯から離れて身体を小さく丸めました。
    やっと、若者は自分がしたことに気がつきました。例え人間であっても淹れたばかりの茶がかかれば火傷をしかねません。風呂ほどの湯さえ熱い人魚にとって、それは、どれほど苦しく肌を焼いたことでしょう。
    若者は席から飛び降り、甕の底の人魚の顔を覗こうとしました。人魚は変わらず両手で顔を覆い、隙間から見える口はずっと何か言っていました。若者には何も、聞こえません。
    何を、言えばいいのか分からず、若者は呆然として甕に触れました。手の影が伸びたので人魚は怯えて背を丸め、やがて両手の覆いを離しました。
    片頬に、珊瑚の珠のような赤い火傷が幾つか出来て、赤く潤った芳しい肉が、暴かれたかのようでした。
    人魚は若者を悲しく辛そうな見つめて何かを言いました。その両目から瑠璃色の涙が溢れ、人魚は再び顔を覆って甕の底へ伏せました。泣き声さえ聞こえません。ただ涙の帯だけが糸のように細く伸び、甕の中程で透明になって溶けました。

    お茶をこぼしたと聞いた家来たちは総出で甕の水を取り替えました。明日の分の氷をいれて、甕のどんどん汲み出しては新しい水を注ぎます。騒ぎを聞きつけた職人らはそれを手伝い、また乙女ら甕の底に伏したままの人魚へ優しい慰めの言葉をかけます。
    しかし水が充分に冷たくなっても、人魚は顔を上げませんでした。日が暮れて夜が更けても朝が来ても、ずっとずっと人魚は伏せて泣いていました。
    盆を手にした家来が何か食べた方が良いと心配しても、氷を持ってきた家来が甕の外からも水をかけようかと尋ねても、乙女らが肌を労わる軟膏や傷に効く薬を持ってきても、人魚は少しも泣き止みませんでした。
    火傷をした日と変わらぬ人魚の様子を画家は痛ましく見つめ、甕の側へ屈んで「どうか早く良くなられますように。」と祈ります。
    皆が代わる代わるやってくるのを、若者は牀から遠巻きに眺めていました。画家は若者も落ち込んでいるものと思い優しい言葉をかけます。
    「不幸な事故だった。琥珀の方も酷く驚いてしまったんだろう。時間が経てばきっと……」
    「あんなものは悲しんでいるふりだ。」
    画家の言葉を遮って、若者は吐き捨てました。画家は驚いて、けれどすぐに「そんなことを言うべきではない」と若者を窘めました。若者はそれを鼻で笑います。
    「人魚の肉は食えば不老不死になれる霊薬だぞ。そんな肉を持つ者が、たかが火傷如きでいつまでも泣いているものか。あれは皆にちやほやされたくて痛がったふりをしているだけだ。俺が惨めに頭を下げて許しを乞うのを待って意地を張っているに違いない。」
    「どうしてそんな酷いことを!意地を張っているのはどちらだ!」
    「お前も誰が主人か忘れたのか。」
    思わず声を荒らげた画家を睨み、若者は低い声で問いました。画家は唇を噛み、青い瞳に怒りを満たして若者を睨め付けました。若者は冷めた目で部屋をぐるりと見渡しました。
    「皆出て行け。そいつが泣き止んだら知らせる。俺が呼ぶ以外誰も入るな。」
    こうして、人魚の歌声に常春の如く華やいでいた御殿は、再び暗く静まり返ったのです。
    人魚はいつまでもいつまでも泣いていました。瑠璃色の涙は尽きることが無いかのように思われました。若者が真珠や荔枝を水中に放ってそれが肌へ当たっても、人魚は少しも動こうとしません。とうとう若者は痺れを切らし、甕の前に立って人魚を見下ろしました。
    「いつまでそうして泣いているつもりだ。そんなに俺を責めて楽しいか。」
    人魚は泣き止みません。
    「俺に悪いところがあるか?お前が喋らない所為だ。」
    人魚の声は聞こえません。
    「俺には言葉も聞かせる価値もないのか。」
    人魚は、静かに体を起こしました。
    頬の火傷は色も薄まり殆ど治りかけていました。ほら見ろと若者が唇を歪に笑ませたのを、人魚は濡れた瞳でじっと見つめました。
    どうして私を嫌うのかと問うように。
    若者が人魚を隔てるのが悲しくて悲しくて堪えきれないのか、涙の瑠璃色を一層深くして、人魚はまた体を伏せました。何故人魚が自分を責めるのか分からず、若者は苛立ちに任せて手を甕の壁面に叩き付けました。水の震えにも人魚は怯えず、ただ、ただ、泣いていました。
    まるで喪中へ戻ったかの如き陰気な静けさのまま、一、二日が過ぎました。歌も音も聴こえぬ睡房は酷く詰まらなくて、若者はうとうとと午睡をしていました。
    微睡んでいる若者の顔に、ぴちゃと水がかかりました。雨漏りでもしたのかと若者が眠い目を擦ると、今度は頭の方が濡れました。いよいよおかしいと目を覚まして起き上がってみたら、人魚が甕の内に身を起こしていました。
    ようやく癇癪も落ち着いたのかと思いましたが、どうにも様子が変です。低くなった水面から尾を出して若者へ水をかけていたらしいのですが、おろおろした様子で甕の壁面の一箇所に両手を添えていました。
    「なんだ?お前一体何を……」
    若者が起き上がって側へ寄ると、床が酷く濡れています。よくよく目を凝らせば人魚の押さえている、それは先日若者が叩いた辺りでしたが、ひびが入って甕の中から冷たい水が染み出して溢れていたのです。水は、頭ひとつ分ほど減っていました。
    若者はもうすっかり目が覚めて、濡れた足で外へ走り家来らを呼びつけました。若者が駆けてきたのでようやく人魚も泣き止んだのかと思った家来たちも仰天して、水だ、布だ、糊だと天地をひっくり返したような大騒ぎになりました。
    職人らがひびを見ましたがこれはその場で直せるようなものでは無いというので、仕方がなく、新しい甕の試し彫りをしていた小さな木の甕を持ってきて、一時凌ぎに使うことになりました。
    小さな甕が運び込まれる頃には、玻璃の甕の水はもう半分まで減っていました。若者は人魚へ言います。
    「まだ縁に手が届くな?体をその台に乗せろ。お前たち牀から布団を取って段へ置いてやれ、背の高い者は支えてやるんだ。」
    残った水に尾を立てた人魚は若者の言う通りに上半身を高い席へ移し、腕で降りる人魚の為に家来たちは硬い段へ布団を置いてやります。一段、二段と下りた人魚は、木の甕へ行きつくとするりと身を滑らせました。家来らに支えられた尾は上半身へ引かれて甕に入ります。
    木の甕は風呂桶のように浅く狭く、上半身は殆ど出て尾も収まり切りません。それでも、一先ず『引越し』が上手く行ったのと、また何日かぶりに人魚の顔を見たのとで、その場にいた皆がわっと喜びの声を上げました。
    お怪我はありませんか、お水は温くありませんか、まあ火傷も治られて良かったこと、皆が口々に人魚さま人魚さまと寿ぐものですから、泣いて伏せていたのが急に皆の前に出て恥ずかしそうにしていた人魚も、礼をするようにほのかに微笑みました。
    それから人魚は人垣の向こうの若者を見つめましたが、若者は目が合うや、ふっと顔を背けてしまいました。人魚は両目に涙をいっぱい溜めて、水の外でその涙は小さな瑠璃の珠になって水面へ落ちて割れました。悲しむ人魚の姿に皆心を痛め、我が身の辛さもこれほどではないと泣く者さえ居りました。
    ともあれいつまでもそうして沈んでいる訳にもいきません。家来らはひび割れた甕を運び出して濡れた床を拭き、職人らは布団を戻し高い席を崩して新しい甕造りに戻り、乙女らは柔らかく薄い絹を持ってきて水へ浸すと人魚の尾や肩へそれをかけてやりました。
    人は波のように引いて、若者と人魚二人が残りました。人魚の目の縁にはまだ瑠璃の雫が残り、時折ぽつんと水面へ落ちました。
    若者は一歩、二歩、手を伸ばしても指先が掠められない程度に甕へ近付き、人魚を見下ろしました。
    「……甕を何処かへ移すか。妾の宮なら皆喜んで引き取るだろうな。何処が良い。お前、潜れないこんな狭い甕で、怖い俺から隠れられずに居るのは嫌だろう。」
    若者は唇を歪めて冷笑を浮かべ、「お前は可哀想な奴だ。」と呟きました。
    「俺なんかに買われなければもっと良い所で幸せに暮らせただろうに。……いや、この家に居たのが正しい当主だったら、此処がお前にとって一番幸せだったかもな。場所じゃない。俺でなければ良いんだ。」
    若者は薄笑いのままでその場の床へ直に腰を下ろし、人魚と目の高さを合わせます。
    「海へ帰してやろうか。魂なんて得てどうする。体が死ねば終い、それでいいじゃないか。永遠なんて馬鹿馬鹿しい。極楽へ行くまでどれだけかかるか分からん、そうまでして行った極楽がそんなに良いのかも分からん。美しい水底で王で居た方がずっと幸せかもしれない。人間になんてならなくても、お前は人魚のままで充分だろう。お前は何も……俺は、お前に何もやれない。」
    そして若者は微かに顎を引く程度に俯いて、疲れ果て死を待つばかりの獣の鳴くより弱く細く、
    「他の誰かに渡るくらいなら――――」
    そう言いました。
    人魚は甕の縁から身を乗り出し、両腕を床へ伸ばしました。手をつくには少し足りず、どたり、と上半身が落ちました。
    驚いて顔を上げた若者へ微笑んで、人魚は両腕を伸ばして若者を抱きしめました。
    若者の頭と背中を撫でる手は冷たく、けれどとても温かく優しく、何度も何度も若者を撫でました。

    「さみしい」

    人魚は腕を緩め見つめ合えるほどに顔を離すと、瑠璃を含んだ目に琥珀色の丸い帷を閉ざし、微かに口の端を上げてもう一度言いました。
    「さみしい」
    その時若者は、人魚が他へ歌声を聞かせるのがつまらなかったのも、人魚が他の誰かへ話したらと気が気でなかったのも、人魚が誰かの手に渡るくらいなら海へ帰してしまおうと思ったのも、全て、人魚が自分から離れるのが淋しかったからだと気が付きました。
    遠い異国の言葉を初めて理解した時以上に、「淋しい」は若者の心を打ちました。覚えたての言葉を繰り返す赤子のように、淋しい、淋しいと胸の中で繰り返しました。
    けれども若者は負けず嫌いでしたから、人魚に教えられたままに「淋しい」と言って泣いたりせず、皮肉に笑って人魚の頬を撫でました。
    「お前、最初に言うならもっと相応しい言葉があるだろう。名前とか……」
    「名前、」
    「――――百之助だ。」
    「ひゃくのすけ。」
    人魚は腕を下ろし、頬を撫でる若者の手を握りました。
    「音之進。」
    「……悪くない名前だな。」
    そして若者が「音之進」と優しく呼ぶと、人魚は嬉しそうに微笑みました。この日から二人は、ようやく互いの話が出来るようになったのです。それは牡丹の蕾も色付く暖かな春の夜のことでした。
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    ❤❤❤❤❤❤❤❤💴💴💴💴💴😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭💕💕🐱🎏🙏
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    ohmita

    PROGRESSひゃくこいに出す予定の尾鯉 大体3パートになる予定で最初の1パートできたので進捗さらし✋全部書き終えたらチョイチョイ手直しするからとれたての味が読めるのは今だけ!オトク!
    ㍾最終話後おがた生存ifあとまあ細かいところはワイがこれまで書いたとこ読んでもろて
    ひゃくこい用(書きかけ) 勇作の声がしたような気がして振り返る。
     声といえど正確な響きはとうに忘れた。朧げに残っている呼び方や言い方の癖から勇作のように聞こえただけだ。
     あの日はっきりと顔を見たことは覚えているのに、あれ以来鮮明に思い出せない。眼差しや唇の動きの断片がぼんやりと結ばれ、かろうじて勇作の形を作る。
     もう十年も経たぬうちに擦り切れて消えるのだろう。それでも共に過ごした年月の倍以上かかるのだから、思い出はまるで呪いだ。

     幻聴は兆しだったのか、その日の夕から頭痛がし始め、半刻経たぬ間に右目の内から抉るような酷い痛みに変わった。直に治るだろうと高を括っていたのが仇になり、どうにもならなくなってから飲んだ鎮痛剤は効き目が遅い。動くにも動けないが横になって眠れるものでもない。ただ布団の端を握り締めて耐え、時折薄目を開けては今日は来るなと部屋の空白を睨んだ。だが、願えば願うほど、天は嘲笑って嫌がらせをする。
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    かしりべ

    MOURNING養父尾鯉ボツシーン

    睡眠姦→レイープ→なんだかんだ諭される
    →また睡眠中にイタズラして開発済みの体を焦らして焦らして焦らして焦らしてとうとう挿入を懇願させる予定だったけど、諭されたのにまたするんかい!!となってしまったので、こっそりじゃなくて堂々と口説くことにしました。
    養父尾鯉ボツシーン 唇が触れて、離れる。
    「寝るか」
     律儀に日課をこなした養父は、性的な雰囲気をかき消すように明るい声を出した。
     ふわりと残り香が鼻をくすぐるが、動いた空気によりすぐ霧散した。階段を上がる後ろ姿を黙って見上げる。
     待つ条件として求めた「親愛のキス」は毎日の日課となっていた。加えて、追加の要求もなんとか通した。
     続いて階段を上がった尾形は、躊躇なく養父の寝室に入り、いつものように水なしで飲める錠剤を服用するところを見せた。鯉登には医師から処方された睡眠導入剤だと言っているが、ビタミン剤とすり替えてある。
     睡眠障害については、夏よりは回復したものの治ってはいなかった。なので、服用は続けている。薬が効いて眠りにつくのは服用十五分後である。寝間着のポケットにいれたそれを、後でこっそりタイミングをずらして飲むのだ。
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    はも@🐈‍⬛🎏原稿

    SPUR ME恋音展示が間に合わない文量になったので、現在できてるところまで公開します!本当にすみません!完成したら完全版をpixivに投稿しますので、よろしくお願いします。
    函館に引っ越してきた鯉登くん(16)が冬季鬱っぽくなったのを、ここぞとばかりに手を差し出して手に入れようとする尾形百之助(21)の話です。
    極夜にて「尾形はあたたかくて、すきだ」
     そう言って尾形の膝の上に形の良い丸い頭を置いて少年が呟く。少年の声は声変わりが済んでもまだ少しばかり声が高く、甘い。
     尾形、おがた。何度も甘い声で名前を呼ばれ、尾形はくつくつと肩を揺らして笑う。
    「なぁ、もうここで暮らせよ」
     艶のある黒紫の髪を撫で、少年の耳を指で柔く揉む。たったそれだけなのに、少年の耳が赤く染まる。黒い瞳がゆっくりとこちらを向く。気が強い性格で、誰にも弱ったところを見せようとしなかった子どもが、今は縋るような目で尾形をじっと見つめている。
     この少年には自分しかいない。言葉で言われなくとも、少年の視線、表情、態度で解る。それが尾形にとって他の何にも変えられない幸福――黒くどろどろした幸せが自身を染めていく感覚にうっすらと微笑んだ。
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