もふもふの魅力は抗いがたし 時間つぶしにと読み始めた書類からふと顔を上げ、ドクターははデジタル時計の示した数字にやや困惑の表情を浮かべた。
彼がシャワールームに入ってからもうずいぶんと時間が経っている。いつもならばそろそろ端末を取り上げられ寝室へと連れ込まれていてもおかしくないというのに、水音の消えたシャワールームの扉はかたく閉ざされたまま。まさか倒れてなどいやしないよなと振り返った耳にはかすかにドライヤーの音が聞こえてきたため、生命にかかわるトラブルが発生したわけではなさそうだった。だがそれにしても長すぎる。少なくとも何かしら不測の事態が起こってはいるのだろう。冷え始めた足先を室内履きに乱雑に突っ込んで、ドクターはソファから身を起こした。コートもフェイスガードも纏わぬ身はひどく軽く、よく見知った自室であるというのにどこか無防備ささえ感じてしまう。ましてや今この身に纏っているのはシャツ一枚――自身よりも二回りは大きいサイズのそれが一体誰のものかなんて野暮なことは聞かないで欲しい――だけであるからして当然ではあるのだが。ぱたりと室内履きの音を響かせればほんの数歩の距離にあるシャワールームへと続く扉の前で、ドクターはゆっくりと口を開いた。
「ずいぶんと時間がかかっているようだけれど」
「、盟友か」
ドライヤーの音が止み、慌てたように薄い扉が開く。あらわれた長身の影を見上げれば、雪雲の色を映した瞳はしかし消沈の色にけぶっていた。
「尾用のドライヤーが故障してしまっていた。頭髪用のもので代用していたのだが、如何せん時間がかかりすぎたな」
すまない、途中で声をかけるべきだった、と涼やかな美貌を項垂れさせる恋人に、何か酷いことが言える人間がこのテラの大地の上にいるだろうか。いるはずがない。よく見れば極上のふわふわの権化たる彼の尻尾はその太さを半減させ、先端からは水滴がしたたり落ちている。
「謝るならば私のほうだろう。すまない、壊れているなんて気がつかなかった」
そもそも彼の尾はフェリーンの中でもいっとう長毛かつ尻尾の長さ自体も群を抜いているタイプだ。そのためこの私室には部屋の主にはまったくの不用品である大型の尾専用ドライヤーが設置されている。以前はロドス内に設けられたカランド商会用の貴賓室で風呂を済ませていたのだが、その行き来する時間をすら惜しいと思うだけの理由が発生してしまったからだ。
「あちらでドライヤーを借りてくる。先に休んでいてくれ」
「こんな時間にあんなところまで往復つもりかい? それに、私はもう十分待ったよ」
その万年雪色の瞳に疑念が灯るよりも早く、私は傍らに放置されたまだ暖かい小型ドライヤーを手に取る。そして、
「そもそも気付かなかったのはこちらが百%悪いのだから、責任をもって私が乾かそうじゃないか」
彼の極上のもふもふに触れられる大義名分を得た私の声は、おそらく誰が聞いたとしてもずいぶんと弾んでいただろうことはまったく否定できない事実である。
「それにしても」
「ん?」
「これは尻尾ドライヤーに最適な姿勢とはいえないと思うのだけれど」
ソファに腰かけた彼の両脚の間に挟まれその立派な胸板と両腕でがっちりとホールドされた姿勢は、少なくともホールドしている側の尻尾を乾かすための姿勢ではない。というかむしろ程遠いところにある。だというのに背後からはごろごろと上機嫌に喉を鳴らす音さえ聞こえてくるのだから始末に負えない。
「そうだろうか?」
「そうだよ!」
膝の上に広げられたバスタオルの上に乗せられたどっしりとした尻尾は行儀よくドライヤーを待っているというのに、背後からのびる両腕はシャツの上からこちらの腹の上を我が物顔でゆったりと撫でまわしてくる。背後の彼やその護衛役のフォルテの男ならばともかく、こんな痩せこけた体を触ってどこが楽しいのかというのは甚だ疑問なのだが、ごろごろ音に鼻歌まで混じりそうな勢いなのでいったんすべてを意識外に追いやって目先の作業に集中することにした。
「おお……」
しっとりもしゃもしゃのなめらかな手触りに、思わず感嘆の声がもれる。これは素晴らしい。こんな素敵なものを毎日触り放題だなんて何て羨ましい人種なんだフェリーン。もしゃもしゃと無心で撫で続けていると、ふ、とうなじに吐息がこぼされた。
「ずいぶんと、お気に召したようで何よりだ」
「あ、ああ、乾かす! ちゃんと乾かすとも!」
つい本来の目的から全力で逸れてしまっていた。だってこのしっぽがもっふもふなのだから仕方がない。意を決して持って来たドライヤーのスイッチを入れ、少し離れた距離から温風を当てる。
「熱すぎたら言ってくれ」
最初の一瞬だけ、はたりと小さく跳ねた尻尾は、しかし大人しくその毛を温風に揺らしている。ぺっそりと濡れた毛をかき分けできるだけ根元へと風が当たるようにしながらドライヤーを動かしていると、腹を抱いていた大きな手のひらがわざとらしく服の上から乳首付近を撫で上げたものだから、思わず変な声がもれてしまった。
「んっ、……こら」
手を止めて見上げれば、そ知らぬ顔をした美貌が優雅に微笑んでいる。まったく、両手がふさがってさえいなければその高すぎる鼻梁をつまんでやるというのに、このカシコイデッカイカワイイネコチャンはこういうところも目端がきく。
「この素晴らしい尻尾に不格好な斑模様をもう一つ増やしたくなければ大人しくしててくれ」
「お前がこの身体に痕を残してくれるのか」
「嬉しそうな顔をしないの。変な趣味に目覚めたとか言わないでくれよ」
「お前がくれるものならば吐息ひとつ取りこぼしたくはないのだが」
「はいはい、キスは終わってからね」
かわり、とばかりにつむじに押し当てられるくちびるのくすぐったさについ笑いをこぼしてしまいながら、再びふわっふわの毛並みにドライヤーを当てることに集中する。
「そういえば、私のしっぽがバーで賭けの対象になっていてね」
「お前のしっぽ?」
「そう。なんでも私の姿勢が悪いのは太いしっぽを持ってた名残りじゃないか、とか白衣の裾に隠れるくらい短いしっぽのはずだ、とかなかなか興味深くてね」
「ほう」
私はいつもの恰好が格好なので、種族について聞かれることがそれなりに多い。そのたびに適当にあれこれ誤魔化しながらきた結果、文字通りの尾ひれがついていろんな噂が広まってしまったらしい。そして先日とうとうギャンブルにまで発展してしまったという笑い話だ。
「他には何だったかな、基本的には短い派が優勢だったけど、傑作なのはフードの中に無理やり押し込めてるんだ説とかあってね」
なんでも常時襟巻にしているという仮説らしい。そういった種族も探せばこの広いテラのどこかにいなくはないのだろうけれど、人間の想像力というのは果てがないものだと思い知らされた楽しい一夜だった。
「それでお前は」
「うん?」
彼の立派なしっぽへのドライヤーもようやく終わりが見えてきた。斑点をひとつひとつなぞりながらその仕上がりをふこふこと堪能していると、不意に彼の大きな手のひらがこちらの臀部をわしづかみにしてきたものだから情けない悲鳴が飛び出してしまう。
「彼らに見せてやったのか、この愛らしい尻をさらして?」
「ひゃっ」
驚いてドライヤーを取り落とすところだった。だがいきなり狼藉を働いてきた相手は片手で器用に私の手からドライヤーを取り上げると、パチンとスイッチを切って目の前のローテーブルへとやや乱暴に置いた。
「んぁっ、まだ最後まで終わってないのに……」
「ここまでしてもらえればすぐに乾く。それよりも私の質問に答えていないが?」
「そんなの誰にも見せるはずがないだろう! んっ、だから動かさなっ、ぃ、」
とっさに立ち上がって逃げようとしたけれど、先ほどまであんなに従順だった彼の尻尾がぐるりと私の体に巻き付き、そしてよりいっそう彼の体と密着してしまう。そうなってしまえば腰のあたりに押し当てられる硬くて熱いものの正体なんて考えるまでもなくて。
「毛づくろいとは親愛表現のひとつであるからして、相互に行うのが基本となる」
「見ての通り私にはしっぽなんて生えてないっていうか、一体どこを毛づくろいするつもりなん、ひっ、ぁ……」
「無論、お前が許してくれるすべてにだとも」
翌朝は当然のように起き上がることすら出来なかったけれど、出来る指揮官である私は事前に有休を申請しておいたので事なきを得たのであった。