身だしなみに最低限以上の興味がない人間の朝など、顔を洗って歯を磨いて、まあそのくらいで完了である。あとは一応、ひげ剃りなど。
「何をって、ひげ剃りだよ。見ればわかるだろう」
確かに彼の使っているような立派なシェーバーではないけれど、私だって一応は成人済みの男性なのでひげを剃る必要がある。エンカクのポカンとした表情は寝起きということを差し引いたとしてもさらに滑稽なほどで、人間とは驚くとここまで表情が抜け落ちるのかと笑ってしまいそうになるほどだった。無論、剃刀を持ったままで大爆笑などしてしまえば怪我の危険性があるため私の腹筋には過度な我慢を強いたが、おかげで午後ちょっと引き攣って痛かった。我が身体のことながらなんて脆弱な腹筋だ。それはともかく。
「生えていたのか」
「それ、君が最初に私の下着を引っぺがした時にも同じこと言ったよね」
対象が性器のことであったのかそれとも体毛のことであったのかについては今の今まで聞きそびれてしまったが、彼はそれどころではなかったらしくて今回も答えは聞けなかった。前者はありえないだろうって? 私もそう思うんだけどまだ時々聞かれるし驚かれるし興奮されたりもするんだよね。まあ最後のは護衛についてるオペレーターがどこかへ連れて行ってしまうからその後はよくわからないんだけど。
なんて下らないやり取りをしている間にひと通りひげを剃り終えたので、もう一度顔を洗ってこれで完了。あとは着替えて薬を飲んでメディカルチェックを受けなければならないのだけれど、彼は洗面台の前というか私の後ろを塞いでしまっているのでどうにも動けない。困ったなあと思っていると、私の手が剃刀から離れたのをしっかりと確認してから、エンカクはおもむろにぐいっと私の顔を掴んだ。
「ぐえ」
「これは処理する必要があるレベルか……?」
なんだ、キスされるのかと思ったのに。とまあ冗談は置いておいて、彼の指は執拗に私の顎を撫でまわして、どうやらひげ剃り痕を確認していたらしい。そりゃあ確かに君のどこもかしこも頑丈な毛根に比べれば貧弱だろうけどさ、だからこその厄介さというものも世の中には存在しているわけで。
「逆だよ、伸ばしてもあまりにも貧相すぎるから、処理しとかないと見苦しいことになる」
実際、ロドスに来た直後に検査やら何やらで忙しかった時期に処理を怠ったことがあるのだが、それはもう悲しいほどに貧相な髭面だった。どれくらいかというとあのケルシーが直々に剃刀を用意してくれたくらいだ。さっさとその不器量な顔をさっぱりさせろと言わんばかりの眼差しにはそれだけではない圧が込められていた気がするのだけれど、残念ながら記憶喪失である私には思い当たる節がないので、ただありがたく身支度を整えさせてもらったのだった。
ところでエンカクはいつまで私の顔を撫でまわしているつもりなのだろうか。そろそろLANCET-2が来る時刻なのだけれど、ひょっとしてこのまま受診させるつもりなのか。肉もないかさついた頬など触っても楽しくはないだろうに、彼はといえばまだ神妙な表情のまま指を離してはくれないので、そろそろタイムリミットの近くなった私はくるりと振り返って背伸びをする。
「エンカク、ワイルドな君もたいへんに男前だとは思うのだけれど、私としてはヒゲをあたってさっぱりした君のほうが好みだな」
ざり、と唇にあたる伸びかけた髭の感触に微笑みながらうっとりと告げると、ようやく彼は私の拘束を解いてくれた。直後に入り口からLANCET-2の入室許可を求める音声が聞こえてきたので、慌てて彼に背を向けて駆け寄る。だからその後の彼がどんな顔をしていたのかは見えていないのだけれども。
「……今夜、おぼえておけ」
その声に忍ばされた熱量に、私は素知らぬふりをして扉を開けたのだった。