彼は私に触れる前に、いつも爪の色を落としてくる。
かしり、とかじりついた彼の爪が素のピンク色であることに気がついて、今日もほんのりと胸の奥があたたかくなる。彼はわざわざ私の部屋に来る前に爪の色を落としてから来てくれる。他でもない私のために。名残りの欠片でも残っていやしないだろうかと爪の根元を舌でなぞっていると、咎めるようにかりりと舌の真ん中をひっかかれた。ふふ、とこぼれた笑みの意味は彼には届かないだろう。苛立ちのままに引き抜かれてしまった指からしたたる唾液がぽたりとシーツにしみを作る。その余裕のない眼差しに微笑みを返しながら、私はゆっくりと彼の硬いベッドへと身を横たえたのだった。
「結構減ってる」
「触るな」
見上げた視界に見慣れぬものがあったとしたら気になるのが人間のさがというもので、そっと持ち上げた細長いふたのついた飾り気のないガラスの小瓶は私の手のひらの中でもなおころりと小さかった。彼の大きな手の中ではよりいっそう小さく見えるのだろう。内部を半分ほど満たす黒い液体は傾けるがままにゆるりと液面を躍らせ、しかし背後から伸びた長い指が私の手のひらごと小瓶を掴んでしまった。
「源石粉末が含まれている。サルカズ以外には毒にも等しい」
眺めていた小さな瓶をパッと取り上げられてしまって、バランスを崩した勢いのままころりと彼の膝に寝転がる。下から見上げた彼の顔はいつもよりちょっとだけ幼くも見えて、最近のひそかなお気に入りだった。ぐっと腕を伸ばした彼がその爪紅の瓶を棚の高いところへと仕舞いこんでしまうのを落胆しつつ見送っていると、嘲笑うかのようにぺしぺしとしっぽで頬をはたかれる。ムッとして捕まえようと手を伸ばすも、彼のしなやかで細いしっぽはするりと機敏に私の手のひらをすり抜けていってしまった。
「どれくらい昔から?」
「最初に、――いや、その次に拾われた部隊で刀術の基礎を学んだときだ。アーツの伝導率がどうのとのことだったが、大した効果があるわけでもない。ただの気休めのようなものだ」
珍しく饒舌に、彼は自身の過去について語ってくれた。刀の手入れ、指先の手入れ、少年兵の生存率というものはテラのどこであったとしても恐ろしく低く、少しでも長く生き延びるためにと縋る願掛けには血のにじむような祈りが籠っている。
「結局そいつは行方不明になったが、同じ物を使っている傭兵はときどき見かける。よくあるまじないなんだろう」
「今日は塗らないのか?」
「お前がこの部屋を出たらな」
「塗ってるところが見たい」
「駄目だ」
にべもなく断られ、かわりとばかりにシャツを投げつけられる。昨晩朦朧としながら床に落としたそれはよれてぐちゃぐちゃになっていたけれど、どうせ白衣とコートの下で誰に見せるわけでもないので問題はない。とっくに着替え終わっている彼が目線だけで急かして来るのを半ば無視しつつノロノロと身だしなみを整えていると、ぐしゃりと後頭部を撫でられた。
「酷い寝ぐせだ」
「どうせ見えないからいいんだよ」
だからこんな酷い頭なのを知っているのはエンカクひとりなのだ。それを理解した彼の目がほんのわずか満足そうに細められ、そしてすぐにいつもの仏頂面に戻ってしまう。ああ、なんてかわいい男だろう。まあ私だって私しか知りえない彼をひとつ持っているのだけれど。
跳ねた頭髪をくすぐる大きな手をつかまえて、その指先にキスを落とす。いまだ素の色を見せるそこが黒に染められるまでは、この優しくも恐ろしい指先は私のものだと言い張れるのだから。