ねことのせいかつ いくら朝から店を閉めているとはいえ、生花という生き物相手の職業であるためやらなければならない作業は多い。ましてや今回の臨時休業の理由は台風、取引先各所への連絡から店舗周辺の点検と補強までひと通り終わらせたときには、すでに窓の外にはどんよりとした黒い雲が広がり始めていた。
「ドクター?」
店の奥にある居住スペースの扉を開けても、いつものようにのたのたと走り来る小さな姿はない。しん、とした家の気配に嫌な予感を募らせたエンカクがやや乱暴な足取りでリビングへと駆け込んだとして、一体誰が笑うというのだろう。なにせあのちっぽけな黒猫はその運動神経の悪さに反して脱走だけは得手ときている。植物や薬剤をかじらないだけの聡明さはあるというのに、頑として水仕事で荒れた手のひらで撫でられねば一歩も動かないと主張する小さな生き物に、どれだけエンカクが手を焼いたことか。だがエンカクの心配をよそに、雨戸を閉めた仄暗い部屋の中で黒猫はあっさりと見つかった。キッチンの出窓、はめ殺しの小さな窓には雨戸もカーテンもないため、今にも落ちてきそうなほどの暗雲がよく見て取れた。自身が抱いているものを安堵とは決して認めないものの、やや歩調を緩めたエンカクは窓の外をじっと見つめたまま動かない黒猫の背にそっと立つ。
「おい」
エンカクの呼びかけに、しかし黒猫は耳ひとつ動かさない。その大きな眼はただ天の暗雲だけをじっと見据えている。見る間に形を変え厚みを増し、遠くに霞むのはすでにあのあたりでは雨が降り始めているのだろう。もう少しすればこのあたりも暴風の恐ろしい腕の中にすっぽりと覆われてしまうに違いない。だから、エンカクはそっとその動かぬ背を撫でてやりながら言った。
「あれはもう、お前が対処しなければならない恐ろしい嵐ではない」
真黒い雲は風雨と雷こそはらめどもあの黒い結晶が元凶ではなく、通り過ぎた後の土地に残る厄災が不治の病をバラ撒くことはない。だというのにこの彼は、小さくなってしまった体をまだ誰かのために酷使しようというのか。黙って撫で続けていると、やがて手のひらの下から小さく、なぅ、と鳴き声が聞こえた。そしてようやく振り向いた眼差しが、そんなことはわかっていると言わんばかりの不満そうなものでしかなかったので、エンカクはなんとも手のかかる猫だとため息をつきながら、わしわしと両手でその小さな全身をもみくちゃにしてやったのだった。