例えば節が目立つようになった指だとか、いっそうかさつきが増えた手のひらだとか、彼に関する記憶はとにかく手に関するものが多い。
「そろそろ休憩を入れろ」
ことりと小さく音を立てて置かれたマグカップには湯気の立つコーヒーがなみなみと注がれている。あまりに飲みすぎるものだから一日何杯までと制限をつけられたのはもう何年前のことだったか。傍らの彼がいないときにこっそり消費してこっぴどく叱られた思い出のほうが鮮明に思い出せてしまって、私はマグカップを見下ろしながら微笑んでしまった。
「いい知らせでもあったのか」
「いいや、君が優しかったことを思い出してた」
「思い出し笑いは痴呆の始まりらしいぞ」
「記憶喪失分さえ差し引けばけっこうなヤングなんだけどね私」
「若者がそんな単語を使うか」
伸ばした背中からバキバキとすごい音が鳴って、さすがに整体の予約入れないとなぁと脳内のスケジュール帳を繰る。姿勢の悪さはついぞ直ることはなかった。これからも一生このままだろう。見かねた彼がベッドの上でぐりぐりぐいぐいと揉んではくれるのだけれど、段々手つきが本格的になってきたのに甘えすぎている自覚はある。そもそも初夜からして私が足を攣りかけたことに端を発し、ベッドの上での一連のマッサージはもはやただのルーチンワークとなって久しい。今では背を押すてのひらひとつに欲情する有り様なのだ。責任をとってほしいものである。
「あ、もらい物のシュークリームあるんだった。お茶うけに食べてしまおう」
「それは俺に取って来いと言っているのか」
「察しが悪い傭兵って生き残れるものなの?」
チッとかなり大きい舌打ちとともに、彼の大きな背が奥の冷蔵庫へと向かう。その間にガサガサと書類を横に避けて、おやつタイムの準備は完了である。クリスマス用の試作だとお裾分けしてもらったシュークリームはやや小ぶりなサイズで、曰くこれを積み上げて小さなツリーを作るというのだから、料理人の想像力と言うものには脱帽だ。
小さな紙箱の中には三個ほど入っていたので、躊躇なく彼に二つを譲り取り出したシュークリームにかぶりついた。やや硬めの皮としっかりとした甘さのクリームのバランスが程よく、なるほどこれならば胃袋に自信があれば何個でも所望したくなる素晴らしい逸品である。ふと視線を上げると、彼はすでに二つ目へと取り掛かっているところだった。彼の大きな手のひらの中で、小ぶりなシュークリームはさらにいっそう小さく見える。犬歯が見えるほど大きく開いた口の中にひとくちで消えたそれが、まだ私の手の中に半分残っているものと同じだったとはにわかに想像しがたいのだが、残念ながら彼我の口の大きさについては私は熟知してしまっているのだった。
「味の感想は」
「悪くなかったと伝えておけ」
私の舌については散々参考にならないと各方面からのお墨付きをもらっているので、味見を兼ねたお裾分けはむしろ同席する彼を目当てに行われたものである。指に残ったクリームを舐めとる長い舌をぼんやりと眺めていると、鋭い一瞥がさっさと食べろと促して来る。もう一口だけコーヒーをすすって、私はもたもたと残りの攻略へと取り掛かった。
ようやく最後の欠片を口の中におさめて一息つくと、照明を遮るように傍らに大きな影が立っている。見上げるまでもなくエンカクだ。気にせずマグカップへと手を伸ばそうとすると、それよりも早く太い指先が私のくちびるをぬぐった。
「そんな顔で会議に出るつもりだったのか?」
「優秀な秘書で助かったよ」
眼前に差し出されたままの指に、ちぅと吸い付く。クリームの甘さの奥にざらりとかさつくぶ厚い皮膚がある。刀を握り続けた結果歪んでしまった関節も、いつだってきれいに短く整えられている爪先も、あらゆる箇所の味を私は知っている。
「ぷぁ、あー……君、今日は定時で上がれる?」
「お前の業務次第だな」
「善処いたします」
最後に私のくちびるをひと撫でして離れていった指先から無理やり視線を引きはがして、私はいそいそと書類の続きに取り掛かったのだった。