「だから置いていっていいよって言ったのに」
何のことを言われているのかと尋ねられたところで、俺に返せるのは無言だけである。だが目の前の人間はといえばその無言からですら情報を引き出しあっさりと真相へとたどり着いてしまうほどの脳みその持ち主であるため、つまるところこれはただの意味のない抵抗でしかないのだった。
鉱石病というのはそれなりに厄介な病気で、時間をかけて徐々に内臓の機能を奪っていく。そのスピードや広がりやすい箇所には個人差が大きいとされているが、やはり感染した元凶である部分、俺に取っては左肩から喉元にかけての不調が最近とみに目立つようになってきた。そもそもこんな年齢まで生きるつもりもなかったのだと言えば、目の前の妙なところで繊細な男はわかりやすく気落ちして、挙句の果てに食事量まで減らして回りまわって俺が怒られる羽目になるため口にするつもりはない。たかがサルカズ傭兵というそこらじゅうで使い捨てにされる命ひとつにまで心を割く余裕など持ち合わせてもいないくせに、固く握り込まれるその小さな拳をそこまで悪いものとは思わなくなったのは、まさしく病状の悪化のせいに違いない。決してこの男に感化されたわけではない。決して。
その病状の悪化の結果、最近どうも喉の調子が悪くなったのが冒頭の例の腹の立つ発言の理由である。
庭園でのいつもの作業中に、自分では意識できていなかったのだがどうも咳き込む回数が増えたらしい。以前は腰ほどまでしかなかった幼子たちが、いつの間にかおのれの肩ほどまでに背が伸びていたことを最近ようやく受け入れたが、彼女たちは背丈と同時に小言も増えた。もとより庭園においては遠慮のない関係で、むしろ草花の種類によっては彼女たちが先達だ。調子が悪いようでしたら、と遠回しにおすすめされた購買部の新商品ののど飴を、俺が手に取らない理由はどこにもなかった。
だがしかし、そののど飴の開封をよりによってこの男の執務室で行ってしまったのは失態だった。もう何度繰り返したかもおぼえていない教本の作成を終え、報告に行った先のことだった。来たならついでにお茶でも飲んでいきなよ、という言葉には残って男の仕事を手伝えという意味が隠しきれていなかったが、男の目の下に滲む疲労はそれ以上のものであったため、せめてもの嫌がらせとしてため息とともに重い椅子を引く。そうして作業に没頭してしまえば時間の経つのは速いもので、つまりは茶も飲まずに乾燥した室内での長時間作業に、ごほっと俺の喉がとうとう抗議を開始したというわけだ。
上着のポケットに入れたままののど飴を思い出したときは救世主にも思えたのだが、しかし失念していたことに、彼女たちと俺との味覚の好みの差はかなり大きかったようだ。確かに香草の強い香りはいっときの清涼感をもたらしてくれたが、残念ながら飴本体の甘ったるさは逆に舌と喉を焼いた。彼女たちには申し訳ないが、次に購買部へ行ったとしてこの飴を手に取ることはないだろう。口内のまだそれなりの大きさを保っている飴を前に残りをどうするべきかを考えていると、ふ、ととうとう堪えきれなくなったといわんばかりの不愉快な笑い声が耳に届いた。その声の持ち主はといえば当然この部屋の主であるドクターという男である。
「だって、君すごい顔してるのだもの。そのキャンディ、私も食べてみたいな」
その言葉が暗に、好みでない味のものならば自分に寄越せと言っていることくらいはこの長くなってしまった付き合いでわかるようになった。この男の悪食は年を経てなお冴えわたり、いっこうに改善の余地がない。あれだけのクオリティを誇るロドスの食事に囲まれてこの有り様だというのだから男の舌はもう一生このままなのだろう。救いがない。救いがないといえばそんなことまで理解してしまえるようになったおのれの頭そのものについても言える。ふふ、と再び噴き出した笑い声によりいっそう眉間のしわが深くなるが元凶はといえばペンを持ったままの指先をこちらへとひらひらと向けている。どうして、そんな当然のように、何でもないことのように、その小さく薄い手のひらでまとめて包んでみせようとするのか。目の下の隈が消えなくなるほど背負い込んでいるものに、こんな些細な菓子まで加えようというのか。ならば生まれ出た不愉快さは少なくとも俺自身が保持すべき矜持だ。
「やらん」
「えー」
ガリ、と噛み砕いた飴は変わらず喉を焼くほど甘かったが、そんなもの目の前の男の寄越す言葉に比べればなんということもない。私だって新商品食べてみたかったのに、と文句を垂れる男に、いい気味だと返しながら、エンカクはいつかおのれの喉を焼くだろう目の前の男のもたらす炎の温度に思いを馳せたのだった。