背徳の味「美味しそうなにおいがする」
むくりとシーツから身を起こした視線の先、ドクターは珍しくバツの悪そうな顔をしたエンカクとばっちり目が合ってしまったのだった。
ドクターの私室から調理用コンロを発掘したのはエンカクだった。発見の間違いではない、文字通りの発掘である。というのもドクターの私室はエンカクが足を踏み入れることを許された当初、床すら見えないほどの大量の本で埋め尽くされており、その整理に手を付けたのは部屋の持ち主本人ではなくエンカクだったからである。
「どこまで読んだ」
「七分の、いや六分の一くらい、かな……?」
「その中で有用なメモや書き込みがあったものは」
「特に見当たらなかった。私はそういうの残すタイプじゃなかったみたい」
「では読み終わった本はこのコンテナの中に入れろ。資料室と執務室の書棚のどちらならいい」
「待って待って、せめてケルシーに聞いてからでいい!?」
というわけでお伺いを立ててみたところ、稀覯本の類だけは一度こちらに寄越してくれという一言とともにあっさりと許可が下りたため、かくしてドクターの私室の大掃除は粛々と実行されることになったのであった。
調理用コンロはそのさなかで発掘されたもので、長年どころかほぼ使われていなかったのだろう型落ちのそれは、エンカクの心配とは裏腹に配線を繋ぎ直しスイッチをひねると問題なく点火した。横で見ていたドクターは、私は使わないから好きにしていいとエンカクへとたやすく使用権を譲り渡し、以後その調理用コンロはエンカクのものとなったのである。とはいってもエンカク自身も熱心に毎日手料理を作るようなマメな人間ではなかったので、せいぜい小腹が空いた際に軽食を作る際に使用する程度だ。そう、例えば夜中にふと空腹を覚えて目が覚めてしまったときなどに。
「起こしたか」
「いいや、喉が渇いて」
「水ならば机の上のいつもの場所だ」
「ありがと」
もそもそと毛布から出てきた細い腕が、ベッドの隣にある机の上を彷徨う。薄明りにひらめく白い指が数時間前まではエンカクの背に爪を立てていたことを思い出す。あんな小さな爪では傷のひとつも残ってはいないだろうが、それを残念だと認めるほどエンカクはまっとうな心を持つ人間ではなかった。だから表情一つ変えずにその細い喉がミネラルウォーターを嚥下するのを眺めていたが、気がつけば夜の中ですら色の判別が難しい双眸がじっとエンカクを見つめていた。
「ねぇ、ひとくちだけ」
「こちらに来るなら何か着てこい」
「ん」
もそもそと周囲を探していた彼は、やがていいものを見つけたとばかりに床から黒い服を引きずり上げる。
「おい」
「いいだろう、下着は履いているのだし」
それはエンカクの上着だった。昨晩は二人とも余裕がなく――そもそも余裕のある夜など数えるほどしか経験したことはないのだが――床の上には二人分の服が落ちたままとなっている。何が嬉しいのか締まりのない笑みのままエンカクの上着に袖を通した男は足音も軽くエンカクのもとへと歩いてきた。そしてエンカクの手元のいまだ湯気の立つ小鍋をのぞき込むと、わあと歓声を上げた。
「味玉入ってる!」
「食堂でもらってきた」
「準備良いなぁ」
期待に満ちた眼差しに負けて、箸で一口大に切ったゆで卵を男の口に放り込んでやる。先ほど味見はしたが、浸かり過ぎた濃い味付けがこの時間に食べる食事に合う。夜食というものは胃への優しさなど投げ捨てれば投げ捨てるほど美味いという持論を持つエンカクではあるが、目の前の男からは一度も同意を得られたことがない。まあこの舌の壊れた男から食事について同意など寄越された日にはさすがのエンカクですら医療部へと予約を入れてしまうかもしれないが。
「麺もいるか」
「ううん。スープだけ少しちょうだい」
深夜のインスタントラーメンだ、作っていた小鍋から立ったまま行儀悪く食べている状態であったため、さてどうすればこの男が火傷せずに済むだろうかとエンカクは思案したが、男はこれまた行儀悪くエンカクが持ったままの手鍋に直接口をつけ、こくりとひとくち飲み干した。
「また喉が渇くぞ」
「買い置きの水ならそこにあるし」
服薬のために定期注文してあるミネラルウォーターのボトルの箱を足癖悪くつつきながら、男はようやく満足をそのかんばせに乗せた。そしてそのままベッドへと戻るかと思いきや、くるりとエンカクの背後に回り、ぎゅうぎゅうと抱き着いてくるものだから、エンカクはおい、と低い声を出す。
「風邪をひくからベッドに戻れ」
「君があったかいから大丈夫だよ」
こうなると何を言ったところで梃子でも動かないだろうことは考えるまでもなかったので、エンカクはため息とともに鍋の中身を腹に収めることへと集中することにした。
「ふふ、今キスをしたら同じ味なのかな」
「後にしろ」
「やったぁ」
何が嬉しいのか鼻歌までうたいはじめた男に呆れ果てながら、エンカクは冷め始めたインスタントラーメンをすすったのであった。