攻が受の女装を見てグッとこないと出られない部屋 轟音に目を覚ますと今まさに恋人兼部下が自らの拳で壁を殴りつけているところだった。大柄なサルカズの膂力ですら傷ひとつつかない白い壁は、平然とした顔でその四角い部屋を四方から囲い込んでいた。
「あー……大体わかったけど、いちおう状況の報告を」
「お前のせいか」
「オーケイ、残りの疑問点が埋まったよ。ありがとう」
歯を剥き出しにするサルカズに謝礼を返しつつ、ぐるりと周囲を見回す。四角い部屋だ、私の執務室よりは狭いけど私室よりは広い。壁の一面にベッドが据え付けられていて、その反対側にはやたらと存在感を主張する大きなクローゼット。極めつけはそのクローゼットの扉に貼ってあるホワイトボードに書かれた一文だろう。
『攻が受の女装を見てグッとこないと出られない部屋』
「攻というのは性交渉において陰茎を挿入する側のことを指す。受というのはその逆側だ。つまり順番に君と私のことだな」
彼と私を順番に指さしながら示せば、彼はいったん拳を下ろしながら話を聞く姿勢になってくれた。優しい。彼の優しさにこれまで何度救われたことだろう。それらを無駄にしないためにも、私はその文字を見ながら言葉を続ける。
「受の女装ということは少なくとも私が女性の衣服を身に着けることが条件らしい。クローゼットは開けてみたか?」
「何度か殴ったが破壊できなかった」
「君の殴打に耐えるとは優秀なクローゼットだ。ここでなければうちにスカウトしたい逸材だな。まあいい、何か仕掛けられているかもしれないから最後にしよう。ひとつ飛ばして部屋というのはこの君と私が閉じ込められていると思われるここのことだな」
さてここにおける一番の問題はその飛ばした内容にある。いうまでもないが、彼と私は恋人同士の関係にあり、肉体的な結びつきも存在する。詳しい内容は彼がこの場で憤死しかねないので口にするのは控えるが、まあまあそれなりの年齢らしい落ち着きのない関係が築けているんじゃないだろうか。私は記憶喪失だから詳しくはないけれど。
「さて最大の問題は残した部分だ。グッとくる、大まかにいえば性的興奮をおぼえるということだろうけれど、君は好きな女装の種類とかあるかい」
地獄の底のような絶対零度の視線で睨まれた。つらい。書いてあることをそのまま繰り返しただけなのに。だがロドスの指揮官というのはこの程度のことでめげていてはやっていられない。
「もちろん私は君がベッドの下に特定ジャンルの再生メディアを所持しているタイプの人間ではないと知っているし、昨晩読んでいたのも多肉植物の育成についての本だったことは知っている。だが人間の趣味嗜好というのは表立った場所だけにあらわれるものではないだろう?」
「今すぐにお前を殺せば出られるんじゃないか」
「可能性は否定しないけれど望み薄かな。ロジックエラーを起こして、最悪君が私の死体を着替えさせた上で隣で自慰をする羽目になるかもしれない。大層な手間だと思うよ」
彼が落としたため息はエーギル人の住まうという海の底よりも深いものだったが、少なくとも視線の温度は絶対零度ではなくなった。つまりは大勝利というわけである。
「だがねぇ、これ条件の主体が君なんだ。協力してもらわないと私も困る。何かないかい? 制服とか下着とか」
「どうしてお前はそんなに女装に乗り気なんだ」
「だってね、ここ数値が低いんだよ。余裕でフェイスガード外せるくらいに」
私の体はどうもポンコツらしく、ただの外気ですらある一定時間以上は肌を晒したり呼吸をすることを推奨されてはいない。いつもぶ厚い防護服とフェイスガード越しに世界を眺め、それらから解放されるのは執務室と私室と医療部エリアくらいである。袖口の簡易測定メーターの結果を彼に見せれば、わずかに瞠目したままぐるりと部屋の中を見回していた。
「私の執務室に設置されている空気清浄機の数は知っているだろう? ケルシーは医療部に万が一のことがあった場合はあそこを臨時の手術室とすることすら計画しているくらいだ」
「それがどうお前がはしゃいでいることに繋がる」
「だって、こんなこと他の場所じゃできないじゃないか! ロドスでは私のバイタルはずっと監視されているし、そのほかの場所じゃ服を着替えるなんてできないし!」
拳を握って熱弁をふるえば、再び彼の視線の温度は絶対零度に戻ってしまった。やっぱり駄目だったか。心の広い恋人ではあるが、さすがにここまでが限度なのだろう。まあしかしせめてもう一つだけは協力してもらわないと困る。
「まあそれはどうだっていいんだけど、そろそろあのクローゼットを開けてみよう。運が良ければ君の刀が見つかるかもしれないし」
「可能性は?」
「君が自分のコスプレを私にさせる趣味があれば、似たようなものくらいは手に入るんじゃないかな」
黙って首を横に振られてしまったのでこの線はなしになってしまった。残念。だが彼は観念したかのように無造作に部屋の反対側にあるクローゼットの前に立ち、ゆっくりと扉に手をかけた。
「お前は離れていろ。身をかがめて防護姿勢を取れ」
「了解」
慣れた姿勢を取りハンドサインでオーケーを伝えると、彼はその長いリーチを生かして慎重に観音開きの扉を開け放った。
「……見たところ、危険物が仕掛けられているような様子はない」
「下の戸棚も開けられる?」
「靴に髪飾り、装飾品の類だな。あまりいい値はつきそうにないが」
「まあこの部屋に私たちを閉じ込めた時点で、殺そうと思えばいつでも殺せたんだ。あんまり変な小細工はなさそうかな」
隣に並んで眺めてみるも、あまり縫製のしっかりしない服がずらりとハンガーに並んでいるだけ。ざっと視界に入るだけでもスカート丈の短いメイド服や変なところに穴の開いている炎国式のドレス、やたらと布面積の小さな水着にスケルトン素材でできたクルビア警察服の一揃いなんてものまであった。
「幅広いような、ごくごく狭いような。どうだい、お気に召すものは見つかった?」
「下らん」
やっぱり駄目だったらしい。彼の隠れた一面がこの短時間で開化する可能性はゼロではなかったのだが、見上げた先の渋面を見る限りは望み薄というものだろう。となると、残念ながら正攻法しかない。
「仕方がない。エンカク、出るために協力してくれ。君はそこで黙って頷いてくれればいいから」
「出られる手段があるなら最初から言え」
「そんなの、最初からこのホワイトボードに書いてあっただろう?」
絶対零度から地獄の猛火へと切り替わった温度差にうっとりと心地よさをおぼえながら、適当に手を伸ばして一着の服を手に取る。それはスカート丈がやたらと短いことを除けば女性用のスーツで、この広いテラの大地のどこかにはこの格好にグッとくる人間もいるということなのだろう。そのハンガーからスカートだけを取り外して、のろのろとベッドのところまで戻る。
「おい」
彼の呼びかけを無視してスカートを放り投げ、私は自分のズボンに手をかける。防護服を兼ねているので脱ぎ着には少々の手間がかかるのだが、目の前の彼はといえば毎回私よりも器用にボタンや留め具を外してくれるのでそういった経験が豊富なのだろうと最初のころは思っていた。ただ単にカズデル式の防具と同じ仕様だとわかったのはしばらく経ってのことだったが、まあその頃には私も彼の服を脱がすのに手間取らなくなっていたので、良い勘違いだったということにしておきたい。脱ぎ捨てた黒いズボンは畳んでベッドの上に置き、ぺらぺらのスカートを手に取る。
「結局、白衣に隠れるから単にズボンを脱いだ変態ってだけになるんだよね……」
非常に気が滅入るがこればかりは仕方がない。これ以上脱ぐ気もないし、その必要もない。振り返れば彼は胡乱そうな表情のままこちらを凝視している。まあおのれの上司がいきなり変態のような格好をすればそうなってもおかしくない。だがここからは彼の協力が必要不可欠であるので、私は気合を入れて息を吸い込んだ。
「エンカク、私の刀術士。私は君の傭兵としての腕を買っている。その評価の高さは理解してくれていると思う」
「あぁ」
「そして同様に、君も私の戦術指揮官としての力量を買ってくれていると思っている。私の頭の中身だ」
「……あぁ」
「そこは即答してほしかったな。まあいい。つまりは私を構成する要素の中で、一番君のお気に召すパーツはこの頭の中身だろう。戦術指揮官としての、戦場に君を送り込む私だ」
「あぁ」
ゆっくりと、彼の瞳孔が開きこちらを凝視し始める。ドローン越しに何度その表情を見送っただろう。そして何度出迎えただろう。彼の長い足が帰還への一歩を踏み出し始める瞬間、私はいつだって安堵を抱いている。
「今の私の恰好は、一か所を除いて仕事着だ。少なくともこのままヘッドセットさえあればいつも通り指揮を執るのに支障はない。君を、いつだって戦場に送り込める」
「あぁ」
今度の相づちにはほんのわずか熱がこもっていた。彼はアーツの特性からか少し体温が高い。その温度を思い出しながら、私は言葉を続けた。
「思い出したな? あの熱を。君の前には幾多の強敵が立ち塞がり、君はその全てから生還した。だがまだ君を待つ戦場は残っていて、その一瞬を顎を開いて待っている」
「あぁ」
「人間の体というものは単純だ。性的興奮と高揚の間には別段の区別はない。つまり彼は女装をした私の言葉、つまり私に興奮している。さあ、これで条件は満ちたはずだ」
パチン、と軽すぎる音を立てて、クローゼットの扉にあったホワイトボードが落下した。と同時に今まで何もない壁だった場所に、切れ目のような何かが生じていた。
「エンカク、頼む」
「言われるまでもない」
そして今度こそ、サルカズの拳に耐えきれなかった壁が粉々に砕け散るのを見ながら、ゆっくりと意識が白んでいくのに身を任せたのだった。
「うーん、出られたかな。なんとも変な夢だった」
「…………おい」
「やあ、君も無事で何よりだ。怪我はないか」
「本当にお前の仕業じゃなかったんだろうな」
「疑われても、身の潔白を証明できるものは何一つ持っていない。私の持ち物はこの頭の中身くらいだから」
「……もういい」
「そうかい」
うーん、と伸びをすれば、まるでうたた寝から目が覚めたばかりのようにパキパキと全身の骨が嫌な音を立てる。ぐるりと見渡せばいつも通りの私の部屋で、壁の時計は始業時刻のきっかり十五分前を示していた。奇妙な一日の始まりだった。何もしていないのにどっと疲れた気がする。それは隣の彼も同様であったようで。
「ひとつ聞くが、どうして最初から脱出方法がわかっていたのに無意味な質問を繰り返した」
「だって、あの方法は私が女性服に着替える行為が必須だった。君は頷いているだけなのに、私だけ失うものがあるのはフェアではないだろう?」
「失うものなど、」
彼の言葉は途中で飲み込まれ、打ち切られた。まるで彼の太刀筋のように鋭利でその後を何も残さない。触れることを許されない影だけが首筋を掠め、飛び去って行く。
「いや、いい。それより今日は医療部での検診があるんじゃなかったか」
「しまった、十分前には来いって言われてたんだ! ケルシーに殺される!」
慌てて立ち上がった足元にいつものズボンをはいていることに安堵しながら、猛スピードで言い訳を作りつつ彼を急かす。
いつだって、彼と私が立つのは戦場なのだった。