買い出しから戻ると同僚と上司が取っ組み合いの喧嘩になっていた。
「いい勝負じゃねぇか。ドクター、筋肉増えたか」
「本当か!?」
「おい、Ace! 突っ立ってないでこの人を止めてくれ」
もちろん、取っ組み合いとして成立している時点で、Scoutの絶妙な気遣いの結果であることに疑念の余地はない。だがドクターのその反応で本人にかなり酔いが回っていることがわかったため、Aceは抱えたビール瓶を机に並べつつこっそりと手加減の達人である同僚へとアイコンタクトを飛ばした。が、サルカズの友人はといえばドクターを相手にしつつも首を横に振るばかりで、どうやらAceに黙ってこっそりと二人だけで秘蔵のボトルを開封したわけではなかったらしい。つまりこのドクターはおおよそ素面で、ただ単に妙なスイッチが入ってしまっているだけということである。酔っ払っているよりもなお悪い。
「で、どうしたドクター。Scoutに決闘でも申し込むのか?」
だがAceはとても友人思いの男であったので、のんびりと助け舟を出してやった。もちろんその手はちゃっかりと自分で買ってきたばかりのビールへと伸びているが、そのくらいはコイントスで負けたとはいえ買い出しに行った人間の特権である。
「聞いてくれ、Ace! 私は彼をいたわるために膝枕をしようとしただけなのに、こんなにも強固な抵抗にあっているんだ」
「だからそれだけは勘弁してくれドクター!」
「ぶはっ」
思わずビールを噴くところだった。もったいねぇ。しかし膝枕。膝枕って言ったかいま? なんでそんな突拍子もない単語が突然出てきたんだ。
「私はよく仮眠のときにScoutの背を借りるだろう?」
「あぁ、あのScoutが自分はテラで一番幸せな男ですって顔してる時な」
「なんだと? Scout! あとで詳しくその時の顔を見せてくれ」
「無茶を言うな!」
「いつもお前さんが見てる顔だよ。で、その仮眠がどうした」
同僚の恨みがましい表情などどこ吹く風で先を促すAceに対して、ドクターはあっさりと口を開いた。
「いつもScoutの背を借りてばかりだから、私もお返しをしなければならないと考えたんだ。だが私の体格だと同じように彼に背を貸すというのは難しいだろう? それで悩んでいたら、いいことを教えてもらって」
「いちおう聞いておくが、誰にだ?」
「テレジア」
絶対に逆らえない人物の名前が出て来てしまった。というか殿下と何の話をしているんだよ、あんたは。
「彼女いわく、どんな疲労でもたちどころに吹き飛ぶ素敵な方法だから、是非とも実行してあげてほしいと」
「だとよ。英雄様はこうおっしゃられてるがどうする、Scout」
「断固拒否する」
この同僚がドクターに懸想していて、ドクターのほうもまたScoutへと特別な感情を抱いていることなどとっくにここの全員が知っているというのに、本人たちだけがそのことに気がついていないというのは何とも面白……もといむずがゆい状況である。だが本人たちはいたって真面目に遠回りをし続けているため、ここはもう俺が一肌脱ぐしかねぇなと決意したAceはおもむろにすっくと立ち上がった。
「じゃあ、俺が試していいか」
「Ace?」
怪訝な表情の同僚を押しのけ、ぐいぐいとドクターの隣におさまる。そしてごろりと体勢を崩して頭を乗せたのは、当然のことながらドクターの膝の上であった。その光景に絶句しているScoutをよそに、Aceは真面目くさった面持ちでドクターの膝の上をあちらへごろり、そちらへごろり。神妙な顔でいくつかの姿勢を試したのち、やがて起き上がったAceはしかし悲しみをあらわにした顔でドクターへと向き直った。
「駄目だな、すっげぇ不安になる」
「なん……だと……!?」
愕然とした表情のドクターに、Aceは深刻な顔でかぶりを振りながら言葉を続けた。
「あんたの足が細すぎて骨がすっげー当たるし、ちょっとでも動いたら折れそうでやばい。安らぐどころか不安と恐怖まっしぐらだわ」
「おい」
「そうか……やはり君は頼りになる男だな、Ace。あわや実行に移してScoutに不要な心配を与えるところだった、感謝する」
「おい」
「いいってことよ。さ、飲み直そうぜ、せっかく追加でビール買ってきたんだからな」
「おい」
「そうしよう。Scout、君へのいたわりはまた別の手法を考えることにする。何とも難しいものだな、この分野の経験値不足を恥じるよ」
重ねて言うが、この時の全員は酔っていた。べろんべろんとまではいかずとも頭のネジが数本飛んでいるくらいには酔っ払っていた。でなければScoutだってもうちょっとマシな言い訳を思いついたことだろう。
「ドクター」
「うん……うん?」
おもむろに自身のサングラスをむしり取ったScoutは、ずいとドクターへと顔を近づけるとそっと両手でドクターの顔を包み込んだ。そして、いきなり眼前に迫ったScoutの素顔に目を見開いたドクターの額へとこつりとScout自身の額をぶつけ、うやうやしく口を開く。
「ドクター、俺は十分に満たされている。あんたの安寧を邪魔するものから守れるだけで、俺には十分な報酬なんだよ」
なあそこでなんでキスしねえんだよお前さんは! 今まさにそういう流れだっただろう! だが同僚と上司は互いが愛おしいという顔を隠すこともなく一センチもない距離で微笑みながら見つめ合っているだけだった。マジかよ、ティーンの子供でももっと手が早いだろ。
「Scout、君は欲がなさすぎる」
「そうか? 俺ほど欲深い男もそういないと思うがな」
「君のそばは本当に落ち着いて眠れるんだ。人の気配に起こされることもないし」
そりゃああんな顔したこわもての隊長が番をしてるところなんざ、誰だって近寄りたくもないだろうよ。勇敢でならす歴戦の傭兵であったとしても、誰が好き好んで猛獣の尾を踏もうなんて考えるものか。ビールをあおりながら眺めるAceをよそに、その距離感で上司と部下は無理だろうと十人中九人までは確実に同意するであろう二人は会話を続けていた。
「君が受け取りたくなるような方法をあらためて考えておくよ」
「あんたも頑固だな」
「その通りだとも。ではこれはいたわりすら受け取ってくれない友人への感謝の気持ちだ」
あ、と思う間にドクターの薄いくちびるはScoutの狭い額へと触れ、そしてそこにはいたずらを成功させた微笑みを呆然と見下ろすことしかできないサルカズの姿があった。
「ははは、いつかキスしてやりたかったんだ。君は帽子とサングラスで防御力が高いから」
「いつもフルフェイスマスクのお前さんが言うかあ?」
「それもそうだな。さあ、飲もう。Scoutが動けない今のうちだぞ」
今までの甘ったるい空気は何であったというのか、あっという間に見事な手際で瓶の蓋を飛ばした男は勢いよく中身を干していく。哀れな同僚はいまだ呆けた表情で身動ぎひとつできていない。おいおい、と思ったがもう次のビールへと手を伸ばしているドクターの耳がほんのりと赤かったのにその場ではAceだけが気付いてしまったから、あーもーどうにでもなれとAceも競うように勢いよくビールを飲み干したのだった。