ノア休開催おめでとうございますイエアーーーーーー!!!!!「これ、どうやったらバレずに済むかなぁ」
そびえたつ巨大なケーキの前を見上げながら、ドクターは呆然と呟いた。
「何がバレるまずいんだ?」
「ぎゃー! もう帰ってきちゃったの!?」
「直帰すると伝えておいたはずだが」
背から刀を下ろしもしないまま、長身のサルカズはじろりとドクターを見下ろした。その眼差しに射すくめられたドクターは何とか必死に逃げ道を探そうとしたが、そもそも背後の巨大ケーキを隠せていないので、最初からドクターの負けではあったのである。
「言い訳は聞いてやる」
「えーとね、はい、確認を怠った私のミスでございます……」
かいつまんで説明すると、とある案件でドクターが少しだけ手を貸した相手が炎国内でもそこそこ名の知れた洋菓子チェーンを展開しており、是非ともお礼にと言われたしつこ、もとい熱心な申し出を断り切れなかったことに端を発する。会議の合間の雑談で結婚記念日が近いのだとぽろっともらしてしまったのも悪かった。ロドスに帰還してバタバタと溜まっていた業務を片付けながらすっかりそのことを忘れていたドクターの元に届いたのは巨大なウェディングケーキで、しかもよくある一部分だけが食べられるように出来ていて大部分が模型という代物ではなく、大小重ねられた三段ともがすべて当日中にお召し上がりくださいの立派なケーキであったものだから、さすがのドクターでさえも呆然と立ちすくんでいたというわけである。
ということを説明した結果、エンカクの眉間にはテラ中央部にある大渓谷にも匹敵するほどのそれはもう深いしわが刻まれた。さもありなん。ドクターだって逆の立場であれば同じ表情を浮かべていたことは確実であるので、黙ってエンカクの口が嘆息とともに開くのを眺めていた。
「で、それをどうするつもりだ」
「食堂には連絡したから、もう少ししたら引き取りに来てくれる手はずになってる。全員には行きわたらないだろうけど、切り分けて本日限定の特別なデザートとして配ってくれるって」
「では何を余計なことを考えている?」
「なんでバレるかなぁ。うん、一番上の小さいの、あれくらいなら私たちだけでも食べられるかなって」
一番上の段は、大きなチョコレートのプレートと色とりどりのフルーツで飾られてはいるものの、大きさはエンカクの手のひらほどしかない。小食と偏食を医療部からでさえ匙を投げられて久しいドクターではあるが、チャレンジしてみようかと思わせるくらいには、このキラキラと輝くケーキは美味しそうではあったのだ。
「取り外せばいいのか」
「え」
「食べるんだろう。お前が自分から食事を欲しがるのは珍しい。付き合ってやる」
珍しいのは君のほうなんだけど、という口先まで出かかった言葉を、ドクターは何とか飲み込んだ。でなければすぐにでも彼がドクターを見捨ててこの部屋を出て行ってしまうのは目に見えていたので。
「お礼のね、さすがにこれは手紙をしたためなきゃいけないから、君が一緒に食べてくれるととても助かる」
「期待はするなよ」
各段は支柱付きの台座に載せられているだけであったので、慎重に取り外しさえすれば分解は容易だった。ドクターが慌てて持ってきた皿の上へと移されたケーキは、つややかに表面を輝かせて食べられるときを今か今かと待ち望んでいた。
「食堂に連絡した時についでにケーキナイフも頼めばよかったな」
「スプーンでいいだろう」
「式のファーストバイト思い出すね」
「手掴みでいいか?」
「流石にこのケーキでパイ投げされたら私泣いてしまうかもしれない」
「なら黙って食え」
えー、と不満の声を上げるも当然のように無視されたので、ドクターは渡されたスプーンを渋々とケーキ表面へと突き立てる。硬めのクリームとスポンジ、間にサンドされていたのはベリーのコンフィチュールでシンプルながら間違えようのない美味しさだ。ドクターがひとくち食べる間にその三倍の体積をあっさりと胃に収めたエンカクは、じっとドクターの口元を見ていた。
「美味しいね。ここのウェディングケーキは人気らしいんだけど、なるほどこれならわざわざ注文するのもわかるなぁ」
「お前は妙な連中に好かれるな」
「私と結婚式を挙げてくれるような酔狂な人間なんてひとりしかいないと思うけどね」
「そんな物好きな奴がテラにいるのか」
「驚いたことにいるんだなぁ、目の前に。で、さっきから何が言いたいのかな」
「口の端にクリームが付いているぞ」
え、と指先で拭ってみるも、どうやらクリームが鎮座ましましている場所は違ったらしい。頭上から呆れ果てた吐息が聞こえた次の瞬間、ドクターのくちびるはもう一回りは大きな口に飲み込まれてしまっていた。
「んっ、ふ、ふぅ……」
甘ったるい。互いにケーキを食べている最中であったのだから当然ではあるのだが、クリームのべったりとした甘さをまとった舌に口腔内を蹂躙されドクターは思わず目を瞑り、そして即座にそのことを後悔した。視覚情報を遮断してしまったことで、その他の――例えばぬるつく長い舌が我が物顔で口蓋を撫でる動きだとか、味わい慣れてしまった彼の唾液の苦さだとか、倒れかけているこちらを彼の太い腕が背を支えてくれているその体温だとか、そういうのが一度に倍増して襲い掛かってきてしまったからである。せめてもの抗議のためにとそのぶ厚い背中を叩いてみるも、普段から大刀を振り回している戦士の体幹はびくともしない。しかしそろそろ彼我の肺活量が天と地ほども異なるという事実に早く気がついてほしい。くらりと回りかける頭の中で口の端からこぼれ落ちる唾液の感触の不愉快さに眉をひそめていると、ようやく彼は満足そうにくちびるを離してくれた。
「ぷぁ、あー……こういうのって何っていえばいいんだろう。腹上死じゃなくて、腹横死?」
何が彼を刺激してしまったのかはわからないけれど、ずるずると床に座り込んだドクターを見下ろすエンカクの眼差しは完全にスイッチが入ってしまっていた。何のスイッチかって? もちろん哀れなか弱い獲物をどうなぶってやろうかという捕食者スイッチである。と、しかしこのテラにはまだ祈りをささげるに値するものが存在していたらしい。聞きなれた電子音とともに入り口のドアの向こうから『ケーキを受け取りに来ました~』と厨房担当のオペレーターの声が聞こえてきたのである。
「あ、あぁ、いま開錠するからそのまま入ってくれ」
「おい」
何故だか焦ったような彼の言葉を無視して、片手でPRTSを操作してドアのロックを解除する。そうすれば賑やかな声とともに数名のオペレーターが姿を現して、そして一斉に顔色を変えてUターンしていった。
「おおおおお邪魔しましたごゆっくり!!!」
「え」
言い訳をすると、その時のドクターはいきなりのご無体によって酸欠で頭が回っていなかった。だからこそエンカクと自身が現在どのような姿であり、それが第三者からはどう見えるのかのコントロールという普段ならば呼吸よりも簡単に行っていることを完全に放り投げてしまっていたのである。入り口に背を向けて立つエンカク、その足元に座り込むドクター、ドクターの口元は正体不明の白濁液にまみれており、そして運の悪いことに座り込んだドクターの頭の位置は偶然にもエンカクの股間と高さが一致したのである。ということをようやく理解したドクターは慌てて立ち上がろうとして見事に転びかけてエンカクに支えて――というよりは容赦なく首根っこを掴まれながらも必死に大きな声を上げた。
「さすがの私もこんな状況で淫行に及ぶほど人間捨ててないから!! ていうかせめてケーキは持って行ってくれ!!」
その日に食堂で特別デザートとして配られたケーキはたいそう評判が良く、由来を知るオペレーターたちはみな口々にドクターへ感謝と祝福の言葉を投げかけてくれたのだが、当のドクター本人はといえば何故か祝いの言葉をかけられるたびに「ああ、うん、あれ美味しかったよね……」と少しだけ言い淀みながら、横に立つエンカクの脇腹をガスガスと肘で突いていたのだった。