熱烈アピール 定期健診の際、ケルシーとひとことふたこと雑談を交わすことがある。ほとんどの内容は業務に関することであり、彼女の迂遠な、もとい含蓄に富んだアドバイスによって解決の糸口が見つかることも少なくはないためドクターとしてはありがたい時間ではある。だが日々の業務に関すること以外にも、時おり日常生活に関する『お言葉』をいただく場合がある。というのもドクターは記憶喪失でここ数年より前の記憶を一切持たず、それゆえにたまに生活において妙な振舞を見せてしまうことがあるらしいからである。立場が立場であるため直接的な注意を受けられる機会は少なく、そして役職上洒落にならない事態を招いてしまう危険性もあり、ドクター本人としてはひどく助かっているのだが、今回はといえば身体的特徴というかなりデリケートな部分についての注意が飛んできた。これはまずい、とドクターは即座に判断し神妙に頭を下げた。
「ひょっとして、また何かやらかしてしまっていただろうか」
「視線がな、君自身が持っていない部位であるから気になるのはわかるが、尾や耳などを不躾に視線で追うこと自体がそもそも推奨されるようなことではない」
いわく、新人スタッフの数名が『何か無作法をしてしまっただろうか』とケルシーに泣きついてきたらしい。ドクター本人としてはまったくそのような意図がなかったとはいえ、非常識的な振舞いを行ったのは間違いなくドクターのほうである。
「以後気を付けるようにするよ、スタッフの皆には謝罪と感謝を伝えておいてくれ」
ケルシーが頷いてくれたので、ドクターはホッと安堵の吐息をついた。知らないということは言い訳にはならず、いまだに数多くの間違いをドクターは犯しているのだろう。忠告してくれるというのはありがたいことである。さてこれからは気を付けねばなと検査着を脱ぎながら、ドクターは日々の注意事項に新しい項目を付け加えたのであった。
ということがあったのはほんの数日前なのだが、ドクターはいま現在非常に困惑していた。
「変わりはないか、我が盟友よ」
いつも通りのアポイントなしの訪問に、本当は慣れてしまってはいけないのだろう。ため息一つで本日の秘書役のオペレーターが帰り支度を始めるのを何とか引き止められないだろうかと思索してみるも、大柄なフェリーンの背後であっさりと入り口の扉は閉まってしまった。そうなればもはやこの部屋は完全に彼と私の二人だけの空間であり、彼は堂々とドクターの側へと歩み寄ってきてぴったりとくっつくと、しゅるりとそのふさふさのしっぽをドクターの足へと絡ませたのである。
「あ、あぁ、特には。君も元気そうで何よりだ、シルバーアッシュ」
しゅるり、すりすり、ふわふわ。彼の立派な毛皮は防護服越しでさえじんわりと暖かさを感じるほどのみっしりとした太く長い尾で、いつだってつやつやに整えられた毛並みはまさに芸術と呼ぶにふさわしい至高のもふもふであった。しかし――しかしである。
(デリケート……? 繊細な部位……?)
ケルシーは言っていた。不用意に触れるどころか視線で追うことさえ失礼に値するのだと。だが、向こうから立派な尾を足や腰に巻き付けてすりすりされたときにどう対処すべきなのかは、一言も教えてくれなかった。
ぴったりと身体をくっつけたまま――悲しいことに身長が違いすぎるので物理的に肩を並べることは不可能だった――いつも通り近況報告を行いつつ、少しばかり込み入った、記録に残せないあれこれについても短く言葉を交わす。彼との会話は気こそ抜けないものの楽でいい。余計な説明も必要なければ選んだ言葉を正確に裏の意味まで読み取ってくれる。盗聴器を警戒しているのだと言われれば別段このように立ったまま、囁き声だけが届く距離での会話だって納得はできたし、部下には見られたくないのだと言う彼をソファに案内してドクター自身の仮眠用毛布を貸してやることだってやぶさかではなかった。一度だけ膝を貸したこともあるが、ドクターの貧弱すぎる足がしびれて大変なことになったので、厳正なる話し合いの結果今後はなしということで話はまとまった。
とまあ長々とドクターとシルバーアッシュの関係について連ねてみたが、ようは見ての通り単なる仕事上のパートナーなのである。とドクターだけが思っている。もしもここにツッコミを入れることができる第三者がいればショックで天を仰ぎつつ一から十まで指摘してくれただろうが、残念ながらそれが可能な人間は契約書を盾にこの部屋から追い出されてしまっており、つまるところシルバーアッシュは本日も悠々とおのれの未来の伴侶(確定)への熱烈なアピールをすりすりもふもふと楽しんでいるのだった。