花の下荒れた唇を濡らした綿で湿してやる。
病名からは想像もつかないほど長く生きた男は、自宅のベッドで静かな最期を迎えた。
「ほら、お前もお別れしな」
譲介は黒猫を抱き上げ、男の顔のあたりに近づけてやった。黒猫は鼻先を寄せてしばらく匂いを確かめていた。やがて黒猫は譲介の手元から抜け出て、歩き去った。
譲介はもはや応えぬ男の顔を見る。先代Kとともに世界を駆けたひと。英雄譚が終わったあとの世界を独りさまよったひと。譲介を泥のなかから拾い上げたひと。
譲介はふと思う。広い世界のどこかにあっただろうか、TETSUだけの「花の下」が。
窓の外では、細かい雪がちらちらと舞っている。
願わくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃
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