カレーにおける福神漬けの その人は医者だと言った。およそそうは見えない、もっと胡乱な空気を纏っていたが。だから一緒に暮らすことになった最初の日、この人が改めて自己紹介をしたときに、僕はこう尋ねた。
「それ、本名なんですか」
「偽名使ってもしょうがねえだろ」
そうして僕は真田徹郎――ドクターTETSUと呼ばれる闇医者の弟子になった。高校に通う傍らで、違法行為の徒弟として医学を学ぶのだ。
ようやく患者が帰ったあとの深夜の食卓。僕はカレーの皿を、ドクターTETSUはコーヒーを注いだマグカップを持って席に着いた。
今日の夕食はドライカレーだ。挽肉と野菜を香辛料で炒め、米の上に載せている。
カレーを食べながら、僕は今日の患者について尋ねた。
「今日の患者、名前も素性もすごく嘘くさくありませんでした? 大丈夫なんですかあれ」
「むやみに詮索しねえのが、オレのような人間の『信用』ってやつだ。この業界で長生きするコツでもある」
僕の質問に、ドクターTETSUはそう答えた。
「でも。相手があなたを騙しているかも、とか、罠があるかも、とか……」
「そういう確認はバレねえようにやるんだよ」
ドクターTETSUはコーヒーの薫りを楽しんでいる。
「万一のときは相応の報いを受けてもらう。こっちは相手の命を握っているからな」
ドクターTETSUは僕の顔を見て笑ったようだった。
「なんですか」
「いや、案外かわいい質問をすると思ってな。お前、騙し合いだの探り合いだの、今更って感じかと思ってたぜ」
「それは……」
施設の子供たちは、騙し合いだの探り合いだのが成立するようなレベルの相手ではなかった。ドクターTETSUは知っていて言ったのだ。僕が今まで自分より弱い者しか相手にしたことが無かったと。
僕はカレーを食べる手を止めて、目の前で笑う男を見た。
「お互い見えねえところで騙し合うのが、この業界の流儀だ。だが医者と患者の間にゃ信頼がねえと、治療が進まねえ。本当のところ、嘘や猜疑心なんてのは……そうだな、カレーにおける福神漬けの割合くらいが丁度いいかもしれねえな」
「僕、福神漬け食べませんよ」
「例えが悪かったな……」
ドクターTETSUは苦笑してマグカップを卓上に置き、片肘をついた。僕は食事を再開した。ドクターTETSUは僕が食べているのを黙って眺めている。
僕がこの人の元で生活するようになってひと月ほどになる。僕が初めて出くわした強いひと。死んだ気で向かっても相手にならない。今の僕に許されていることは、この人からあらゆることを学ぶこと、それだけ。
僕に医学を教えてやると言う、この人の目的が僕には未だわからない。善意のあしながおじさんではないことは確かだ。見えないところで騙し合うのがこの世界の流儀なら、やはり何かの裏があるのだろう。だが、嘘も真実もまったく見えない。
しばらく無言の時間が続いた。
ドクターTETSUは僕がカレーの最後のひとくちを食べるのを見届けると、湯気の消えたマグカップを片手に持って立ち上がった。
「オレはまだやることがあるから起きているが……お前はもう寝ろ。片付けはやっておく」
それから僕の頭を軽くポンポンと叩いた。
「おやすみ」
こういうところが、この人のいちばん解らないところだ。
「……おやすみなさい」
僕に親というものがいたら、こんな感じだろうか。そんな甘ったれたことを考えそうになる。この人の態度は、カレーか、福神漬けか。
今日のカレーは、深夜に及ぶ仕事に備えて昼間のうちにドクターTETSUが用意していたものだった。挽肉に様々な野菜を刻み合わせた、ドライカレー。福神漬けは無かった。
ドクターTETSUの部屋のドアが開いた。
「さっきのドライカレー、福神漬けを刻んだのを混ぜておいた。食えたじゃねえか」
ドアから顔だけ出してニヤリと笑うと、ドクターTETSUは部屋に引っ込んだ。
「くそッ!」
僕は悪態を吐いて自室に戻った。