花の下荒れた唇を濡らした綿で湿してやる。
病名からは想像もつかないほど長く生きた男は、自宅のベッドで静かな最期を迎えた。
「ほら、お前もお別れしな」
譲介は黒猫を抱き上げ、男の顔のあたりに近づけてやった。黒猫は鼻先を寄せてしばらく匂いを確かめていた。やがて黒猫は譲介の手元から抜け出て、歩き去った。
譲介はもはや応えぬ男の顔を見る。先代Kとともに世界を駆けたひと。英雄譚が終わったあとの世界を独りさまよったひと。譲介を泥のなかから拾い上げたひと。
譲介はふと思う。広い世界のどこかにあっただろうか、TETSUだけの「花の下」が。
窓の外では、細かい雪がちらちらと舞っている。
願わくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃
◆
帰国して間もない譲介のもとに封書が届いた。
便箋に本文はなく、住所らしきものが走り書きされていた。その住所で譲介を出迎えたTETSUは、譲介の記憶よりもひとまわり細くなったように思われた。
TETSUの住まいはかつて譲介と暮らしたころとは印象を異にしていた。家具の趣味こそ昔を思い出させるが、ここには生活感があった。リビングの棚には写真立てが置かれ、黒猫の写真が飾られている。ソファの上、座るTETSUの隣で丸くなっているのがその黒猫だ。
「お前ェがあんなモン寄越すから、おいそれと死ねなくなっちまった」
「それは、どうも――」
譲介は憎まれ口に応じようとして大人げなさに気付く。譲介は素直に言い直した。
「読んでくれてたんですね」
「まあ、な。……責任、取って貰うぜ」
譲介はTETSUの住まいに住み込むことにした。かつてのように寝食を共にする。あのときと違うのは、黒猫がいることと、譲介が正規の医師となったことだ。
譲介はTETSUのバイタルサインを測定し、投薬の用意をする。かつてと比べて格段に良くなった手際で。TETSUはそうした日々のルーティンを眺めながら、譲介と昔話に、あるいは最新の医学トピックに興じるのだった。医療機器に黒猫がちょっかいを出して、二人で慌てふためくこともあった。
あれは何の話をしたときだったか。TETSUは独り言のように呟いた。
「願わくは花の下にて、とは言うけどよ」
「西行法師……でしたっけ」
譲介はその歌にまつわる話をどこで聞いたのだったか。願いの通りに桜の下で死んだ僧の話である。
「死に時やら死に場所やら、そうそう狙った通りになるもんじゃねえよな、普通は」
「どうしたんです、急に」
「一也が中学のときの話、お前ェにしたか」
「K先生と一也とで腹腔内化学療法のポートを埋め込んだときの話ですよね」
「あれからずいぶん遠くに来たと思ってよ」
「遠く、ですか」
「ああ。この歳まで生きられると思ってなかったぜ、オレは」
「いいことじゃありませんか」
「……そうだな」
TETSUは目を細めた。二人の足元で黒猫が伸びをした。
◆
葬儀は堅気の知り合いだけを集めて行われた。当代のKや一也、あさひ学園の関係者など、その人数は限られていた。ひんやりと冴えた寒さの中、譲介は喪主のつとめを粛々と果たした。
あさひ学園の職員はいたわるように譲介へ声を掛けた。
「お身体が良くないことは知っていたのだけれど。闘病もきっとたいへんだったでしょう。向こうでのんびりできてるといいわね」
Kは譲介が最期までTETSUと親交を持っていたことを知り、そうか、と短く呟いた。一也はTETSUの享年を聞いて素直に驚いていた。
「初めて会ったときオレが中学生だから……あの身体で、こんなに長く生きられたんだな」
Kは重々しく頷いている。
「医学的にも前例のない長寿、と言っていいだろう」
「最期は譲介が看取ったって聞いて、オレはよかったなって思ったよ。ちゃんとした処に住んでて、看取った人がいて、よかった」
「雲のように行方の知れない男だと思っていたが……最期は一つ所に落ち着いたのだな」
譲介はKと一也の会話を聞きながらTETSUの遺影を見ていた。
譲介ひとりの胸に抱いていれば良かったはずの誓いは譲介の知らぬところでいつしか共有され、果たされた。譲介は今更になって自問する。知らぬところで? 愛車のダッシュボードだぞ。そこに何らかのあざとさは……当然あったのだ。
あの手紙が無かったら、TETSUはどんな最期を望んでいただろう。写真のTETSUの表情からは何も読み取ることができない。
その夜譲介は、家主のいなくなった家でひとり、骨箱を目の前のローテーブルに置いてソファに座っていた。黒猫は珍しく譲介の横にくっついて、静まりかえった屋内に耳をそばだてていた。
譲介の記憶のなかのTETSUはよく先代Kの話をしていた。譲介がまだ高校生で、TETSUと二人で暮らしていた頃だ。
何もかも冗談のような、最強の名医の思い出だ。星を追いかけた語り部、追憶に生きるひと。それがTETSUだと高校生の譲介は考えていた。先代Kが死んでから、TETSUは死に場所を求めていたのかもしれない。
――願わくは花の下にて、とは言うけどよ。
譲介はTETSUの言葉を思い出し、そして思う。あなたの「花の下」、もっと他にあったんじゃないですか?
譲介の傍らには、TETSUが最期まで使っていた医療機器がまだそのままになっている。
臨終の際にも、葬儀のあいだにも譲介が醜態をさらすことはなかった。覚悟が出来ていたからだと譲介自身は思っていたが、実際はそうでもなかったらしい。
リビングの広さをふいに実感したとき、使う者のないベッドを意識したとき、戸棚の上に安置した写真立てと骨箱を見たとき。寂しさや悲しみが譲介を襲うと譲介は決まって、TETSUの「花の下」に相応しかった場所に思いを巡らせてしまうのだった。自身のあざとさと、TETSUが駆けた広い世界の間で、譲介の心は袋小路にあった。
――僕の手紙を真に受ける必要なんてなかったんですよ。行きたいところに行けば良かったのに。
そんな言葉が頭の中でこだまする。譲介はリビングのソファに落っこちるように座った。
黒猫が音もなく現れ、譲介の足元に絡み付いた。まるで譲介に寄り添うように。
「お前は賢いな」
あのひとが気に入るわけだよ、と譲介は黒猫の頭を撫でた。
葬儀からひと月半ほどが過ぎていた。日差しは柔らかく陽気を帯び始めている。
黒猫が繰り返し膝に絡む。
「……あ、ひょっとして、おやつか?」
譲介は立ち上がって、リビングの隅に向かう。そこには猫用のおやつを買い置きしている箱がある。箱を開けると細長いパウチが箱の底に重なっていた。そろそろ買い足す必要があるだろう。
「ん?」
箱の底、猫用のおやつの下に何か違うものが見えた。
取り出してみると、それは一枚のディスクケースだった。ケースには「和久井譲介様」と宛名がある。左下には丸にTの署名。譲介は急いで自分のノートPCを持ちだした。
ディスクには動画ファイルが保存されていた。ファイルの日付は……譲介がTETSUとの同居を再開して間もなくの頃。譲介はこの動画を再生した。
映像の場所はこの家のリビングだ。TETSUがソファに座ってこちらを見ている。
『譲介。これをお前ェが見るのは、割とすぐかもしれねえな。あっこら、撮影中だぞ』
カメラのすぐ前に黒猫がぬっと顔を出した。黒猫はTETSUに抱き上げられて運ばれ、ソファでTETSUの膝に収まった。
『締まらねえなァ……。ま、気楽に聞いてくれ。オレももうそんなに長くはねえだろう』
気楽にと言った直後から重いな! 譲介は独りごちる。これは遺言のビデオレターだ。あのひとも、らしくないことをしたものだ。
映像のTETSUは膝に猫を乗せたまま話し出した。譲介のそばにいる現在の黒猫はノートPCの横で香箱を組んで目を閉じている。
『お前ェを引き取ったときは大変だった。お前ェは問題を山と抱えたガキだったし、オレにも責任てもんがあった。出先でうっかり死んだりできなくなった』
責任。TETSUにいちばん似合わない言葉だと、譲介はあの生活が終わった日のことを思い出す。もちろん、今の譲介にはあれが最善だったとわかっている。とはいえ、それで当時のショックが無かったことになるわけではないのだ。
『お前ェを神代に頼んだ時は、その……あれがいちばんマシな手だと思ったんだ。どうせツッコまれるだろうから言っておく。悪かったな』
譲介は苦笑した。
『お前ェの父親絡みの件でお前ェと一也のオペを見たとき、オレはこれで楽になれると思った。お前ェも一人前だ、オレはもうどこでも適当にくたばって問題ない、ってな。だが、お前ェがこいつを置いていったんで、話が変わってきた』
TETSUは片手で、一枚の封筒を振った。その封筒こそは譲介自身が置いていったものだった。封筒はずいぶん古びて、皺が寄ったように見える。あれからけして短くない時が流れたのだ。
『オレの最期を気にする奴がこの世にいるとは思わなかった。お前ェも良い機会だから、ヤクザ相手の闇医者なんかさっさと手を切りゃよかったのに、バカな奴だ。バカな奴だとは思ったが……』
TETSUは目を伏せて黙り込んだ。少しして再び視線をカメラに向け、口を開いた。
『……お前ェがクエイドに行って、帰ってくるまで。オレにとっちゃなかなかキツい時間だ。だがお前ェが残した一筆のおかげで、オレはまだ生きている。医者になったお前ェのいまを一秒でも長く見ていたい。いつだったか死を望んだオレがまるで逆の境地に来ちまった。笑ってくれ譲介、お前ェのおかげだ』
TETSUは膝の上でモゾモゾ動く黒猫の首の毛を両手で掻いて、お前ェもだぞ、と小声で言った。現在の黒猫はピクリと片耳を動かした。
『いいもんだな、約束があるってのは。心にぴんと糸を張ったような緊張感がある。同じ糸がお前ェの心にも張っているなら、オレが生きることにも意味がある』
TETSUの表情は穏やかだった。いつでも言葉の足りなかったひとが、カメラと黒猫の前では饒舌だった。
『ずっと昔、オレの心に熱く焼き付いた奴がいた。お前ェもあの野郎ォのように、オレの心にすっかり焼き付いちまった』
TETSUは黒猫を撫でる手を止めた。
『オレはどうだろう? お前ェの心に痕くらいは残りそうか? そうだといいな。世界のどこでもいい、お前ェの居るところがオレの死に場所で、オレの墓だ』
映像のTETSUが譲介を見ている。
譲介はノートPCのモニタをはさんでTETSUと向き合っていた。知らず、譲介は右胸を押さえる。譲介のそこには、しばしば心に例えられる臓器が納まっている。
「そういうことは、面と向かって言ってくださいよ……」
譲介は小さく笑みをこぼす。涙も一粒、目からこぼれ落ちた。
映像の中では黒猫がTETSUの手にじゃれついていた。
『噛むなよ、痛えよ。……あー、もちろん、お前ェに会えたからって、すぐにくたばるつもりは無えよ。最期の一分一秒まで、オレはお前ェの現在を見る。頼んだぜ、和久井先生』
TETSUはにやりと笑って黒猫を膝から降ろし、カメラに歩み寄る。動画はそこで終わっていた。
(あんた……どういう気持ちでこれを作ったんです?)
TETSUは自分の心のうちを素直に語らない人だった。よほどの――それこそ女子高生みたいに浮かれた気分にでもならなければ。
それが譲介へのメッセージを、わざわざ映像つきで。猫のおやつの箱に隠して。時が来たら見つかるようになっていた。優しいのか意地悪なのかわからない。どうせ本人に聞けたとしても「オレがそうしたかったから」としか言わないのだ。
譲介は手の甲で頬を拭い、ノートPCを閉じた。モニタが遮っていた視界には窓があった。外では気の早い桜がまばらに花をつけ始めている。
そういえば、ビデオレターには別れの挨拶がなかった。
譲介は思い立って、骨箱を胸に抱えて外に出た。出がけに玄関のコート掛けに目が行った。片付けていなかった白いコートで骨箱を包んでやる。
――見ていますか、あなた。桜が咲いてますよ。
東の風が抱えていたコートを翻す。
空は青く澄み渡り、雲ひとつ無い。譲介は清冽な空気を胸に吸い込んだ。
大安吉日、本日は晴天なり。