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    @nessieisgreen

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    nig

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    🤟🛸inミッションスクールな話。長いのでいったん途中までですが載せておきます。
    3月11日:加筆修正、続き書きました。

    #KyoRen
    #Kyoren

    瓶の中、ふたりで この学校は変なやつばかりだ。例えば、今あそこで電子オルガンを弾いているやつ。一見すると普通の人間のようだが、頭には左右非対称の黒い角が生えていて、先端は水色に発光していた。学校から支給された白いブレザーを正しく身に着け、涼しげな顔で流れるようにすいすいと鍵盤を叩いている。もし彼を瓶に詰めてラベルを貼るとしたら何て書くだろう。“品性方向”“誠実”・・それから“王子様”といったところだろうか。“王子様”を思いついたところで、彼はいかにも白い馬に乗ってお姫様を助けに来そうだと思い、笑いそうになる。あるいは・・と“品性方向”と“誠実”に二重線を引き“ヤリチン”と書き直してみる。つまり、“ヤリチン”の“王子様”。清涼剤の匂いでもしそうな澄ました横顔が、下心を裏に隠した甘い表情で見知らぬ誰かを口説いている様を想像し、またも笑いがこみあげる。ありえなくもない。瓶のラベルには“品性方向で誠実だが、ヤリチンの王子様?”と書くのが良いだろう。生徒が全員着席し“ヤリチンの王子様”の伴奏が止まると、俺の思考もそこで霧散した。先生が壇上に立ち(今日は国語の教師だった)、“・・・の福音書26章41節を読みましょう・・”と真剣な表情で言と、あの独特の薄い紙をめくる音が、さざ波のように広がっていく。俺はてきとうにページを開いて膝の上に置くと、説教を始める先生ののっぺりとした声を子守歌にして目を閉じた。
     次に目が覚めたのは説教が終わり讃美歌を歌う時だった。隣に座っていたマリに肩をこづかれて起きると、すでに他の生徒らは立ち上がろうとしていた。俺も慌てて立ち上がるとマリが慣れた手つきで讃美歌のページを見せてくれる。すでに伴奏は始まっていて、俺がページを開いた頃には皆歌いだしていた。転入したばかりでほとんどの曲を知らないし、楽譜を見ても音符がどの程度の音程を示しているのか分からないから、いつも隣のマリの声を聞きながら小さな声で当てずっぽうに歌うしかない。1番を歌い終わって顔を上げると、数分前まで頭の中でおもちゃにしていた彼があいかわらず澄ました顔で膝の上に手を置いていた。視線はまっすぐに楽譜の上に注がれている。お祈りの言葉が終わると、彼は絶妙なタイミングですっと手を鍵盤にのせ、そして演奏を始めた。ピアノのことは分からないが、きっと上手いのだろうと思う。

    「知り合い?」

     俺がぼんやりと見つめていたためか、マリが不思議そうに聞いてきた。

    「あ?・・いや、全然知らない」
    「そうなんだ。私もそんなに知らないけど、3年生みたいだよ。スカーレと仲が良いから」
    「へえ、スカーレと?」

     あの不器用でのんびりしたスカーレと、あの変な角を生やした彼が一緒にいるのは想像がつかない。今のところ“ヤリチンの王子様”に傾いている彼が実際どのような人間なのか少しだけ興味が湧くが、これだけの学生がいる中で知ることは難しいだろう。
     マリとこそこそ話している間に自分が退場する順番が来て、例の彼の滑らかな伴奏に見送られながら、俺も前の生徒に倣ってチャペルを出ていく。教室に向かう階段を上がっていき、そうして1限の授業が始まる頃にはすっかり彼のことも忘れていた。

    **********

     次に彼のことを思い出したのは、意外にもすぐのことだった。スカーレに用事があって3年生の教室をたずねると、そこに例の彼がいたのだった。あの日とは違って、白いブレザーを肩だけにかけたラフな格好で、スカーレがいる横の机に座り何かを話していた。俺がスカーレに声をかけると、2人が一斉にこちらに顔を向けた。初めて間近で見た彼の顔は、全くの予想通りすぎて味気ないと思えるほど、精悍な顔立ちをしていた。黒々とした眉毛は、眉尻に向かうにつれてゆるやかなカーブを上へと描き、彼の三白眼気味の目を意志が強そうに見せていた。目の下にはうっすらと隈が浮かび上がっているが、それが彼の顔立ちを邪魔しているわけでもなさそうだ。

    「あらキョウじゃない、どうしたの?」
    「この間貸した本なんだけど、俺も課題で使うことになったから今日返してもらえない?」

     スカーレと話している間にも、隣にいる彼が青い瞳で俺をじっと見据えているのが分かった。あまりにもはっきりとした視線に、彼のことを頭の中で言いたいように言っていたことを知られているのではないかと、ありもしないことに不安になる。

    「・・あー!この間の本ね!ごめん、あれ今手元になくて・・一回寮に取りに戻ってもいい?時間ある?」
    「うん、俺は大丈夫。逆に急かしちゃってごめん」
    「いいのいいの、借りてるの私なんだから」

     そう言うとスカーレは今初めて隣で待ちぼうけをくらっている男の存在に気づいたとでもいうように、おもむろに彼に顔を向けた。

    「そういうわけでレンもちょっと待っててもらっていい?」

     レンと呼ばれたその男は、俺に向けていた目をスカーレに移すと、本当に王子様のようににっこりと微笑んで、もちろん、と返した。笑うと口の端がぐ、とあがっていかにも“自信がある男”という感じを強調している。口を開けた隙に見えた尖った犬歯のせいであどけなくても見えて、それが彼をミステリアスな人間に演出している気がした。

    「2人ともここで待ってて。急いで戻ってくるから。あ、でもいきなり2人になったら気まずいかな?うーん、でも大丈夫だよね?レン、よろしくね」

     尋ねる割に誰の返事も待たずに、ばたばたとスカーレが教室を出ていった。女子寮までは距離があるため、往復でも20分くらいかかりそうだった。教室にはまだ他にも生徒が残っていたものの、スカーレに言われた手前、確かに気まずい。うかがうように彼を見ると、彼もまた困ったようにこっちを見ていた。そして参ったなあ、とでも言うように笑った。

    「スカーレ、行っちゃったね」
    「あ、うん」
    「えーっと、俺はレン・ゾット。よろしくね」
    「あー、俺はキョウ。キョウ・カネコ」
    「キョウはスカーレの友だち?」
    「うん。俺は1年生だけど仲良くしてもらってる」

     そうなんだ、よろしくね、とレンが手を差しだす。誰かと握手すると自分の華奢で小さな手の存在が浮き彫りになる気がして嫌だったが、無視するわけにもいかなかった。握り返した彼の手は大きくて骨ばっていていかにも“男の手”という感じだった。

    「とりあえず、待ってようか」
    「うん」

     そこ座ってどうぞ、とレンがスカーレの席を目線で示す。そして自分は教科書とノートを取り出した。この短い時間で勉強しようとするなんて、やっぱり彼は“品性方向”で“誠実”なのかもしれない。勉強?と聞くと、宿題あるから・・と照れたように彼が答えた。俺も勉強は真面目にやる方だが今はそんな気分でもなくて、ふうん、とだけレンに返すとリュックから読みかけの漫画を取り出した。最後に教室に残っていた1人がいなくなると、聞こえるのは俺がページをめくる音と、彼がノートに何かを書きつけている音だけになった。
     それからしばらくして、隣から聞こえていた音がぱったりと止んでいることに気が付いた。
     何となく気になって漫画から目をあげ隣の席を見やると、彼はペンを握ったまま気持ち良さそうに眠っていた。宿題をやると言ってから10分も経っていないはずだ。肩から下げられた白いブレザーの着こなしのせいで、口を半開きにして寝ている様は余計に間が抜けて見えた。予想に反した彼の隙だらけの姿に、好奇心が湧いてくる。興味本位でこっそりと彼のノートを覗き込むと、よれよれの字で書かれた数字がノートの罫線をはみ出ながら並んでいる。よく見れば、簡単な掛け算や割り算さえ間違えている。ノートの端には小学生が描いたような落書きと一緒に“頑張れレン!”と励ましの言葉が書かれていた。驚いて彼の顔を見直すと、半開きの口からはついによだれが出そうになっていた。
     もしかすると、俺はこの男に対する認識をかなり間違えていたのかもしれない。彼は“品性方向”や“誠実”でもないし、“ヤリチンの王子様”でもなく、ただの“顔が良いおばかな男”なのかもしれない。このままではノートの上に垂れるであろうよだれが気になって、咄嗟にポケットに入れていたティッシュを取り出した(最近風邪気味で鼻水がよく出ていたから)。どうすべきか迷った挙句、起こさないようにこっそりと彼の口元にティッシュをあてがった。本当に、そっと。すると、う、とレンが呻いた。俺はすぐに手を離して、何事もなかったかのようにティッシュを握ったまま漫画に目を戻す。少ししてレンが緩慢な動作で目を開けた。手に握られたままのペンと、ノートに書かれたみみず文字を目にすると、不思議そうな表情で俺に顔を向けてきた。

    「・・あ、あれ?俺寝てた・・?」
    「・・まあね。口半開きでよだれ垂らしながら寝てたよ」
    「えっ」

     手で口元を拭ってから、わあ本当だ、と恥ずかしそうにレンが笑う。さりげなく手に握ったままのくしゃくしゃになったティッシュを渡すと、ありがとう、俺数学やるといつも眠くなっちゃうんだよね、と彼が情けない声で言った。

    「・・ちなみに言うと、そこの計算間違ってるよ」
    「あ、本当?どこ?」

     俺は少しだけ彼の方に身を寄せて、間違っている部分を指で指し示す。それでも何が違うのかよく分かっていなさそうな彼のために、椅子を彼の方に近づけて、しっかりと正しい数字を教えてあげた。そのまま他の問題もいくつか指摘してあげると、レンはせっせとそれをノートに書きこんでいった。一通り済むと、レンが俺の方に顔を向ける。教えている間に距離が近くなっていたらしい。彼の顔がすぐ目の前にあって慌てて距離をとった。

    「・・うわあ、俺こんなに間違えてたんだ。教えてくれてありがとう。キョウって頭いいんだねえ」
    「俺が頭いいっていうか、会ったばっかりでこんなこと言うのは申し訳ないけど・・レンがちょっとやばいと思う」
    「あはは、気にしないで、よく言われるよ。俺は本当に音楽以外はてんでダメなんだ」
    「なんだよ、音楽出来るならそれで充分じゃん。俺は音楽がてんでダメだから」
    「え、そうなの?」
    「うん。俺はラップは好きだけど、あれは音楽とはちょっと違う気がする」
    「そういうものなんだ」

     俺はレンにラップと歌は全然違うということを説明した。頭の中に浮かんできた言葉をリズムに乗せることと、決められた音程とリズムに合わせて歌うことでは大きな違いがあるのだと。俺は音程の方にあまり自信がない。だから歌のテストの時はいつも最悪の気分だった。せめて気分の上がる曲ならマシなのに、歌うのはいつも聖歌だ。神の御心だとか御助けだとか言われてもよく分からないし、大体神様が本当にいるならかわいそうな俺のために音楽のテストをなくしてくれればいいのに・・ということを、彼に対する敷居が下がった分つい長々と語ってしまったが、その間も彼はうんうん、そうなの?などとそれがとても大事な話であるかのように耳を傾けてくれるものだから、俺は頭の中のラベルに“いいやつ”を付け加えざるを得なかった。レンは俺の講義を聞き終えると、嬉しそうに例の口角をぐいとあげて笑って見せた。

    「キョウ、いいこと思いついたよ」
    「・・お、おう?」
    「キョウに勉強を教えてもらう代わりに、俺が音楽を教えてあげるよ」
    「おー・・?」

     ね、いいでしょ?と得意げになっているレンに、出会ったばかりの2学年も下のやつに勉強を教わろうとするなんてこいつにはプライドがないのだろうか、と呆れてしまう。ただし、その手のことに疎い俺ですら彼の演奏を上手いと感じたのだから、実際に音楽は得意なのだろうし、俺の音楽への苦手意識を考えると悪くない取引のように思えた。それに一番大事なのは“いいやつ”らしい彼なら、俺の歌をばかにせずに聞いてくれるかもしれないということだった。

    「よし、乗った。その代わり絶対笑うなよ」
    「笑ったりしないよ。大事なのは正しい音程よりも、楽しいと思えることだから」
    「おう、いいこと言うじゃん」

     でしょ?と隙だらけの笑顔を向けてくる彼を見て、俺の頭の中から“ヤリチン”は完璧に消え去った。これで本当に彼がヤリチンだったとしたら、それこそ神様はこの世にいないも同然だ。実際、彼は“いいやつだけどちょっとおばかな男”なんだと思う。俺は人を見る目だけはあるからこの勘は間違っていないはずだし、彼と話したのは今日が初めてだがこの数分間のやりとりの中で、不思議とこいつのことが好きになり始めていた。

    「キョウの次のテストはいつなの?」
    「んーどうだろう。まだ正確には分かんないけど、今度新しい曲やるって言ってたから来月くらいかな」
    「そうなんだ。じゃあ練習する時間があるね。分かったら教えてよ」

     そういうことで、彼と連絡先を交換して、必要に応じて勉強か音楽の時間を作ろうと約束した。それから、スカーレが来るまでの少しの時間に俺たちは互いに色々な話をした。彼は別の星からやってきたエイリアンだということ(ちゃっかり角を触らせてもらったら、角からとげみたいなのが生えていて少し不気味だった)、俺は転入生で最近別の世界から来たこと(レンは“そしたら俺たち一緒だね”と言った)、それから俺の読んでいる漫画の話やゲームの話とか、そんな取り留めもないこと。彼は自分と違う世界線にいる人間だと思っていたが、しっかり同じ地面を踏んでいたらしい。彼はとても話しやすい相手だった。結局、大幅に遅れて現れたスカーレは、仲の良い友人同士のように打ち解けていた俺たちを見て驚いていた。正反対の性格に思えたから2人きりにして大丈夫かなってちょっと心配だったけど、全然平気だったのねえ、と呑気に関心しているスカーレを横目に、レンと俺はまるで長年の友人でもあるかのように顔を見合わせて笑った。

    **********

     結局次に彼に会ったのは、2週間後だった。まだ先だと思っていたのに、音楽の授業で新しい課題曲が発表されたのだ。おまけにオペラの曲——それもイタリア語で!——をやるというのだから、これなら聖歌の方がまだマシだったかもしれない。発表された瞬間、こっそり机の下でレンにメッセージを打った。“たすけて”と。それで1週間後にはもう音楽を教えてもらうことになったのだ。
     レンが場所に指定したのは音楽室だった。全ての教室にそれぞれ電子オルガンが置かれているのだが、他に生徒がいてやりづらいということで、レンは特別に音楽室を使わせてもらっているらしい。音楽室のピアノはグランドピアノだから、俺が音楽室に入っていった時に彼が弾いていた音はいつもより柔らかく、音の繋がりがより滑らかに聞こえて新鮮だった。彼は俺の姿を認めるとすぐに手を止めてにっこりと微笑んだ。

    「何の曲弾いてたの?」
    「うん?何の曲っていうか・・気分でてきとうに弾いてただけだよ」
    「え、即興ってこと?」
    「まあ、うん、そんな感じ」
    「・・やば」

     世の中には思いつきで無限にある音の組み合わせを瞬時にひとつのメロディーに作り上げてしまう人がいるのは知っていたが、こうも身近にいるとは思いもよらなかった。こいつがちょっとしたあほで良かったと思う。そうじゃないと世の中はあまりにも不公平だ。

    「それで、楽譜は持ってきた?」

     俺は近くにあった机にリュックを載せると、中から楽譜を取り出した。タイトルには『オンブラ・マイ・フ』と書かれている。音符の並びだけ見ればそれほど難しくは見えないが、最後の方に高音パートがあるのと、五線譜の下に書かれたイタリア語が俺を苦しめていた。

    「はい、これ。この曲レンは知ってた?」
    「知ってるよ。俺も1年生の時にやらされたから」

     そう言ってレンが口ずさむ。少し歌っただけでも、彼が恵まれた声の持ち主であることが分かった。

    「なんでそんな軽々歌えるわけ?」
    「そりゃ1年生の時に練習したからね。最初から歌えたわけじゃないよ。・・ところで、キョウは歌詞の意味は知ってる?」
    「うん、まあ・・授業の時に教わったから大体は。あれでしょ、“見ろよ、すげえ木陰がうちの庭にあるぜ”みたいな感じでしょ」
    「あはは、まあそんな感じだよ。だから“すげえ木陰があるぜ”ってうっとりしながら歌うのがいいね」
    「今まで木陰に感動してうっとりしたことないから、ますます分からん」

     眉間に皺を寄せた俺の顔を見てレンが笑う。

    「それじゃあ、このオペラの内容は知ってる?」
    「知らない」
    「この曲は出だしで歌うアリアなんだ。歌ってるのは国の王様でもちろん婚約者がいるんだけど、他に好きな女の人が出来るんだ。でもその女の人は実は王様の弟と恋仲で、そこに嫉妬に狂った王様が現れるわけだから全ての関係が破綻するわけ。だけどなんやかんやあって最終的には丸く収まって皆幸せになる、みたいな話なんだよね」
    「え、めっちゃドロドロじゃん」
    「うん。だから木陰に感動するような純粋な心をも残忍にしてしまうくらい、恋とか愛は人を変えてしまうってことだね。そう思って歌えば、深みが増すかもよ」
    「・・そんな深みいらないんだけど」

     彼と会話をしながら、頭の隅で考えてしまう。本当に恋と愛だとかが人をそれほど変えてしまうのだろうかと。俺にはまだその経験はない。今までの自分を保っていられないくらい、強烈な感情に襲われるような経験は。それに、正直に言えば俺はそうなるのが少し怖い。自分の知らない自分を見つめるだなんて、大半の人にとって耐えがたいことじゃないだろうか。

    「まあ、とにかく1回歌ってみよう」

     そう言って、レンはピアノに手を置いた。飾りのない大きな手を見て、ピアノを弾く時はあの厳めしいアクセサリーは外すんだということに気づく。レンは、最後の一小節を弾いたら歌いだしてね、と楽譜を指さしながら言う。それから、俺楽譜読めないから音間違えちゃうかもしれないけど気にしないで、とも。それでどうやってピアノを弾くんだ、と言いたかったが、レンが最後の一小節を弾き始めてしまったため、俺は慌てて楽譜に目を戻した。

    Ombra mai fu
    di vegetabile・・

     イタリア語の上に書いた読み仮名をたどたどしく目で追いながら、緊張でかすかに声が震えてしまう。最後の方の高音はほとんどかすれていたし、歌い終わった頃にはマラソンを50周は知った後かのような疲労感に襲われていた。俺は救いを求めるように(正直笑ってほしいのか、励ましてほしいのか、あるいはその両方なのかも分からなかったが)レンに視線を向けた。
     レンはピアノから手を離すと俺に向き直って、満足そうに頷いた。

    「キョウはすごくいい声してるね」
    「・・・はあ?」
    「芯があるけどソフトな感じもあって、すごくいい声だと思うよ。もっと自信もって歌えばすごく上手になると思う」
    「・・・・」

     歌声で人に褒められたことなんてほとんどなかった俺にとって、信じがたい言葉だった。頑張ってお世辞を言っているのではないかと疑ってはみたものの、彼の優しく語りかけてくるような目に見つめられると、それが嘘ではないとはっきり分かった。

    「そんなびっくりした顔しないでよ」
    「・・宇宙人って耳が悪いの?それとも宇宙界だと俺の声が素晴らしく聞こえるとか?」
    「もうちょっと信じてよ、俺のこと。俺うそは言わないよ。正直なエイリアンなんだ」
    「あ、そう・・とても信じられないけど、今は受け取っておく。教わってる身だし」

     レンはどこか寂しそうな表情で、だけどいつもの口角をあげたまま、キョウがいつか信じてくれるといいな、とだけ言って、再びピアノに向き合った。彼の横顔はいつも通りだったが、その好意を無下にしてしまった気がして少しだけ申し訳ない気持ちになる。
     その後も何回かレンのアドバイスをもとに歌ってみると、次第に自分の歌がマシになっていっている気がした。ことあるごとに俺の良いところを見つけては伝えてくれる彼の言葉に段々とネガティブな気持ちも薄れてきて、最後はレンがそうしてほしいというからラップにして歌ってみたら、いよいよ歌うのが楽しくなってしまった。俺のラップに合わせて即興でピアノをアレンジするものの、ラップにクラシックピアノを合わせること自体至難の技のわけで、いよいよレンも俺も腹を抱えて歌うどころではなくなってしまった。レンは笑いすぎて目尻に涙を浮かべながら、ほら、歌うのも悪くないでしょ?と言った。俺は少しだけ考えてから、そうだね、案外悪くないかもね、と今度は心からの言葉で答えた。レンがその時俺に向けた目が、まるでこの世の一番の幸せを得たとでもいうような、愛情を感じさせるようなものだったらから、俺はなんだか恥ずかしくなって目をそらした。
     その後も少しだけ練習して、それから途中まで一緒に帰った。別れ際に、喉のケアにどうぞ、と言っていつも持ち歩いているという飴を俺にくれた。手を振って別れた後、飴玉を口に入れてころころと転がしながら、そう言えば彼はずいぶん背が高いのに、俺の歩くペースはいつもと変わらなかったなと気が付く。もしかしたら彼が俺の歩幅に合わせてくれていたのかもしれないし、あるいはもともとゆっくり歩く人なのかもしれない。どちらにしても、目線の高さが違う分、見える世界も少しずつ違うはずなのに、当たり前のように同じペースで歩けていたことが嬉しかった。舌の上で広がるフルーツの甘さを感じながら、早くまたレンに会いたいと思った。

    **********

     それから、レンとほとんど毎週のように会った。歌の練習に付き合ってもらうことの方が多かったが、時折レンに勉強を教えることもあった(と言っても大体途中から雑談になってしまうのだが)。彼と過ごす中で気が付いたのは、彼は目で色んなことを語る人だということだ。言葉で語らなくても、彼の感情が——時には考えまでもが——彼の目を通せば知ることが出来た。そして、彼の目が語りかけてくるものを信じるのであれば、驚くべきことに、俺は彼にかなり好かれているらしかった。息を吹きかければ簡単に吹き飛んでいくような俺のつまらない発言や行動に彼が向ける目は、いつでも好意的で、彼の脳内が可視化できるなら“キョウって本当に面白い!”“最高!”“なんて素晴らしい!”なんて映画評論のような見出しが浮かんでいそうだった。俺が自分を貶めるようなことを言うと(もちろん冗談のつもり・・半分は)彼の目が語るのは“どうして?君ってこんなに素敵なのに”とか“彼に自信を持たせなきゃ”とか、そんな感じ。だから彼の目に見つめられると、俺は少し緊張してしまう。そんな風に愛情深く見つめられたことがないから、彼にどう返せばいいのかが分からない。それに、自分がそれだけの愛情を与えられるに値する人間なのかいつも自信がなかった。たまに思う、彼の視神経にエラーが起きていて、ある日そのエラーが綺麗すっかり治った途端、彼は俺から離れていくのではないかと。もしそうだとしたら俺は何も言えないまま彼の背中を絶望的な気持ちで見送るだけだろう。そんなことを寝る前にふと考えて、明日はもっとレンに優しくしよう、良い人間であろうと決意するのに、いざ彼のふやけた笑顔を見るとつい意地悪を言ってしまうのだった。そしてまた自己嫌悪。そうやって一人で思考の迷路にはまりこんでしまうくらい、いつの間にかレンという一人の(一匹の?)エイリアンにすっかり深入りしてしまっているらしかった。
     肝心の歌のテストはどうだったかというと、実際、レンとの練習は効果があったみたいだった。いつもなら皆の前に出てピアノの側に立つ時、俺が考えていることは“早く終われ”ってことだけだった。それから意識を遠いところへ追いやってただ口を動かすだけで、テストが終わった頃には自分が何を歌っていたかもわからないありさまだった。でも今回は違った。レンと練習した高音パートのこと、この曲が何を歌っているのか、彼と笑いながら作ったラップのことなどがはっきりと頭に浮かんできて、いつも感じていた緊張や不安を押しのけてくれた。俺が歌い終わると、いつも厳しい先生は「たくさん練習したのね、とても良かったわよ」と真っ赤に塗った唇を微笑ませたし、同じクラスのマリも授業が終わるとすぐ俺のところに来て「どうしたの?すっごく上手だったよ!」と手を叩いて褒めてくれた(マリはお世辞を言うタイプじゃないから、彼女の言葉は信頼できる)。俺はすぐにレンにテキストを送った。“うまくいった!”“マジでありがとう、今度奢らせて”と。返事はすぐに来た。“おめでとう!お祝いしよう”。語尾にはハートマーク。いつもだったらスルーするけど、今回は俺も気分が上がっていて、ハートマークを返してあげた。本当、すっかり毒されているなと思いながら。

    **********

     いつものように俺が音楽室に行くと、珍しくレンの姿がなかった。まだ授業が終わっていないのだろうか、と思ったが、グランドピアノの蓋は開けたままだった。トイレだろうか。俺に気がつくとピアノを弾く手を止めて“キョウ!”といつでも嬉しそうに名前を呼ぶ彼に慣れすぎてしまっていたみたいで、なんだか虚を突かれたような、変な感じがした。彼がいつも座るピアノ用の椅子の横に、椅子をずりずりと持って行ってひとまず腰かける。一人でこの教室にいると、こんなにも静かに感じるものだと初めて知った。なんとなく不安になって、レンから何か連絡がないかスマホを覗こうとした時だった。教室のドアが開いて、売店の袋を持ったレンが入ってきた。

    「わあ、もう来てたんだね。遅れてごめん」
    「あ、いや、俺もさっき来たばっかりだったから。どうかしたの?」

     レンは答える代わりに、「お祝いしようと思って」と言って、売店の袋からお菓子を取り出した。しかも、次から次へと違うお菓子が出てくる。甘いもの、しょっぱいもの、それからパックのジュースまで。全部取り出した頃には、彼の椅子がありとあらゆるお菓子で占領されていた。

    「まじで?これ全部お祝いのために買ったの?」
    「うん!キョウがどれ好きか分かんないからたくさん買っちゃった。一緒に食べようよ」

     そう言って、キョウはどれが好き?とレンが聞く。えーっと・・と少し悩んでから、びっしりと並んでいるお菓子の中から、小さな包みに入った小粒のチョコレートを選ぶ。レンはもうひとつ椅子を持ってくると自分はそこに座って、俺が選んだのとは違うチョコレート手に取った。チョコレートを口に入れると甘い味が口の中に広がる。呑み込んで口内を空にすると、考えていたことをどうにか言葉にする。

    「・・正直言うと今めっちゃびっくりしてるわ」
    「何が?」
    「だって、たかが音楽のテストでうまくいったってだけなのに、こんなにお菓子買ってきて祝ってくれるなんて、ぶっちゃけ今めちゃくちゃ感激してる。分かりづらいかもしれないけど」
    「ええ、本当?喜んでくれたってこと?嬉しいなあ」

     そう言って微笑むと、このチョコ美味しいよ、と勧めるように俺の方に手渡してくる。ありがと、とそれを受け取りながら、レンといると、些細なことで毎日のように蓄積されていた嫌な気持ちがいくらかマシになることにふと気が付く。美味しいと思ったチョコを手渡してくれるように、知らない間に彼から何か良いものを少しずつ受け取っているのかもしれない、と思う。

    「それで、音楽のテストはどんな感じだったの?」
    「あ、うん。えっとね・・」

     俺はレンに音楽のテストが今までどう違っていたのかを細かく伝えた。それから、レンの教えてくれたことが役に立って感謝していることも。レンは「キョウの努力のお陰だよ」とあくまで謙遜してみせるから、「いいから感謝されておけよ」と彼の手にグミを押し付けた。だいたい、今日は俺が奢るって言ってたのに、何がほしいか聞く前に彼からたくさんもらってしまった。レンが俺に何かをくれるように、俺も何かを彼に返してあげたいと思うけど、一体何を与えてあげられるんだろう。

    「はあ、俺もレンみたいにピアノが弾けるとか、なんかすごい才能があればな・・」

     無意識に俺がそう呟くと、何を勘違いしたのかレンが「少し弾いてみる?」とピアノの鍵盤を指さした。

    「ええ?あーいや、そういうことじゃないんだけど・・まあ、でもちょっと興味はあるかも。でも俺本当にやったことないから」
    「大丈夫だよ、簡単なの教えてあげるから」

     そう言って椅子の上に置かれたお菓子を袋に戻すと、レンがいつものように綺麗な姿勢で座った。そしてお尻をずらしてスペースを空けて、ほら、と促すように椅子をぽんぽんと叩いた。少し戸惑いながらも面白そうだと感じる気持ちもあって、素直にレンの隣に腰かけた。座ってみると、少し動かせば腕が当たってしまいそうな近さに彼がいて、なぜか落ち着かない気分になるる。用があって人と距離が近くなることくらい、今までもたくさんあったはずなのに、レンの側にいるとなんでこうも違ってしまうのだろう。
     レンが白い鍵盤を長い指でひとつひとつ、ゆっくり叩いていく。誰もが知っている子ども向けの短い曲だった。レンの鼻歌が鍵盤の動きを追いかけて、蝶々のように空中で軽やかに舞う。全て弾き終わるとレンは俺に目線で合図を送った、キョウもやってごらんと。俺は見よう見まねで指を鍵盤の上に置いた。押してみると、綺麗な音が鳴った。思わずレンの方を見ると、彼はにっこりと微笑み、それから次の鍵盤に指を滑らせる。俺も真似する。続けているうちに、自分の鳴らした音がメロディーになり、ひとつの曲となった。簡単な曲と分かっていても嬉しい。弾き終わると一番にレンが声をあげた。

    「キョウ、いい感じだったよ!」
    「うん、まあ、楽しかった」

     自分でも頬がゆるんでいるのが分かる。思い出すように指でもう一度鍵盤を叩いてみると、ハミングするような音が美しく鳴る。叩く場所が分からなくなると、レンがすぐに教えてくれた。何回か繰り返すうちに何となく覚えて、たどたどしいがレンが何も言わなくても最後まで弾くことが出来た。レンが横から「すごい、覚えが早いね」といつもように嘘のない言葉を言ってくれる。レンがくれる言葉はいつしか魔法のように、俺のかたくなな心を解かしてくれる気がした。

    「じゃあ、次は連弾しよう」
    「連弾?」
    「うん。キョウがワンフレーズ弾いたら、俺がそれを追いかけるの。キョウ、さっきの弾いてみて」

     少しだけ緊張しながら、一生懸命人差し指で鍵盤を叩く。かなりゆっくりだったが、レンは待っていてくれた。俺がワンフレーズ弾き終わって次に移ると、レンがさっき俺の弾いたところを弾き始め、別々のメロディーが同時に重なる。レンが鳴らす音につられて、自分の指がもつれて次に弾くべき音を忘れてしまう。

    「あーごめん!これ混乱する!」
    「あはは、初めてやると難しいよね」
    「うー・・悔しいからもう一回やっていい?」
    「うん、もちろん」

     そう言って、もう一度最初から弾き始める。俺は悪態をつきながら、どうにかこうにか指を動かし、レンは励ましながら俺のゆっくりしたペースに付き合ってくれる。何回か弾きなおして、ようやく最後まで一緒に弾くことが出来た。難しい数式を解けた時のような晴れ晴れしい達成感がこみあげてくる。思わず嬉しくて「できた!」とレンの方を向いた。そうしたら、分かっていたはずなのに、レンがいつものあの愛情を示すような優しい目で見つめていたから、突然、いつの間にぴったりと触れ合っていた肩のことや、ピアノから手を下ろせば容易に彼の手に触れてしまいそうな距離にいること——そして自分がそうしたいと一瞬でも思ったこと——それが今ふたりきりの空間で起きていること・・それら全てを今初めて理解したかのように、そして何かしらの意味を、ふたりの関係性を変えるような意味を持ち合わせているように思えて、さっきまでとまるで違う世界に放り込まれたような、そんな感覚に襲われた。鼓動が高鳴り、頬が赤くなっている気がする。すぐにレンから目をそらすと、未だに鍵盤の上に置かれた手元に目を落とした。

    「どうかしたの?」
    「あ、いや、別に・・」

     自分の身に何が起きたのか分からないまま、それでもこの場を一度離れるべきだと脳が呼び掛けてくる。とにかく不自然に思われないよう、ピアノの隅に置いていた携帯を取るふりをしながらさりげなく身体を離すと、さっきまで彼の体温を感じていた左側の部分がどうしようもなく寂しく感じた。急によそよそしくスマホの画面を開いた俺を、きっと彼は困ったような、寂しそうな目で見つめている。それが分かるから、俺は顔をあげられないまま、ありもしない予定について彼に語るしかなかった。

    「・・あ、ごめん。ちょっと連絡入ってたらから俺もう行かないと」
    「え、そうなの?・・うん、分かった」
    「あの、本当に今回のこと、ありがとう。めちゃくちゃ助かった。お菓子もたくさん・・・残りはまた今度食べよう。俺からの奢りは今度するね」

     まくし立てるように喋りながら椅子から立ち上がると、上からレンを見下ろす形になった。口元は笑っているけど、やっぱりレンの目は寂しそうだった。何もない、さびしくて深い海の底のような目で、俺をじっと見つめる。彼の目が語りかけている、“本当に行っちゃうの?”“俺、何かした?”。それで、咄嗟にレンの頭に手を伸ばしてしまった。突然頭に手を載せられたレンは、驚いたように目を見開いている。驚いた表情はたくさん見たことがあるけど、それのどれとも違う、本当に不意を突かれた表情だった。俺もつい伸ばしてしまった手をどうすればいいか分からなくて、ぎこちなく頭の上に置いたままだった。それでも、どうにか声を絞り出す。

    「・・その、また今度会うんだから、そんなあからさまに寂しそうな顔するなよ」
    「・・えっ。ごめん、俺そんな顔してた?」
    「・・してるよ。お前はいちいち分かりやすいよ」

     レンが困惑したように、あるいは反省したように、ぎこちない笑みを浮かべる。別にこんな表情をさせたかったわけじゃない。自分のことがとことん嫌になる。自己嫌悪と後悔から、自然と彼の頭を撫でるように手が動いた。少し硬めの彼の髪の毛が指の間をさわさわとくすぐり、手の端に彼の角の生え際が当たった。レンはしばらく驚いた表情のまま、むっつりした顔で(もちろんその自覚があった)頭を撫でている俺を見つめていたが、急にふふ、と
    口元を綻ばせた。

    「・・ありがとう。キョウなりに俺を慰めてくれてるんだね」

     そう言って、レンは頭を撫でていた俺の手をとったと思うと、何か愛おしいものを抱えるかのような手つきで包んだ。レンの手は冷たいのに何でかあたたかくて、彼の手の中に大人しく収まっている俺の右手に熱が集まるのが分かる。我に返ったように、自分のこれまでの言動が恥ずかしくなる。だって、全くもって俺らしくなかった。居心地が悪くなって、彼から目を逸らした。

    「うん、まあそれで・・もし元気になったっていうなら・・自分でやっておいてなんだけど、もうだいぶ恥ずかしいから、その・・分かる?」
    「ふ、あはは、分かるよ。誰かを待たせてるなら、早く行かないとね」

     そう言って、レンが手を離してくれた。ほっとしたはずなのに、すぐに寂しくなって、その矛盾に苦しくなる。だいたい、今日の俺は矛盾してばかりだ。逃げようとしたくせに頭を撫でて、撫でたくせに離してほしいと言って、今は離してもらったら寂しく感じているなんて、どうかしている。自分が自分じゃないみたいだった。またね、と手を振る彼に後ろ髪を引かれながら背を向けて教室を出た時、なぜかあのオペラの曲を思い出した。“木陰に感動するような純粋な心をも残忍にしてしまうくらい、恋とか愛は人を変えてしまうってことだね”・・なんでこんなこと思いだしたんだろう。恋とか愛とか、そんな話じゃないはずなのに。それでも、彼の髪の毛を撫でた時のあの手のひらのくすぐったい感覚や、彼の両手に包まれた時の手のじんわりとした温度が頭からまとわりついて離れなかった。

    **********

     最近、俺は少しおかしい。
     おかしいと思ったのはひとつの状況を根拠にしているわけではなく、色んな事態が重なった結果だった。例えば、これは先週のことだ。マリと食堂に行った時、俺は遠目にレンが誰かと一緒に昼食を食べていることに気が付いた。マリと話しながらちらちらと彼に目を向けていると(今にして思うとこれは完全に無意識だった)、2人が肩を寄せ合うようにして一緒にスマホを見始め、それから秘密を共有するように目をあわせてくすくす笑いだし、しまいにはレンが相手の腕を親しげな手つきで触ったのだった。こんな光景、学内を見渡せばいくらでも目にするものなのに、俺は生まれて初めて見たかのように目を離すことが出来ず、「キョウ?どうしたの?」というマリの言葉がなければあのまま石化していたかもしれない。その後はどうにか彼らを目に入れないように食事を続けたのだが、レンのあの表情や手つきをふと思い出しては胸がつかえるような感覚に陥るのだった。
     次に違和感を覚えたのはその数日後だった。最近はただ会って話したり、ついにはレンが俺を部屋に誘ってくれてゲームをしたりして、俺たちは当初の目的がなくてもずっと交流を続けていた。その日も放課後レンの部屋に遊びに行ったらベッドの上に今まで見たことのない、彼の好きなゲームのぬいぐるみが置かれていることに気が付いて、特に意味もなく「これどうしたの?」と聞いたのだった。レンは「ああ、この間友だちと遊びに行った時に一緒に買ったんだ」とあっさり答えたのだが、俺の口が勝手に「一緒にって?お揃いってこと?」と聞き返したものだからレンが「うん!色違いで買ったんだ」と言い、俺はさらに「友だちってこの間の友だち?」とヒステリックな彼女みたいなことを言ってしまった。当たり前だがレンは驚いた表情で「この間の友だち・・?」と聞き返してきたわけだ。俺は内心の焦りを表に出さないよういたって冷静を保ちながら「あーいや、この間食堂でレンが友だちと仲良さそうにしてるの見たから・・その人かなって」と返すのが精いっぱいだった。それなのにレンは追い打ちをかけるように「あー・・×××かな?でもその人とは別だよ」と答えたものだから、俺はその後の数時間を、顔も見知らぬ男(きっと背が高くてかっこよくて、それで少し鼻についた喋り方をするんだ)にイライラしながら過ごすはめになった。
     そして決定打となったのは、今週の始まりのことだった。俺は月の力で背が大きくなり、そのあまりの変貌ぶりに一躍学内では時の人となった。もちろんレンもそれを知っていたから、大きくなった俺に会った時の反応が「うわあ、本当に大きくなってる!」だったのは予想内だった。予想外だったのは、そのままレンが俺の元に駆け寄ってきて、キョウ、かっこよくなったね!と抱き着いてきたことだった。鼻の先をかすめたレンの髪の柔らかさや、背が低い時は逞しく見えていた彼の意外と華奢な身体のラインに一気に体温があがった。そして、密着させていた身体を少しだけ離したレンが、俺を上目遣いに見上げて「・・なんかキョウを見上げるって変な感じ」と照れくさそうにはにかんだ時に、今までは朧気で言葉にならなかった彼への愛おしいという気持ちが溢れだして、気が付くと彼のことをぎゅうと抱きしめ返していた。「わ、どうしたのキョウ?」と驚いてみせたものの、レンはすぐに「大きくなった代わりに甘えん坊になったの?」と優しく笑って、俺の背中をさすった。その温かい手に触れられながら、ここ数日の自分が抱いていた違和感は嫉妬心だったのだとようやく理解した。そして気づかざるを得なかった——俺がレンに抱いている感情は友人に抱くものとは何かが違うのだと。ようやく身体を離すと、レンはほんのりと頬をピンク色に染めたまま、何でもないことのように「甘えたくなったらいつでもどうぞ」と少しだけ背伸びをして俺の頭を撫でた。彼の許しを得て嬉しくなると同時に、俺以外にもこうするの?と彼を問い詰めしまいそうになる。・・やっぱり俺はおかしくなっている、音楽室で彼の頭を撫でたあの日から。あるいは、レンと初めて話したあの日から、さらさらと雪が積もっていくように、俺の心は少しずつ彼によって変えられているのかもしれない。

    *********

     レンから「渡したいものがある」とメッセージがきた。どこにいるの?と聞いたら「チャペルにいるから来てもらってもいい?ついでに一緒に帰ろうよ」と返ってきた。OKと返事を打って目をあげると、知らない間にマリが目の前にいて心臓が口から出そうになる。

    「びっ・・くりした・・!声かけろよ!」
    「ごめん、ごめん。なんか嬉しそうにメールしてるなあって思って、ついじっと見ちゃった」
    「嬉しそうにってなんだよ」
    「えーだって、なんかにやついてたからさあ。もしかしてたけど・・相手はレン?」
    「・・えっ」

     言い当てられて動揺し、口ごもる。するとマリはんふふ、と楽しそうに目を輝かせた。

    「実はさあ、この間私レンとたくさんお喋りしちゃったんだよねえ」
    「・・はあ?なんで?」
    「んー?たまたま食堂で隣の席にいてね、“最近キョウと仲良しの人だ!”って思わず声に出しちゃってさ。それでキョウも私の話してるみたいじゃない?“もしかしてマリ?”って聞かれて、そこからたくさん話したんだ。彼、とっても話しやすいね。連絡先まで交換しちゃった」
    「・・・あいつってマジでたらしだな」

     たかが話をして(そしてきっと盛り上がったのだろう、楽しそうなレンの表情が目に浮かぶ)連絡先を交換したと聞いただけなのに今の俺はレンのことをぶっ飛ばしたくてしょうがない。俺に向けるようなあの目を、他のやつらに向けているのではないかと思うとお腹の底がぐつぐつする。

    「あのさ、そんな睨まないでくれない?怖いんだけど」
    「・・・睨んでない」
    「睨んでるって!あのねえ、レンとたくさん話したって言ったけど、その話の大部分はキョウのことだったんだから」
    「俺のこと?」
    「そうだよ!レンったら、キョウの話ばっかり。レンの話ばっかりする最近のキョウみたいだった。・・え?キョウ自覚なかったの?・・とにかく、“キョウは面白いよね”“キョウはすごく才能があるんだ”“キョウとこの間こんな話をしてね・・”とか、もうそんな話ばっかりだったよ。その時のレンの緩んだ顔が、さっきメールしてた時のキョウにそっくりだったからレンなのかなって思ったの。どう、当たってた?」

     マリが呆れたように、それでいて面白がっているようにも見える表情で行う鋭い考察に「はあ・・当たってるよ、マリは名探偵だな」と俺も観念して答える。

    「やったあ!それで?これからデートとか?」
    「・・ノーコメントで。なんかお前のことが怖くなってきた」
    「ふうん、やっぱりデートなんだあ」
    「・・・・」

     俺はひとり楽しそうなマリアに無言を貫いて立ち上がり、さっさとレンの言う“渡したいもの”を取りに行こうと思ったのだが、少しの逡巡の後「あのさ」と彼女に顔を向けた。

    「何?」
    「その・・俺のことだけ?」
    「えーっと、何が?」
    「レンが話してたのは俺のことだけ?ほら、なんていうかあいつ友だち多そうだし・・俺以外の話もあったんじゃないかなって」
    「あー・・そうだね、例えばスカーレの話にもなったけど、断然キョウの話が一番多かったよ。あとなんていうかなあ、キョウの話してる時が一番嬉しそうだったよ、すっごくにこにこしちゃって。あのままずっと話してたらそのうち顔が溶けるんじゃないかってくらい」
    「ふーん、あ、そう・・いや、気になっただけ。深い意味はないから」
    「はいはい、ただ気になっただけだもんね」

     マリが今度ははっきりと呆れたような仕草と声で言い、もちろん俺もその理由が分かっていたから、素直ではない俺をこれ以上追求しないでいてくれるマリの存在がありがたかった。そしてマリから顔を背けると、さっきまで堪えていた笑みが幼い優越感と共にこぼれだし、今すぐレンに会ってこの自信を確かめたいとでも言うように、羽が生えたように軽やかになった足取りで彼の元へと向かったのだった。

    **********

     チャペルに近づくにつれて、大きな扉越しに誰かが電子オルガンを弾いている音が聞こえてくる。間違いなくレンだろう。彼の指が弾く音を何度も聞くに連れて、何となく彼と、彼じゃない誰かが弾いている時の音の違いが分かるようになってきた。観音扉を開けてチャペルに入ると、もちろん電子オルガンの椅子にはレンが座っていて、いつもように俺に気が付くと惜しみなくその手を止めた。

    「キョウ!」

     しょっちゅう会っているというのに、レンはいつでも1年越しに再開したかのような喜びようで俺の名前を呼ぶから、むず痒い気持ちになる。

    「練習?」
    「うん。来週から別の伴奏曲になるから」

     俺が座れるように、レンがお尻の位置をずらしてくれる。前のことを思い出して少しだけ躊躇うが、気持ちを落ち着けるように息を吐いてから、なるべく彼に触れないようにゆっくりと座った。

    「それで、渡したいものって?」
    「えーっとね・・」

     そう言って、レンが地面に置かれた紙袋から何かを取り出す。これ、と言って目の前に出されたのは、いつか彼の部屋で見た、あのぬいぐるみをもっと小さくしたサイズのキーホルダーだった。

    「キーホルダー?」
    「うん。この間さ、また友だちと出かけた時に見つけたんだ。なんかキョウの髪の色みたいだなって思わず買っちゃって・・それで、俺はこっちの緑色の買ったから、お揃いでどうかなあって」

     レンは紙袋からもう1つ色の違うキーホルダーを取り出すと、2つを並べてみせた。あの日妬んでいた“お揃い”が、こんな形でまた現れると思っていなかった。レンが俺の嫉妬心を見抜いて買ってきたのかは分からないが、とにかく、素直に嬉しかった。

    「テンションあがってお揃いで買っちゃったけど、嫌じゃなかった?」
    「嫌じゃないよ。その・・普通に嬉しい。ありがとう」

     俺が水色の方を受け取ると、レンは「良かった」と尖った歯を覗かせて嬉しそうに笑った。それだけで、自分の気持ちが5段も、あるいは10段も階段を駆け上がっていってしまいそうなくらい舞い上がるのが分かる。恥ずかしくてなって彼から目を逸らし、指先で小さなぬいぐるみを手の先で意味もなく触っていると、思わず本音がこぼれた。

    「なんか俺、レンにしてもらってばっかりだな」
    「どうしたのいきなり。全然そんなことないよ。俺、キョウにいつも元気もらってるよ。キョウに会えると嬉しいし、こうやって一緒にいるのが好きなんだ」
    「お前はそうやって言ってくれるけど・・例えばだけどさ、レンはなんか俺にしてほしいこととかないの?」
    「えー?・・してほしいこと・・うーん」

     レンはそこに答えがあるかのように、鍵盤をじっと見つめながら考え込んでいたが、突然「あ」と小さく声をあげた。それから、今から怒られることを覚悟する子どもみたいな、気まずそうな笑みを浮かべて、「変なこと言ってもいい?」と俺の顔を覗き込んだ。

    「えーっと、変なことの度合いによるけど・・とりあえず聞くよ」
    「うーんと・・まあその・・この間みたいにハグしたいなあって・・」

     思ってもみなかったレンのお願いに言葉で出てこなかった。それを拒否ととったのか、いや、でも、嫌だったらいいんだ、と1人で恥ずかしそうに喋るレンに、この間のようにどうしようもなく愛おしさがこみあげてきてしまって、「別にいいよ」と流れるように言葉が出てきた。

    「あ、え、いいの?本当に?嫌じゃない?」
    「・・いいよ。ていうか俺のことなんだと思ってんの」
    「いやだって・・あんまりそういうの好きじゃないのかなって何となく思ってたから」
    「まぁあんまり好きではないけど、レンだったら別に・・」
    「そ、そう・・?じゃあ、えーっと」

     お願いします、とレンがかしこまって言うから、思わず笑ってしまう。レンも釣られるように笑って、緊張した空気が少しだけ和らぐ。それからレンは、チャペルを見渡すと「あの、見られたらさすがに恥ずかしいから、あっちで・・」と電子オルガンの後ろにひかれたカーテンを指さした。

    「あそこ?」
    「うん。・・・先生の説教の間とか、そこでいつも待機してるんだ」

     そう言って、レンが俺の手を引っ張って、カーテンの奥に誘導する。自分の席からはいつも見えていなかったその空間には、大きなグランドピアノと、壁に沿うように小さな椅子が1つ置かれていた。カーテンが再びしまりきると、光が遮断されて一気に薄暗くなる。

    「ここにもピアノあったんだ」
    「イベントによってはグランドピアノを使うこともあるから」

     レンはグランドピアノのすぐ側で立ち止まると、俺の方に身体を向けた。未だにレンを見下ろすことに慣れない。そしてそれはきっと、彼も同じなんだろう。

    「えっと、じゃあ・・」
    「うん」

     いつもは必ず相手の目を見る彼が、俺から視線を外したまま、自信がなさそうに両腕を広げた。俺もやたらと恥ずかしくなって、ぎこちなく彼の背中に腕を回す。あたたかくて、ほっとする。レンの腕が背中に回ると、少しだけ遠慮のあったお互いの身体の隙間がぴったりと埋まる。くっつき合ったお腹や胸が息をするたびに、膨らんだり萎んだりするのがお互いに伝わって、裸で抱き合っているような生々しさがあった。カーテンで仕切られた薄暗い空間の中で、明らかにもう友だち同士とは言えない雰囲気を滲ませたまま、2人で抱き合っている。何も言わずに俺の肩に頬を押し付けるようにして黙っているレンの、かすかな呼吸音が耳をくすぐるたび、背中に回された細い指先が撫でるように動くたび、何かやましいことをしているような気分にさせられて、俺の鼓動はどんどん早くなっていく。彼の背中に回している自分の手が、もっと彼の、誰にも見せないところを触って、彼の白い肌が気持ち良さに色づくのを見たいと思っている。抱き合っているだけでは足りなくて、どうしようもない欲望で頭の中が埋め尽くされていく。すると、レンが突然、ふふ、と笑った。

    「キョウ、すごい心臓どきどきいってるね」
    「・・悪かったな」

     余裕のあるレンの言い方に悔しくなって、つい棘のある言い方をしてしまった。でもレンは、そんな俺の不格好な心まで見透かして、なだめるような優しい声で言う。

    「ごめん、そうじゃなくて嬉しいんだ。俺もすごいどきどきしてるから・・」

     最後の方はほとんど声が掠れていて、彼が本当に緊張していることが分かった。いつも年上らしい彼が見せる弱々しい素顔にたまらない気持ちになって、彼が一体どんな顔をしているのか見たくなる。

    「・・レン、こっち向いてよ」

     わずかの間を置いて、うん、と少しだけ身体を離して大人しく俺に向けられた顔は、薄暗くて見えにくかったとしても、きっと耳たぶまで火照っていた。そして彼は何も言わずにじっと、あの青い目で、何かを期待するように俺を見つめている。煽情的な彼の眼差しに、もうこれ以上自分をコントロールできないと感じた。

    「・・このままレンが何も言ってくれないと、キスしそうなんだけど」

     顔に熱が集るのを感じながら、精一杯、落ち着いた声でそう言うと、レンは困ったように眉を下げて、えっと・・と視線を彷徨わせながら何か言葉を探しているようだった。彼の次の言葉に失望するのが怖いのに、きっと許してくれると期待している自分がいる。彼の逡巡はほんの一瞬だった。彼はすぐにいつもの真っ直ぐな視線を俺に戻すと、わずかに頬を上気させながら、恥ずかしそうに首を傾けてはにかんだ。

    「・・うん。だから今、何も言わずに待ってるんだ」

     いつもシャツを首元まできっちり閉めているような彼の、誘うような表情に息が詰まりそうだった。レンに誘われている、キスをしてほしいと。それでも自信が持てなくて、レンの熱のこもった目を、彼の意志を確かめるように見つめ返しながら、ゆっくりと顔を近づけた。その間も彼は何も言わずに、ただ俺を待っていた。唇を少しだけ触れさせると、レンの温かい吐息が皮膚を撫でた。緊張して張り裂けそうな心臓に呑み込まれそうになりながら、もう1度、今度は確かに触れてみる。いつだって幸せそうなレンの薄い唇は、触れてみると柔らかくて、そして少しだけ湿っていた。
     唇を離すと、レンと目が合った。うっとりしたような表情で、キスを終えた時の形のまま口が少しだけ開いているから、またすぐに触れたくてたまらなくなる。もっと彼を独占したい。初めて抱く強い感情に胸が苦しくなる。金縛りにあったように彼を見つめるだけの俺に、レンがまたあの恥ずかしそうなあどけない表情で、キョウ、と小さく名前を呼んだ。

    「もっとしてもいい・・?」

     俺はきっと今、欲にまみれた顔をしているに違いない。ぎこちなく頷くと、レンがそっと俺の首の後ろに手をまわしたのを合図にして俺は蜜に誘われる蜂のように、彼の甘いそれに吸い寄せられた。もういちどキスをする。それから、もういちど、またいちど。いつの間にか首の後ろから背中にまわっていたレンの手にぎゅうと力が入って、彼も同じような気持ちでいることが伝わってくる。きっと俺の手は汗だくになっている。レンの形の良い唇に挟まれ、そっと吸われる度に身体中が痺れていたから。カーテンで仕切られた小さな空間の中でお互いの静かにこぼれる息と、唇が触れては離れる音だけが聞こえる。キスがこんなに気持ちいいものだと初めて知った。
     実際は1分にも満たなかったとしても、次にお互いの赤くなった顔を見合った時には、何時間も経っているように感じた。夢でも見ているような心地のまま、彼とただ見つめあう。レンの手がおもむろに俺の頬にかかった髪を掬い取り、そっと耳の後ろにかけた。彼の指先が耳たぶにかすかに触れただけで、そこから火花が飛び散りそうだった。レンは何がおかしかったのか、未だ熱を孕んだままの目を三日月みたいに細めてにっこりと笑った。

    「・・俺、キョウのこと好きだよ。めちゃくちゃ好き」

     沈黙を破った彼の言葉は、これが夢でもなんでもない、ちゃんとした現実なのだと実感させてくれた。あまりにも彼らしい正直な言葉に、今は逃げずにきちんと応えたくて、つっかえながらもどうにか自分の気持ちを言葉にしようと努力する。

    「・・正直言うと、最近ずっと俺はおかしかったんだ、気づいたらレンのことばっかり考えてて、レンが他のやつと楽しそうに喋ってるとそいつのこと張っ倒したくなるし、レンにもイライラするし・・・あと・・あと、自分で言うの本当に恥ずかしいんだけど、レンのことがずっと可愛く見えてどきどきするし・・自分らしくない、なんでだろうってずっと思ってたけど、レンが教えてくれたじゃん、”恋すると人は変わるのかもね”って。俺も知らない間に変わってたんだと思う。だから、要するにこれが“めちゃくちゃ好き”ってことなんだよな?」

     俺のスピーチはまとまりがなく、とことん頼りなかったのに、レンは幸せを噛みしめるように俺の名前を呼んで、それからそっと俺を抱きしめた。

    「・・キョウがそんな風に言ってくれて本当に嬉しい。キョウはいつも俺を幸せな気持ちにさせてくれるんだよ、君は知らないかもしれないけど・・キョウが”変わった”っていうなら、俺も”変わった”んだよ。キョウと知り合ってから、自分の知らない色んな気持ちを経験したから」

     少し背伸びして俺の肩に顎を乗せて、耳元でレンがそう言った時、乾いた土に水が染み渡っていくように、心が1mmの隙間もなく満たされていく感覚がした。これが幸せというものなのかもしれない。彼が俺を満たしてくれるように、俺も彼を満たしてあげたいと思うことが。
     その時、最終下校を知らせるチャイムが鳴った。レンが、まだ帰りたくないな・・と寂しそうにつぶやいた。チャイムが終わると、今度は聖歌が流れ始めた。名残惜しそうに肩に頬を摺り寄せる彼の背中を撫でながら、ふと、ひとつの疑問が頭をもたげた。

    「・・あのさ、聖書って同性愛に厳しいらしいけど、俺たちこんなチャペルで抱き合って、なんか罰が当たんないのかな」
    「・・ふふ、何それ、今さらじゃない?・・大丈夫だよ、今はカーテンで隠れてるから、神様もきっと見てないよ」

     そう言って、レンは俺の頬を両手で包むと自分の方に近づけて、ほんの触れるだけのキスをした。それから唇を離すと、いたずらっ子のような目をして挑戦的に微笑んだ。

    「でもキョウが気になるなら・・この後俺の部屋に来る?」

     断るすべなど持っているはずもなく、うん、と頷くと、レンがおかしそうに俺の手をとった。彼の手はしっとりして少し汗ばんでいる。でも、それはきっとお互い様だ。カーテンを開けると光が差し込んできて、思わず目を細める。電子オルガンの椅子には色違いのキーホルダーが置かれたままだった。数分前のことなのに何故か懐かしく感じて手に取ると、どこにつける?とレンが聞いてきた。リュックにつけようかな、と俺が言うと、じゃあ俺もそうする、とレンがはしゃぐ。肩が触れたままチャペルを出る時には、2人のカバンにお揃いのキーホルダーがぶらがっていた。
     今、彼を瓶に入れてラベルをつけるとしたら“おばかで可愛くて優しい大好きなエイリアン”と名付けるだろう。そして、もし俺を瓶に入れてラベルを付けるとしたら“おばかで可愛くて優しいエイリアンが恋している幸せ者”と名付けるのかもしれない。
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    nig

    DONE🤟🛸inミッションスクールな話。長いのでいったん途中までですが載せておきます。
    3月11日:加筆修正、続き書きました。
    瓶の中、ふたりで この学校は変なやつばかりだ。例えば、今あそこで電子オルガンを弾いているやつ。一見すると普通の人間のようだが、頭には左右非対称の黒い角が生えていて、先端は水色に発光していた。学校から支給された白いブレザーを正しく身に着け、涼しげな顔で流れるようにすいすいと鍵盤を叩いている。もし彼を瓶に詰めてラベルを貼るとしたら何て書くだろう。“品性方向”“誠実”・・それから“王子様”といったところだろうか。“王子様”を思いついたところで、彼はいかにも白い馬に乗ってお姫様を助けに来そうだと思い、笑いそうになる。あるいは・・と“品性方向”と“誠実”に二重線を引き“ヤリチン”と書き直してみる。つまり、“ヤリチン”の“王子様”。清涼剤の匂いでもしそうな澄ました横顔が、下心を裏に隠した甘い表情で見知らぬ誰かを口説いている様を想像し、またも笑いがこみあげる。ありえなくもない。瓶のラベルには“品性方向で誠実だが、ヤリチンの王子様?”と書くのが良いだろう。生徒が全員着席し“ヤリチンの王子様”の伴奏が止まると、俺の思考もそこで霧散した。先生が壇上に立ち(今日は国語の教師だった)、“・・・の福音書26章41節を読みましょう・・”と真剣な表情で言と、あの独特の薄い紙をめくる音が、さざ波のように広がっていく。俺はてきとうにページを開いて膝の上に置くと、説教を始める先生ののっぺりとした声を子守歌にして目を閉じた。
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