夜明けはまだ遠い 一人、暗闇の中を走らされていた。なぜ走っているのか、走らされているのか、いつからなのか、さっぱりわからない。幼い手足はすでにへとへとで疲れきっていて、本音を言えば今すぐにでも足を止めて休みたかった。けれど、止まることは出来ない。走って、走って、白龍を追いかけてくる何かから逃げないといけないことだけは、わかっていた。周りは真っ暗でやさしい兄上も姉上も、だれもいない。一人きりだ。でも、走らないといけない。足を止めた瞬間に、追いつかれた瞬間に、呑み込まれる。もっと早く、早く逃げなければ、でないと。
白龍の必死な願いが功を奏したのか、小さな手足はいつの間にかどんどんと成長して、歩幅も走る勢いも伸びていった。それだというのに、後ろから迫る速度はどんどん増している。ひたひたと、ずるずると、ごうごうと、ぱちぱちと、様々な音を立て、重量を増してついてくる。追いかけてくる。
「どこに行くの、白龍」
初めて背後から聞こえた声は、優しいのに気持ち悪いほどに白龍の耳にこびりついた。ああ、追いついてくる、追いついてくる!何が?ー追いつかれない様にと必死で足を前に出す。振り返ってはいけない、と直感が叫んでいる。もっと早く、早く、でないとアレに追い付かれる。
アレは何だ?
「可愛い白龍。頑張っているのね。でもほら、」
また声がかかる。その声に、今度は哀れみが混じっていた。コイツと思ったその瞬間に、突然バランスが崩れる。片腕がー左の肘から下がいきなり音もなく無くなったのだ。理屈はわからない。何故か痛みは感じない。けれど、現実としてないのだ。一瞬、落ちた腕を拾おうかと思ったが、背後からその落とした腕の骨と肉が砕かれる音がした。捕まればああなると、理解させるにはふさわしいまでの「脅迫」だった。やられてたまるかとさらに加速させようとしてー全身で走っていた為足がもつれた。
「クソ、」
何とか残ったほうの右手をとっさに地面へ伸ばすが、間に合わず倒れこんでしまう。固い地面だと先ほどまで足をつけていた場所が崩れ、乾留液のように重く粘着質のある液体が倒れ込んでしまう。伏した先からジワジワと液体が全身に纏わり付く。
地面に縫い付けられるようだ。早くしないと、と思うのにもがけばもがくほど、どんどん深く絡まっていく。
「ほらね、何も出来ないでしょう?白龍、あなたはもう何も考えなくてもいいの。何もしなくてもいいの。何もできない、可愛いままの貴方で一生いればいいのよ」
その女が言い切った後、背後からズルリと何かが覆い被さってくるのがわかる。熱くて冷たくてー何より気持ちが悪い。耳元で自分の名前を繰り返し呼ばれるのも、ただただ不快でしかなかった。やめろとかぶりを振っても、体の下は沼のような液体に、上からは粘着性のある物体に阻まれてはほとんど何もできないにも等しい。
呑み込まれる、その瞬間だった。何も見えない暗闇を裂くように一線、光が奔る。その光に遅れて、轟音が続く。貫くように、黒い空間の中を暴れるように何度も何度も白い閃光が去来する。
「白龍!」
その光から誰かが手を伸ばしてきた。誰だと思うこともなく、その手を迷いなく白龍はつかみ返した。何も見えなくてもわかったのだ。白龍は知っていた。それが誰なのかも、だから。
***
目を覚ますとそこは、白龍にとって最近見慣れた寝台の天井が映っていた。前線のひとつである第九補給基地、煌帝国の宮にあるものよりも更に貧相なその部屋ではあるが、今の白龍にとっては何よりも立派な自室だった。
何もかもが誰かの手によって与えられ、管理されていた籠の中にいた昔と今はもう違う。金属器を手に入れ、協力者もいる。だというのに、心臓が激しく音を立てており、本当に走ってきたかのように息が荒い。同時に今更になって震えがくる。夢は深層心理だともいうが、馬鹿馬鹿しいと白龍はかぶりを振った。もう力無き子どもではない。今更何に怯える必要がある?しかし、結果としてまだ震えは収まらない。悪態を心の中だけでついて寝返りを打ったところ、
ージュダルがこちらを静かに見ていた。何をしている、とかいつからそこに、とかいつの間に寝台に入ってきたんだ、とか色々と言いたいことはあったが、赤い瞳が深く自分だけを見ている光景から、なぜか目が離せない。
「白龍」
「……ジュダ、」
固まっている白龍が言い切らないうちに目の前が暗くなって、有り体に言えばジュダルに抱きしめられていた。いつぞや宮中での焚かれた香ではなく、外の乾いた匂いがする。コイツ、まさかずっと起きていたのか?白龍には早く寝ろだの、隈が酷いだのと言って寝台に叩き込んだくせに。
「……なんの真似だ」
「まあ、何となく?」
ジュダルの行動が要領を得ないのはいつもの事だが、今の白龍にとって害が無いことだけは知っていた。
「……フン。勝手にしろ」
勝手にしろと言った途端、ジュダルが先程より少しだけ力を込めて抱きついてくる。けれど不思議と不快な感情は起こらなかった。むしろ、何かに縋り付くような印象さえあった。自分も先の夢について何も話さないでいるように、この男にも自分が知らない何かを持っていたのだろうか。
「ジュダル」
「なんだよ」
衝動的に名前を呼ぶと、当たり前のように返事がある。その温度に安心さえ感じるなんて、かつての自分が聞いたら卒倒するだろうなと考えると笑いさえ浮かんだ。
「呼んでみただけだ」
「……そうかよ」
唐突に始まって終わった会話だったが、ジュダルは特に追及もせずに受け止めたようだった。その心臓に頭を預けて、白龍もそのまま瞼を閉じる。聞こえる音は、ジュダルが血の通った人間だということを示している。
何も言わなくても、明確な言葉がなくても、自分が欲しいものを得られる事もある。いま、この瞬間のように。
遠くで聞こえる篝火の爆ぜる音がまだ、この夜が長いことを知らせていた。
終