桜色のお兄さん 年上の女性に恋をした。一目惚れだった。
佐久間翠は、いつも彼女が乗っている電車(と言われているが、実は地下鉄と呼ばれるものらしい)を利用している。きれいに塗られたマスカラ、大きく穏やかそうな瞳、高い鼻に形のいい唇。それから、軽くウェーブしている艶やかな淡い髪。ふんわりとしたスカートやクリーム色のニットも春らしく、彼女らしい。彼女を構成する全てが美しく、また儚げに見えた。
時刻は午後八時半を回った頃だろう。行き交う人々は会社員が多く、翠のような学生は少ない。それでも、翠は自宅にいたくなくて夜の街中を歩いていた。
些細な親子喧嘩だった。それがエスカレートして、母親を泣かせ、父親に殴られた。勢いで飛び出したはいいものの、行くあてなど翠にはない。このまま電車で知らないところに行ってしまおうかと考えていると、電車がブレーキ音と共に停車する。彼女が降りていく。それを追いかけるように、翠も慌てて電車を降りた。
夜の街は、居酒屋やスナックの看板で眩しい。いつもは見えるはずの電灯の星も見えないな、と翠はぼうっとそれらを見ながら歩を進める。すると、彼女のバッグから、バッグチャームがかしゃりと音を立てて落ちた。
慌ててそれを拾おうと走る。バッグチャームは拾えたが、そのせいで、反対側の道を歩いていた男の肩にぶつかってしまった。翠は小さく謝罪してその場を去ろうとしたのだが、それを男は許さなかった。
「おい、人にぶつかっておいて、言うことはそれだけか?」
「……聞こえなかったならすみません」
露骨に面倒くさそうな表情を作り、翠は自分よりも図体の大きい男に頭を下げる。すると男は、舌打ちをして翠の髪を掴んできた。
「いっ……! ちょっと、離し――」
「誠意が足りないよな? 誠意」
絵に書いたような悪役だと翠は内心溜め息を吐く。しかし、人通りの多い道でこれを繰り広げるのはいかがなものか。周囲は騒然としており、中には翠たちを避けて歩く者もいた。
「ちょっと、何してるの?」
その時、男とも女とも判断がつかない声が聞こえてきた。ふわりと漂うのは、花の香りだろうか。
男が翠の髪を掴んでいた手を離し、声のした方を見つめている。翠もつられてそちらを見ると、何と電車でいつも眺めていた彼女の姿があった。
「その子を離さないと通報するけど、いい?」
彼女はそう言って、スマートフォンを男に見せつける。男は舌打ちをしたあと翠の身体を突き飛ばして、足早に去っていった。
街の喧騒が、薄れていく。呆然としていると、彼女は困ったように笑って翠の手を取った。
「大丈夫?」
「へっ? あ、ええと、大丈夫です。ありがとうございます」
「お礼なんていいの。可愛い子が絡まれてたから、ちょっと気になって道を引き返しただけだから」
柔らかな話し方は、彼女にぴったりだ。憧れの、恋焦がれた相手と話している。その事実に頬が熱くなるのを感じながら、翠はさらに彼女を見つめる。自分よりも若干背の高い彼女は、ヒールのおかげでさらに身長が高く見える。
「……さて、と。それじゃあ本題ね。こんな時間に、こんなところで何してたの? ここはスナックとか居酒屋とかバーしかないし、子供が歩いてていい時間帯でもない」
「ちょっと、帰りたくない気分だっただけです。その、心配してくれるのは嬉しいんですけど、俺にも事情があるので」
「……そう。近くに行きつけのバーがあるから、そこで話しましょうか」
ともすれば生意気な態度とも取られそうな翠の言葉をさして気にもしていないのか、彼女はヒールを鳴らしながら翠の前を歩く。これを逃したら二度とこういう機会はないかもしれない。翠は慌てて、彼女の背中を追いかけた。
彼女の行きつけのお店は、小ぢんまりとしていて静かだ。ノンアルコールカクテルを一杯奢ってもらい、それを少しずつ飲む。甘くて飲みやすいそれは、翠の心を幾分か落ち着かせた。
名前は、と彼女に聞かれて、翠は緊張のあまり目を逸らしながら答えた。彼女はくすくすと笑いながら、自分も名乗ってくれる。
「わたしは御堂彩織。彩織でいいよ。……ねえ、もう一度聞くけど、どうしてあんなところにいたの?」
「…………その、彩織さんを追いかけてたら、たどり着いたっていうか。これ、落としましたよね?」
そう言って、バッグチャームを彩織に見せる。すると彼女は目を大きく見開いてから、満面の笑みで翠の頭を撫でた。
「ありがとう! これ、大切なものなの。気づかないうちに落としてたのね。本当にありがとう」
彩織の淡い色の髪が、バーの照明に照らされている。にっこりと微笑む彩織に見とれていると、カウンター越しに店員が話しかけてきた。
「ちょっと彩織さん。未成年捕まえて何してるんです?」
「あんたには関係ないでしょ。この子はわたしの恩人」
「キャラ作るのやめて下さい。何ですか『わたし』って。いつもみたいに喋れないんですか?」
いつも、と翠が復唱すると、彩織はばつが悪そうに視線を逸らした。意味が分からず店員の方を見ると、彼は溜め息混じりに教えてくれた。
「あのね、きみ。彩織さんはこんな格好だけど、男の人なんだよ」
「あ、馬鹿、余計なこと言うな!」
「…………おとこの、ひと?」
理解が追いつかない。そのまま言い争いを続ける二人をぼんやりと眺めながら、翠はぐるぐると思考を巡らせる。
男の人。つまり女性だと思っていた彩織は男性で、女装をしている。ようやく混乱が落ち着いてきたところに、彩織から花の香りが漂ってくる。彼女――否、彼は、両手を合わせて翠に頭を下げた。
「ごめん! 本っ当にごめんね。騙すつもりはなくて、ただどこまで自分が女に見えるか実験してたっていうか……とにかくごめんなさい!」
申し訳なさそうに謝り続ける彩織に、翠は「大丈夫ですよ」と返した。人のセクシュアリティや嗜好にどうこう言う筋合いはないし、それが彼らしく生きるための手段ならば、気にならない。
けれど、彩織を男性だと見抜けなかった自分が悲しい。男に恋をしていたのか、と項垂れていると、彩織が心配そうに顔を覗き込んでくる。その整った顔に、男だと分かっていてもときめいてしまう。
「大丈夫って顔じゃないよね。本当にごめん」
「……自己嫌悪してるだけなんで、気にしないで下さい」
翠はそう言って、ノンアルコールカクテルをぐいっと飲む。何だか、無性に飲みたい気分だった。
その勢いで、家を飛び出した理由を話す。彩織は馬鹿にするでもなく、説教するでもなく、ただ話を聞いてくれた。それが嬉しくて、また胸が高鳴る。
全てを話し終えると、彩織は優しく微笑んで言う。
「翠、それはきみが悪いよ。殴ってきた親父さんも良くないけど、きみがお母さんに対して言った言葉も良くない」
「頭では、分かってる。けど、俺はどうせいらない子だし、家にいない方が……」
「いらない子だって、誰が言った? 親父さんもお母さんも言ってないし、絶対にそんなこと思ってない。今ならまだ電車動いてるし、早く帰って親御さん安心させな。駅まで見送ってあげるから」
彩織は翠の頭に手を乗せて、ぽんぽんとあやすように叩く。優しいその手つきに、心底安心する。彼が女性ではないと理解していても、心臓がうるさくて仕方ない。
どうやら、自分は『御堂彩織』という人間そのものに惚れてしまったようだ。愛と呼ぶには幼いその感情を持て余したまま、翠は真っ赤になった顔を見られたくなくて俯いた。