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    ドッペルゲンガーだった鶴丸と、一振り目の大倶利伽羅の話

    #くりつる
    reduceTheNumberOfArrows
    ##ドッペルゲンガー

    ドッペルゲンガー、恋を知る。第三話 本丸の道場はすぐ埋まってしまうため、個人で素振りなどの鍛錬をする場合は大抵、本丸施設の外を使う。これは以前、一振り目の鶴丸もそうだと言っていた。積極的に手合わせをする相手を探すならば道場、そうでないのならそれ以外、というのは暗黙の了解のようだった。たまに、掲示板に模擬戦の予定が掲示されているので、もう少し力をつけられたら参加するのもいいかもしれない。
     汗で木刀が滑る。あ、と思った隙に首筋に木刀が突きつけられた。これで今日は6対2。もちろん、鶴丸の負けである。くそ、と舌打ちして木刀を拾った。大倶利伽羅は手加減をしない。だから悔しさはあっても苦しさはない。
    「木刀に慣れすぎるのもよくないかもしれない」
     特にお前は、と大倶利伽羅が鶴丸分の水筒を放り投げながら言うので、鶴丸は慌てて受け取った。
    「俺もそう思う。なんでかな。刀の自分と肉体を持った自分が、少しズレているような気がする」
     あれから随分と眠れるようになったしこうして鍛錬もできるようになったが、出陣するにはまだ遠い。こう、としっくりくる動きが取れないのだ。
    「ただ本体を使うと、きみと手合わせができない」
    「素振りくらいならできる」
     本丸内での真剣は素振りの際以外は原則禁止だ。年に三度、主立ち会いのもとで特別な模擬戦が行われるが、ここでのみ真剣の手合わせが許可されるという。残念ながら、鶴丸が顕現したときにはもう今年一回目の特殊模擬戦は終了しており、二回目はまだ先のこととなる。
    「たぶん、お前は全体的に肉体に慣れていない。ほかの二振り目も、ここまで酷くはなかったという話だが」
    「ん。二振り目の伽羅坊も、こういうふうではなかったというし。青江も、三日月もだな。そういえば、あともうひとりって誰なんだろう」
    「それは俺も知らない。あまり話題に出すようなことでもないからな」
     大倶利伽羅は数年、この本丸を不在にしていた。その間に増えた刀剣男士を覚えるだけでも一苦労だ。下手に知っている分、鶴丸より苦労がある。本丸も何度か増改築を繰り返しているため、大倶利伽羅が書庫へ行こうとするも見つからず途方に暮れた、という事件もあった。この性格だ、人に聞こうとは思わなかったのだろう。ちなみに書庫は、昔は一部屋で納まっていた蔵書が数年で急激に増えたため、今は単独で建物が存在しており、いくら探したところで見つかることがなかったというオチである。
    「墓はあったがな。そういえばきみの墓、あれ、どうしたんだろう」
    「さてな」
     大倶利伽羅が折れてしまったと思った主は、墓を作った。鶴丸も見たことのある、庭にひっそりと存在している簡素なものだ。三日月も、あれに花を手向けることがあるのだという。実際のところ、大倶利伽羅の墓の下には破片もなにもなくて、こうして折れずに生きて帰ってきたわけだが。それでも、帰ってくることのない大倶利伽羅を想って墓を作った主の心境を考えると、直接聞くのには気が引ける。
    「きみはあんまり、自分がいなかった間のことを気にしないよな」
     水筒の水は冷たい。本当は運動をする際に冷たいものを飲むとよくないと燭台切が話していたが、生き返る心地がする。
    「任務に関する情報は知っておいた方がいいとわかっている」
     大倶利伽羅はこの本丸で三番目に顕現した刀だ。そのころとは戦の仕方も大きく変化した。今はまだ出陣許可が下りていないが、大倶利伽羅が過去の任務に関する記録を読みあさっていることを鶴丸は知っている。なにせ、毎晩大倶利伽羅の部屋へ行くのだ。
     だが、鶴丸の言いたいことはそういうことではない。
    「この本丸の思い出ってやつだよ。きみがそんな態度だから、気を遣って光坊が思い出話のひとつもできないんじゃないか」
    「あいつは、気を遣うところがおかしいと思う」
    「それはそう」
     気を遣いすぎだな、とは鶴丸も思っている。
    「きみは、円滑な『こみゅにけいしょん』とやらを取る努力をした方がいいぜ。あんまり主や光坊に苦労を掛けたくはないんだろ」
     大倶利伽羅が押し黙る。やはりそのふたりについては、負い目を感じているようだった。
     大倶利伽羅が帰ってきた際のふたりの喜びようといったら、それはもうすごいものだったという。特に主などは、一振り目の鶴丸が折れるところに二振り目の大倶利伽羅を送り込んでしまったとあの日はずっと泣いていたらしく、それがふたりが重傷を負いつつも帰ってきたこと、そしてその手に握られていたのがもう戻らないと思っていた一振り目の大倶利伽羅だったということでほとんど卒倒に近かったらしい。その光景を想像し、くすりと鶴丸は笑った。
    「せっかく帰ってきたんだ。きみがどんなに馴れ合わないという信条を抱いていようが、世界の方がきみに関わってくる。ならちゃんと、大事にしておけ」
     もう、折れるような事態にはなってほしくはないが、後悔だってしてほしくもない。
    「別に、思い出など、これからだって作れるだろう」
     どこか拗ねたような声で、大倶利伽羅は返してくる。
     ぱち、と鶴丸は何度か瞬きをしたあとに大倶利伽羅の顔を覗き込む。それから逃れるように、大倶利伽羅は顔を逸らした。
    「きみなあ。……それ、光坊に直接言ってやれよ」
    「絶対に嫌だ」
     
     鶴丸が顕現してから二月が経ち、それでもまだ鶴丸と大倶利伽羅には出陣許可が下りていない。鶴丸に限らず、二振り目として顕現した刀たちも一月以上は出陣させていなかったようだし、大倶利伽羅に至っては一度刀に戻るくらいには消耗しているため、この待機期間を長すぎると非難するわけにもいかない。とはいえ、やはり早く戦場に立ちたいものである。
    「大倶利伽羅は少し回復が遅いようにも思うけど」
    「そうかい?」
     青江の言葉に、鶴丸は首を傾げた。
     今日の鶴丸の役目は、書庫整理の手伝いだ。返却された本をワゴンに積み、元の棚へと戻していく。本丸も大所帯になれば本の好みも異なるらしく、二階建ての書庫には様々なジャンルの本が棚いっぱいに詰まっている。今は利用者がいないため、こうして話しながら作業することができた。
     青江の方が当然、作業が手慣れており、鶴丸は彼に教わりながら仕事を覚えている。本丸の仕事は多岐に亘り、鶴丸もお手伝いという立場ではあったがやることが多かった。
    「僕らのような特殊な二振り目の現象はほかの本丸にはなさそうだけど、霊力切れで刀に戻るっていうのは大倶利伽羅以外にも例があるらしいよ。大倶利伽羅は、人の形にはすぐ戻れたけど、そこから先がね」
     まだ戦場に立ったことのない鶴丸とこの本丸で三番目に顕現した大倶利伽羅には実力の差があるが、それでも圧倒的と呼べるほどではない。大倶利伽羅がいなくなったのは本丸黎明期のころだからというのもある。しっかりとした実力を身につける前に、大倶利伽羅は長い時間を喪失してしまった。そのうえ快復に時間が掛かっていることを大倶利伽羅がもどかしく感じているようであることを、鶴丸は知っている。
    「ただ、そろそろ大倶利伽羅も遠征程度には行かせてもいいだろうと、主が」
    「それは楽しみだ!」
     まるで自分のことのように嬉しくなって、こんなところではなかったら飛び上がってしまうところだ。大倶利伽羅がどれだけ努力し続けたか、きっとこの本丸の中では鶴丸が一番よく知っている。彼の努力が報われるのであれば、これほど喜ばしいことはない。
    「昨日の近侍は僕だったからね。話の折に。まだ決定事項じゃないから、過度に期待しないでおくれよ」
    「わかっているって」
     それでも、嬉しさで胸いっぱいになる。顔が緩んでしまうのを自覚する。ああ、早く教えてあげたい。けれどまだ決定事項ではないから、下手に期待させてしまったらよくないだろうか。浮き足だった様子の鶴丸に、青江は微笑む。
    「身体にはもう慣れた?」
    「ああ。ただのドッペルゲンガーだったころとは勝手が違うから、最初は食べるのにも寝るのにもうまく行かなかったが。けれど、一振り目の伽羅坊がなにかと面倒を見てくれるから助かる。あいつは良い子だな」
    「へえ、あの大倶利伽羅がね」
     青江が感心したように言う。もともとぶっきらぼうな性格だから、驚きを感じているのだろう。これには苦笑するしかない。
    「俺がまだこんなんだから、放っておけないんだろうな。口ではああ言っているが、意外と面倒見がいい方なんだ。俺もきみもその時期を知らないが、あいつ、この本丸の黎明期に顕現したんだろ。だから余計なんだろうな。早くちゃんと独り立ちしてしっかりしたいとは思うが。あいつには本当に不便ばかり掛けている」
     足を引っ張っている。事実としては、そうなのだろう。
     お互いに半人前以下ではあるものの、大倶利伽羅の方が戦場に立ったこともあるし、刀剣男士としての歴は長い。一方の鶴丸は、まだまともに戦えそうにもないのだ。大倶利伽羅が鶴丸に時間を使う分、大倶利伽羅は自分に使える時間を減らしている。はっきりと口にすれば関係を崩しそうで、結局口を噤むしかない。
     そこまでして大倶利伽羅が鶴丸のことを信じてくれているのであれば、鶴丸はやはり、それに応えるべく行動し続けるだけだ。礼を言うのは、戦場に立ってからと決めた。
    「そういえば鶴丸さん、前に大倶利伽羅の部屋から出てきたのを見たけど、仲がいいんだね」
     青江がなにかを探るように鶴丸を見る。うん、と隠す必要もないので、鶴丸は正直に答えた。
    「まあ、毎日出入りしているけどな。あいつの部屋は居心地がいい。となりの部屋なのになにが違うんだろうな。風水とかかね」
     寝られるようにはなったが、まだひとりではうまく眠れない。結局、鶴丸は未だに大倶利伽羅に寝かしつけられているのが現状である。
     まるで幼子のようで、けれど大倶利伽羅も拒まないから、そのままだ。
     鶴丸がそう説明すると、青江がなにか考え込んでいる。
    「それだけ?」
    「それだけだ」
     鶴丸としては未だに寝かしつけられないと眠れないというのは恥ずかしいことだが、青江も言いふらすようなこともしないだろう。そのあたりは、信頼している。
     なにをそんなにも疑っているのか、と鶴丸は首を傾げる。
    「あとは、まあ毎日のように昼間は鍛錬しているし、その反省とかかな。あいつが過去の任務の記録をよく読んでいるから、俺もそれで勉強している。あいつ、鬱陶しいと思っていても布団からは追い出すことがないんだ。優しいだろ」
    「……仲がいいって、素晴らしいことだね」
    「おう」
     鶴丸としては、大倶利伽羅が良い奴だと知ってもらえることは嬉しい。あの性格だ、誤解されやすいとは本人もわかっているだろうが。
    「それ、二振り目の大倶利伽羅とも同じことできる?」
    「え?」
     青江の問いに想像してみるが、すぐに霧散する。
    「そんなこと、そもそもしようとも思わないな。二振り目の伽羅坊は、一振り目の俺と『好い仲』だろ。任務中ならともかく、あいつらの時間を必要以上に取ったりはしないさ」
    「へえ、それは知らなかったな」
     青江が目を丸くする。
     あの二人が自分たちから関係性を告げたことはないが、あのふたりが特別な仲であることを、鶴丸が一番よくわかっている。
    「二振り目の大倶利伽羅は、以前あまり誰かに積極的に関わろうとはしなかったし、一振り目の鶴丸さんも、人付き合いはよかったように見えるけど、大倶利伽羅や主にある種の罪悪感を抱いているようだったしね。それが良い方に変化しているのなら、僕としてはよかったよ。それがどういう名前の関係性になっていたってね」
    「そうだなあ」
     その辺りのことは鶴丸よりも昔からいる青江の方が強く感じているのだろう。
     鶴丸が見た本丸の澱みのようなものは、きっとごく僅かでしかない。数年間、この本丸は停滞していて、特に二例目である二振り目の青江は歯がゆさのようなものを味わったに違いない。
     今は二振り目の大倶利伽羅も、主やほかの本丸の刀剣男士たちと普通に話せているようだった。今日も朝餉の時間に主と話している姿を、鶴丸は遠くから見ていた。ふたりが気兼ねなく話せるようになったことを、よかったと思う。
     逆に、一振り目の大倶利伽羅はみんなに戻ってきたことを歓迎されつつも、二振り目の大倶利伽羅に居場所を譲っているように見えることについて、これははたして時間が解決してくれるだろうか。先日一振り目の大倶利伽羅には苦言を呈してみたが、あれは性格もあるだろう。どちらの大倶利伽羅も交流に積極性を持たないのは、悪いときはとことん悪い方向へ向かう。多少ではあるものの今はお互いに話すようにはなったようだから、前より随分ましになったようではあるが。
    「だから、正直二振り目の鶴丸さんがいて、安心したところがあるかな。あなたは大倶利伽羅がどんな反応しても、引っ張ってくるから」
    「それ、光坊にも言われたな」
     だろうね、と青江は返す。
     期待、のようなものなのだろうか。鶴丸としては自分勝手に行動しているだけだ。別に彼らを安心させたくてやっているわけではないから、どうにも、そういうふうに言われると却って居心地が悪くなってしまう。
    「一振り目の鶴丸に対して、みんなも同じ感想を抱いたんだろうか……」
    「さてね。そのとき僕はまだ顕現してはいなかったから」
     二振り目の青江が顕現したのは、一振り目の鶴丸が顕現してから何ヶ月も経ってからのことだ。
    「俺は、一振り目の俺と同じ過ちを犯してしまったりはしないかな」
     鶴丸は、一振り目の大倶利伽羅を思って行動しているわけではない。大倶利伽羅と一緒にいるのは安心できるからで、楽しいからで、けれどそこに大倶利伽羅の意思は内在しない。
     鶴丸の言葉に、青江は何事かを考えたあと、ゆっくりと口を開いた。 
    「一振り目の大倶利伽羅と、二振り目の大倶利伽羅の違い。鶴丸さんは考えたことはあるかい?」
    「いいや。俺が顕現したときの状況が状況だったから、一振り目の方と一緒にいることが多いが」
     唐突な問いに、鶴丸は首を傾げる。
    「そう。考えてみたら、わかることがあるかもね。僕は、鶴丸さんが過ちを犯しているようには思えないよ。一振り目の鶴丸さんに対しても、そう思っていた。けれど、本人たちにしかわからないことってあるだろう。だって、一振り目の僕と二振り目である僕がうまくやりすぎてしまったことだって、見方によっては過ちと呼べなくもない」
    「俺は……そうは思わないぜ」
     一振り目の青江と、二振り目の青江。彼らがうまくやっていなかったら、わからないことだらけだっただろう。青江からその先に顕現した二振り目だって苦労したはずだ。青江の引き継ぎがうまくいきすぎた分、二振り目の大倶利伽羅への対応が罪悪感を伴い距離を生んでしまう結果になったとしても、だからといって青江が悪いわけではない。
     だろう、と青江は肩を竦める。
    「そう。結局過ちって断ずることができるのって、本人たちだけなんじゃないかな。それで、第三者にそうじゃないって言わせるのって、卑怯なことでもある。というか、過ちかどうかって、答えるほうはどっちで答えたとしても、良い気分にはならないじゃないか。ずるいよ」
    「それはそうだな。……ごめん」
     いや、と青江は首を振る。
     確かにそうだ。かつて、まだ鶴丸がただのドッペルゲンガーだったころ、一振り目に対してもやもやとしたものを抱えた正体とはこれなのかもしれない。あのとき一振り目は自分の行動を過ちだと断言し、その過ちを解消する役目を鶴丸に押しつけた。結果的に一振り目の大倶利伽羅の帰還によって主や本丸の刀剣男士たちによる二振り目の大倶利伽羅に対する後悔や罪悪感は薄れたものの、今だって一振り目の鶴丸の行為は勝手だと思うし、正直なところ鶴丸は許していないのだ。思い出したら、段々と腹が立ってきた。
    「こんな話ができるのも、一振り目の鶴丸さんや大倶利伽羅が戻ってきて、あなたが顕現したからなんだろうね。そういう意味では、あなたはこの本丸にとって良い風をもたらしたと思っているよ」
    「そうかなあ」
     鶴丸には、いまいちピンとこない。
     けれど、そうだよと青江が微笑む。
    「二振り目の大倶利伽羅も、一振り目の鶴丸さんも、主も、みんな抑圧されてきたからね。というより、自分の感情で勝手に押しつぶされてしまった。あなたはあなたの、好きにするのがいいよ。きっとそれが一番なんだ」
    「ん。……そうすることにする」
     同じ二振り目というだけあって青江とはよく話をするが、大倶利伽羅はあまり口数が多いほうではないし、三日月はぽやぽやとしているから、二振り目同士でもこういった話が一番しやすいのは青江かもしれない。
     話しながら作業をしているからなかなか進まない。このままでは次の仕事が押してしまう。慌てて鶴丸は本が積まれたワゴンを押した。
     今鶴丸たちが回っているのは任務記録がまとめられた一角だ。ここは返却物だけではなく、最近綴った分も棚に納めなければならない。
    「あれ、誰か借りたものをまだ戻していないかな」
     棚にはいくつか空きがある。ああ、と鶴丸は声をあげた。
    「多分、一振り目の伽羅坊だ。あいつ、自分がいなくなってからの任務記録をよく読んでるんだ。その辺り、勉強熱心だからな。多分本丸が出来上がって三年目のあたりは、今欠けているはずだぜ。いくつかは今ワゴンに入っているはずだ」
     書庫は貸出簿などが作られていないようで、持っていかれた本が現在誰が所持しているのかまで管理していないようだった。なので読みたい本がなかった場合、掲示板などで次に借りる予定だから部屋まで持ってきてくれなどという伝言が残されていたりする。正直なところかなり不便ではあった。
    「ああ、確かに。ん。いや、ほかにもないかな。ちょっと少ない気がする。どの時期のだろう。僕が顕現する前のかな」
     ひとまず返却された分だけでも棚に戻していく。
     任務記録は紙を綴り紐でまとめているだけなので、背表紙がない。ざっくりと年ごとに棚板を分けてはいたが、その年で順番通りに並べ替えるにはいちいち中身を読んで日付を確かめないといけないのが不便だった。
    「……まあ、いいか。任務記録を読み直す機会なんて、実際はそう多くないからね。特別な任務の記録は別でデータにもまとめられているから読み返すのって大抵そちらばかりなんだよ」
    「だから管理がなあなあになって、こういうときに苦労するわけだ。せめて、月ごとに綴り紐の色を変えるっていうのはどうだい。それならもう少し管理もしやすいだろ」
    「なるほどね。主に提案してみるか。案外、鶴丸さんはこの仕事に向いているのかもしれないな。やっぱり新しい視点って大事だよね」
     どうせ今はあまり仕事がないんでしょ、と直球で言われてしまい、確かにその通りなので頷くしかない。燭台切や歌仙など、自分の得意なところで任務以外に固定の仕事を持っている刀はいて、そういった者たちはある程度内番が免除になっている。
     やりがいがある、かどうかは別として、今まだお手伝いとしての役目しかないのであれば、そういった仕事を固定で貰うのもいいかもしれない。少なくとも、畑当番よりはよほど自分に向いている気がした。
     そう考えていると、遠く、鐘が響く音がした。部隊が帰還した合図だ。負傷者はいるが、重傷者はいない。たしか、今出ている部隊には二振り目の大倶利伽羅がいたはずだ。
    「ここはやっておくから、鶴丸さんは部隊を出迎えてくれるかな」
    「ああ、わかった」
     部隊の出迎えは、結構な大仕事だ。水を渡したり、馬を引き取って厩へと連れていったり、重傷者がいれば手入れ部屋まで運ぶ必要がある。手が空いたらできるだけ部隊を出迎えるというのが今の鶴丸の一番優先すべき仕事だった。まだ出陣や遠征が許されていない今、ひたすらに使いっ走りをする。もちろんこれも、重要な役割だった。

     鐘の音で予めわかってはいたが、怪我をした刀剣男士もそこまで傷は深くないようだった。自分で立てる程度にはぴんぴんしていて、鶴丸から水筒を受け取り、逆に任務先へ持っていった荷物を鶴丸へと渡して手入れ部屋へと歩いていく。
     二振り目の大倶利伽羅は怪我もないようで、水筒から水を飲んでいた。
    「おかえり」
    「ああ」
     鶴丸の声に頷きつつも、大倶利伽羅は辺りを見回す。
    「一振り目なら、急遽買い出し中だぜ。そろそろ戻ってくるんじゃないか」
    「……別に、聞いてはいないが」
    「きみが探すような心当たりがほかにはないものでね」
     堪えきれず、くつくつと鶴丸は笑う。大倶利伽羅は逆に眉間に皺を寄せて押し黙った。こういうところは、素直だ。
     一振り目の鶴丸は、本丸にいるときには必ず大倶利伽羅を出迎えているようだった。というのも、帰還した際に鶴丸が本丸にいないことに対し、大倶利伽羅がある種のトラウマのようなものを感じているのを一振り目は気にしているらしい。どちらの気持ちもよくわかる。
     大倶利伽羅が帰還したときに鶴丸がいるはずの部屋は真っ暗で、鶴丸は大倶利伽羅へなにも告げず、折れること覚悟に任務へと出かけてしまった。そのときの喪失感は、自分の手で取り戻したことを踏まえても大倶利伽羅の心に深い傷跡を残した。そのせいで、大倶利伽羅は自分が重傷を負っていても帰還すれば真っ先に鶴丸の姿を探す。一振り目の鶴丸はそれがわかっているから、本丸にいるときは必ず二振り目の大倶利伽羅を出迎えようとするのだ。
    「大体、今日あいつに出陣や遠征の任務がないこと、きみならよく知っているだろうに」
    「わかっては、いる」
     だが、感情はそうではない。ままならないなあ、と思いつつ、それだけお互いを大切にしているということだろう。
     話している間に、部隊のほかの連中はもう立ち去っているようだった。そうだ、と鶴丸は手を差し出す。
    「ちょっと、手を貸してくれないか」
    「なぜ」
    「いいからいいから」
     ほら、と催促するように手を振ると、首を傾げつつも大倶利伽羅は素直に自分の手を重ねた。帰ってきたばかりの大倶利伽羅の手は、少し休んだ今でも少し熱い。
     鶴丸は目を瞑り、唸った。
    「んんんん。なんというか、同じくらいのぬくさではあるんだが、ちょっと違う、ような」
    「なにを訳のわからないことを」
     呆れた様子の大倶利伽羅に、鶴丸は経緯を話すことにした。つまり、青江に一振り目と二振り目の大倶利伽羅の違いについて考えてみろと言われたことだ。 
    「一振り目の伽羅坊は、なんだか、温泉に入っているような、じんわりくる温かさなんだよな。きみとは違う気がする」
    「それは……。たぶん、お前は一振り目に対して、俺に対してとは違う感情があるからじゃないか」
     ぱちん、と鶴丸は瞬きをした。
    「感情?」
    「安心だとか、信頼だとか、そういうものだ。俺よりもあれとの方が、過ごしている時間が長いだろう。その分、感情の差はある」
    「ああ、なるほど。考えてみれば、俺にとって一振り目の伽羅坊は癒やし担当なのかもなあ」
     出逢いは二振り目の大倶利伽羅との方が先だったが、話したり、手合わせをしたりと、一緒にいる機会は一振り目の大倶利伽羅の方が圧倒的に多い。
     一振り目の大倶利伽羅には、一緒にいて安心を覚える。あたたかくて、いつまでもぬるま湯に浸っていたい気持ちのような。
     うんうん、と頷く鶴丸に、呆れたように大倶利伽羅は溜め息を吐く。
    「きみは一振り目の俺と、二振り目である俺に、どう違いを感じている?」
     大倶利伽羅はじっとりとした視線で鶴丸を見た。
    「……あいつのことは馬鹿だと思うが、お前のことは阿呆だと思っている」
    「どう違うのかさっぱりとわからん」
     大体同じような意味ではないだろうかと鶴丸が疑問に思っていると、門が開いた。噂をすればなんとやら。一振り目の鶴丸が戻ってきたのだ。
    「おお、おかえり。おつかれさん」
     労るように笑いかければ、がしゃん、と鶴丸が持っていた袋が手から滑り落ち、瓶が派手に割れる音がした。
     大倶利伽羅は慌てて掴まれたままだった鶴丸の手を振りほどき、一振り目の鶴丸の方へと駆け寄る。
    「おいおい、大丈夫か」
     アルコールの匂いがする。割ったのは酒瓶のようだった。じわじわと地面に液体が広がっていく。袋の中身は酒瓶だけではないだろう。無事なものは避難させないと、と鶴丸は腰を下ろし袋をひっくり返した。幸いにも紙類などはないようだった。酒瓶以外に破損はなく、あとは洗って乾かせば大丈夫そうだ。
     一振り目の鶴丸は破片を拾おうとして手を伸ばす。
    「痛ッ」
     短い悲鳴とともに、その手はすぐに破片から離れる。ぽたり、と赤い血が地面へと滴りおちた。
    「素手で破片に触るな。……深いな」
     大倶利伽羅が止血しようと一振り目の腕を掴むが、一振り目は俯いたまま手を振り払った。
    「汚れる」
    「気にしている場合か。手入れ部屋へ連れて行く。片付けは頼めるか」
     大倶利伽羅が一振り目の指に水をかけたあと、タオルで押さえて止血する。帰還したばかりだからよかった。手入れ部屋も、今日は幸いにして負傷者が少なく、一振り目の鶴丸が入ってもまだ余裕がある。
     ああ、と鶴丸は頷いた。しかし怪我をした当の本人が、首を振った。まるで拗ねた童のような動作である。
    「ひとりで行ける」
    「手間を掛けさせるな。お前はいつもそうだ」
     なにやら険悪な雰囲気になりかけているのを、一緒に買い物に行っていた一振り目の大倶利伽羅が手を振って追いやった。
    「やり合っている時間があるならさっさと行け。そろそろ第二部隊が帰還する時間だろう。一振り目の鶴丸も、意地を張っていないで手入れを受けてこい。戦う者にとって指先が大事なことくらい、わかるはずだ」
    「意地を張ってなんか……」
    「――俺にそういう物言いをする時点で、意地を張っていると言っている。まさか、今の俺が戦力として成り立たないから、俺の話など聞く価値はないとでも?」
     ふたりが睨み合うので鶴丸としては居心地が悪い。なぜさらに空気が重くなるのか。
     一振り目の大倶利伽羅は、敢えてこういう発言をすることで一振り目の鶴丸の逃げ道を塞いでいる。案の定、一振り目はぐっと押し黙った。
     助けを求めるように二振り目の伽羅へ視線を向ければ、彼は小さく頷き指先を押さえたまま一振り目の鶴丸を引っ張った。乱暴な仕草に、一振り目の鶴丸が悲鳴をあげる。
    「痛い、指がもげる」
    「もげても一緒に手入れできるだろう」
    「もう!」
     大騒ぎをしながら去って行くふたりを見送る。息を吐いてようやく、緊張で息を止めていたことに気がついた。
    「なんだか機嫌が悪かったな、一振り目」
    「……そうだな。箒とちりとりを持ってくる」
     変な間だ。まるで、機嫌の悪い原因がわかっているかのような。しかしその内容に触れないということは、敢えて伝えないという選択をしたのだろう。鶴丸としてはなにがなにやらわからないが、大倶利伽羅がそういう判断を下したのであれば、ひとまず今はそっとしておくことにした。
    「俺が片付けておくぜ? きみも帰ってきたばかりだ、疲れているだろ」
    「買い出し程度で疲れるはずもないだろう。それより、第二部隊がすぐに帰ってくるから目印として立っていてもらわないと困る」
     確かに、と鶴丸は納得する。誰かが踏んだら、またそれはそれで面倒だ。
     去って行く背中を見送り、鶴丸はその場に再度しゃがみこむ。
     この酒は、私物だろう。二振り目の大倶利伽羅と飲む予定だったのだろうか。
     あんな風に一振り目の鶴丸が感情をあらわにするだなんて、と驚いた。――自分が折れるかもしれないというときにも、それを受け入れていたのに。
     ぼうっと考え事をしていると、ようやく箒とちりとりを持った大倶利伽羅が戻ってくる。
    「待たせた」
    「おう」
     大倶利伽羅が箒で地面を掃いている間に、鶴丸が無事なものを除ける。食品とは袋が別で助かった。無事に第二部隊が帰還するまでに作業が終えられそうだ。とりあえず酒に濡れたものは丸洗いして干しておこう。
     立ち上がり、大きく伸びをする。そうしてふと思い至り、鶴丸は大倶利伽羅に手を差し伸べた。
    「なあ、手を貸してくれないか」
    「どうした、急に」
     首を傾げつつも大倶利伽羅は作業していない方の手を鶴丸へと差し出した。その手を、鶴丸は掴む。なんとなく落ち着かなかった不安のようなものが、消えていく心地がする。
    「やっぱり、俺にとってきみは癒やし担当なんだよなあ。いや、別に二振り目の方に癒やされないって訳じゃあないんだが」
    「さっき二振り目の手に触れていたのと関係があるのか」
     ああ、と鶴丸は頷く。
    「青江に、きみたちの違いについて考えてみたらどうだと言われたのさ。きみは、俺たちに違いを覚えるかい。ちなみに、二振り目の伽羅坊には、一振り目が馬鹿で俺は阿呆だと言われてしまったんだが」
     肩を竦めると大倶利伽羅が短く息を吐く。笑ったのだ。
    「納得だな」
    「なんだよ」
     唇を尖らせた鶴丸を尻目に、大倶利伽羅は手を離し作業へと戻った。空いた手はなんだか寂しくなる心地がして、思わずぎゅっと握りしめる。
    「お前は、一振り目の鶴丸国永より、素直な方だとは思う」
    「それって褒めてるのか? まあ、同感ではある。あいつ、意地張るからな」
     先ほどもだし、あの騒動のときもそうだった。おかげで苦労したものだ。反面教師にもしたくはなる。
    「あいつは頭の中でごちゃごちゃと考えてすぎているから、その思惑に乗ると共犯関係のようだと思うことがある。お前は考え方がシンプルだからそういうことがない」
    「やはり褒められている気がしない」
    「共に過ごすには、気が楽だ」
    「お、おう……」
     意外にもちゃんと褒めているようだった。思わず動揺してしまったし、少し照れくさくなる。握りしめた手を、照れを隠すように開いたり閉じたり繰り返した。少しだけあった寂しさのようなものは、いつの間にか消えてしまったようだ。
    「俺も、きみといるのは気が楽だ。安心できる。きみには、迷惑ばかりかけてしまうが」
     今も毎日毎晩大倶利伽羅の部屋で共に過ごしている。もともとひとりを好む性格だから、追い出すことこそないものの多少ストレスは感じているだろう。
    「今更だろう。これから先どんな目に遭おうが、こんなものだと諦めている」
    「諦めが良すぎる」
     そんなんだから俺みたいなのにつけこまれるんだ、と呆れてしまう。本当はただ単に優しいだけなのに、自分でも無自覚だからタチが悪い。大倶利伽羅の優しさは押しつけるようなものではなく、だからこうも安心できるのだろうか。
     
     その日の夜、鶴丸はいつものように大倶利伽羅の部屋へと訪れた。
     毎日のことだったので、枕は大倶利伽羅の部屋に置きっぱなしである。もう布団も大倶利伽羅の部屋に運んでしまおうかと思ったこともあったが、そこまでしてしまうと引き返せないような気がして怖い。これでも、いつかは自立して独り寝できるようにならねばとは考えているのだ。
     大倶利伽羅の部屋で、眠る前はお互いに話したり、話さなかったり。大倶利伽羅は昔の任務記録を読むことが多く、鶴丸もその横で大倶利伽羅が読み終わったものを少しばかり拝借して読むことがあった。
     任務記録は、そこまで詳細なことを記載はしていない。部隊編成、天気、出陣先、敵の数。そういったものが毎日記載されているくらいだ。政府から直々に下された任務については青江が言っていたように別途詳細な記録がつけられているようで、ここにある任務記録は大倶利伽羅の日記くらい退屈なものだった。流石に、本人に告げることはないが。
     そうしているうちに眠くなった大倶利伽羅がそろそろ寝るぞと告げ、いつものようにホットミルクを持ってくる。たまに鶴丸が作ることもあるが、なにが違うのだろう、少しだけ味が異なる気がするのだ。
     そんなふうに毎日の夜は穏やかに過ごしていたのだが、今日鶴丸が部屋を訪れたとき、大倶利伽羅は布団の上で腕を組み、なにやら難しい顔をしていた。
    「どうしたんだい」
     急ぎ、障子を閉める。今は不寝番が廊下を通り掛かる時間ではなかったが、念には念を。あまり良い話ではなさそうだ。
     しかし、鶴丸の予想に反して大倶利伽羅が告げたのは紛れもない吉報だった。
    「……明日、遠征出ることになった。慣らしで一日」
    「よかったじゃないか! 羨ましいなあ」
     青江に話は聞いていたが、どうやら確定したらしい。まるで自分のことのように喜ぶ鶴丸に対し、大倶利伽羅は気まずそうに目を逸らす。
    「先にで、悪いとは思うが」
    「そんなことはないさ。帰ってきたきみを、一番に出迎えてやる」
     きみが努力してきたことを誰よりも俺がよく知っているからなと微笑みながら鶴丸は大倶利伽羅の正面へと腰を下ろした。深刻そうな顔をしていたから何事かと心配してしまったではないか。
    「土産話、待っている」
    「遊びにいくわけじゃない」
    「わかっているさ。けれど、きみの目から見る景色、きみが語る世界に、触れてみたいと思うのさ」
     それはどんなに美しいものだろうかと想像する。
     この刀がどんな風に世界を感じ、どんな風に彩って鶴丸へ伝えてくれるのか。
     想像するだけでわくわくしてしまう。
    「昼に出立して、翌日戻ってくる」
    「そうか。じゃあ久々にひとりで眠るのか」
     ひとりの夜は久しぶりだ。大倶利伽羅もそれを気にしていたらしい、不安げな視線を鶴丸へと向けてくる。
    「寝られるのか」
    「まあ、うん。きっとな。寝られなかったとしても、一日だけさ。もし、寂しくなったらこの部屋で眠ってもいいかい」
    「……勝手にしろ」
     鶴丸自身よりもよほど、大倶利伽羅の方が鶴丸を心配してくれている。そのことになんだかむず痒いものを感じてしまう。
     ――眠れなかったら、ではなく、寂しくなったら。
     思わずそう口にしてしまったが、大倶利伽羅が断ることはなかった。
    「きみはいつだって、俺の勝手を許してくれる」
     だから大倶利伽羅のとなりは居心地がいいのだ。

     翌朝、大倶利伽羅が久しぶりに遠征に出ることもあり、いつもより朝早く目覚めてしまった。大倶利伽羅本人よりもどうにも落ち着かない気持ちになってしまうのに苦笑してしまう。となりを見れば大倶利伽羅は鶴丸に背を向ける形で眠っている。
     大倶利伽羅と一緒に眠るようになり、以前のような体調不良に近い症状はなくなった、と思う。少なくとも眠れないなどということはないし、力が抜けるようなこともない。やはりあれは極度の寝不足に原因があったのだろう。今夜、はたして眠れるだろうか。しかしここで眠れないなどとは言うことはできない。せっかく遠征に行けることになった大倶利伽羅を不安にさせたくはない。それに、眠れないとしてもたった一日のことだ。それくらい、眠れずともなんとかなる。
     しばらく大倶利伽羅の背中を眺めていると、その背中が揺れる。
    「おはよう」
     声をかけるとはっきりと覚醒したのか、ん、と短い返事があった。大倶利伽羅は朝に強いから、すぐに上体を起こし、大きく伸びをした。
    「出立は昼からだったな。それまではどうする?」
    「無理はしない程度に身体を慣らす」
    「手合わせはやめておくか。食事が終わったら少し歩かないか。俺も今日、昼までは空いてる」
     わかった、と大倶利伽羅が立ち上がり着替え始める。鶴丸も布団を畳み、自室へと戻った。夜になると一緒に眠ってはいるが、それだけで、服やら洗面用具やらは相変わらず自室に置いている。
     身支度を調え顔を洗ってからふたりで並んで広間へと向かう。
     大倶利伽羅が食事を取ってくると言うので、彼に任せて鶴丸は先に席を取ることにした。
     広間は既に混み合っているが、僅かに空いた空間がある。ふたりで並んで座れるところはそこしかないためそちらへと向かうが、そこにいたのは不機嫌な様子を隠しもしない一振り目の鶴丸と、そんな一振り目の鶴丸に対し戸惑いを覚えている二振り目の大倶利伽羅だった。なるほど、周りのみんなが避けるはずである。このあたりだけ、体感温度が低すぎる。
    「おいおい、どうしたってんだい」
    「別に。きみには関係ない」
     むすっとした顔をしている一振り目の鶴丸に、どうしたものかと二振り目の大倶利伽羅を見るが、そんな仕草にさらに一振り目は苛立ちを覚えたのか、さっさと飯を食べて立ち去ってしまった。
    「昨日からずっと、あんな感じだ」
     二振り目の大倶利伽羅は溜め息を吐く。
    「なにがあったんだい」
    「聞いてもわからん。正直、どうしたらいいものか考えている」
     心底疲れ切った表情だ。少しだけ同情してしまう。ここが広間でなかったら、きっと鶴丸は大倶利伽羅の頭を撫でていたことだろう。
    「きみ、今日の予定は?」
    「俺は出陣で、あいつは遠征だ。一振り目の俺と」
    「ああ……一緒の部隊なのか。なら、安心だな」
     鶴丸は胸を撫で下ろす。昨日険悪な雰囲気になりかけていたが、任務中に私情は持ち込むことはないだろう。
    「一振り目の伽羅坊、今日が久々の遠征だろう。少し心配でな。かといって、俺はついていけないし、一緒の部隊になったとて、てんで役に立たないだろ。歯痒いな。……正直、悔しくもある」
     まだ一振り目の大倶利伽羅は戻ってくる様子はない。だからこそ正直に心中を吐露する。
     ここで彼の遠征に心配だと告げてしまえば、努力してきた彼を裏切ってしまうような気がする。信じていることは確かなのに、心配する気持ちを止めることもできない。だからこそ、ここでしか話すことができなかった。
    「一緒に戦うとは、どんな気分だい」
     鶴丸の疑問に、大倶利伽羅は少し考えてから口を開いた。
    「案外、なにも考えていないのかもしれない」
    「ふうん?」
    「相手はこう動くだろう、というのが考えなくてもわかる。自分がどう動けばいいのかという思考活動を、相手に委ねている気にもなる。相手の動きに自分が合わせているようで、自分の動きに相手が合わせているようにも思う。お互いにそんな感じだから、きっと、どちらもなにも考えていないんだろう」
     わかるような、わからないような。
     おそらく本当に、ふたりは「感覚」で動いているのだ。そしてそれは、信頼の証でもある。相手を信じ切っていなければできない行動だ。
    「なにも考えずに動くのは、正直気分がいい」
     大倶利伽羅の言葉に、自分が戦場に立つところを想像する。うまく、いかない。そのことが悔しい。鶴丸は自分の手を見下ろし、強く握った。まだ、歯がゆさを感じるだけの気力はある。それが救いだ。
    「俺も早く戦いたいな。それであいつと、早く同じ部隊で戦いたい」
     それは鶴丸の、今の夢だった。
     ささやかだけれどまだ遠い、鶴丸の夢。
    「俺は一振り目と一緒の部隊にはなれないだろ。あのときだって結局、戦っている姿など見れなかったし。一振り目はどんな風に戦うんだい」
     疑問に思って尋ねてみると、大倶利伽羅は即答した。
    「荒々しい。あまり、上品とは呼べない」
    「戦い方に上品とか下品とかあるのかい。外道はあるだろうが」
    「全身血まみれの姿を想像してみろ」
    「それはまあ、確かに、うん、そうだな」
     だが、返り血な分まだましな方だろう。かつて自分の血で汚していた姿を思い出すとぞっとする。あれから一振り目が重傷になったことはないが、そうなったとき、鶴丸は、そしてこの大倶利伽羅は冷静でいられるだろうか。
    「ただ――」
     大倶利伽羅は続けた。目を瞑り、開く。その瞼の裏に、一振り目の姿を見たのだろう。
    「――そんな中で、あいつはその性質と在り方を見失わないから、強い」
     大倶利伽羅の瞳の奥に感じるものがあり、鶴丸は笑みを零す。そんな鶴丸の姿に、大倶利伽羅は眉間に皺を寄せた。
    「……なんだ」
     いや、と鶴丸は首を横に振った。
    「俺は一振り目と同じ部隊にはなれないが、今ので満足したと思ってな」
     美しいな、と思った。自分は実際に見ることが叶わなくとも。
     二振り目の大倶利伽羅には世界がどう見えているのか、そのひとかけらがわかってしまった。きっとその中で、一振り目の鶴丸はとても輝かしく映るのだろう。
     一振り目の大倶利伽羅は、どんな風に世界を語るのか。それを、早く知りたい。

     食事を終えてから、約束通り本丸の外を大倶利伽羅とふたりで歩いた。
     鶴丸がこの本丸に顕現してから、季節は少しずつ移ろっている。本丸中で春の花が咲くたび、同時に鶴丸の世界も色づいていった。まだただのドッペルゲンガーだったころよりも世界が近く感じる。
     雲ひとつない快晴だ。向こうの天気がどうであれ、出発日和だ。少なくとも大雨の中で出立するよりずっといい。
     今日手合わせすることができないのは残念だなと思う。少しずつ、勝てることが多くなってきた。もちろん総合的に見れば黒星が多かったが、手加減をしない大倶利伽羅から一本取れるだけで自信に繋がるし、負けたときにも反省会をすれば自分の力へと繋がる。ここ最近毎日の習慣だったから、のんびりと散歩するのは、逆に落ち着かない気持ちになった。
    「昼は食べてから行くのかい?」
    「ああ」
     慣らし、ということもあってあまり遠征の難易度は高くないという。そうはいってもやはり気になってはしまうもので、本人を目の前にしてそれを悟られないように平常心を心がけたが、当然というべきか大倶利伽羅にはお見通しのようだった。まったくもって、情けない。
    「俺が焦ったところで、とはわかっているんだがな」
    「主も心配していたからな。無理はしない」
     主は大倶利伽羅の遠征行きを相当慎重に決めたのだという。その心はわかる。一度は完全に失われたと思っていた刀だ。そして、大倶利伽羅以外ほかの失われた刀は戻ってくることはなかった。大倶利伽羅とは違い、一振り目の青江や三日月は破片が残っているし、折れたという証言がはっきりとある。本当に、大倶利伽羅や一振り目の鶴丸が奇跡的に戻ってきただけだ。そしてその奇跡に、二度目はないかもしれない。
    「ちゃんと戻ってくる」
     大倶利伽羅の言葉には、決意が込められている。そんな大倶利伽羅に、意を決して鶴丸は小指を突き出した。
    「主だけじゃなく、俺とも約束してくれ」
     まるで子供のようだと自分でも思っている。けれど少しだっていい。安心したい。約束をしたところで悲劇は防げないのかもしれない。しかし必ず帰ってくるという意思が大倶利伽羅にあるかを確かめたいのだ。その気持ちがあるのかどうか。それだけで随分と違うだろう。
     大倶利伽羅は、じっと鶴丸の小指を見た。
     そしてしばらくののち、小指に自分の指を絡める。
    「これで満足か」
    「ああ!」
     大倶利伽羅が自分の気持ちを汲んでくれたことがありがたい。帰ってくると大倶利伽羅は約束してくれた。その気持ちはあるのだと、こうして形にしてくれた。だとしたら、あとは鶴丸が信じるのみだ。
     笑って指を離そうとしたが、意外にもそれを拒んだのは大倶利伽羅の方だった。ぱちん、と瞬きを繰り返して絡み合った指を見下ろす。
    「お前も、」
    「うん?」
    「お前も、約束をしろ」
     驚いた。まさか彼がこんなことを言うとは。
     しかし鶴丸の方に断る理由などなかった。
     嬉しく思ったのだ。自分ばかりが大倶利伽羅をよすがとして感じているようで、けれど彼だって鶴丸のことを想っていてくれていることに、こんな状況ではあったが喜びを覚えてしまった。
     鶴丸は大きく頷いた。
    「約束する。これから先、遠征や出陣ができるようになっても、なにがあったとしても、必ずきみのとなりに戻ってくる」
     望んでくれるというのなら、もう遠慮はしない。
     ここが自分の居場所なのだと願いを込めて、小指に込める力を強くした。
    「いってらっしゃい、伽羅坊。きみの帰り、信じて待っているからな」

     ひとりきりの夜は久しぶりだ。
     いつもより外の音が気になるのは、毎晩話をしている相手がいないからだろう。大倶利伽羅は口数こそ多くはないものの、鶴丸の話を静かに聞いてくれていた。部屋の中に自分以外の気配がないことで、逆に落ち着かなくなるとは。
     自分の部屋で横になり、天井の木目を眺める。天井は同じはずなのに、全く違う景色のように見える。そもそも大倶利伽羅の部屋でじっくり木目なんか眺めたことはなかった。いつの間にか眠っていたものだから。
     自分の部屋で横になったが、なんだか落ち着かなくなってしまった。
     天井は同じなのに、不思議なものだ。
     結局、ホットミルクを作り直して大倶利伽羅の部屋へと向かう。この部屋で眠ってもいいかと事前に聞いてはいたものの、まさか大倶利伽羅がいないときに本当に使用することになるとは。
     ホットミルクの味はいつもと違う。大倶利伽羅が作るホットミルクは、もっと深くて優しい味がした。同じように作っているのになにが違うのか、鶴丸にはよくわからない。
     眠気はまだ訪れなくて、手持ち無沙汰になった鶴丸は文机から大倶利伽羅の日記を取り出した。
     面白みのない日記だが、自分と大倶利伽羅の日々の鍛錬の内容が書かれているのを、なんとなく、嬉しく思う。こうして文字にして読んでみると、毎日の積み重ねというものは確かに存在していて、その結果、今大倶利伽羅が自分のそばにいないのだと実感させられる。きっと、自分だって、顕現したばかりのころより強くなっているはずだ。
    「ん……?」
     再び引き出しに日記を戻そうとしたところ、引き出しが引っかかった。ああ、と納得してもう一度、今度は下の引き出しに手を掛ける。文机の引き出しは縦に三段あり、日記は二段目の引き出しにいつも入れられている。一段目のみ鍵が掛かる仕様なのだが、誤ってそちらに触れてしまったようだ。
    「日記なんだから鍵の掛かる引き出しに入れればいいのに」
     勝手に読んでおいて、そんなことを思う。どうにも、大倶利伽羅はあれでいてパーソナルスペースがふわふわとしている。馴れ合わないと言いつつも鶴丸と一緒に眠る毎日だし、鍛錬にだって付き合ってくれる。その割に全部の領域が開放的かといえば、こんな風に鍵の掛かっている部分は残しているので、ちぐはぐだ。
     いったい自分は大倶利伽羅にどこまでの領域を許されているのだろう。
     そうだ、と鶴丸は三段目の引き出しから筆記用具を取り出した。ボールペンとメモ帳。お疲れ様、と一言だけ添えて日記帳に挟む。きっと明日、見つけるだろう。そのときが楽しみだった。
     想像していると、段々と落ち着いてきた。布団に潜り、少しだけ冷えている足先を擦る。ひとりの布団は、春だというのに寒く感じる。
     今、大倶利伽羅はどうしているのだろう。そう考えて、自分は今不安ではなく寂しさを抱えているのだと気づき、そのことに変な安堵をしてしまった。
    「そっか、寂しいのか、俺」
     ふふ、と布団の中でひとり笑う。子供みたいだと思うけれど、そうなっていることが嫌ではなかった。心はどうしてこうもままならず、面白いのか。
     たった数時間離れただけなのに寂しさを覚えたことを彼に伝えたら、どんな反応をするだろうか。
     布団の中で目を瞑る。今ならばよく眠れそうだった。
     揺れる、揺れる、揺れる。大倶利伽羅のアドバイス通りに想像をする。
     子供の赤ん坊を、ゆりかごという道具に入れてあやすことがあるらしい。それに入れると、赤ん坊は安心して眠ることができるようになるのだとか。ということは、今の自分は赤子といっても相違ないのかもしれない。人間の腰に佩刀されていたときも、こういう感覚だったのだろうか。
     遠い記憶の先に、なにかがあるような気がした。
     
     鳥の鳴く声で目が覚めた。
     ひとりだから眠れない、などということはなかった。昨夜ひとりで眠れたということは、そろそろ大倶利伽羅と一緒に眠るのも終わりにしなければならない。残念だという気持ちと、大倶利伽羅を解放してやれるという気持ちが綯い交ぜになる。
     なんだかんだで、鶴丸は大倶利伽羅と一緒に夜を過ごすことが楽しかったのだと思う。鶴丸がとりとめもない話をして、大倶利伽羅が静かにそれを聞く。そんな風に過ごす夜が居心地良かった。
     一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅は同室であったが、二振り目の鶴丸と一振り目の大倶利伽羅はそうではない。一振り目の鶴丸たちが同室なのは、当初主や本丸の連中とうまくいっていない大倶利伽羅のことを慮り、一振り目が押しかけたからだ。そのときは一振り目鶴丸が、二振り目の大倶利伽羅と本丸を繋ぎ止める楔のようなものだった。そして今は、あの騒動をきっかけに一緒にいたいとお互いに再認識したからこそ、一緒の部屋で暮らしている。
     けれど、自分たちはそうではない。
     あくまで眠れない鶴丸のためを思った大倶利伽羅の善意で夜を共に過ごしている。鶴丸がひとりで寝起きできるようになったのなら、一緒に眠る理由などないのだ。
     今が春だということは、そのうちに夏がくる。そうすれば一緒に寝るのは大変だ。
    「単純に寂しいからって理由で一緒に寝てくれるかな」
     などと馬鹿みたいなことを考え、溜め息を吐きながら寝返りを打った。当然ながら、そこに大倶利伽羅はいない。
    「あいつ結構俺に甘いし、押しまくればいけそうな気もしてくるな……」
     それはそれでどうかと思うが。
     よいせ、と起き上がって窓を開ける。雲ひとつない快晴だ。せっかくだから布団を干してやるのもいいだろう。帰ってきたらそのまま眠れるように。

    「なにを作っておるのだ」
     そう尋ねてきたのは三日月で、彼は片手に茶菓子を持っていた。この本丸の三日月は甘い物が好きだ。縁側だとか東屋だとか、天気が良ければそういうところで茶菓子を食べている。今日は少し遠出してみたのだろう。
     鶴丸は作業する手を止めず、一口くれよと強請った。三日月が持っていた茶菓子は真っ白い、一口大のころんとしたもので、どんなものだか気になったのだ。
     口の中に放り込まれたそれは、焼き菓子のようだった。粉っぽくて少し咽せそうになるが、甘くて美味しい。
    「スノーボールクッキー、というやつらしいぞ。白いのは粉砂糖をまぶしているからだな。戻ればお前の分もあるかと思う」
    「なかなかおいひい」
    「で、なにを作っておるのだ」
     再度問われ、口の中のクッキーを飲み込む。喉が渇いてしまったが、残念ながら三日月もひとり分の飲み物しか用意していないようだったので、ここは素直に我慢する。
    「ハンモック、とかいうやつだ。書庫にある本で作り方が書いてあってな。いらん布などを貰って作ってみたんだ」
     実物を見たことはないが説明だけで作ることができたので、おそらく自分は器用な方だと思う。もちろん初めて作ったものだから細部は粗いが、試作品として上等だろう。それを樹にくくりつけているのだ。
    「どうだ、すごいだろ!」
    「ふむふむ」
    「きみ、聞いていないな」
     自分で尋ねておいてなんてやつだとお行儀悪く立ちながら菓子を頬張っている三日月に呆れかえる。三日月にとって、菓子の方が優先順位が高いらしい。
     まあいいか、と試しにおそるおそる座ってみる。ぎし、と樹が揺れたが案外丈夫のようで、これならば大丈夫そうだ。
    「して、なにゆえそのハンモックとやらを作ったのだ」
    「ゆりかごはすぐに作れそうになかったからなあ。木材を加工するのが手間だ」
     三日月が首を傾げる。その口の周りに粉砂糖がついているのを見て、指摘すると三日月は手の甲で拭った。ちょっと心配になるくらいのふわふわさだ。一振り目の鶴丸が話していたような一振り目の三日月とは、かなりタイプが違うように思う。ここまでタイプが違ったら、過ごしやすいのだろうか。それとも逆に、息苦しさを感じてしまうのだろうかと、かつて独り酒をしていた三日月を思い出す。
    「揺れることとはどういうことなのか、考えてみたのさ」
     鶴丸が作成したのは、正確にはハンモックチェアという。身を預けると、チェアは確かな揺れを鶴丸へと与えた。
    「どうだろうな。想像と違う気もするし、近い気もする」
     慣れていないせいか、落ち着く揺れとは言い難い。はあ、と青空を仰ぎ溜め息を吐いた。
     なんだかもっと、穏やかな揺れを体験したことがある気がする。それは刀だったころ、ずっと昔の出来事だろうかとも思ってみたが、もっと近い、最近の出来事のような。
    「三日月、きみは、眠るときにどんなことを考えている?」
    「あまり考えていないな。考えすぎると眠れないだろう」
    「それはそうなんだがな。眠れないとき、大倶利伽羅は揺れているイメージをするそうだ。刀として在ったとき、佩刀されていた自分を想像すると。そういうのが、ほかのみんなにもあるのかなってね」
     ふむ、と三日月は考え込む。考えながらも菓子を口に運ぶ手は止まらないのだから、すごいものである。そうさな、と菓子を飲み込んだ三日月が口を開いた。
    「同じ揺れるでも、俺は炎を思い浮かべているかもしれん」
    「炎?」
    「揺れる火。俺たちは炎の中で生まれたからな。けれど炎の中に還れるかといったら、そうとも限らん。少なくとも、一振り目の俺はそうではなかったからな」
     一振り目の三日月宗近のことを、鶴丸は知らない。二振り目の三日月も、多くは知らない。一振り目の三日月は本丸に帰ってくることも炎の中へ還ることもなく、だからこうして二振り目の三日月宗近はここに存在している。
    「……きみ、一振り目の方とはうまく引き継ぎはできたのかい」
     鶴丸の問いに、三日月は穏やかな笑みで答えた。
    「さてなあ。うまく、といえばそうだろう。できなかったといえば、それもまた真実だ。にっかり青江はうまくやったが、あれを模範とすれば、どうにもしっくりとこない。青江だって、うまくやったというのは本人談だが、内心でどう思っているかは誰にもわからんよ。二振り目には二振り目として思うことがあり、そして一振り目が思っていたことは、もう終ぞ知ることはできなかった」
     一振り目の鶴丸国永と、一振り目の大倶利伽羅。戻ってこられたのは彼らだけだ。
     きっと、三日月はもっと一振り目の己と話してみたかったのだと思う。一振り目の三日月も、あまり本丸と馴染んでいるとは言い難かったという。二振り目の三日月は反対に人懐っこい性格をしていて、本丸ともすぐに馴染んだ。それは一振り目の三日月が望んだ景色だったのだろうか。それも、もう確かめることはできない。
    「わからないことは、もうこれから先もわからないままだ。いなくなるというのは、そういうことだな。そういう意味では、一振り目の鶴丸と大倶利伽羅が戻ってくることができたのは、本当によかったと俺は思っているぞ。近頃、なにやら揉めているようだがなあ」
     なるほど、と鶴丸は舌を巻いた。偶然ここに来たように見せかけて、最初からこのことを鶴丸に聞くつもりだったのだ。いや、だったら鶴丸の分の飲み物くらい一緒に用意してくれてもいいだろう、断る気もないのだから、と変な部分で気に障る。
    「あれなあ。俺も原因がてんでわからん。一振り目の俺がなにやら不機嫌なようだが、二振り目の大倶利伽羅にもさっぱりらしいし」
     鶴丸はハンモックを揺らしながら事の経緯を話した。とはいっても鶴丸にも事情がさっぱりわからないのだから、聞いている三日月には余計にそうだろう。
     しかし三日月はふむふむと頷いた。
    「なるほど、なるほど。よくわかった」
    「今のでわかったのか!」
    「あいつは馬鹿で、お前は阿呆なのだな」
    「ど、どこかで聞いたことのある気がする評価なんだが……」
     なぜそこまで言われなければならないのか。鶴丸はなにもしていないのに酷い言われようである。若干苛立ちを覚えた鶴丸とは対照的に、三日月はにこにことした笑みで茶菓子やお茶の道具を仕舞った。
    「俺の考えすぎのようだ。うん。いらぬ気苦労をしてしまったなあ」
    「おいまてこら。俺は全然納得がいっていないぞ」
    「お前たち、みな、単純で複雑に考えすぎていたというだけの話だ。だが――」
     三日月はそこで言葉を切り、振り返って鶴丸を見た。
    「二度目の奇跡など、あるかはわからん。みなで腹を割って話した方がよいと思うぞ」
    「…………ああ」
     こういうとき、敵わないと感じる。
     立ち去っていく三日月の背中を眺めながら、鶴丸はハンモックを揺らした。
     ゆらゆら、揺れる。でも、大倶利伽羅と共に眠るときのような穏やかな揺れを、これでは感じることができなかった。

     大倶利伽羅たちの帰還は夕方近くになると予め知らされていた。
     そわそわとしながら縁側に座り足を揺らしていると、落ち着けと声を掛けてきたのは二振り目の大倶利伽羅の方である。
    「あんたが不安がっていても、なんにもならないだろう」
    「わかっていないぞ、きみは。俺は心配しているんじゃない。寂しいんだ」
    「はあ?」
     正直に告げると、大倶利伽羅が呆気にとられた顔をする。
     そう、寂しいのだ。昨日からずっと、鶴丸は寂しい。それを取り繕う必要は感じない。
    「きみは、寂しくないのか。きみだって、一振り目の鶴丸国永をいつだって視線で追っている。一振り目だってそれをわかっている。けれど単純にわかっているのと言葉にして確かめるのとじゃ、大きな違いだとは思わないか」
     二度目の奇跡は、起きるかわからない。少なくとも、鶴丸はあの騒動のとき完全に一振り目が失われたと思っていた。一振り目の大倶利伽羅についてだって、数年間みんな折れたと思い込んでいた。もしまた同じようなことが起こったとしたら、この本丸は、みんなは、どうなるのだろう。
    「一振り目の機嫌の悪さ、原因はきみじゃないのかい」
    「……心当たりは、本当にない」
     絞り出すような口調に、これは本当のことだろうなとわかる。大体、己に原因があるかどうかなど、きっと言われなくとも何度も考えているだろう。同じ部屋な分、気まずいだろうなと思う。
    「直接、あいつには聞かなかったのか」
    「聞いて答えるタマか、あいつは」
    「うううん……」
     想像して、その通りな姿しか思い浮かばない。大体、素直に話していればこの数日こんなにもこじれきっていない。
     ふたりして唸っているところに平野が通りかかり、茶はどうかと勧めてくれた。平野は本当に良い子だ。
     夕方に近づき、気温は下がり風も冷たくなっている。冷えた身体に熱い茶はありがたい。
    「はい、どうぞ」
     平野が淹れる茶は美味い。大倶利伽羅の作ってくれるホットミルクのように、優しく、相手を思ってくれている味だ。ほう、と一息吐く。
    「そろそろお帰りになる時間ですね」
     平野は鶴丸たちが誰を待っているか、最初から知っていたのだろう。だからこうしてふたりがまだここでゆっくりいられるように茶を淹れてくれたのだ。
    「平野も待つかい」
    「僕は、皆さんが帰ってきたときのために色々と用意しておきます。丸一日だと、お疲れでしょうし」
    「なら俺も、」
     縁側から立ち上がろうとしたところで、手で制された。
    「大丈夫ですから、待っていてあげてください。特に一振り目の大倶利伽羅さまは、久々の遠征でしょう。出迎えてあげると喜ぶと思いますよ」
     彼なりの気遣いらしい。本当に良い子だと、改めて思う。平野は鶴丸が顕現してからも細かいところで鶴丸を見ていてくれている。
    「そうだといいな。出迎えるって約束したんだ」
    「厨では燭台切さまが食事の準備をしていましたから、それを伝えてあげてください。湯殿の方も、今は誰もいませんからそちらから先に通しても大丈夫ですよ」
     そう言い残し、平野はぱたぱたと立ち去っていく。小さくとも頼りがいのある背中だ。彼とも一緒に戦うことができる日はくるのだろうか。
     まだ部隊が帰ってくるまでは時間がある。湯飲みに残ったお茶を飲みきって洗いに行こうと思ったのだが、口へ運ぶ前に手から滑り落ちてしまった。
    「わっ」
     割れる、と思った瞬間、大倶利伽羅が手を伸ばして受け止めてくれた。残り僅かしか入っていないから零れてもいないようだ。すまない、と鶴丸は詫びる。
    「緊張でもしているんじゃないか。顔でも洗ってこい」
     緊張、なのだろうか。鶴丸は自分の手を見下ろした。長く外の風を浴びていたから、身体が冷えていたのかもしれない。湯飲みで温まったかと思っていたが、大倶利伽羅のいう緊張のせいなのか、指先が震えた。
    「……そうする」
     立ち上がり、洗面台へと向かう。
     鏡を見る前に、ぱちん、と両手で頬を叩いた。これで不安げな顔が映っていたのなら、自分が嫌になりそうだったからだ。
     信じると決めた。あいつは、必ず帰ってくる。あいつ自身が、そう約束してくれたのだから。
    「落ち着け、落ち着け……」
     かぁん、と鐘が鳴った。部隊の帰還だ。怪我人はなし。
     はっと顔をあげると、鏡に映っていたのは心底ほっとした顔で、鶴丸はどうかそれが早く笑顔になりますようにと祈りながら顔を背け廊下を走った。
     帰ってきた。大倶利伽羅が、帰ってきた。
     心臓が大きく鼓動を打つ。早く逢いたい気持ちはあっても、足が追いつかず、縺れるように転んでしまった。顔を上げ、そこで自分が転んだことに気がつき、羞恥心で顔に熱が集まっていく。誰にも見られなくてよかった。
     赤くなった鼻を押さえつつ、鶴丸は起き上がって今度はゆっくりと歩き出した。平常心――なんてことは無理でも、心を少しでも落ち着けるためには必要だ。
    「おかえり!」
     門のそばまで近づき、大きく手を振る。
     久しぶりの遠征だったからだろう。一振り目の大倶利伽羅は疲れた顔をしている。
    「ただいま」
     大倶利伽羅は素直に頷いて鶴丸に応えた。怪我はないと知りつつも、実際にその姿を見るとやはり嬉しくなるものだ。服に付いていた土埃を払い落としてやる。
    「腹は減ってるか? 光坊がなにか作ってくれているらしいぜ」
    「それなりには。腹に何か入れたら、仮眠する。今寝たらそのまま朝まで起きない気はするが……その鼻どうした」
    「不名誉の負傷だ。深く聞くな」
     訝しげな様子で見てくる大倶利伽羅に、さっと鶴丸は鼻を隠す。転んだのは洗面台からの帰りだったから赤くなったことに気づけなかった。出陣する前にこんなことで怪我をするのは恥ずかしすぎる。鼻血が出るほどではなくて助かった。
    「一振り目はどうした」
     鼻を押さえながら、辺りを見渡す。
    「一振り目の俺と、部屋へ戻った」
    「仲直りしたのかね。あいつ、ずっと機嫌が悪かったから心臓が冷えるかと思ったぜ」
     やはりあのふたりは、一緒にいるのがいい。ふたりが一緒にいられるだけでもう満足だとすら思ったのだ。もう見たいものをすべて見たと思わせてくれた。今はまだこうして鶴丸は存在する道を選んだが、だからこそ、ふたりにはこれからも仲良くしてほしいと思う。そんな気持ち、どこまで彼らに伝えられるだろう。
     大倶利伽羅と並び、厨へと向かう。平野が言っていた通り、そこでは燭台切が作業しているところだった。
    「ああ、伽羅ちゃんおかえり。久々の遠征、どうだった?」
    「腹が減った」
     端的な大倶利伽羅の言葉に、燭台切は声を出して笑う。燭台切も大倶利伽羅の帰還を待ちわびていたのだ。無事な姿が見られて嬉しいに違いない。
    「もう、それは遠征の感想じゃないでしょ。先に、お風呂いっておいで。部屋に軽食を持って行くから。どうせそのまま寝てしまいたいでしょ」
     大倶利伽羅が疲れて眠気を感じていることは、燭台切にはお見通しだったらしい。悪い、と大倶利伽羅が詫びれば、いいんだよと首を振る。
    「鶴さんも、布団を干しておいてあげていたよね。伽羅ちゃんがお風呂入っている間に整えてあげなよ」
    「ああ」
     ちょっとした気遣いを本人の前で指摘されるのは恥ずかしいが、確かにその方がいい。照れくささから大倶利伽羅の目を見ないままで手を引き、部屋へと向かう。
     大倶利伽羅はさっさと戦闘用の装備を外したあと、洗面用具を持ってすぐに部屋を出て行った。その間に鶴丸は光忠の助言通りに布団を敷いて大倶利伽羅を待つ。
     待っている間に、約束通りに出迎えはしたのだから、自分がここにいる必要はないのではないかという考えが頭を過った。
     大倶利伽羅は帰ってきたばかりで疲れている。自分は顔を見られて嬉しいし、少し話をしたい気分もあったけれど、大倶利伽羅の負担にはなりたくはない。考えて、腰を上げようとしたところで障子が開く。燭台切だった。
    「鶴さんもここで食べるでしょ? 持ってきちゃった」
    「…………うん」
     再度、腰を下ろす。なんとも言い難い、照れくさい気分が抜けない。結局燭台切はなにもかもお見通しで、その気遣いを否定する気にはなれなかった。
     卓袱台の上に食事を並べていくが、食事はふたり分しかないようだ。
    「きみはここで食べないのかい。あいつも喜ぶと思うぜ」
    「僕はまだみんなの分のご飯を作らないとね。洗い物は任せていいかい」
    「ああ。なんだか悪いな」
     燭台切だって、大倶利伽羅と話をしたいに違いないのに。今日くらいは事情を話せば当番を代わってくれる者だっているだろう。
     そのまま燭台切は立ち去るのかと思ったが、その場から動かない。なにか話したいことがあるのだ。そのことに気づき、鶴丸は燭台切がなにかを言い出すのを急かさずに待った。
     燭台切はしばらくの間目を伏せたまま黙していたが、やがてようやくゆっくりと口を開いた。
    「良かった、って思った」
    「……うん」
    「本当に、心配だったんだ。また、帰ってこなかったらどうしようって」
    「……うん」
     わかるよ、とまでは言わなかった。
    「信用していないみたいで、嫌だった。帰ってきて、よかった。本当に――」
     燭台切は自分の手で顔を覆う。本人には伝えるつもりのない気持ちを、鶴丸には吐露してくれた。
    「あいつは、果報者だなあ」
     こんなにも、想ってくれる者がいる。
     長い間大倶利伽羅を任務に就かせなかった主だって、一振り目の鶴丸を一緒の部隊で編成したのは敢えてのことだろう。大倶利伽羅は、長い間この本丸から姿を消し、ずっと折れたと思われていた。大倶利伽羅が無事に遠征から帰ってくるのを待ちわびる気持ちは、きっと、鶴丸の比ではなかった。
     大倶利伽羅を取り巻く環境は、きっと、本人が思っている以上に暖かくて優しい。
    「あいつは、きみがいて救われていると思っているだろうさ。腹が減ったと素直に言ったのは、あいつなりの甘えだろう。きみがいて、良かった。俺はそう思うよ」
     顔を上げた光忠は驚いた顔をして、それからゆっくりと眉を下げて困ったように笑う。涙が浮かんでいなくてよかったな、と思った。泣かせたと怒られてしまうかもしれなかったから。
     光忠が部屋から去ってから、鶴丸は大倶利伽羅が帰ってくるのをのんびりと待った。目の前には美味しそうな食事が並んでいたが、ひとりで食べる気が最初から存在しない。若干眠くなってきた目を擦りながら、我ながらわかりやすいものだなあと思った。以前はあんなに眠れなかったというのに、彼がいる空間に安心しきっている。
     それからしばらくして、ようやく髪をタオルで拭きながら大倶利伽羅が帰ってきた。
    「おかえり」
     本日二度目のおかえりだ。追い出されたらどうしようと若干どきどきしてしまったが、ああ、と大倶利伽羅は頷くだけで、鶴丸がここにいることについて触れようとはしなかった。
    「茶、飲むだろ。というか髪くらい乾かしておけよ。まだ春だ。風邪引くぜ」
    「ん」
     聞いているのか聞いていないのか、がしがしと乱暴に髪を拭くので、鶴丸が呆れて無理矢理大倶利伽羅を座らせた。部屋にはドライヤーが置いてある。せっかくだから乾かしてやろうと思った。
    「先に、飯」
    「駄目」
     自分とは髪質が全然違うものだなあと思いながら、温風で髪を乾かしていく。時折、かくんと船を漕いでいて、洗面所で髪を乾かしてこなかったのはこれが理由かもしれないと思い至った。ある程度乾いてから、ぽんと肩を叩く。
    「ほら、おつかれ。待望の飯だぞ」
    「……ああ」
     これはだいぶ眠そうだ。本当に食べたらすぐに眠ってしまうかもしれない。
     いただきます、と両手を合わせて箸を手に取る。
    「きみの食べっぷりは見ていて気持ちがいいな。光坊の料理はうまいから、よくわかるが」
     大倶利伽羅はこの本丸の中でも大食いの類いだ。一振り目と二振り目でも、ここは大きく違う。一口も大きく、鶴丸が半分を食べ終える前にあっという間に完食してしまった。消化に悪そうで少しだけ心配だ。
     燭台切は、以前はこうではなかったと語っていた。もしかしたら、失った力を取り戻すために食欲という形で現れているのかも、と。そうであるのならこの大食いにも納得がいく、ような。
    「俺も、もっと食べるべきかな」
     鶴丸だって太刀で、それなりに食べる方だ。以前は寝不足が原因だったのか食欲が湧かなかったためにあまり多くを食べられなかったが、今ではきっちり一人前に加えてデザートまで平らげられる。それでも快復できているのかは、実感がない。
     早く戦いたいなあ、という焦りがどうしても抜けない。
    「美味かったな。ごちそうさま」
     先に食べ終えた大倶利伽羅に続き、手を合わせる。少し早い夕食ではあったが、今日はおやつを食べずに大倶利伽羅を待っていたからか、食べ終えてからようやく腹が減っていたのだと自覚した。
    「もう、寝る」
     大倶利伽羅は目を擦った。起きているのは限界だったのだろう。そうだな、と鶴丸は頷いて食器を持って立ち上がった。燭台切との約束通り、洗いに行くのだ。大倶利伽羅も自分の分を持って並んで歩く。
    「今日、」
     ぽつりと大倶利伽羅は口を開いた。
    「おかえりと言われて、『帰ってきた』と実感が湧いた。前は、刀のままだったからな」
     はっと鶴丸は顔を上げて大倶利伽羅を見る。眠たげで、今にも瞼が落ちてしまいそうで、いつもよりも幼げのある横顔だ。
     そうか、と鶴丸は前へ向き直る。今回に関して、大倶利伽羅自身にとっても「任務に出る」ことより、自分で思っている以上に「帰ってくること」が重要だったのかもしれない。
     帰ってくるということの、実感。
    「俺が、何度だっておかえりって言うさ」
    「……ん」
    「だから何度だって、ただいまって返せよ」
     こんなに眠いんじゃ、明日には忘れているかも。そう思いながらも、鶴丸は願うのだ。
     大倶利伽羅が帰ってきたら、それを迎える存在でありたい。
     厨へ着くともう食事の支度はすべて終わったのか、誰もいなかった。広間から漏れてくる賑やかな声を聞きながら、鶴丸は食器を洗う。
     大倶利伽羅は棚から鍋と、それからマグカップをふたつ取り出したので、鶴丸は瞬きをしてそれを見た。マグカップは見慣れたものだ。いつもふたりで使っているものだから。
     じっと見られていることに気がついたのか、なんだと大倶利伽羅が首を傾げるので、鶴丸はなんでもないと首を振って作業に戻った。
     大倶利伽羅は、自分と一緒に眠ってくれるつもりなのだ。
     今日は、一緒に眠ることはないと思っていた。大倶利伽羅は疲れているし、鶴丸は昨日ひとりで眠ることができた。無理に今日、大倶利伽羅と一緒に眠る必要はない。けれど。
     大倶利伽羅は無意識のはずだ。慣習になってしまっているだろう。普通だったら、今はまだ眠るような時間ではない。けれど、大倶利伽羅は鶴丸と一緒に眠る準備をしてくれている。
     眠気から来る無意識の行動でもあっても、鶴丸を受け入れてくれていることが嬉しくて頬が緩む。誤魔化すように唇を噛んで、けれど胸に溢れる感情はそのまま零れてしまいそうだった。

     鶴丸の遠征行きの知らせは、部屋へ戻る途中、呼び止めた主の口から直接知らされた。
     
    「俺も一日程度で戻ってこられるそうだ。きみも案外、心配性だな」
    「そういうわけじゃない」
     からかうように笑う鶴丸に対して、大倶利伽羅は顔を顰める。
    「二振り目の伽羅坊もついている。約束する。無理はしないさ。できれば、初めての遠征は、きみとがよかったけれどな」
     わがままは言えないし、遠征できるようになっただけでも嬉しい。
     鶴丸が本丸の外へと出るのは、あの日、一振り目の鶴丸を探しに出たとき以来だ。あのときは戦場ではあったものの状況が状況で、周りを見る余裕など一切なかった。
     大倶利伽羅はもしかして、鶴丸が本丸から出ることをあまり良しとしていないのではないか。
     難しい顔をして押し黙る大倶利伽羅に、薄らとそんなことを感じる。しかしそれを敢えて問いただすのは、なんだか恐ろしい。
     鶴丸にとっては、大倶利伽羅が遠征に出られたことは嬉しかった。無事に戻ってこられたことは、もっと嬉しかった。大倶利伽羅はあまり表情に出る方ではなかったが、それでもそこに喜びがあるかどうかわかる。反対するほどの強い感情はないが、大倶利伽羅はなにかを考えているように見えた。
    「体調が優れないと思ったらすぐに周りに伝えろ」
    「わかってるよ。帰ってきたら、きみ、一番に出迎えてくれよ。約束だからな」
     単純に心配しているだけなのだろうか。
     鶴丸の体調不良はあれから改善したことは、毎日のように手合わせをしている大倶利伽羅が一番よく知っているはずだ。昨日はひとりで眠ることもできた。それは、まだ伝えていないけれど。
     そうか、今日はまた一緒に寝られるけれど、明日はまたひとりなのか。
     今更ながらそのことに思い至って、寂しさを覚える。
    「もう寝ようぜ」
     大倶利伽羅もそろそろ眠気の限界のはずだ。灯りを消し、布団へ潜り込む。
    「やっぱりきみ、あたたかいなあ」
     ひとりでも、眠れた。けれどひとりだと、やはり寂しさが勝る。
     体温を求めて擦り寄れば、暗闇の中で溜め息が聞こえる。それもまた安心を覚えて、鶴丸は目を瞑った。

     遠征先は、戦闘の恐れがあまりない時代となった。
     それでも万が一のことがあったらと、基本的に二人一組での行動となる。これは鶴丸の存在があるからというよりも、遠征の際の基本方針のようだった。
     鶴丸が組むことになったのは、二振り目の大倶利伽羅だった。主も鶴丸のことを考えて比較的親しい相手と一緒の部隊を編成してくれたようで、今は別行動を取っているが青江も同部隊で行動している。鶴丸も大倶利伽羅が一緒であるなら、そう気負いはせず済みそうだった。
    「そろそろ休むぞ」
     大倶利伽羅の言葉にまだ平気だと答えようとしたが、一振り目の方の大倶利伽羅と無理はしないと約束したのだ。
     鶴丸たちが今いる町は港が近く、活気が溢れている。すれ違う人々が笑い合いながら歩いて行くのを、鶴丸は目で追った。本丸とは違い当然ではあるが人間だらけで、老人から幼子まで様々な人々が暮らしている様子は興味を引かれた。いけないいけないと、小走りになりながら大倶利伽羅の背中を追いかける。初めての遠征で迷子になってしまっては笑われてしまう。
     遠征用の資金を預かっている大倶利伽羅が団子を買い、ふたりであまり人気の無い町外れへと移動した。
    「一振り目にかい」
     多めに包んで貰った団子を指差すと、大倶利伽羅は頷いた。
    「また朝機嫌が悪くなった」
     困ったように大倶利伽羅が呟く。その顔には疲れが滲んでいた。もちろん、任務の疲れなどではなく精神的な疲労である。
    「案外、あいつは気分屋なんだな」
    「……以前はこんなことはなかった」
     鶴丸はここ数ヶ月の一振り目しか知らないが、当たり前ではあるが大倶利伽羅はずっと一振り目と日常生活を共にしてきた。彼がそう言うのなら、そうなのだろう。
     ふうん、と鶴丸は団子を囓った。
    「じゃあ、きみに甘えているんだろ」
     鶴丸としては思いつきで口にしたようなものだったが、大倶利伽羅はその言葉に驚いたように目を見開く。
    「きみのまえで取り繕わなくなったってことだ」
    「よく、わからない」
    「もしそうだとしたら、きみは嬉しいかい」
    「そう、だな。……そうかもしれない」
     あの騒動をきっかけに、本丸はもちろん、ふたりの間でも雪解けの季節となった。それまでのどこか罪悪感を抱えた関係から、一歩進んで、新しい関係を歩み始めたばかりなのだ。今までと違う姿を大倶利伽羅に見せたのは、一振り目なりの甘えにほかならない。
     本丸を取り巻く様々な問題で、ずっと気を張って生きてきた。一振り目の不機嫌に振り回される方としては堪ったものではないという面は確かに存在するものの、そういう風に生きてきた一振り目が自分の感情を持て余すくらいに余裕ができたというのであれば、きっと、いいことなのだと思う。今だからこその、贅沢な悩みなのかもしれない。
     近づき始めた距離感の測り方を、お互いにうまく掴めていないのだろう。大倶利伽羅の返答に微笑ましくなる。食べ終えたあとの串を指先で揺らしながら、鶴丸はあの日のことを思い出した。あの日の続きは、今もこうして存在している。夢ではなく、現実として。
    「俺はな、やっぱり、きみたちが一緒にいるところを見ているのが好きだ。だからきみたちには早く、仲直りして欲しいんだ」
    「努力、する」
     いったいなにが原因なのだろうなあ、と首を捻る。
     大倶利伽羅が自覚していないのだから、なにか決定的な大きな出来事のようなものはないはずだ。大倶利伽羅は不器用ではあるが、元来思慮深い性格をしている。そんな大倶利伽羅でさえ自覚のない間に一振り目の気に障るようなことでもしてしまったのか。
     三日月は、なにかに気づいたようだった。あいつにわかって俺にわからないなんて釈然としないなあと思ってしまう。あの三日月も、ぽやぽやしているのかそうでないのか、いまいちはっきりしないやつだ。
     なにはともあれ、一振り目の機嫌を直すためにあれこれと考える大倶利伽羅は存外可愛らしく、励ますように鶴丸は大倶利伽羅の背中を強く叩いた。
     
     遠征では野宿になることも少なくないようだが、今回は町中であることと、初めての遠征で負担にならないように配慮してくれたのか、大部屋ではあるが宿に泊まることができた。初めての、本丸以外で過ごす夜だった。
     本丸とは違い、季節は梅雨の最中。昼間は幸いにして晴れたものの、夜はしとしとと雨が降り始めてやや湿気が鬱陶しい。野宿でなくてよかった、と胸を撫で下ろす。
     壁に寄りかかりながら外を見ていると、眠れないのかいと青江が声を掛けてくる。まあな、と短く返事をして再び外を眺める。
     鶴丸とは違い初めての場所でも眠ることに慣れている連中は、寝ずの番として青江を残し早々に夢の世界へ旅立っている。睡眠も体力を回復させるための大切な手段であることは、鶴丸もよく知っていたが、眠れないのは緊張からか、あるいは慣れ親しんだあの部屋でないからか。
     どこか、眠れないことにほっとしている自分もいるのだ。大倶利伽羅への安心だとか信頼だとか、そういうものがわかりやすく形になっているようで、けれどそんなことに馬鹿だなあと思う。うまく考えがまとまらないが、依存と呼ぶのには少し違う気がした。一振り目の大倶利伽羅のことを考えている時間は、結構好きだ。一緒にいることは、もっと好きだ。手合わせをしていると高揚感があるし、鶴丸の話を聞いていないようで聞いていてくれることは嬉しく思う。こうなってわかったが、大倶利伽羅におはようと言って目覚め、おやすみと言って眠りにつく生活を、鶴丸は自分で自覚している以上に愛おしく感じていた。
    「あんなに待ち望んでいた遠征なのに、どこか早く帰りたい気持ちが消し去れない。愚かときみは思うかい」
     鶴丸は小声で青江に問う。
    「そういう場所だよ。『本丸』っていうのはね。特別だからこそ、普通のことさ」
     そうか、と胸を撫で下ろす。
     大倶利伽羅も、同じことを思っただろうか。
     大倶利伽羅は長い間本丸へ帰ることができなかった。絶望的な状況の中で、彼はいったいなにを考えていただろう。肉体を維持できない状態まで消耗しながらも、ずっと、本丸に帰りたいと願っていただろうか。今、鶴丸はその「本丸」の枠組みの中にいる。彼が帰りたいと願う場所の一部になれているのなら、それは嬉しいことだった。

     遠征は「異変がないことを確認する」という目的のためだったから、やりがいというものは正直のところ薄かったものの、初めて見る本丸の外は楽しいことばかりで、ここに大倶利伽羅がいたらきっと腕を掴んであちこちへと連れ回していたことだろう。一緒の部隊にだって大倶利伽羅はいるものの、二振り目の大倶利伽羅に対してはそういう気持ちが起こらないのは同じ大倶利伽羅であっても不思議なことだった。
     一緒にいられなかった分たくさんの土産話ができるようにと、すれ違う人々の顔や仕草、空に浮かぶ雲の形、青江と話しながら感じた夜の雨の匂いなど、そういったことひとつひとつを忘れないようにと頭に思い浮かべる。
     門をくぐって本丸へと帰還を果たしたとき、鶴丸の胸には確かな安堵が存在していた。
     ここが、帰る場所なのだ。その実感がようやく鶴丸の心にも生まれたような気がした。
     部屋へ戻ろうとする鶴丸たちとは逆に、大倶利伽羅が列から離れて移動する。どうしたんだ、と鶴丸がその背中に問いかけると大倶利伽羅は僅かに振り返った。
    「少し外す。先に戻っていろ。もしあいつに会ったら、あの場所で待っていると伝えてくれ」
    「ああ、わかった」
     あいつ、というのは誰かすぐにわかった。あの場所とは、と首を傾げてすぐに納得する。一振り目の鶴丸と一緒に過ごす場所として自室ではなく別の場所を敢えて選ぶというのであれば、ふたりが鍛錬に使っているところだろう。以前、まだ鶴丸が実体を持っていないころに一振り目から聞いたことがある。大倶利伽羅は一振り目とゆっくり時間を過ごして仲直りするつもりなのだ。うまくいきますように、と鶴丸はその背中を見送った。
     入れ替わるようにして一振り目の大倶利伽羅がやってくるのが見える。鶴丸は逸る気持ちを抑えつつも手を挙げて彼へと近づいた。自分はこの通りに無事なのだと証明するように、目一杯の笑みを浮かべる。
    「ただいま!」
    「ああ」
    「そこは、お帰りと言ってくれよ」
    「……おかえり」
     不器用ながらも返してくれる大倶利伽羅に、鶴丸は堪らない気持ちになりながらも手に持っていた包みを掲げた。
    「主にな、今回特別にお小遣いを貰ったんだ。それでお団子を買ってきた。きみと、光坊と三人で一緒に食べないか」
     あのときの団子が美味しかったので、二振り目の大倶利伽羅を真似してお土産として買ったのだ。燭台切もきっと自分のことを待っていてくれただろうから、少しでも安心させてやりたかった。
     大倶利伽羅と話していると、一振り目の鶴丸が駆けてくる。少し慌てた顔で周囲を見渡すが、彼が探しているのが誰なのか鶴丸は考えずともすぐにわかった。
    「二振り目の伽羅坊なら、あの場所で待っているって言っていたぜ」
    「そう、か」
     ほっと胸を撫で下ろす一振り目の様子に、なんだ、と鶴丸は呆れてしまう。出かける前にあんまりにも不機嫌な態度を取ったから、部屋に戻ってこない二振り目の大倶利伽羅に対して愛想を尽かされたとでも思ったのかもしれない。彼が抱いているのは自己嫌悪だ。この調子なら、案外、ふたりでじっくり話し合えばすぐに仲直りができるかもしれない。
    「なんだっけ、花が咲いている場所だろ。ツツジだっけ。ふたりが特訓しているっていう場所だよ。雲ひとつない快晴だし、お土産で買った団子を食べるにゃちょうどいいだろう。せっかくだから、きみ、向かう前にお茶でも用意したらどうだ」
    「……待て」
     鶴丸としては気を遣ってアドバイスしたつもりだったが、返ってきたのは一振り目の低い声だった。
    「うん?」
    「なぜ、きみがあの場所を知っている」
     その言葉に鶴丸は首を傾げた。
    「なぜって……きみが言っていたんじゃないか。ふたりで特訓する場所があるって」
    「どういう場所かまでか、言っていない。少なくとも、俺は絶対に言わない。あそこは俺にとって――」
     一振り目はそこで言葉を句切り、俯いた。
     そうだっただろうか。しかし知っているということは、ふたりが話していたのだろう。鶴丸としては一振り目の態度に困惑するしかない。そこまで気にするようなことなのだろうか。
    「なあ、……きみとあいつ、どういう関係なんだ」
    「どういうって」
    「この間はふたりきりで話して頭を撫でていたし、手を握っていたこともあったし……まさか、付き合っているんじゃないだろうな」
    「はあ」
     鶴丸は叫ぶが、一振り目は睨みつけるようにして鶴丸を見ている。
     そこでようやく、一振り目はずっと怒っていたのではなく嫉妬していたことに気がついたのだった。これまでの態度のあれやこれを思い出して、頭を抱えたくなった。
     一振り目の疑いを、そんな馬鹿なと一蹴する。
    「そんなわけないだろう! 大体、あの子にはきみがいるじゃないか」
     うっと一振り目の鶴丸が呻いたあとに小声で呟く。
    「別に、あいつとはそんなんじゃない、し」
    「なんだそれ!」
     その返答に、今度は鶴丸の方が怒る番だった。この数日、どれだけ振り回されたというのか。こんな無実の疑いで気を揉んだ自分が馬鹿みたいではないか。いや、阿呆か。三日月がそんなことを言っていたような。馬鹿はそう、この一振り目だ。大馬鹿者だ。
    「あのあと! あの雰囲気で! なにもなかったっていうのかい! あれから何日も何週間も経つのに!」
    「うるさいうるさいうるさい! きみには関係ないだろう! 大体あのときはすぐに青江たちが俺たちを見つけて連れて帰ってくれたし、そのあともそういう雰囲気じゃなかったし!」
     関係がないといえば確かにない。いや、本当に無関係でいたい。なぜこんな修羅場に巻き込まれなければならないのか。勝手に間男のような扱いをされても困る。
     大体、鶴丸がふたりの仲に中途半端に干渉してしまったのは、そもそもの始まりが始まりだからだ。ふたりきり、戦場で過ごしたときにそのあたりも気持ちの整理をお互いにつけたと思っていたのに、実際はこれである。あのとき、一振り目の鶴丸はこのまま折れてしまうのだろうと感傷的になりふたりきりで最期を過ごさせた自分の気持ちをなんだと考えているのか。まあ、結局なんやかんやでこうして一振り目は元気に生きていて、こんなことになってしまっているわけだが。
     怒りに震えている鶴丸と同じように一振り目も顔を真っ赤にして怒鳴り返すが、ぱっと自分の目を手で覆った。
    「え、泣いた……?」
    「……泣いてない。泣くわけないだろ。見るな。くそ、なんなんだよ」
     なんなんだよと言いたいのはこちらの方である。
     とはいえ、目を合わせてくれない。どうしよう、面倒なことになったなと頭を掻く。この空気をなんとかしてくれと大倶利伽羅に目をやるが全然助けてくれやしないし、こんな肝心なときに二振り目の大倶利伽羅もいない。大体、あいつがここにいればすべて解決ではないのか。焦った気持ちのまま、思わず鶴丸は大倶利伽羅の腕を掴んだ。こうなったら自棄である。
    「そう、そうだ! 大体、俺はこっちの大倶利伽羅と付き合っているんだ! 二人目の伽羅坊は大事な弟分で仲間ではあるが、それ以上の感情は一切合切存在しない!」
     唐突に巻き込まれた大倶利伽羅はぎょっとした様子で鶴丸を見るが、鶴丸は余計なことは言うなと大倶利伽羅の背中を抓る。
     案の定一振り目の鶴丸も疑い深い目でふたりを見た。背中に冷や汗が流れるのを感じる。遠征先でも感じなかった身の危険をなぜここで感じなければならないのか、理解に苦しむ。
    「……嘘だろ。いつからそういう仲だっていうんだい」
    「う、嘘じゃない! こう、伽羅坊が俺の特訓に付き合ってくれている間にそういう感じになったんだ。今だって毎日一緒の部屋で寝起きしている。青江だって知っているぞ。疑うなら聞いてみるといい」
     青江には巻き込んでしまって申し訳ないと思ったが、彼なら一振り目に問いただされてもうまく話を合わせてくれるだろう。
    「きみたちが全然進展しないからって、俺たちの関係を疑うのはやめてくれ」
    「うっ!」
     直球過ぎる鶴丸の言葉に、一振り目が傷ついた顔をする。鶴丸とて無闇に誰かを傷つけたいわけではないから心が痛むような気がしたが、いや、やはりこれは一振り目の自業自得だなと思い直した。
     はあ、と溜め息を吐く。幸せが幾分か逃げていってしまったかもしれない。
    「ま、なにはともあれだ。二振り目の伽羅坊が待っている。いってやれ。少しくらい、素直になったらどうなんだい」
    「…………」
     一振り目は躊躇っている様子だった。二振り目の大倶利伽羅にではなく鶴丸に対して疑いをぶつけたのは、自分の中の感情を持て余してしまっているからだ。自分でもよくないと思っている感情を大倶利伽羅にぶつける勇気がない。嫌われるのではないかと臆病になる。けれどそれを回避しようとして余計に、別の負の感情をぶつけてしまう。なんという悪循環だろう。
     一振り目はかつて、意識して強引に大倶利伽羅との距離を詰めていた。道化を演じ、なんとかして本丸と大倶利伽羅との間で緩衝材になろうとした。そうする必要がなくなった今、抑圧から解放された分、子供っぽく嫉妬深い面が顔を出し自分でも制御できなくなっている。今、一振り目を支配しているのは強烈な自己嫌悪だ。それが一振り目の足をこの場に留めている。
    「俺は、きみたちに一緒にいてほしい。あのときのような思いをするのはもう嫌だ。きっと、二振り目の伽羅坊も同じことを思っている。きみはどうなんだ。このままでいいのかい」
     鶴丸の言葉に、一振り目は顔を上げた。そこに浮かぶのは悔しさや憤りで、それを堪えて唇を噛む。しかし、今度は迷いなく振り返り、鶴丸たちに背を向けて走り出す。あの日、二振り目の大倶利伽羅が一振り目の鶴丸を追いかけたように、制約に縛られず、自分の意思で、望んだままに駆けていく。その先でどんな会話をするのか、鶴丸にはわからない。けれどきっと、ふたりで並んで帰ってくることだろう。
     鶴丸がほっと胸を撫で下ろしたところで、じっとりとした大倶利伽羅の視線に気がついた。
    「……鶴丸」
    「う、ご、ごめん。だってあんまりにも一振り目がおっかなくて。きみだって見ただろう? あーんな目を吊り上げて。あの顔、二振り目の伽羅坊に見せてやりたいぜ」
    「……………………」
    「な、なあ。そんなに怒らないでくれよ。今だけ誤魔化せたらよかったんだ」
     宥めるように腕を引っ張ると、大倶利伽羅は盛大に息を吐いた。
    「怒っているんじゃなく、呆れているだけだ。顕現したばかりのお前になにを言ったところで、響かない」
    「うう。俺だってそりゃあ、うまくやりたかったさ。でもきみに呆れられるのも、なんか悲しい」
     鶴丸は肩を落とす。大倶利伽羅にとって嘘を吐くのは不本意だっただろうし、そうさせてしまった自分の落ち度もある。でもあの状況で鶴丸にほかにどうにかできるほど頭が回らなかったのだ。そんなこと言うのなら、大倶利伽羅が助け船を出してくれればよかったのに。
     見るからに落ち込んで見えたのだろう。大倶利伽羅は再度溜め息を吐き鶴丸が持っていた団子の包みを取り上げる。
    「団子、食べるんだろう。光忠に茶を用意してもらう」
    「あ、ああ!」
     どうやら許してくれたらしい。吐いてしまった嘘については、あのふたりが落ち着いたころにネタばらしをすればいいだろう。あとできっと笑い話になるはずだ。今はとりあえず、大倶利伽羅や燭台切と一緒に、遠征先であったことを話したい。たいした出来事はなかったけれど、ふたりは聞いてくれるだろう。そして今度は、自分がいなかった間にどんな出来事があったのかも聞いてみたい。大倶利伽羅は自分のいない間の夜、鶴丸と同じように、少しくらいは寂しさを感じてくれただろうか。
     一歩足を踏み出そうとして、かくんと膝が折れた。あれ、と疑問に思っている間に地面に手をついていた。
     力が抜ける。ぐらぐらする。初めての感覚。いいや、前にも同じことがあったような。自分が肉体を得て初めて目覚めたとき、同じ気分を味わった。気持ちが悪い。大倶利伽羅が声を掛けてきているのがわかるのに、それに返す余裕がない。なにかがおかしい、と思っている間に、ついに手で身体が支えられなくなる。

     ゆれている。
     ゆれている。
     ――揺れている。
     あたたかい。誰かがなにかを言っている。聞き覚えがあるような、ないような。そんな声だ。
     ただ、とても安心できる気配なのだと、それだけはわかる。あたたかいものに包まれて、ただひたすら、ゆらゆらと揺れていた。

    「う」
    「……起きたか?」
     うまく目が開かない。辛うじて口は開くが、それも言葉にならない。
     大倶利伽羅の声だ。それがわかっただけ、よかった。強張った身体から力を抜く。
    「どうし、たんだ」
    「待っていろ」
     目に、温かいものが触れる。慣れ親しんだ気配だ。大倶利伽羅の手なのだろう。身体が冷えていたのか、大倶利伽羅の手が心地よく感じる。
     いったいどのくらい時間が経っただろう。大倶利伽羅が目から手を離すと同時に、ゆっくりと瞼を開ける。今度は、ちゃんとできた。
     見慣れた天井が目に入る。大倶利伽羅の部屋だった。首を横に動かすと、布団の横に大倶利伽羅が座っているのが見える。泣きそうな顔をしているわけではなかったが、手を伸ばしたくなった。動かないのが、歯痒い。
     鶴丸がなにをしたいのかわかったのか、代わりに大倶利伽羅の方が鶴丸の手を握ってくれた。じんわりと広がるぬくもりに、息を吐く。
    「主を呼んでくる」
     待ってくれ、とは言えなかった。部屋を出ていく大倶利伽羅の背中を、視線だけで見送った。寂しい、と行き場のなくなった呟きは喉から先へも出てこない。急に寒くなってしまったようだった。
     ああ、と鶴丸は目を瞑る。そういうことか。ありとあらゆることに、納得してしまった。まだぼんやりとしているのに、変なところで頭は回る。
     本当に、きみは俺に甘い。
     そのことが、今は腹立たしくて堪らない。

     あれから三日、経ったのだという。また三日、だ。
     それが、鶴丸の霊力がほぼ枯渇の状態から再稼働にかかる時間、らしい。
     鶴丸の身体には欠陥がある。本来審神者たる主から自然と受け取れるはずの霊力が、そのまま流れていってしまうのだという。長い間本丸の外へ出ることはなかったから気がつかなかっただけで、これは鶴丸が顕現していたころから存在した欠陥のようだった。たった一日といえど本丸の外で過ごしたばかりに、鶴丸の霊力はほぼ空の状態となっていたようだった。このままでは大倶利伽羅のように、消耗しすぎて刀に戻っていたかもしれないし、下手すればそのまま消失してしまったかもしれないとのことである。
    「きみ、知っていたな」
     鶴丸は今もまだ部屋で寝かされている。随分と楽になったが、それでも起き上がる気力は湧かない。先ほどまで主と、それから食事を運びに燭台切がやってきていたが、あとは大倶利伽羅だけが残った。
     自然、鶴丸の口調は大倶利伽羅を責めるものになる。
    「俺は肉体を得て顕現したとき――蔵で倒れていたときから今の状態だった。きみが、見つけたんだったな。それで自分の霊力を分け与えたんだろう」
     大倶利伽羅の快復が遅いという理由は、それだったのだ。
     鶴丸のためだった。
     毎日鶴丸と共に眠っていたのは、触れることで自分の霊力を分けていたからだ。
     大倶利伽羅は最初から全部気がついていた。最初から全部気がついたうえで、鶴丸にも、主にも、誰にも言わなかったのだ。
    「あれは、きみの記憶だったんだな」
     知らないはずだったのにいつの間にか知っていた一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅の会話。
     聞いていたのは、刀に戻っていたときの大倶利伽羅だ。一振り目たちが戦場で大倶利伽羅を拾って、それを持ち帰っている最中に彼らの話を聞いたのだろう。
     そのときの記憶が、霊力を分け与えた際に鶴丸にも伝わったのだ。
    「俺の体調不良を、単なる寝不足だと斬り捨てたのは。なぜ、俺にも、主にも、なにも言わなかったんだ」 
    「お前が、気にするだろう」
     消耗して刀に戻っていた大倶利伽羅は、人の身を再び得てからすぐに蔵で倒れている鶴丸を発見し、状況を把握して鶴丸に力を分け与えた。その結果が今の状態だ。大倶利伽羅は鶴丸の体調不良の原因にも気がついていたが、誰にもなにも言わずにひとりきりで対処しようとした。その結果、自分の快復が遅くなることを理解したうえで。
    「当たり前だろう! 俺は、きみの重荷になりたかったわけじゃない!」
     たった一言。叫ぶだけで息が切れる。悔しさと怒りで、目の前が真っ赤になった。
     大倶利伽羅には鶴丸のような欠陥がない。本丸で普通に過ごしていたのなら、もっと早くに戦場に立てただろう。邪魔したのは鶴丸だ。あれほど彼がまた遠征や出陣に出られるようにと願っていたのに、その障害となっていたのは鶴丸だったなんて笑うしかない。
    「最初からこんな欠陥だとわかっていたら、あの日、主を脅してでも刀解してもらったさ!」
     もとより、そのつもりだった。しかし主から刀解を拒否され、そのあとさまようままに大倶利伽羅のもとへ辿り着いた。ふたりで話をして、結局鶴丸は刀解をされずにそのまま存在することを選んだが、あのとき大倶利伽羅はどんな気分で鶴丸の話を聞いていたのだろう。
     ドッペルゲンガーである鶴丸は、一振り目が無事に帰還したことで引き継ぎとしての役目は失った。そのうえ、戦えないというのであれば本丸に存在する意味も失う。あのとき、大倶利伽羅と話をして、これから先一緒に強くなろうと決めたのは、まだ頑張れるかもしれないという希望があったからだ。その希望は、大倶利伽羅の嘘によって作られたもので、だからこんなにも苦しくなる。
    「悔しい。きみに、嘘など吐かせたくはなかった。最低だ。最悪だ。俺が存在したことが、過ちだ」
     一番悔しいのは、腹立たしいのは、大倶利伽羅にそんな嘘を吐かせてしまったことだった。
     刀解をしてもらえばよかった。主がなんと言っても、望み続ければよかった。そうすれば少なくとも大倶利伽羅の足を引っ張ることなどなかったのに。
     鶴丸が顕現してからずっと、鶴丸の存在は過ちだった。
    「――だとしたらそもそもの過ちは、俺が今、ここにいることだ」
     黙って鶴丸の話を聞いていた大倶利伽羅が、静かに口を開く。
     その内容に、鶴丸は息を呑んだ。
    「俺が帰ってこなければ、お前がそんな思いをすることはなかった。お前は、顕現状態を維持できるほどに霊力が持たないで、とっくにただの刀になっていただろう。俺がお前を引き留めた。俺がすべての過ちの始まりだ」
    「そ、れは」
    「お前ではなく、俺が過ちなんだ。俺が、帰ってこなければよかった。そう言えばお前は満足するのか」
     言えるはずがない。あんなにもみんな、大倶利伽羅が帰ってきて喜んだのに。
     悔しい。苦しい。
     ――そう。結局過ちって断ずることができるのって、本人たちだけなんじゃないかな。それで、第三者にそうじゃないって言わせるのって、卑怯なことでもある。というか、過ちかどうかって、答えるほうはどっちで答えても、良い気分にはならないじゃないか。ずるいよ。
     ずるい。そう、ずるいのだ。かつて、青江が言った言葉が脳内によぎる。
    「卑怯なのは、俺だ……」
     鶴丸が過ちではないと自分で言い張らなければ、大倶利伽羅の過ちは消えてなくならない。
     大倶利伽羅を、卑怯者にはさせたくない。卑怯者にさせないためには、この悔しさを飲み込んで、鶴丸は自分が過ちでないと証明するしかないのだ。この優しい男を、これ以上どう責められる。ままならない感情を大倶利伽羅にぶつけて、これではまるで一振り目と同じだ。子供の癇癪だ。
     ごめん、という呟きはどこまで言葉として伝わっただろうか。
     大倶利伽羅は鶴丸の謝罪に、なにも返さなかった。ただ、指先で軽く鶴丸の手に触れる。だから鶴丸もそれ以上、なにも言えなかった。
     本当に、大倶利伽羅は鶴丸に対して、どこまでも甘く優しい。

     顕現時の欠陥は、珍しいといえば珍しいが、かといってほかに例がないというわけでもないようだった。
    「ただ、お前の場合、原因ははっきりしている。まだ完全に顕現していない状態で本丸の外に出たことだ」
    「やはりそれか」
     それについては以前、鶴丸自身も予想をつけていたことである。
    「じゃあ、やはり本来の状態には戻らないということか」
     鶴丸は自分の手を見下ろす。随分快復はしたものの、一度完全に枯渇に近い状況まで陥ってしまうと元に戻るには時間がかかるらしい。今までは、大倶利伽羅が鶴丸も知らないうちにそうならないよう調整していてくれたということだ。
    「それはわからないが、応急処置はできる。今回は俺も考えが甘かったが、逆に目安として霊力を分け与えなければどんな症状が出て、どれくらいの時間でお前に限界が来るのかははっきりした」
     大倶利伽羅はさっさと建設的な考えを出すことに切り替えたらしい。確かに、いつまでもぐだぐだ落ち込んでいたところでどうなるわけでもない。刀解を選べない以上、どれだけ大倶利伽羅に負担を掛けないで生活できるか鶴丸は考えなければならないのだ。
    「睡眠障害、体力低下、頭痛、目眩、食欲不振。症状としてはこんなところか。今回俺が遠征に出て、帰還してからもお前へ十分に霊力の受け渡しができる前にお前が遠征へと出た。一日以上離れるのはまずい、というのはわかった」
    「それじゃあ、俺はやはり遠征にも出陣にも出られないわけか」
     悔しいが、今回のようになるくらいならそれしかないだろう。タダ飯喰らいにならない程度には本丸で働ければいいが、戦えない刀剣男士に存在価値がどれほどあるものか。けれど、鶴丸が大倶利伽羅の存在を否定しないためには鶴丸だって刀解の道を選べない。悔しくても、どれだけ惨めでも、ここに在り続けることを決めた。そう、あの日初めて鶴丸が刀解を選ぼうとして失敗したあの日、大倶利伽羅とした決意に、なんの変わりもないのだ。その意思を、改めて強くしたくらいで。
    「主にも相談したが、ひとまずこれから先、俺とお前は同じ部隊編成になる。そうすればなんの問題もない。必要なときは俺から霊力を渡せばいい」
    「でもそれではきみの負担が大きくなる。消耗するだけだろう」
    「俺にはお前のような欠陥はない。一度完全に刀に戻った分、逆に限界はどのくらいか知っている。だからこそ今までお前が気がつかない程度に霊力を渡せたんだろうが」
     いうなれば、鶴丸は水がたくさん入った桶に穴が空いている状態なのだという。どれだけ水を注いでも、少しずつ穴から漏れ出してしまう。
    「穴を完全に塞ぐ方法は、今はない。ただ、応急処置はできる。実際のところそれを試してはいたが、遠征が急に決まったからうまくいかなかった」
    「応急処置」
    「説明は難しいが」
     再び、大倶利伽羅は鶴丸の手を取った。
    「塞ぐ、というよりも押さえている。瘡蓋や、仮止めのようなイメージをすればいい。そうしながら、俺の霊力をゆっくりと分ける。一日は無理でも、半日程度なら本丸の外でも行動できるだろう。慣れれば、数日くらいはいけるはずだ」
     鶴丸にはよくわからない。大倶利伽羅が触れている部分が温かいことはわかるが、どういう風に霊力の受け渡しをしているのかは、見ているだけでは同じことができる気はしない。
    「俺以外とはやるな。霊力の性質が似ていないと酷いことになる。少なくともお前の身体は、俺と、審神者である主以外の霊力に慣れない方がいいだろう。本当は主とも同じことができたらいいが、基本的に平等に霊力を分け与えている中で一振りに偏りが出ると全体のバランスが崩れる」
    「ふうん……」
     どうやら助け船は多ければ多いほどいいというわけではなさそうだった。
    「俺は一度刀に戻って、折れる寸前だった。そのときに再び顕現できる程度に主に力を分けてもらったが、やはり主には負担が大きいようだった。まあ、結果こうしてお前に霊力を分けられているのはそのときの副産物のようなものか。審神者ほどの力はなくともな」
    「きみに負担はないのかい」
     やはり一番の危惧はそこだった。
     鶴丸が気にするとわかっていたからこそ、大倶利伽羅は今までなにも言わなかった。けれどこうなった以上、どこまでどのくらい大倶利伽羅の負担があるのか鶴丸にも知る権利はある。
    「ない、とはいえない。お前の……」
     大倶利伽羅はそこで言葉を句切り、目を逸らした。なんだよ、と催促すると渋々ながら口を開く。
    「お前の寝相が、悪い」
    「はあ?」
     どこまで深刻な話なのか覚悟したというのに、大倶利伽羅の口から聞かされたのは予想外の一言である。
    「というよりも、おそらく霊力が足りないと感じると無意識にしがみつこうとする。お前は、よく俺の手を掴むだろう。夜中になると、あれが酷くなる。それで、朝方になると満足して離れていくからお前には自覚がない」
     ううむ、と鶴丸は呻きながら自分の手を見る。そこまで自分は大倶利伽羅の手を取っていただろうか。思い出してみようとしても自覚がないからなかなかうまくいかない。ただ、それが鶴丸の霊力が不足していて大倶利伽羅から無意識に奪い取ろうとした行動だったとしたのなら問題だ。吸血鬼だってもっと自覚的に行動していると思う。
     遠征先でうまく眠れなくてよかったと心から思った。青江や二振り目の大倶利伽羅の前でそんな醜態を晒すなんてまっぴらだ。
    「今度から寝るときに俺を簀巻きにしてくれ……」
    「有事の際に問題があるからしない」
     真面目か。
     恥ずかしさやら情けなさやらで布団に頭まで潜り込みたくなるが、もう片方の手はまだ大倶利伽羅に掴まれているためにそれもままならない。
    「だから今度は寝る前に意識的にやってみることにする。どうだ」
     大倶利伽羅が手を掴む力が強くなる。先ほどよりも温かい気がする、が、気のせいと言われればそうかもしれないと感じる程度だ。
    「まあ、最初だから仕方がないだろう」
     ひとり納得したのか大倶利伽羅は頷き手を離した。すると途端に寒くなる心地がして、落ち着かない。
    「飯を食ってくる。寝られるようなら寝ておけ」
    「ん」
     空になってしまった手を握りしめていると、大倶利伽羅がなにを思ったかその手を布団へとしまってくれた。寒かったのは確かだが求めていたものとは違う気がして、若干の不満がある。
     大倶利伽羅が部屋を出ていく間際、美味かった、と一言告げた。
    「なにが」
    「団子。俺と光忠で、悪くなる前に食べた」
     ああ、と納得する。すっかり忘れていた。そうだ、結局一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅はどうなったことだろう。聞きたくとも意識がどんどん遠のいていく。眠気というよりも、力が抜けていく感じだ。やはり一度失った力というのは再稼働するまで時間を要するらしい。
     ぐらぐらと、ゆらゆらと、揺れている。
    「今度は、」
     今度は三人で食べよう。
     完全に意識がなくなる前に告げた言葉は、はたして大倶利伽羅に届いただろうか。

    「鶴さん、今日はご飯、普通盛りでいい?」
     ようやく起き上がって行動できるようにはなったが、燭台切は過保護なくらいに鶴丸を心配した。無事に戻ってくると思っていたのにこんな有様になったのだから燭台切に申し訳なく思うが、少し恥ずかしい。
     鶴丸の欠陥については、主にも相談して、ごくごく身近な存在にだけその問題を伝えることにした。少なくとも大倶利伽羅が一緒に行動していれば当面のところ問題はないとわかったから、あまり大仰にはしたくなかったのだ。ただ、燭台切には正直に事情を話すことにした。
     燭台切には今回のことでかなり心配を掛けたし、そうでなくとも大倶利伽羅の件でだって気苦労が多かった。その気持ちを正直に伝えてくれた燭台切には、誠意をもって応えたい。
    「伽羅坊は、よく食べるなあ」
     鶴丸が一杯のご飯を食べている間に、大倶利伽羅は二回おかわりをしている。見ているだけでお腹いっぱいになりそうだった。
    「多分、俺は不足した霊力については飯で補うのが一番効率が良い」
    「あと純粋に、光坊の飯は美味いしな」
     大倶利伽羅がよく食べる理由については納得ができた。燭台切も、鶴丸や大倶利伽羅の体質について理解を示してくれたようで、今はよく三振りで食事をしながら話をしている。
    「俺も普通に食べるほうだけど、伽羅坊みたいにはいかないな」
     体力や気力の快復に食事は不可欠だが、鶴丸の場合やはり食事だけでは駄目なようだった。ある程度補うことができても、欠陥がある以上、霊力が空いている穴からひたすら漏れ出してしまうからきりがない。大倶利伽羅の行動で大事なのは霊力を分け与えることよりも、その漏れ出てしまう穴を仮止めすることの方らしい。そのときに一緒に霊力を分け与えた方が効率がいいとのことであるが、これは大倶利伽羅にしかわからない感覚のようだった。少なくとも、今や鶴丸の身体については鶴丸自身よりも大倶利伽羅の方がすっかりと詳しい。
    「今日、ふたりともやることないよね。僕は今日出陣だけど、ちょっと人手が欲しいそうだから手伝ってもらってもいいかな」
    「別に構わないが。なにかあるのかい」
     鈍っていた身体を動かしたいところだが、誰かが人手を求めているのならそちらの方が優先だろう。
    「うん。一振り目の鶴さんと二振り目の伽羅ちゃんが新しくできた離れに住まいを移すから、そのお手伝い」

     なんでも、一振り目の鶴丸も二振り目の大倶利伽羅も、今まで給金を貯めていたらしく、それらをほぼ全部叩いて一念発起し平屋を建てたらしい。思い切りが良すぎる。仲直りして僅か数日の出来事なはずだが、よくまあその数日で平屋とはいえ一軒家が完成したものだ。
     新品の畳の匂いがする。鶴丸は窓を開け、風を通した。鶴丸が頼まれたのは家具を運び入れる前の掃除だ。一振り目の大倶利伽羅は、厨で荷ほどきをしている。小さくとも厨も風呂もある贅沢な家だ。
    「悪いな、手伝ってもらって」
     一振り目の鶴丸が掃除用具を持って部屋へと入ってくる。
     体力自慢の連中が今大型の家具を運んでくるところらしい。急がなければと、二振りの鶴丸で掃除を開始する。
    「今までの部屋、な。もともとは、一振り目の伽羅坊の部屋だったろう。それで、あの子がいなくなって今度は二振り目の伽羅坊が納まった。そこに顕現したばかりの俺がその部屋に押しかけたから、俺の部屋でも二振り目の伽羅坊の部屋でもない気がしていたんだ。良い機会だと思ってな、こうして家を建てることにしたんだ」
    「そうか」
    「本当はもっと早くこうするべきだったかもしれないが、一振り目の伽羅坊は自分がもともと住んでいた部屋に頓着はしなかったし。ただ、はっきりとわかる形で俺たちも区切りをつけようって」
     ふたりは無事に仲直りしたのだ。そのことにほっとする。まあ、あれは一振り目の鶴丸が勝手に嫉妬して面倒な事態を引き起こしていただけの話ではあるのだが。
    「きみたちも付き合っているんだろう。すぐには無理だろうが家を建てるときは相談してくれよ」
    「……………………あー。あー、うん。金が貯まったら、かなあ」
     そうだった。すっかり忘れていた。
     ここであれは嘘だったと告げるのは簡単ではあるが、大倶利伽羅とこれまで通り一緒に寝起きするのにはその嘘はちょうどいい。鶴丸の欠陥のことはできる限り隠してはおきたいのだ。特に、一振り目に対しては。というのもおそらくこの欠陥はあの日一振り目を探しにいったときの騒動がきっかけだからだ。今一振り目が幸福を感じているのであれば、そこに影を落としたくはなかった。
    「――きみが現れたとき、ああ、俺もついに折れるときが来たんだなと思ったよ。ずっと、自分の行いを清算する日を待っていた。けれどきみは……全く別の結果を引き起こしたな」
    「別に、俺がなにかしたわけじゃない」
     背中を押したのは鶴丸かもしれないが、覚悟を決めたのは二振り目の大倶利伽羅だ。そして彼の手を取ったのも、紛れもない一振り目だ。
     けれど一振り目は首を横に振る。
    「ありがとう。……ずっと、それが言いたかった。もしかしたら結局俺が折れるのは先延ばしにしているだけで、いつの日か今度こそ折れる日が来るかもしれない。完全に後悔しない終わりにはならないかもしれないが、それでも思い残しは少しでも減らしていきたい。だからこうして、ふたりの時間を大切にしようと思ったんだ」
     きみたちも、と一振り目は続ける。
    「きみたちも、後悔がないようにな」
     遠くから喧噪が聞こえる。家具が運ばれてくるのだろう。一振り目は掃除用具を持ったまま玄関へと走り去っていった。
     鶴丸はしばらくその場で立ちすくんだあと、ゆっくりと一振り目の後を追う。途中、厨へ通りかかり、鶴丸は大倶利伽羅へと声を掛けた。
    「お疲れ。順調かい」
    「俺の方は。家具が来るんだろう。そっちを手伝うか」
    「いや、そのまま運んでもらったほうがいいだろう。少し休もうぜ」
     大倶利伽羅と並んでふたりで壁に寄りかかる。
     どこもかしこも新品の匂いがする。ここで一振り目の鶴丸は、二振り目の大倶利伽羅と新しい生活を送るのだ。
     後悔がないように。
    「……どうした」
    「いや、なんでも」
     ちらりと横目で大倶利伽羅を見ていたことに気がついたのか、大倶利伽羅が首を傾げる。首を振って、玄関から聞こえてくる喧噪に耳を傾けた。
     なんでもない。ただ、どうか、と願ってしまっただけだ。
     どうか、こういう日々が、なんでもない日常が、手を伸ばせばすぐに触れられる距離が、ずっとこのままでありますようにと。
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