晴雲秋月 すまない、と頭を下げる鶴丸の姿を、大倶利伽羅は忘れることができない。
鶴丸が心の底から後悔している顔を、大倶利伽羅が見たことのある機会はそう多くはない。眉間に皺を寄せ、拳を握り、鶴丸は大倶利伽羅に向かって詫びたのだった。
見誤った。
俺のせいだ。
大倶利伽羅はその言葉を否定したかった。できなかったのは、長い間眠り続けていたせいで喉が渇きうまく声が出なかったのに加え、鶴丸の姿に動揺したせいもあった。
それに。
本当に否定してしまっていいのだろうか。結局のところ、大倶利伽羅は鶴丸の期待に応えられなかったのだ。敵に囲まれている危機的状況の中、無我夢中で大倶利伽羅は走った。もっとうまいやり方が、冷静になってみればいくつも思い浮かぶ。冷静になれなかったのは自分の未熟さゆえのことだ。
こうして無事に帰還できた今になって、鶴丸は大倶利伽羅の力量を見誤ったことを詫びている。
あのとき、怪我を負いながらも必死に逃げる仲間たちに背を向けて走り出した大倶利伽羅を止める声はいくつもあって、けれどその中に鶴丸のものはなかった。大倶利伽羅を止めようともしなかった。その理由について問う覚悟が、大倶利伽羅にはなかった。大倶利伽羅に窮地を脱する力があると信じたから止めなかったのか、それとも、止めても無駄だと思ったから止めなかったのか。後者の場合、呆れの感情からなのか、失望の感情なのか。いずれにしても鶴丸は、非は完全に自分にあると考えて頭を下げているのだ。それがなにより、堪えた。
隊長として。鶴丸の立場からすれば、その考えは間違いではないだろう。隊員の失敗は隊長がその責を負う。だが、大倶利伽羅と鶴丸にはそれだけではない関係性があって、それがぷつんと、糸のようにあっさりと切れてしまったように大倶利伽羅には感じた。
鶴丸が隊長として戦場に立った最後の戦は、完全なる負け戦だった。
大倶利伽羅が手入れ部屋から出る前に、鶴丸は隊長の座を退いたのである。
――この本丸において鶴丸国永と大倶利伽羅は不仲である。
という噂話がひっそりと流れているのを鶴丸は知っていたが、特に本丸や主に対しての不信に繋がるようなものでもなさそうなので放置しておいた。なんとも寂しいものだなあ、と思ってはいたものの、かといってその噂話を解消するためにあれこれと画策する方が、なんだかわざとらしいと思ったのだ。
鶴丸はこの本丸で十五番目に顕現した刀だ。早すぎるほど早いほうではなかったが、太刀の中では一番最初に顕現した刀剣男士だった。それから間を置いて大倶利伽羅が顕現し、鶴丸が部隊長として、大倶利伽羅が同じ部隊の副隊長として、半年ほど共に活動していたものの、鶴丸がやらかした騒動の末に部隊長の座を退き大倶利伽羅がその任を継いでからは、同じ戦場に立ったことがない。数年、そうやって過ごしてきた。
大倶利伽羅の部隊が帰還するたびにそわそわとしてしまう気持ちを、鶴丸は意識して押さえつける。大丈夫、大丈夫、大丈夫。そう何度も己へ言い聞かせるのだ。やはり、部隊が離れるのはお互いに利あることだった。ぶっきらぼうでありながら、細かいことによく気づく男である。鶴丸が大倶利伽羅に隊長を押しつけてしまったのを後悔したこともあったが、やはりこれでよかったのだ。隊長としての大倶利伽羅の評判はなかなかに良く、密かに鶴丸も鼻が高いと思っている。
大倶利伽羅にとって、隊長という役割は「重し」なのだ。ほかの刀剣男士の命を預かるというのは、なかなかに厳しい。たった半年間だけではあったが部隊長として動いていた鶴丸ですらそう感じるのだから、あれからずっと隊長をしている大倶利伽羅にとって苦痛以外の何物でもないだろう。優しい性格ではあるが誰かと深く関わるのを好まないことを知りながら、鶴丸は敢えて大倶利伽羅に重しを与えた。大倶利伽羅が怒るのも無理ないことだった。避けられるのも、道理というものだ。
寂しさや苦しさを感じるのは、鶴丸にとっての罰だった。受け入れなければならない罰だ。大倶利伽羅が重しを抱え続ける限り、当然に受け止めなければならないものだった。
たまに、よその本丸が羨ましくなる。
乗り気ではなさそうな顔をした大倶利伽羅を引っ張って、機嫌の良さそうな顔をした鶴丸国永が歩いている。そこに、楽しげに着いていく燭台切光忠や太鼓鐘貞宗の姿もある。眩しい、羨ましい。そう思っても口に出すことができない。その感情を抱いてしまうのも、罰だ。鶴丸たちの本丸は、そうならなかった。それもすべて、鶴丸のせいだった。
鶴丸の、せいだった。
――この本丸において大倶利伽羅と鶴丸国永は不仲である。
本丸に流れているその噂話が真実かどうか聞いてくるような者はいなかったし、仲を取り持とうと余計な世話をするような者もいなかった。ただ、かつて大倶利伽羅とも鶴丸とも深く関わってきた太鼓鐘貞宗は、はっきりと不服そうに唇を尖らせている。
「俺は伽羅と鶴さんになにがあったのか知らねえけどさ。面白くはないよなあ」
そう正直に言ってくる太鼓鐘に、どこか救われる気持ちがある。
太鼓鐘が顕現したのは、あの騒動から一年ほど経ってからのことだ。顕現した当初は鶴丸と同じ部隊で少しずつ実践を積み、そこから大倶利伽羅の部隊へ移ってきた。今や副隊長として立派に大倶利伽羅の補佐を務めている。あまり口数の多くない大倶利伽羅よりも余程隊長に向いていると思うが、太鼓鐘がそれを望むことはないだろう。大倶利伽羅も、今のところ隊長の座を退くつもりはなかった。これは、大倶利伽羅に与えられた罰のようなものだ。部隊長という役割を自ら望む者もいるだろうが、大倶利伽羅はそうではなかった。隊長になりたいと思う者たちに申し訳なさもあるが、大倶利伽羅は罰を受け続けなければならない。自分のせいで鶴丸が隊長の座を降りてしまったのだ。再び鶴丸がその任に就くまで、大倶利伽羅がこの場所を守り続ける。大倶利伽羅が鶴丸に対してできるのは、これくらいだった。おそらく、鶴丸が許してくれることはないだろうが。
どんな顔で詫びればいいのか、大倶利伽羅にはわからない。あの日、手入れ部屋で様々な感情を押し殺して大倶利伽羅に対し頭を下げた鶴丸に、なにを言えばよかったのだろう。手遅れなのだ。大倶利伽羅のせいで、鶴丸は自ら隊長の座を降り、その代わりに大倶利伽羅が隊長となった。あれほどに戦場で輝いていた男の居場所を、大倶利伽羅が奪ってしまった。頭を下げたときに見えた鶴丸のつむじを、今も思い出す。大倶利伽羅にどんな言葉も許さなかったあの姿が、数年経っても大倶利伽羅の足を地面に縫い付ける。あの日の光景が今も瞼の裏に焼き付いて離れないのに、鶴丸とこの本丸でどう過ごしていたのか、大倶利伽羅はもう思い出すことができなかった。
「今日は、また夜戦か」
「ああ」
主から渡された書類に目を通す。これから向かう時代の場所、目的。大倶利伽羅と太鼓鐘以外の編成。見覚えのある字をなぞり、なんともいえない気持ちになる。任務を言い渡すのは審神者の役割だが、こういった書類を作成するのは近侍の役割だ。今日の近侍があの男というだけの話だ。それなのにこうも、胸がざわつく。隊長の座を退いてから、代わりに近侍の任に就くことが多くなった鶴丸は、こうして別々の部隊になった今も大倶利伽羅を支えてくれている。
「主、報告書の提出って一週間後じゃなくて明日じゃなかったか」
カレンダーにつけられた印と、近侍が共有で使っている手帳につけられた印の日付が違う。一週間のズレだ。鶴丸の指摘に、主はマジかあと頭を掻いた。
「確か、松井に修正頼んでたんだよ。出すの明後日でいいって言っちゃった」
「松井、今日は出陣だぜ。夜戦だから、今捕まえれば間に合うかな」
大倶利伽羅と同じ部隊で出陣予定だ。仮眠を取っているかもしれないが、同じ部屋の連中に声を掛けて書類だけでも回収してしまおう。完成していなくとも鶴丸が代わりにやってしまえばいい。今日のうちに気づけて良かった。
執務室を出て足早に松井の部屋へ向かう。大部屋は執務室から遠いのだ。
季節は夏から秋へと移り変わろうとしている。この廊下から見える景色も、やがて赤と黄に染まるだろう。もうそろそろ衣替えの準備を始めてもいい頃合いだろうか。
秋は好きだ。夜は寝苦しくないし、ご飯も美味しい。落ち葉を集めるのは大変だが、焼き芋を焼いたときは楽しかった。焼きたての大きな芋を大きく口を開けて食べていた大倶利伽羅を思い出し笑みが零れる。
「おおい、いるかい」
戸が閉められていたため、小声で話しかける。出払っていなければ誰かしら中にいるだろう。
いるけどお、と眠たげな顔で出てきたのは松井江ではなく村雲江だった。
「すまん、昼寝中だったか」
「へいき。そろそろ起きようと思っていたところだったし」
部屋にはほかに誰もいないようだった。
「松井は? 彼が主からの書類を預かっているんだがな。締め切りを勘違いしていて提出が明日だったんだ。途中まででいいから回収したい」
「今は風呂に行ってるよ。書類とかあったかな」
入りなよ、と招かれて遠慮無く部屋へと足を踏み入れる。江の部屋は大所帯なだけあって生活感がある。数人分の個性が溢れているのでごちゃごちゃとした印象もあるが、楽しそうな雰囲気が伝わってくる良い部屋だ。
共用で使っているのだというふたつ並んだ文机の引き出しを村雲が開けていく。
「大事そうなやつ、大抵ここにあるんだけどね。見つからないな。そろそろ帰ってくるだろうし、松井に話して持って行ってもらうけど」
「そうするか。あまりひっくり返すのも悪いしな」
鶴丸としては松井が出発するよりも前に書類を受け取れさえできればいい。
ところで、と鶴丸は村雲と距離を詰める。
「ちょいと、きみに聞きたいことがあるんだが」
「なになになに。ちょっと怖いんだけど」
「きみ、五日前に初めて伽羅坊――大倶利伽羅の部隊に組み込まれただろう」
ある程度実践を積むまで、新しく顕現した刀剣男士は五つある部隊を渡り歩く。そうして連携をしていくうちに特に相性がいいと判断した部隊に組み込まれることとなるのだ。
村雲の顕現は比較的最近で、今はまだ「お試し期間」の真っ最中だった。そんな村雲が五日前から大倶利伽羅の部隊に組み込まれた。
「いや、どうだったのかなと思ってさ。あいつ、無愛想だろう。変に圧力あるし。きみが誤解して萎縮していないかと」
「別に。まだ顕現してはいないけど、江にもとびきり不器用で無愛想なヤツいるし。ていうか、なに、保護者みたいなこと言うね」
「保護者のつもりはないが。あいつとは以前、一緒の家で長く共に在ったものでな。俺は部隊が別だから普段関わる機会がないが、どうしても気になってしまうのさ。あんまり誤解しないでやってくれよ。悪いやつじゃあないんだ。で、どうだい。指導とか、動きやすさとか、そのあたりは」
鶴丸は隊長としての大倶利伽羅の姿を直接見たことがあるわけではない。評価、というものは噂で聞いたことがあっても、直接誰かが話しているのを聞いたことはないのだ。もしかしたら不仲という噂が流れてしまっていることに気を遣って鶴丸の前で話をしないようにしているのかもしれない。そうだとしたら残念だ。
興味津々に身を乗り出しながら聞く鶴丸に対し、若干村雲は引いているようだった。
「まあ、指示が回りくどくないのは良いよね。容赦なく、きっぱりはっきり言ってくるのは結構楽というか。無愛想ではあるけど、太鼓鐘がその辺りカバーしてくれるしさ。あのふたりも同郷なんだっけ」
「ああ」
「道理で。よその本丸でも一緒にいるところ見たこと結構あるし。でも、うちの本丸じゃ、あんたって一緒にいないよね」
「別の部隊だからなあ。あの子ら、夜戦中心の部隊だろ。太刀の俺とは生活リズム、っていうのか。そういうのが違うし」
実際、昼を中心に活動する鶴丸と、夜を中心に活動する彼らとでは生活の感覚が違う。鶴丸が帰還するのと入れ替わりに彼らが出陣することも多いのだ。隊長格は内番や近侍の雑務から免除されるため、そういったものでも鶴丸が彼らと一緒になる機会はなかった。
「あいつらが燭台切とは一緒に出かけてたところ、見たことあるけど」
「光坊、買い物が好きだもんな。そうでなくたって食事の関係でよく買い出しにも行くし。ほかの誰かを誘うよりも手伝いを頼みやすいんだろうさ」
なんだか話が逸れてきた気がする。ふうん、と疑わしげな瞳が鶴丸を突き刺すように見ている。
「不仲っていうの、本当なんだ」
とうとう、直球で聞かれてしまい、鶴丸は肩を落とした。
「……本当といえば本当かもしれないし、嘘といえば嘘になる。俺が、ちょいとやらかしてしまってな。大倶利伽羅を怒らせた。謝ったが、あいつにはずっと避けられていてな。俺とあいつを同じ部隊にしないでくれと俺が主に頼んだんだ。余計な気苦労を掛けたくはない」
嫌われてはいない、と思いたい。それでも、大倶利伽羅は鶴丸を許しはしないだろう。
大倶利伽羅の誇りを踏みにじったのは間違いなく鶴丸だ。同じ事をしないためには、距離を置くしかなかった。主にもそれは正直に伝え、鶴丸の我が儘を理解してもらった。たった一振りの感情に迷惑を掛けてしまっているが、その分、こうして労働の形で返している。
「フクザツなやつだ」
村雲の評価に苦笑する。そういってしまえばかえって簡単な問題のような気がした。そうであればどれだけよかっただろう。
「許してもらおうとは思わないわけ」
「許さないほうがいいのさ、俺みたいなのはな」
「そういうのってしんどくない? 俺、江のみんなと喧嘩することはあるけどさ、やっぱ嫌だし。周りの方だって、気を遣うじゃん」
そうだなあ、と目を瞑る。特に太鼓鐘と燭台切には迷惑を掛けている。彼らは当然、鶴丸と大倶利伽羅になにがあったか知らないまでも今現在関係がうまくいっていないことを気にしているはずだ。太鼓鐘は副隊長として大倶利伽羅の補佐をしている分、不満を抱えているかもしれない。鶴丸ひとりのせいで、多くの者が迷惑を被っている。
物事について、時間が解決してくれるだろうというのは嘘だ。鶴丸と大倶利伽羅の関係は、今や修繕不可能なほどに崩壊してしまった。
――もう、元に戻ることはない。
「伽羅ちゃん、もう出かけるでしょ。貞ちゃんの分もお弁当渡すから、忘れないでおいてね」
一度うっかり遠征に弁当を忘れていったときのことを燭台切は今でも根に持っているらしい。くどいくらいに注意されるが、悪かったのは自分の方だったので大人しく叱責を受け止めるしかない。普段の食事とは別に弁当を作るのはそれなりに手間であることは、大倶利伽羅にだってわかる。
「あんまり無茶しないでよ。まあ、伽羅ちゃんの部隊なら大丈夫か」
この本丸では中傷での進軍は許さないし、誰かひとりでも刀装がすべてなくなった段階で帰還となる。敵の本陣が近くともこれは徹底しているが、大倶利伽羅の部隊では更に重傷者が三名以上出れば編成された全員が二日の出陣停止、うち一日は軍議に費やすようにしている。
燭台切の言葉にどこか複雑なものを感じ、大倶利伽羅は俯いて拳を握った。
「帰ってきたら、非番でしょ。貞ちゃんも誘って、どこか行こうかって」
大倶利伽羅がどう返事をしたところで、強制的に連行されるだろうことは想像がついた。燭台切は人の良さそうな笑みを浮かべているが、大倶利伽羅に対して遠慮というものが存在しない。
かつて同じように大倶利伽羅の手を引いて問答無用に連れ回した男がいたが、彼と同じ日に非番を過ごしたのは何年も前の出来事になってしまった。あの日々が本当にあったものなのかどうか、もう大倶利伽羅には確証がなかった。
きっと、燭台切には気を遣わせている。あの騒動の後に顕現した燭台切は、大倶利伽羅と鶴丸の間になにがあったか知らないが、こうして非番の日に誘ってくるのは気晴らしになると判断したからだろう。それを余計なお世話だと拒否することは、容易い。優しくされるのは、傷口を抉られる気分にもなる。だからこそ、否定することができない。
自分の不器用さに、腹が立つ。
これは内緒の話なんだが、と鶴丸は前置きをする。
内緒の話だ。まあ、正直寂しいところはある。俺はあの、無愛想で実直なあの子のことがそれなりに気に入っていてな。かつて同じ家に在ったときはそれはもう、構いに構ったものなのさ。ま、うんざりされていることはわかっていたが、それもまた可愛いものでな。なんだい、そんなにあの子のことを可愛いと言っているのが面白いのか。きみも、接していればわかるさ。怖がられることもあるが、悪いやつじゃあない。こんな風に子供扱いしているから怒られるんだろうなあ。
ほかの本丸の鶴丸国永と大倶利伽羅が仲良くしているところを見ると胸が痛む。どうして俺らはこうなってしまったんだか――、いや、これは俺のせいではあるんだが、わかっていても苦しいな。
でも俺は、寂しいなんて顔に出しちゃあいけないのさ。そうしたら、あの子が、俺を傷つけたと思って傷ついてしまうから。うん、あの子にゃあ、穏やかに生きて欲しい。それは、紛れもなく本心なんだがなあ。
内緒の話だ。
――俺はな、一度だけ、あの子が折れてもいいと思ったことがある。
酔っ払いというものはタチの悪いものだと村雲は実感した。
内番を終えて早々広間で開かれていた小規模な飲み会に引きずり込まれ、ひとりまたひとりと脱落し、意外にも最後に生き残ったのは村雲ただ一振りだけだった。こうなるならさっさと潰れた方がましだった。
どうしようか困っていると、廊下からガヤガヤと騒がしい話し声が聞こえてくる。大方、部隊が帰還したのだろう。
「ちょっとー。誰か助けてー」
大声で叫ぶ。それでも周りの連中は目を覚まさないから大したものである。戦場帰りの連中に酔っ払いの処理を頼むのは気が引けるが、話し声からするに怪我人はいなそうだ。
「みんな潰れちゃったんだけど、俺ひとりじゃあどうにもできないからさ。部屋に戻すの手伝ってくんない?」
声を掛けたのはいいものの、広間に入ってきた男の顔を見て、村雲は内心動揺してしまった。なぜならそこにいたのはつい先ほど話題に上っていた男なのである。大倶利伽羅も大倶利伽羅で、床に転がっている鶴丸の姿を見て珍しく動揺しているようだった。大倶利伽羅が広間に入ってきたのは完全に善意である分、このまま村雲を見捨てて背を向けて立ち去ることもできないのだろう。顔と態度に似合わず人が良すぎるのも問題だなと村雲は内心思うのだった。
「ほら、放っておいても風邪ひいちゃったら困るじゃん」
昼はまだ暑いが、秋に近づいた分、夜は冷える。多少言い訳めいた村雲の言葉に、大倶利伽羅は溜め息を吐いた。気まずいことこの上ない。
「……やっぱ、ほかの連中呼んでくるよ。戦帰りで疲れてるんでしょ」
「この程度の任務で疲れるほど柔じゃない」
そこは大人しく引き下がってくれた方が村雲の精神が救われたのだが。
鶴丸が転がっているのは広間の入り口付近で、大倶利伽羅がそれを無視してほかの酔っ払いの介抱をするというのには無理があった。なぜこうもお腹が痛くなる案件にぶち当たるのか。だらだらと嫌な汗が流れていくのがわかる。
起きろよぉ、と鶴丸を揺さぶるものの、まったく起きる気配がない。ちょっと泣きたくなってきた。
「あまり揺さぶると吐くぞ、そいつは」
「うへえ」
大倶利伽羅は膝をつき、鶴丸を担ぎ上げる。鶴丸の方は背はあるが、鍛え方がなのかそれとも長年の付き合いの中でコツを身につけたのか、そのまま苦もなく鶴丸を俵抱きにしながら出ていこうとする。揺さぶると吐くのにその担ぎ方は大丈夫なのだろうか。
「あのさあ、大倶利伽羅はさ」
思わず出てしまった声に、あ、と口を押さえる。大倶利伽羅が振り返り、村雲は観念して口を開いた。
「鶴丸のことが嫌いなの」
「……それを答える義務はあるか」
「答えないのってさ、それ自体が答えじゃないの。鶴丸は、あんたが鶴丸のこと怒ってるって言ってたけれど、本当?」
あまり余計なことに首を突っ込む性分ではない。ないのだが、どうにも、放っておくにはむずむずと落ち着かない。村雲だって、鶴丸の言葉を聞かなければきっと遠巻きに見ていただけなのだろう。つまり、そういう巡り合わせだったというだけだ。あるいは、損な役回り。
「俺がこいつを怒っている?」
大倶利伽羅は不可解そうに眉間に皺を寄せた。本当に、なにを言っているのかわからない、心当たりなどひとつも存在しないといった顔だ。あれ、と村雲は首を傾げた。
「鶴丸がやらかして、だから大倶利伽羅が怒ってるって」
「……逆だ。俺が失敗して、そのせいでこいつが責任を負う羽目になった。怒っているのはこいつの方だ」
「えええ。なにそれ」
鶴丸はなおも呑気に眠っている。いっそ、たたき起こしてこの場でお互いの言い分を問いただしたいものだが、先ほどもあれだけ揺さぶって起きなかったのだ。もうすっかり夢の中なのだろう。
大倶利伽羅の瞳が揺れる。過去を思い出し、なにごとかを考えている。
向いていないなあ、と村雲は腹を撫でる。こういうとき、上手く立ち回れるような性分ではない。酒の酩酊感は一気に醒めてしまい、泣きそうになりながら心の中でここにはいない五月雨に助けを求めたが、五月雨がやってきたところで事態が好転するわけもないことなどわかっている。ただ心の平穏を求めただけだ。
「大倶利伽羅は、許してほしいとか思わないわけ」
「許されないことをしたと思っている」
「それ、鶴丸も似たようなこと言っていたけどさ。それって結構、我が儘じゃない? 要するに、相手の気持ちのことどうも思ってないわけでしょ」
やばい、言い過ぎたかもしれない、と再度口を押さえる。だが大倶利伽羅は激昂することはなく、ただその場に立ちすくんでいる。
なんだかな、と溜め息を吐いた。
お互いにお互いを拗らせているだけだとわかっただけ、よかったのかもしれない。ただ、肝心の鶴丸は未だに深く夢の世界で、起きている大倶利伽羅が自分から動くかどうかは疑問ではある。
「俺から見たら、どっちもどっちだよ。俺は別にどうなろうが構わないけどさ、周りのやつが可哀想だから早くなんとかした方がいいよ」
数年間のわだかまりを解くのは容易なことではないだろうとは想像がつく。
なぜこう数年もこの状態が続いたのか。それは大倶利伽羅が鶴丸を避けていたからで、避けていたのは鶴丸が大倶利伽羅のことを怒っていると思っていたからだ。そしてその状況を、鶴丸は大倶利伽羅が自分を怒っていると判断し受け入れた。
「……見限られたとばかり」
ぽつり、と大倶利伽羅が呟いた。
「それだけのことを、した」
「鶴丸は、あんたが折れてもいいと思ったことがあると言ってたけど」
内緒の話だ。鶴丸はそう語っていたが、大倶利伽羅には知る権利がある。村雲の言葉を、大倶利伽羅は唇を噛んで受け止めた。
「そう思われていても仕方がない」
ううん、と村雲は首を捻る。きっと認識の違いがある、気がする。
折れてもいいと思った。その言葉だけ聞くと辛辣だ。けれど酒に酔いながらも語った鶴丸の様子からは怒りのようなものはなかった。むしろ――。
背後から呻き声のようなものが聞こえてきて、慌てて村雲は振り返った。吐く、なんて言葉が飛び出してきたのならそちらを優先せざるを得ない。
「と、とにかく大倶利伽羅は早く部屋に置いてきてよ! こっちはこっちでなんとかしておくからさ」
「……わかった」
大倶利伽羅が小さく頷き、鶴丸を担いだまま広間を出ていく。その背中を見送って、村雲はようやくほっと胸を撫で下ろした。あとはこの死屍累々の光景をどうするかだけ考えればいいのだ。
数年前、飲み会で潰れた鶴丸を運ぶのはいつも自分の役割だった。
鶴丸は酒が好きだが酒に弱い。実際のところ好きなのは酒自体よりも飲み会の雰囲気の方なのかもしれない。大倶利伽羅自身は余程のことがない限り飲み会に参加することなどなかったが、酔っ払いの介抱に人手を求められて呼ばれることは多々あった。面倒ではあったが飲み会に呼ばれるよりもずっといい。酔っ払いの運搬は素面の人間でないと務まらないから、それを見越して無理に飲み会へ呼ばれることはなかった。
調子外れな鼻歌が聞こえてくる。酒に酔った鶴丸は、ひたすらに機嫌がいい。肩に感じる重さは、懐かしい感覚だった。
「からぼう、かえったのかい」
寝ぼけた声だ。夢と現実との区別がついていないのだろう。ああ、と大倶利伽羅は返事をした。
「誉はとれたか」
「ああ」
「よしよし。えらいぞ」
頭を撫でる代わりなのか、べしべしと強く背中を叩かれる。
「やめろ」
「いいだろお。俺はいつだって、きみを褒めたいと思ってるんだから」
立ち止まる。
今、鶴丸の意識はどこにあるのだろう。数年前か。それとも現在か。どちらでもない、あやふやなものか。
唇を開き、けれどなにも言葉にはならない。この状態でなにか言ったところで、改善はしない。自分が満足するだけだ。
大倶利伽羅の様子に気がつくこともなく、鶴丸は続ける。
「きみのことが誇らしいよ、俺は」
穏やかな声だ。最後に聞いたのは、いったいいつのことだっただろう。
なぜ、と問いたい。
なぜ、あのとき頭を下げたのか。なぜ、大倶利伽羅を叱責しなかったのか。なぜ、隊長の座を退いたのか。なぜ、なぜ、なぜ。
肩に感じる重みが増していき、背中の方から寝息が聞こえてくる。答えをくれないまま、なにも変わらないまま、夜は更けていく。
吐きそう。
というのが目を覚ました鶴丸の始めの感想で、起き上がれないまま身を投げ出した。見える天井は自室のもので、どうやら誰かが部屋まで運んでくれたらしい。感謝しなければ。ここまで酷い酔い方をしたのは久しぶりだ。
なにか、良い夢を見た気がする。吐き気はするし頭はガンガンと痛むが、心のどこかに充足感があった。長く息を吐いて、覚悟を決めて起き上がる。
枕元に水差しや屑籠などが置かれており、いたせりつくせりな状態に苦笑しそれから固まった。かつて、同じように飲み会で潰れた次の朝に同じような光景を見たのだ。はっと顔を上げ、無情にも襲ってくる吐き気に呻く。用意された桶を使うようなことがなくてよかった。呻いたまま、数分が過ぎた。
部屋の中に、もう大倶利伽羅の気配はない。本当に大倶利伽羅だったのだろうか。疑う気持ちも生まれてくる。
――昨日、俺を部屋に運んでくれたのはきみなんだろ。ありがとな。
たったそれだけを告げる距離の近さが、今の二人の間には存在しない。
昨日の記憶がないことが、こんなにも悔しい。きっと、無理矢理鶴丸の介抱を頼まれたのに断れなかったのだ。人を近づけないくせに、人が良すぎる。そんなところが彼の美点でもあり欠点でもある。
大倶利伽羅はどんな顔をしていただろうか。呆れた顔ならまだいい。嫌悪感が滲んでいたのなら、落ち込む。覚えていない方がよかったのかもしれない。
昨夜の記憶が、途中から全くない。なにか余計なことを口走ってしまっていないだろうか。昨日、飲み会に参加していたのは誰だったか。入れ替わり立ち替わりだったから、最初にいた連中の顔までは覚えていても、地中から参加した連中までは記憶にない。
痛む頭を抑えながら、とりあえず着替えることにした。着替えまで手伝わせてしまったことに気づき、また落ち込む。意識がまともにない相手の介抱など面倒なばかりだ。誰か経由で詫びのひとつでも入れるべきか。逆にそちらの方が失礼か。
「きみが、なにを考えているのかわからない」
鶴丸は大倶利伽羅の誇りを傷つけた。あの若き龍にとってなによりも大事なものだ。そしてその誇りを鶴丸は愛おしいと確かに思っていたのだ。ずっとずっと、昔から。
しかしそれは、隊長である身では優先されない。部隊長は誰かたったひとりのことではなく、部隊全員のことを考え、そして本丸全体の利益を忘れてはならない。あの日、痛感したことだ。
自分も、大倶利伽羅も、愚かだった。その愚かさの結果、鶴丸は大倶利伽羅を失うところだった。
「俺はきみに、これ以上どう詫びればいい」
唇を噛む。鶴丸にとって、元のように一緒に過ごせるなどとは最初から期待していない。ただ、大倶利伽羅には心穏やかに過ごして欲しかった。そのためには鶴丸は彼にとって不要だった。いや、もっとタチの悪い。害悪そのものといえる。
「なあ、伽羅坊」
返事は、返ってこない。
部隊は全部で五つ。そのすべてが出陣や遠征に出ることが多い。編成に組み込まれていない刀は各々内番などの仕事をしたり非番を謳歌している。大倶利伽羅もその一振りで、今日は燭台切や太鼓鐘とともに買い出しに出ていた。
「なあ、俺ちょっと見たいものがあるんだけど」
前を歩いていた太鼓鐘が燭台切の腕を引く。いいよ、と燭台切が微笑み、大倶利伽羅も後に続く。万屋はそれなりに混み合っており、聞こえてくる話し声も賑やかなものだった。その中に、ほかの本丸の鶴丸と大倶利伽羅が連れ添って歩くのを、横目で眺めた。
伽羅、と太鼓鐘に呼ばれて視線を戻す。
「前に鶴さんと来たときに気になってたんだけど、そんとき売り切れだったんだよな。あー、駄目だ。再入荷待ち」
太鼓鐘が求めていたのはお菓子だったようだ。虚しくも商品に関する説明だけが残され、その一角はぽっかりと空いている。
「次の非番のときにまた見てみたらどうだ」
「次の非番、もう予定入れちゃったんだよ。ま、そのうちまた入荷するかな」
太鼓鐘は大倶利伽羅と鶴丸の間になにかがあったとわかっていても、変わらず鶴丸の話題を出す。心がざわめく感覚と、どこかほっとする感覚。太鼓鐘も燭台切も、大倶利伽羅と鶴丸のことで日常になにか影響を受けることはない。あくまで、ふたりの問題として放っておいてくれる。
ふたりの間にあることを解決するには、時間が経ちすぎた。大倶利伽羅は鶴丸に見限られたと思っていたし、それも仕方がないことだとその後の日々を受け入れていたのだ。けれど。
――きみのことが誇らしいよ、俺は。
実際のところ、鶴丸の本心はどこにあるのだろう。
――すまん、伽羅坊。俺は、見誤った。隊長として、するべきではないことを、した。悪いのはきみじゃない。俺の采配と判断が間違っていたんだ。きみを止めるべきだった。きみがここまでの怪我を負ったのは、俺のせいだ。本当に、すまない。
手入れ部屋で大倶利伽羅に向かって頭を下げ、立ち去った鶴丸を、追いかけて止めることはできなかった。その権利などないと思ったからだ。叱責された方がどれだけましだったか、きっと誰にもわかるまい。詫びるのは大倶利伽羅の方だったはずなのに。
「……俺が次の非番のときに見にきてやる」
「え、いいのか」
「どうせほかにすることもない」
非番の日は自室で過ごすか鍛錬をしているかのどちらかだ。普段から積極的に誰かと関わることがない分、予定を入れるようなこともない。
「んじゃ、頼むわ。金は後で払うからさ」
悪いな、と軽く謝られる。
このくらいの軽い詫びひとつで済ませられるものが、ありがたい。
大倶利伽羅には詫びる機会すら与えられなかった。だから、見限られたと思っていた。鶴丸は責任を取って隊長を辞し、別の部隊に入ったがそこでも隊長はおろか副隊長になることもない。大倶利伽羅は罪悪感から鶴丸と目を合わせられなくなったが、物理的に距離を置いたのは鶴丸の方だ。いったい、どうするべきだったというのか。
どうしようか、鶴丸はここ最近ずっと悩んでいる。
あの日、酔っ払った鶴丸を部屋へと連れ帰ってくれたのは大倶利伽羅だろうが、正面切って大倶利伽羅にそれを確かめる勇気がない。詫びのひとつでも入れなければ不義理な気もするが、昔は翌朝に大倶利伽羅が鶴丸の酒癖の悪さを叱責して鶴丸が一言詫びるのが当たり前の流れだったから、改めて大倶利伽羅のもとへ行くのは気が引けた。
ぐだぐだと悩みながら出陣のために支度を調える。溜め息が止まらないが、気持ちを切り替えなければならない。隊長ではなくなったとはいえ、戦場で気を緩めるわけにはいかないのだ。べしん、と自分の頬を叩く。
今日向かう任務の目的はあくまで偵察で難易度が高いわけではない。それでも万が一のことがある。
過去に大倶利伽羅とともに出陣した先で、そういった事態に陥った。まだ顕現したばかりの刀剣男士が三振り。戦力としては頼りない彼らを守りながら敗走するしかなかった。誰も折れなかったのが、奇跡といえる。
いや、実際のところ折れたのだ。あの日、大倶利伽羅は鶴丸の目の前で折れた。今いる大倶利伽羅は主から渡されたお守りによって助かった姿なのだ。
――彼が、折れてもいいと思った。
それは紛れもない本心で、そのことにぞっとした。恐ろしいことだ。失いたいわけではないのに、隊長としても失わせるわけにはいかないと冷静な頭が判断しているのに、それがどうだ。あの日鶴丸は無謀な突撃をした大倶利伽羅を止めなかった。ほかの刀たちの生存を優先させたわけではない。あのとき、鶴丸の目には大倶利伽羅しか見えていなかった。眩しいあの背中だけを、ずっと、見ていたのだ。
「……いかないと」
仲間たちが待っている。今の部隊長は歌仙兼定で、戦場では頼りになる刀だ。突然もといた部隊から隊長を退き、ただの一隊員となった鶴丸をそれでも戦力として重宝してくれる。彼や主の期待には応えたい。
仲間が折れてもいいと思った鶴丸は、隊長には向かない。もう二度とその立場には立たない。これが鶴丸のけじめだ。同様に、無謀な真似をした大倶利伽羅にもそれ相応のけじめをつけさせる。それが主の考えだった。大倶利伽羅は部隊長としてよく周りを見、よく動くようになった。主の判断は英断だったといえるだろう。隊長として評価されていく大倶利伽羅のことを知る度に誇らしい気持ちと、羨ましい気持ちが混在する。鶴丸は、隊長としての大倶利伽羅の姿を実際に見たことがなかったから。
何年も、ともに戦場に立てていない。あのときはまだ頼りなかった若き刀は、どんな風に戦場を駆けるのだろうか。
きっとあの日、鶴丸は一番見たかったものに触れた。遠い昔、見ることは敵わないだろうともう諦めてしまったものを、見ることができた。その結果が、これだ。願いが叶ったのと引き換えに、鶴丸は大倶利伽羅に関わる一切の権利を失ったのだ。
「……………………」
手の中の箱に目を落とし、大倶利伽羅は溜め息を吐いた。
先日太鼓鐘に頼まれていた菓子は、改めて万屋に行った際に無事購入することができた。再入荷されたばかりだが売れ行きがよかったらしく、最後の一箱を大倶利伽羅は手に入れたのだ。そこまではいい。
問題は太鼓鐘が外出先から戻ってこられなくなったことだった。ゲートの不調らしく、復旧するのは目安として三日後。同様の理由で燭台切も遠征先からの帰還ができなくなった。大倶利伽羅と太鼓鐘は明日出陣予定だったが、大倶利伽羅の部隊はもちろんとして本丸全体が出陣も遠征もできない状況に陥ってしまったのである。
幸いにして不調の原因は既に判明しているらしく、時間はかかるものの太鼓鐘も燭台切も無事に帰還できる算段はつきそうだ。
しかし。
大倶利伽羅は箱をひっくり返す。まさか頼まれたのが賞味期限の近い生菓子だったとは。
この菓子をどうするかが今現在の大倶利伽羅の悩みだった。太鼓鐘が食べられなくなったのは残念に思うが、捨てるには勿体ない。かといって、誰かにくれてやるには積極的に他者と交流を持たない大倶利伽羅にはその当てがない。広間に集まっている連中に押しつけようにも、菓子は三つしか入っていないから争奪戦になるだろう。
結局、これを食べたがっていた鶴丸に渡すのが一番いい気がしてきたが、顔を合わせるにはやはり気まずい。なんとか大倶利伽羅からのものではないとしたうえで鶴丸の元へこの菓子を渡す方法はないだろうか。
数分、考えていたかと思う。
大倶利伽羅はゆっくりと立ち上がり、部屋を出た。向かった先は主のもとである。ゲートの不調に付随する諸々の問題で主は仕事に追われているようだった。夕餉も食べていないだろう。誰かが軽食を持っていった可能性は十分にあるが、疲労には甘い物がいいと聞く。太鼓鐘が帰られなくなったことは当然主も知っているから、事情を話せば主も受け取るはずだ。
今日の近侍は鶴丸だが、今の時間は風呂にいるはずだった。大所帯の本丸では出陣や遠征組を除いた連中の入浴時刻は部屋の区画によって定められている。主に渡しておけば、その流れで風呂上がりの鶴丸も食べるだろう。自然な流れだ。
案の定、というべきか、ぼさぼさの頭をした主が執務室にいた。騒動が起こったのは昼過ぎのことではあったが、その割に見た目から感じられる疲労度がすさまじい。
念のために話し声が聞こえないか確かめてから入室したが、予想通り部屋の中には鶴丸の姿はなかった。内心、ほっと胸を撫で下ろす。
「大倶利伽羅じゃないか。どうしたんだい」
普段は用事もないのに主に積極的に会いに来ることはない大倶利伽羅の唐突な来訪に、主は目を丸くする。
「ああ、太鼓鐘と燭台切については無事のようだよ。連絡自体はできているからね」
どうやら大倶利伽羅がふたりを心配していると思ったらしい。それについては別口で通達はあったものの、主の口からはっきりと伝えられると大倶利伽羅も安心した。
「そいつから買うのを頼まれていた菓子があったが、賞味期限が近い。戻ってくるまでに腐るかもしれないからあんたが食ってくれ」
菓子が入った袋を、主が目を輝かせて受け取る。
「やったあ。ちょうど小腹が空いたところなんだ。お、三個入りじゃん。大倶利伽羅も食っていけよ」
「いや、俺は」
「いいじゃん。鶴丸も後から来るだろうけどさ。二人で三個ってちょっと分けにくいしな」
主は大倶利伽羅の言葉も聞かずに茶を淹れ始める。これくらいでないと刀剣男士をとりまとめられないのだろうが、大倶利伽羅としては少し疲れる。諦めて大倶利伽羅は腰を下ろした。鶴丸もすぐには戻ってこないだろう。
「最近、どうだい」
「抽象的すぎて答えにくい」
「世間話っつうもんができないのか、大倶利伽羅は。色々あるだろうが。隊長になって数年、悩みとか。普段、ふたりきりになることはないからな。これを機に言っておきたいこととかなにかないのか」
主としても仕事で煮詰まった結果の気晴らしなのだろう。大倶利伽羅と世間話ができると思った判断は大きな過ちであるが、主の心情も理解できる。
大倶利伽羅は少し悩み、口を開いた。
「なぜ、あいつを隊長から降ろした」
名前を出さずとも誰の話をしているのかわかったのだろう。主は驚くこともなく茶を飲みながら大倶利伽羅にも湯飲みを差し出す。
「鶴丸が言い出したことだから、正確には俺が降ろしたわけじゃあないな」
「引き留めることもできたはずだ」
茶化すような言葉に腹が立ったが、主に当たったところでどうにもならない。
刀剣男士は主命を断れない。鶴丸がなにを言おうと、主が鶴丸を隊長として任命し続けようとする意思がある限り、鶴丸は隊長の座から退くことはできない。
「鶴丸は理由を話し、その理由に俺は納得した。まあ、表向きは責任を取ったってことにはなるのかな。勘違いしないで欲しいんだけどね、大倶利伽羅。その理由の原因にお前はいるが、お前が責任を負うべきではないということだ」
主の返答に、大倶利伽羅は眉間に皺を寄せた。
「責任を問われるべきは俺のはずだ」
「そこが難しいところだな。表向きは責任を取った、と言ったが、そちらの方が理由としてはわかりやすいからだ。実際のところ、ある種の危険予測に基づいて鶴丸は自ら隊長を退いた。自分が隊長で居続ける限り、ほかの誰かを危険に晒すリスクがあると判断したんだな。実際、お前は最悪の形であの日戻ってきた。お守りがなかったら折れていたわけだから」
「あれは、俺の力が足りなかったからだろう……!」
拳を握る。
戦場で舞う鶴丸が、どれだけ美しかったことか。危機的状況でも挫けずに仲間を鼓舞し、諦めることがない。返り血を浴びながらも無邪気に笑い、自分の力を示す。自分とは全く違う鶴丸の戦い方が、大倶利伽羅は好きだったのだ。
戦刀としての自負がありながら、大倶利伽羅が実際に鶴丸が戦う姿を見るのは、本丸に来て同じ部隊に組み込まれてからのことだった。当然だ。鶴丸があの地に来たのはもう大きな戦は遠のき、美術品としての面の方が強くなった頃だ。
――俺が戦刀として扱われるところ、きみにも見て欲しかったんだがなあ。まあ、悪いことばかりじゃあ、ないさ。退屈は退屈だが、ここまで心穏やかな退屈は随分と久しぶりだ。俺はな、伽羅坊。今の暮らしが結構気に入っている。きみは不本意かもしれないが、戦刀として使われないというのは、人々にとって良いことなんだろう。うん。それでも。それでもだ、伽羅坊。万が一、俺がまた再び戦場で使われることになったら、きみ、しっかりとその姿を目に焼き付けてくれよ。俺の一番美しい姿を、きみにも見て欲しいんだ。
あの地で願われたこと。きっと、言われなくともそうなった。
戦場に立つ鶴丸国永は美しかった。返り血を浴びながらも、その在り方はなににも穢されることはなかった。共に戦場に出たときのすべての戦いを大倶利伽羅は思い出せる。たとえどう日常を過ごしていたのかをもう思い出せなくとも、戦場の鶴丸だけは目に焼き付いて消えないのだ。
「――あいつには、隊長で居続けて欲しかった」
共に、これからも戦場を駆け抜けて欲しかった。
そうできなくなった責が大倶利伽羅にあるというのなら納得して受け入れた。実際、この数年ずっとそうだと思って生きてきた。けれど、大倶利伽羅に責はないと主は言う。では大倶利伽羅はどうすればいいのだ。どうすれば、よかったのか。
責がないということは、責があることよりも絶望があった。つまりもう、大倶利伽羅自身に鶴丸の立場を左右する術はないということだ。当事者でありながら、関与ができない。鶴丸にとって、大倶利伽羅とはなんなのだろう。
大倶利伽羅は立ち上がり、部屋を出た。もうすぐ鶴丸が戻ってくるだろう。
冷静に話せるだけの自信が、今の大倶利伽羅にはなかった。
「だとよ」
「……おう」
頭上から降ってきた主の声に、鶴丸はようやく息を吐いて机の下から這いずり出た。
突然来訪した大倶利伽羅の声に慌てて机の下へ潜り込んだはよかったものの、それからすっかり出るタイミングを見失ってしまったのだ。まだ乾かしきっていない髪は変な癖がつくだろう。しっとりと濡れた髪を鶴丸は摘まんだ。
大倶利伽羅は鶴丸がまだ風呂にいると思っていたのだろうが、ゲート不調のトラブルに伴う事務処理に主が追われていたため、それを手伝うため急いで風呂は済ませてきたのだ。烏の行水。鶴のくせに。
なぜ隠れてしまったのだろう。平然と対応していれば、先日の礼もできたのに。いや、それよりも。
「え、伽羅坊、もしかしてとんでもない勘違いをしていないか……?」
血の気の引く感覚がした。
「ていうか、あいつ、俺のこと怒ってたんじゃないのかよ。距離取ってたし。あの日のこと引きずりすぎじゃあないか。なんで伽羅坊が責任取るべきだと思ってるんだ。どう考えても俺が悪いだろ。なあ」
主に同意を求めるが、主は半目になりながら鶴丸を見ている。
「な、なんだい。そんな目で俺を見るなよ」
「いや、その言葉そのまんまブーメランだと思ってな」
「ぶーめらん」
「きっと、大倶利伽羅はお前が怒っていると思っていた。隊長を退いて距離を取ったのはそのためだろうって。あいつも真面目だから、今まで異を唱えなかった。あー、可哀想」
そんなことを言っても、主だって鶴丸の申し出を受け入れただろうに。
自分の見方だと思っていた主に見放され、途方に暮れてしまう。
「あいつがなにを考えているのか、全然わからなかった」
長い付き合いなのに。
だからこそ、だろうか。わからなくなったわけじゃない。わかろうともしなかったのだ。言わなくともわかると思ったことがお互いにあって、わからないと告げることは恐ろしかった。その程度の関係だと思われたくはなかった。お互いに、お互いが、勘違いをしてすれ違って、このザマだ。
「俺はあいつを傷つけたくはなかったよ」
「でも傷つけたんだろう、あの態度を見ると」
「主にまで言われるようじゃあ、そうなんだろうな」
机の上を見る。
鶴丸が気になっていたお菓子だ。偶然だろうか。けれど、今日鶴丸が近侍であることは大倶利伽羅も知っていただろう。三個入りのお菓子を、鶴丸が食べると思っていたに違いない。
「俺はどうするべきなんだろう」
「そりゃあ、勘違いで仲違い続けるのはこっちは迷惑だからな。こっちとしては、早く解決して欲しいもんだよ」
「俺はあの日、するべきことよりもしたいことを優先してしまったんだ。だから絶対、これからはしたいことよりもするべきことを優先すべきだと思った」
「まあ、でも、今はしたいこととするべきことが一致してるからいいんじゃないか」
主の言葉に、ゆるゆると顔を上げる。
「俺としては早く解決して欲しいと思っているし、お前としちゃ仲直りがしたいんだろ。それでいいんじゃあないの」
すっかり冷めてしまったお茶を飲みながら、主は話す。
仲直りがしたいんだろうか、と鶴丸は考える。また元のように戻れたらと思ったことはある。今の関係が寂しいとも感じる。けれど喧嘩をしたという意識はまったく鶴丸にはなくて、おそらく大倶利伽羅にとっても同じだろう。
わからない。わからないが、鶴丸としてはこのまま大倶利伽羅を傷つけたままにしてはおけなかった。鶴丸が勝手にあの日ひとりで満足して、その結果をひとりで反省して、大倶利伽羅の心を放置してしまったのだ。
ぱしん、と頬を叩いて机の上の菓子を手に取る。包装を解いて、三口で平らげ、大倶利伽羅の飲み残したお茶を一気に飲む。口を乱暴に手で拭って、鶴丸は立ち上がり走り出した。
ああ、うん。
なんとかこうして無事に帰還できてよかったよ。あいつも、暫くは動けないだろうが。でも、お守りがなかったらこうはならなかっただろうな。
油断していたわけじゃない。わかってる。引きずりすぎるのもよくないって。まあ、今回は流石に肝が冷えたな。
……………………。
あー、なんて言えばいいのかね。
うん、俺が失敗した。あの状況は仕方がない。伽羅坊が活路を開こうとひとり敵陣に突っ込んだのも仕方がない。あのとき満足に両足があったの、あいつくらいだしな。や、考える時間があったらもうちょっと別の方法思いついたかもしれんが、それをすぐに思いつけなかったのは確かに隊長としての落ち度だよ。
そうじゃなくて、そうじゃなくてだな。その。
――俺はあいつが折れてもいいと思ったんだ。
誤解するなよ。折れて欲しかったわけじゃないんだ。
きみには、理解するのが難しいことかもしれない。これは諦めとかじゃなくて、感覚の差だ。人間と刀の。
俺はさ、戦刀としての自負がある。刀剣男士としてだけじゃなく、ただの刀だったころから、美術品としてよりも戦刀としてずっと在り続けたいと思っていた。ま、時代がそれを許さなかったし、人々から戦が遠のいたのは悪いことじゃないのは理解している。
あいつもさ。戦刀として在りたかったんだろう。
あいつとあの地で過ごした長い時間が、俺は好きだったよ。けれどあいつが戦場にある姿を、俺はずっと見てみたかった。あの龍が戦場に在る姿を、ずっと想像していたんだ。
それがこうして人の身を得て自分で自分を振るうのだから、なにが起こるかわからんもんだよな。
一緒に戦うのが楽しかった。あのときの夢が、叶うなんて思わなかった。
あの日、伽羅坊が敵陣に突っ込むのを、みんなが止めたんだ。
けれど俺は止めなかった。行け、と思った。走れ、戦え、折れるまでその力を示せ、ってな。
だって、あの背中がとても美しかったから。
目を奪われる、とはあのことをいうのだろう。
俺はかつて伽羅坊に、俺が戦場に立つことがあったらその姿をしっかり目に焼き付けておけなんて偉そうなことを抜かしたが、実際そうなったのは俺の方だったというわけだ。笑えるだろ。
それで、あいつは本当に折れちまった。きみがお守りをくれていなけりゃ、それで終わりだった。俺は自分の考えの恐ろしさに気がついたよ。
あいつには謝ったが、許しちゃくれないだろ。
俺はあいつの誇りを傷つけた。あいつが折れると思っていたよ。実際、折れたわけだし。そういったところでは、あいつのことをちっとも信じていなかったんだ。戦刀に対する侮辱だ。あのときの伽羅坊は無茶で、無謀で、絶対に折れるとわかって、それでも行けと願ったんだ、俺は。
俺は、しっかりやれると思ったんだ。隊長は自分に向いていると思った。こういう性格をしているが、戦場ではちゃんと冷静に動けるってな。
それがどうだ。一振りの背中に目を奪われて、ほかになにも見えていなかった。本当に、自分で自分を見誤っていたよ。
主。俺を隊長から降ろしてくれ。
このままだと俺は、絶対に周りを巻き込む。これ以上被害が広がる前に気づけてよかった。俺はまた、同じことを願ってしまうだろう。折れてもいいって、あいつへの侮辱だとわかりながらも、思ってしまう。あの姿を美しいと感じる限り、ずっとだ。
ああ、感謝する。
ありがとうな、主。
「――伽羅坊!」
懐かしい響きだった。
大倶利伽羅はその声に振り向いた。
部屋へと戻る途中だった。秋に入りかけの廊下は、やはり夜になると冷える。少し早足になりながら歩いているときに、その声の主が現れたのだ。
声の主、鶴丸はいったいなにがあったのか、ぼさぼさの頭でそこにいた。服も乱れ、肩で息をしている。平時では見られないような姿に、大倶利伽羅は驚いた。
「ええと、その」
手を握ったり開いたりしながら、鶴丸はなにを言おうか必死に考えているようだった。
「の、飲み会のあと部屋に連れて帰ってくれたのはきみだろう! ありがとう!」
「……ああ」
なんの話をされているのか、一瞬わからなかった。あれはもう二週間も前になる。礼を言われるのは今更の話だ。鶴丸もそれはわかっているのだろう。会話に失敗したと顔に書いてある。
「それから、きみの持ってきたお菓子、美味かった! いや、味は正直慌てすぎてちょっとよくわからなかったが、きっと美味かったと思う!」
「は」
大倶利伽羅が部屋を立ち去ってから、数分しか経っていない。
もしかして、と大倶利伽羅は想像し口を押さえた。鶴丸は、大倶利伽羅と主の話を聞いたいたのではないか。
衝動的に、鶴丸に背を向けて大倶利伽羅は走り出した。
「ちょ、ちょっと待て! なぜ逃げる!」
大倶利伽羅は答えない。衝動のまま、廊下を走り、しかし冷静な頭がこのまま廊下を走り続ければ誰かにぶつかるだろうと判断し、外へと飛び降りる。石を踏み、足の裏が痛んだが気にしてはいられない。一方の鶴丸は、止まれ、待て、痛え、と叫びながら大倶利伽羅を追いかけてくる。喧しいことこの上ない。その喧しさが、懐かしかった。
声に反応して何事かと数振りの刀が部屋から顔を出しているのが見える。だから余計に足は居住区から遠のき、庭の方へと向かった。
自分がなにを考えているのか、大倶利伽羅にはわからなかった。とにかく、ただ、逃げるべきだと思った。大倶利伽羅にとっては不名誉なことに、敵前逃亡である。本丸の中だというのに。
「待て、つ、ってんだろうが!」
数分の追走劇の末、軍配は鶴丸の方に上がった。大倶利伽羅の服を掴み、結果、ふたりして地面に転がり倒れる羽目になってしまった。鶴丸はそのまま馬乗りになり、大倶利伽羅の襟首を掴む。マウントを取られると逃げ出すのは容易ではない。ち、と大倶利伽羅は舌打ちをした。
「きみは――、戦場に立つきみは、美しかった!」
なにを言い出すのか。
呆気にとられながら、大倶利伽羅は鶴丸を見上げる。
鶴丸は顔を真っ赤にしながら――それが全力で走ったからなのか、それとも別の理由からなのかはわからないが――必死に言葉を紡いでいた。けれどもその言葉の意図が、大倶利伽羅にはさっぱり理解できない。
「……会話が下手か」
「きみには言われたくないが!」
今のは怒りで赤くなったのだとわかる。
もう、なにがなにやらわからない。諦めて大倶利伽羅は力を抜いた。もういっそ笑いたい気分になったが、口元が笑みを浮かべることはない。
「あの日のきみは悪くない。確かにあの状況で敵に突っ込んだのは馬鹿で、計画無しで、無茶で、無謀で、実際折れたわけだが、状況的に仕方がない面もあったし、それはわかっている」
悪くないと言いつつもずいぶんな言われようである。
「――あの日、俺はきみが折れてもいいと思ったよ」
鶴丸の言葉に、心臓が冷えた気がした。
以前、村雲からも鶴丸がそう言っていたことを聞かされた。けれど、他者から聞かされるのと本人から直接言われるのとでは、大きく違う。
押し黙る大倶利伽羅に、けれど鶴丸は言葉を紡ぎ続ける。
「馬鹿で、計画無しで、無茶で、無謀で、折れると自分でわかっていて、それでも前を向いて敵に立ち向かうきみがあまりに美しかったから、俺はきみが折れてもいいと思った。きみの心が折れないとわかっていたから、きみが折れるまで戦えと願ってしまった」
大倶利伽羅を見つめる鶴丸の瞳が揺れる。
美しい金の瞳が、まっすぐに大倶利伽羅を見つめている。
こうしてちゃんと目を合わせて会話をしたのは、いったいいつぶりだろう。
「だから隊長の座を退いたんだ。こんな考えは、隊長である立場で抱いてはいけない。きみは、悪くない。俺がやらかして、俺が自分で決めた。その結果、きみが隊長の立場を押しつけられて、迷惑を被って、きみが俺のことを怒っていると思っていたが、そうじゃないんだろう?」
やはり、鶴丸は大倶利伽羅と主の会話を聞いていたのだ。大倶利伽羅は溜め息を吐いた。
「なぜ俺が怒っていると」
「きみの誇りを傷つけた。それに、きみは俺をずっと避けていたし、俺が作った弁当も置いていくし」
「弁当……?」
なんの話に飛んだのかわからない。わからないことだらけだ。
けれど、お互いの認識が致命的にすれ違っているということだけは、わかった。
「とにかく、退け」
「逃げないか」
「逃げない」
もう、逃げない。
そう答えると、ようやく鶴丸は大倶利伽羅の上から退いた。
お互いに汗だくだ。冷えて風邪をひいてもおかしくない。特に鶴丸は風呂上がりでろくに髪も乾かさないままでここまで来たのだろう。へっくしょい、と可愛げのかけらもないくしゃみをする。
かといって、すぐには戻りにくい。鶴丸が大声で叫びながら走り続けたから、戻った途端に質問攻めに遭うことは予想できる。結局ふたり、地面に座り込んだままで話をすることになった。
「前、遠征に行くきみに弁当を作った。俺としちゃ、珍しく気合いを入れて作ったんだぜ。それをきみ、置いていきやがった」
「…………あ」
ようやく記憶を遡ることができた。だから燭台切も、弁当を忘れたことをいつまでもねちねちと責め続けたのだ。彼は鶴丸が作った弁当だからこそああ言っていたのだろう。
「あれはわざとじゃないし、お前が作ったことなど知らなかった」
「本当か」
「本当だ。嘘を吐く理由がない」
あのときの弁当をちゃんと大倶利伽羅が食べていれば。あるいは、作ったのが鶴丸だともっと早くに知っていれば、もう少し早く事態は好転したのかもしれないが、後の祭りだ。
「俺たちは嘘を吐いたわけじゃなかったけれど、本当のこともちゃんと伝えられてはいなかったんだな」
膝を抱えた鶴丸が苦笑する。
拗れに拗れ、ここまで来た。勘違いをしてすれ違って、それで周りを巻き込んで、結果がこれだ。今本丸に燭台切と太鼓鐘がいなくてよかったと心の底から思った。
ちゃんと、話をしなければならないだろう。
ひとつひとつ、誤解を解く。どれくらいの時間がかかるかわからないが、きっと、すれ違い続けた数年よりも遙かに短いはずだ。
「お前は戦場に立つ俺のことを美しいと評したが――」
ひとまず、と大倶利伽羅は息を吐いて告げた。
「戦場に立つお前の姿も、美しかった」
確かに、目に焼き付いて離れない。
大倶利伽羅がそう告げると、鶴丸は両手で顔を覆った。
「……なんだその反応は」
「いや、その、きみ、それは反則だろ」
隠れていない耳が赤く染まる。自分でかつて語ったくせに、なぜ照れるのか。
「ああ、もう、なんだか全部馬鹿らしくなってしまったな」
鶴丸が寝転がる。完全に気が抜けてしまったらしい。鶴丸の言葉に対しては、全面的に同意だ。本当に、馬鹿らしい。馬鹿らしいことだった。その程度の、ことだった。
「はは」
堪えきれない、とばかりに鶴丸が笑う。
秋の夜空に、鶴丸の笑い声が響く。数年ぶりに聞いた鶴丸の笑い声は酷く懐かしく、そして耳によく馴染んだ。