アラスター視点 1 まるで雷が落ちたかのようだった。
「私は──君に惚れたからね」
そう告げられた時、アラスターはまず、何を言われたか理解できなかった。ただ息が詰まるような衝撃に襲われ、言葉を失った。
何かの間違いかと思い聞き返しながら、真意を確かめる為にルシファーをよく観察する。
そうして、彼の目を見たのがよくなかった。
自分を見つめる男の目。その奥に見覚えのある色を見つけ、アラスターは絶句した。
──地獄の王が、自分に惚れている。
とんでもない事実を前に、アラスターは嵐の中に一人取り残されたような心地になった。
*
アラスターは生前から、よく愛の告白を受けた。幼馴染の女の子や近所のお姉さん。学校の先輩だったり職場の後輩だったり、男女問わずとにかくよく恋情を向けられた。
だが、アラスター自身は誰かに恋したことはなかった。多少思い入れに大小の差はあれど、誰かを特別に感じたことは一度たりともなかった。
恋にもセックスにも興味がない。興味を抱けない。関心はあるが、あくまで知識欲に伴うものであり、そこに何某かの感情が付随することは一度もなかった。
それは死後、悪魔となった今も変わらない。
姿形が変わろうと、暴力とセックスに塗れた世界に落ちようと、自由を失うことになってしまっても、アラスターの性質は変わることはなかった。
*
──だというのに、何故よりにもよって地獄の王に惚れられてしまうのか。
ルシファーお手製のパンケーキにナイフを入れながら、アラスターは内心で愚痴を零した。たった一晩の間に、ルシファーの中で何が起こったというのか。
昨夜までは普通──だった筈だ。正直、傷の痛みで記憶が正確ではないが、違和感は覚えなかった。
分からない。本当に分からない。何がどうしてこうなった。こんな事態は想定外だ。
(私にどうしろと)
アラスターはルシファーを嫌いな訳ではない。自分よりも上にいる存在であることは非常に目障りで不愉快だし、彼の持つ天使の気配が不快だとは感じるが、それらを取り払ったルシファー個人に関しては特別何とも思っていなかった。初対面の時に突っかかったのだって、ホテルの運営に邪魔だったからだ。
ルシファーの好意自体は嫌ではない。嫌ではないが、喜べることでもなかった。
しかも厄介なことに、ルシファーは自身の気持ちに気付いていない。熱っぽい目でアラスターを見つめているのに、それに無自覚なようだった。
(……私に、どうしろと……)
この手の無自覚な相手は過去何度も遭遇したことがある。そして、そのほとんどがトラブルに発展した。なにせこのパターンに陥るのは高確率で男だったからだ。
同性愛はタブーとされていた時代。故にアラスターへの恋情を認められない、思考の選択肢にすら上がってこない。その癖、嫉妬心や独占欲はしっかり持ち合わせているものだから、厄介この上なかった。
無自覚なまま放置していたらストーカーになることが多く、かといって自覚を促すと、逆にアラスターの方から好意を持たれていると勘違いして押し倒されそうになったこともあった。
一番有効だったのは恋人がいると誤解させることだったが、流石にひとつ屋根の下で暮らす相手に嘘を吐き続けるのは難しい。アラスターはともかく、相手役はとんだ大根役者だ。いずれ見抜かれるだろう。
嘘が効いている間に諦めてくれる可能性もあるが、過去のパターンからしてほとんど期待できない。確実性の無いことはあまりしたくなかった。
アラスターが悩み続けている間も、ルシファーは熱心に見つめてくる。真正面から熱い眼差しを向けられ、アラスターは気まずい思いでパンケーキに視線を落とし続けた。
「左利きなんだな」
『はい?』
「利き手。左なんだな」
『ええ、はい』
「そうか。私もなんだ」
ナイフを持つ手を軽く振って、照れ臭そうに笑うルシファー。対してアラスターは口端を引き攣らせた。共通点を見つけて喜ぶんじゃない。
「パンケーキ、口に合うか?」
『生地が甘いですが、まぁ。食べられないほどではありません』
カリカリのベーコンと卵が乗った、ごく普通のパンケーキだ。生地がふかふかしていてレシピが気になる。ニフティに作ってあげれば喜ぶだろう。
アラスターはそのまま食べているが、ルシファーはそこにメープルシロップをたっぷりかけていた。てらてら輝く黄金色を見て、アラスターは自然と顔を顰める。
「甘いのは苦手なのか?」
『はい』
「そうなのか。次は気を付けよう。じゃあ、好きな食べ物は?」
アラスターの脳裏に、昔無理矢理セッティングされたお見合いの記憶が過ぎった。
返答はなるべく素っ気なくしているのに、相手は食い気味で質問を投げかけてくる。あまりにも覚えがありすぎる状況だ。
(……どうしろと……)
解決策が全く思いつかない。アラスターは迷子の子どものような気持ちで、話し続けるルシファーの相手を努めた。
***
ルシファーから小っ恥ずかしい宣言を受けた日の朝。アラスターは一人、地獄の街を歩いていた。
昨日は散々な一日だった。チャーリーが契約のことをルシファーに話すのは想定していたし、それを理由に怒りをぶつけられるのも予想していたが、まさか丸焼けにされるとは。
初めて見た“王”の力を思い出す。熾烈で強烈で、強大だった。あれで全力ではないのだから途方もない。
だが、アラスターに恐怖はなかった。むしろ胸が踊り心が昂る。
壁は高ければ高いほど良い。肉体を焼かれた苦痛も屈辱も飲み込めるほどに、刺激的で有意義な体験だった。
唯一残念だったのが、ルシファーが未だに自分に懸想していることだ。てっきり契約の件で愛想をつかせると思っていたのだが、何故か未だに彼の目から恋慕の色が消えていない。昨日の怒りも、チャーリーとの契約より、それを黙っていたことへの怒りの方が大きかったように感じた。
『……面倒な』
愚痴を零しながら、アラスターは丸焼けにされた後のことを思い出す。
ニフティにルシファーをどう思っているのかと尋ねられた時、アラスターはすぐに答えられなかった。いくら考えても答えがでなかったのだ。
好悪で言えば、元々はどちらでもない。地位や性質を除いたルシファー個人には興味すらなかった。
だが、今は違う。彼の為人を知ってしまった。書面や人伝での情報ではなく、直接の対話で知ってしまった。一日にも満たない時間の交流で、アラスターの人間部分がルシファーへの情を確かに抱いてしまった。
ただ、その情が何からくるものなのかは判然としなかった。
友情でもない。親愛とも少し違う。この胸の中にある感情は何なのか。
アラスターは人生で初めて、未知の感情に悩まされていた。
アラスターとしては一旦ルシファーと距離を置きたかったのだが、彼は契約を理由に離れるつもりがない。むしろ距離を詰めるつもりだ。恋情に無自覚な癖に小賢しい。
しかも行動が早い。あの宣言の後、早速お茶に誘ってきたくらいには早い。変なところがチャーリーとそっくりだ。
結局、アラスターは予定があるからと断ったが。しょんぼりと肩を落とした男の姿はたいそう愉快だった。
アラスターはルシファーのことを考えながら、喧騒満ちる地獄の道を進んでいく。
ペンタグラムシティには、天使軍が残した戦果の爪痕が大きく残っていた。街を切り裂くように残る破壊の痕はアダムが残したものだ。
本来なら、天使軍はハズビンホテルに集中していて街に被害が出る筈はなかった。だが、アダムがルシファーと戦った際に放たれた特大の攻撃がホテルを貫通し、街にまで及んでしまったらしい。おかげでそれなりの数の罪人が死亡した。次の上級悪魔会議の荒れようを想像すると頬が緩んだ。
悲鳴と怒号がBGMの道を歩く。未だ天使軍撃退の興奮冷めやらぬ様子の罪人たちが、電気屋に置かれたテレビに集まって騒いでいた。
ちょうどルシファーとアダムが交戦しているシーンが流れ、罪人たちが一斉に歓声をあげる。まるでスポーツ観戦でもしているような熱狂ぶりだ。
彼らは手に『ルシファー万歳!』『地獄の王最高!』など、ルシファーを讃えるプラカードを握っている。あの一戦後にできた、ルシファーの熱狂的なファンだ。よほど天使軍を追い返したのが効いたらしい。ルシファーが遅参するまでの人食い族の活躍も、それを集めたプリンセスの功績も無視して。
彼らは知らない訳ではない。それらはきちんと報道されている。だが、彼らの軽い頭からはすっかり抜け落ちているようだ。
分かり易い“力”を信奉し、派手なものに目を奪われる。人間という生き物は、死んで悪魔となっても変わらない。
(これだからあの箱は嫌いなんです)
洗脳のように繰り返し同じ映像を見せ、変わり映えのしないそれに涎を垂らす罪人。衆愚の有様には溜め息すら出ない。
その場を通り過ぎようとしたアラスターの視界に、切り替わったテレビの映像が入ってくる。アラスターがアダムと戦っている場面だ。途端にブーイングと歓喜の声が入り交じる。
大方、それも繰り返し放送しているのだろう。どこぞのテレビ頭がやりそうなことだ。
本当に芸のない。アラスターは内心で旧友を心のままに罵った。
「オイオイオイ。負け犬が、こんな所で何してんだァ?」
突然、道行くアラスターの前に巨体が立ち塞がる。ニタニタと下品な笑みと共に見下ろしてくるのは、牡牛が二足歩行したかのような悪魔だった。
眼帯を付けた男は、全身の筋肉を見せ付けるような薄着だ。鼻息荒く頭上から見下ろしてくる男に、アラスターの目尻がピクリと痙攣する。
「アダムに負けた雑魚が、こうも堂々と街中を歩いてるとはなぁ。恥ずかしくねぇのか? ア?」
剣呑な気配に気付いた罪人たちの視線が集まってくる。無言のアラスターに何を思ったのか、男はご機嫌な様子で続けた。
「可哀想になぁ。あんな惨めな姿を地獄中に見られてよぉ。俺なら恥ずかしくて外なんか出歩けないぜ。でもアンタは、恥ってモンがないらしい。面の皮がよっぽどブ厚いのか? なぁ、今どんな気持ちだ? 負け犬さんよぉ」
どこからか男の取り巻きがやってきて、アラスターを囲んでいく。下品な笑い方で牙を剥き出しにして、赤い鹿を狩ってやろうと意気込んでいた。
不穏な空気に釣られて、出歯亀がどんどん増えていく。その中には、さっきまでテレビに夢中だった者もいた。
「アラスターだ」
「ラジオデーモン」
「ああ、アダムに負けた」
「アイツは天使に負けた」
「大怪我してるはずだ」
「今なら殺れる」
「やれ! やっちまえ」
熱を上げる周囲を他所に、アラスターはつまらなさそうに自身の爪を眺めていた。興味がないと言わんばかりの態度に、気持ちよさそうに口を回していた男が顔を顰める。
「オイッ、なんとか言ったらどうなんだ? それとも、怪我が痛くて声も出ないのかなァ?」
ギャハハハハッ。下品な笑い声が重なり広がる。
鹿耳をピクピクと揺らしたアラスターは、いつもと変わらない美しい姿勢でマイクスタンドを地面に突き立てた。
『言いたいことは言い終えましたか?』
「……あ?」
『よろしい。……確かに私は、アダムに負けました』
数秒の沈黙。堰を切ったように嘲笑と侮蔑の言葉が飛んでくる。が、アラスターは変わらず笑顔のままだ。向き合っていた牡牛の男は違和感を覚えたが、伝染する熱気に飲まれて思考が上手く働かない。
『それで? それがあなたたちと、何の関係があるというんですか?』
再度黙り込む罪人たち。威風堂々とした姿と言葉の内容が繋がらずにフリーズしている。
なんとか復活した男が、戸惑いを隠せない様子でアラスターを指さした。
「天使に負けたお前が偉そうに街を練り歩いているなんて、おかしいだろ!」
『なるほど。それで?』
「だから、お前を倒して……俺が、その空いた席に座ってやるッ」
アラスターは真っ赤な目を丸くして首を傾げた。キョトンと、子どものような顔でまじまじと男を見上げる。真正面からそれを見てしまった男の心臓がギクリと跳ねた。
『……ハッ』
幼い表情から一転、アラスターの顔が凶悪に歪んだ。傾けていた首が更に傾き、ゴキン。体からしてはいけない音が鳴った。
空気を切り裂くような笑い声が辺りに響き渡る。首が真横に折れたまま笑い続けるアラスターの姿に、広がっていた熱気が別のものへと変わり始めた。
『まったく、可愛らしい牛さんですねぇ。何を勘違いしているんでしょう。私がアダムに負けたからって、何故あなたが私に勝てることになるんですか?』
「だっ……て、お前は、天使に負けて……」
『だからって、私が弱くなった訳でも、ましてやあなたが強くなった訳でもないでしょう』
ようやく頭が回り始めた罪人たちの様子に、アラスターは首を元に戻した。ギイ、錆びた金属が擦れるようなハウリング音が辺りに響き渡る。罪人たちの体が自然と震え出した。
『お肉の方からやって来てくれるなんて有難い。ちょうどお腹が減っていたんです。なにせ、天使の武器はとっても痛いですから。血肉が足りなくて。まぁ、その痛みを知っている者が、この地獄にどれほどいるかは知りませんが』
天使の武器で倒された悪魔は死ぬ。元が人間だろうが、地獄で生まれた悪魔だろうが例外ではない。今まで誰一人として生還者はいなかった。
──アラスターを除いて。
怪我で弱っている? なら、何故こんなに姿勢正しく佇んでいるんだ。
笑顔には一つの汗も浮かんでいない。痛みを感じている様子も、憔悴している様子もない。
彼の戦った相手はあのアダムなのに。ファーストマンであり、天使軍のリーダー。街に大きな裂け目を作った張本人。
それなのにアラスターに変わった様子はない。いつもと変わらない、駆除の前と同じ余裕を持った姿。
罪人たちがその事実に気付いた時にはもう遅かった。
アラスターの角がみるみる肥大化していく。逃げ惑う罪人たちの体を、黒い触手が絡め取って逃さない。スペルミスだらけのプラカードが、彼らの運命を示唆するかのように小悪魔たちに破壊されていく。
アラスターの口が耳まで裂け、赤い目がラジオメーターに変わった。激しいノイズ音が罪人たちの耳を劈く。お喋りを続けるラジオデーモンの声は軽やかに弾んでいた。
『空っぽの頭で理解できましたか? それでは──私が一体誰なのか、今一度あなたたちの魂に刻み付けてあげましょう!』