アラスター視点 5 ──油断していた。
目の前に差し出された真っ赤な薔薇を見下ろして、アラスターは言葉を失った。
まさか酒の席で告白されるとは思ってなかった。今までデートの時以外で花を贈られたことがなかったから、てっきり次のデートの時に告白されると思っていたのに。
動揺で普段のように上手く喋れない。無言のまま薔薇とルシファーを見つめ続け、必死で頭を働かせる。
(断らないと)
頭ではそう思っているのに、口は動いてくれない。
無意識に手が花を受け取ろうと持ち上がり──それをなんとか抑制した。
絶望を顕に見上げてくるルシファー。そんな表情を見たくなくて、アラスターは顔を逸らした。
「アル、アル。どうして? 私のことが嫌いか?」
『いいえ。嫌いなら、こんな風に一緒にいません』
それは本心だ。ただ、だからといってルシファーからの告白は受け入れられない。これ以上、心を乱される訳にはいかなかった。
「なら……好き?」
『……嫌いではありません』
「アル……」
『ですが……』
なんとか距離を取ろうと言葉を連ねるアラスターの視界に、不自然に揺れている自身の影が見えた。アラスターの体から血の気が引いていく。ルシファーは問い質すのに夢中で気付いていない。
(ルシファーから離れないと)
自分が誰かに縛られていることを知られたくない。ルシファーには特に。
アラスターは必死でルシファーを拒絶する。
『今日はもう帰ってください』
「アル」
『帰れ、ルシファー』
「アル!」
食い下がるルシファー。肩を掴む男を影を使って無理矢理引き剥がし、彼の部屋に繋げた空間に放り投げた。
「アラスター」
悲鳴じみた声が黒い穴に消えていく。それを最後に、部屋は静寂に包まれた。
アラスターは最悪の気分でソファに座り込んだ。
『……これでいい。これでよかった』
自分に言い聞かせるように呟く。その声はいつになく弱々しかったが、アラスターに気にする余裕はない。
とにかく一旦冷静になりたかった。これ以上隙を作る訳にはいかない。激しく乱れる心臓を抑えながら、アラスターは大きく息を吐く。
そうして深呼吸をしたところで──アラスターの足が影に絡め取られた。
『』
アラスターの指示ではない。影の向こうから主人が操っているのだと、すぐに気付いた。
アラスターは咄嗟に逃げの姿勢を取る。が、影の伸びるスピードの方が早かった。腰まで一気に飲み込まれて身動きが取れなくなる。
『Fuck……』
支配権を取り戻そうと魔力を送り込むが通じない。影はどんどんアラスターの体を雁字搦めにしていく。
その影が、黒い友人の姿でアラスターの目の前に迫ってきた。友人はアラスターの命令が聞こえていないようで、引き裂いたような笑顔のままじっとこちらを見つめている。
(まさか……)
アラスターは青ざめる。
同時に、友人の黒い輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。
それは軟体生物のように蠢き、粘土細工を作り直すようにゆっくりと、友人の形が変わっていく。
(最悪だ! 最悪だ! 最悪だっ)
アラスターは必死に影の拘束から逃れようとするが、指先一つ動かせなかった。
誰かの笑い声が聞こえる。友人のものではない。もっと高い、鈴を転がすような声音だ。美しい声にアラスターの鹿耳が後ろに倒れる。
頬にサラリと何かが触れた。髪だ。蛇のように蠢く長い髪。どこからか伸びてきた嫋やかな細い指に頬を撫でられ、アラスターの体が嫌悪感で悲鳴をあげる。
影は徐々に女の姿に変わっていき──バリンと何かが割れる音が部屋に響いた。
結界が壊れた音だ。いつの間にか部屋に張られていたらしい。アラスターの完全支配を誰にも邪魔されないように、目の前に迫る主人が張ったのだろう。
それを打ち破った物がアラスターの足元に突き刺さった。林檎の杖だ。途端にアラスターを縛り付ける影が霧散した。どれだけもがいてもびくともしなかったのに一瞬で、まるで塵芥のように。
目の前に金の環が開かれる。その向こうから、憤怒を顕にした堕天使が六枚の羽を広げながら現れた。
不快な天使の気配をまとう男を睨み上げるアラスター。ルシファーは怒りの表情でアラスターを見下ろしながら、それでも目には変わらず愛が込められていた。
(どうして)
いっそのこと嫌ってほしい。そうしたら、こんなに苦しんだりしないのに。
アラスターの心は今も乱れ続けている。その隙を狙った影がまたいつ勝手に動き出すか分からない状況下の中、ルシファーと対峙するのはごめんだった。
「怯えるな、バンビ」
その言葉にアラスターの頭が一瞬で怒りに染まる。
(クソッタレが。誰がおまえに怯えるものか)
例え地獄の王であろうと、自身を支配する者であろうと、アラスターは誰にも恐怖を感じたりしない。
(それを、このクソ野郎、よくも……!)
そもそも自分に隙ができた原因は、この男じゃないか。
毎日飽きもせず甘ったるい顔で、熱を含んだ眼差しで自分を見てくるから、アラスターはおかしくなってしまったのだ。だから影の支配権を奪われるなんて屈辱的なことが起きてしまったのだ。
アラスターは肉体に魔力を巡らせ、怒りのままルシファーと相対する。もう主人のことも影のことも頭から抜け落ちていた。
ルシファーだけを見て、ルシファーへの怒りに支配され、ルシファーを屠ることに己の全てを集中させる。
地獄の王とラジオデーモンの戦いが、ホテルの一角で静かに幕を開いた。
*
──結局、アラスターは負けた。
攻撃は全て軽くいなされ、天使の力を体中に流し込まれて、それでお終い。悪魔がいかに天使に弱いか、改めて思い知らされた。
ルシファーに向き合わされたアラスターは、心の内を打ち明けることにした。契約については一切触れずに。ただし、嘘は一つも含まずに。
そうして問答を繰り返した果てに、ルシファーは優しい眼差しでアラスターを見つめながら言うのだ。
「もし、君が未知だというそれを“愛”と呼んでくれるなら……私はとても嬉しい」
──これが決定打だった。
最後の最後までアラスターを尊重する言葉に、もう折れるしかなかった。
地獄の王の力があれば、罪人程度好きにできるだろうに。ハスクの言う通り、手篭めにすることだって簡単な筈だ。
なのに無理を通さず、どこまでもアラスターがアラスターであることを尊んでくれる。
(そんな相手……今までいなかった)
アラスターはこれまで数多の恋情を向けられてきた。物心ついた時からずっと、死んだ後ですらそれは変わっていない。
応えられないなりに、アラスターは彼ら彼女らに真摯に対応してきた。同じ愛は返せなくとも、この世で最も愛する自分を愛してくれたことへの感謝と親愛は示そうとした。
その結果、アラスターの人生はトラブルに塗れることになった。
アラスターは“愛”を免罪符にする人間を知っている。“愛”に狂う人間を知っている。支配を“愛”と言う人間を知っている。身勝手で一方的な“愛”を、いくつも知っている。
アラスターに向けられた恋情の中で、アラスターがそれに応えたいと思えたものは、一つたりともありはしなかった。
──今この瞬間を除いて。
『……ルーシィ』
腹を括ろう。この感情を“愛”と呼ぶことに。
覚悟を決めよう。この男に振り回されることに。
だって思ってしまったのだ。ルシファーからの愛に応えたいと。
地獄の王の肩書きが吹き飛ぶほど、みっともない顔でアラスターからの愛を願う男に、同じものを返してあげたいと思えてしまったのだ。
──だから捧げよう。初めての愛を。この男に。
『──愛しています』
ルシファーが飛び付いてくる。
唇と唇が触れ合う、人生初めてのキス。
自分よりも小さな体を抱き締めながら、アラスターは心身に広がる幸福感に酔いしれた。
***
ルシファーの部屋に来るのは何度目だろうか。サーカスをモチーフにした部屋のインテリアを見渡し、アラスターは一人物思いに耽る。
部屋の主はいない。数時間前に城に向かったからだ。
恋人となってから分かったことだが、ルシファーは想像よりもずっと仕事をしていなかった。新規事業に関する業務も部下に丸投げで、ルシファーは最終の承認しかしていないらしい。しかもそれも、アラスターと恋仲になってからは放置しているという有様だ。
たまたまルシファーの部屋に放置されていた書類を見付けて問い質していなければ、恐らくずっとそのままだっただろう。
「だって、仕事なんかよりもアルと一緒にいたいから……」
そんなことを甘く囁かれたが、アラスターには通じない。
生前、スターと呼ばれるまで仕事に打ち込んだ男は恋人の色ボケを許さなかった。
問答無用で尻を蹴飛ばし、事業の進捗を確認してこいと送り出したのだった。勿論フォローも忘れない。
『私はあなたの作る劇場も、映画館も、楽しみにしてたんですよ? 完成したら、あなたと一緒にデートできると思っていたのに……ルーシィは違うんですか?』
効果は抜群だった。
ルシファーは大慌てでポータルを開いて城に向かい、その後数時間この部屋は静かなままだ。
(彼女たちのろくでもない話も役に立つものですね)
生前の女友達を思い出す。何度言ってもアラスターの前で恋話や猥談を止めなかった、厄介で可愛い友人たち。
まさかその時に得た知識が役に立つなんて。人生何が起こるか分からないものだ。
いつ帰って来るかも分からない恋人を、アラスターは時間が許す限り待ち続けていた。
林檎と紅茶の香りが染み込んだ部屋の中で、一人コーヒーを飲みながら本を読み耽る。傍らには古いラジオ。そこからは軽快なジャズミュージックが流れていた。
このラジオはアラスターの私物ではなく、ルシファーの部屋に置かれていた物だ。アラスター好みだが、この部屋のインテリアには合わない古いラジオ。アラスターが部屋を出入りするようになった頃にはもう置かれていた。
ペンタグラムシティで聞けるラジオは限られている。アラスターが不在の七年間にヴォックスがメディアのほとんどを掌握しており、その中で罪人が運営するラジオは全て淘汰された。完全に私怨だ。流石に街の外までは手が伸ばせなかった為、傲慢の階層からラジオが無くなった訳ではないが。
この街でラジオを放送しているのは、できるのは、アラスターだけだ。
自身の実力でリスナーが増えたことを目の当たりにしたラジオデーモンはご満悦だった。
日が暮れ始め、白を基調とした部屋が茜色に染まっていく。アラスターは自身の影が伸びていくのを静かに眺めた。
やがてそこに裂けたような目と口が現れ、黒い友人が姿を見せる。友人はじゃれるようにアラスターの体にまとわりついた。その輪郭は揺れることも歪むこともない。
ルシファーと恋仲になってから、以前のことが嘘のように影は大人しくなった。アラスターの精神が落ち着いたからだろう。
元々、アラスターの精神に隙なんてなかった。契約主が完全支配に失敗する程度には、強靭な精神力を持ち合わせている。
ただ、初めての恋愛感情には情緒が追い付かず、振り回されて不安定になってしまったが。
(この状態も、いつまで続くか……)
契約主は虎視眈々とアラスターの隙を狙っている。魂だけではなく、精神も肉体も──アラスターの全てを支配したくてたまらないのだ。
(強欲な女め)
考え込んでいる内に、部屋はすっかり暗くなってしまった。夕飯の準備をしなくては。
ルシファーは食べて帰って来るだろうか。それともその前に帰って来るだろうか。もし食べずにいた時の為に、作り置きでもしておこうか。残っても明日の朝食にすればいい。
アラスターは恋人のことを考えながら、魔力を流し込んで友人を影に戻した。ラジオを元の棚に戻し、勝手に拝借した書籍も本棚に戻す。
部屋から出ようとしたところで、背後から清廉な気配が渦を巻いた。天使の力だ。
振り返ると、しわしわな顔のルシファーが背を丸めて金のポータルから現れた。
「ハア〜……疲れた。思ったより全然進んでなかったし……これ、私が関わる必要あるか? いや、あるか。私の可愛いバンビが楽しみにしてるんだ。むしろ私が関わらないでどうする」
独り言がやかましい男が帰って来た。暗い部屋の中でも黄金に輝いているお陰で百面相がよく見える。とても胸糞悪い光だ。悪魔に元熾天使の光は毒だった。
背筋を伸ばしてストレッチしているルシファー。いつまで経っても自分に気付かない恋人の為に、アラスターは部屋の電気を点けた。
「アル!」
ようやくアラスターに気付いたルシファーは、先までのしわくちゃな顔が嘘のように明るい顔で恋人を抱き締めた。
「ただいまアル! 待っていてくれたのか?」
『ええ。今ちょうど夕飯を作りに下りようと思っていたんです』
「それはいいタイミングで帰ってきた。流石は私! 君への愛が為せる技だな」
ルシファーはサラリとこういうことを言ってくる。口説かれることには慣れているアラスターだが、やはり恋人相手だと勝手が違うらしい。毎度むず痒い気持ちになった。顔には滅多に出さないが。
『てっきり食べて来るのかと思いました』
「そしたらアルと過ごす時間が減るじゃないか。そんなの嫌だ。例え腹と背中がくっつきそうになるほど腹ペコになっても、アルのいる空間で食べるよ」
『……そうですか』
「そうだ! 今日はデリバリーにしないか? 前のパーティで取り寄せたのとはまた別に、贔屓にしているのがあってな……」
スマホを取り出すルシファー。色んな料理を提案してくる男の顎を指先で掬って、アラスターはキスをした。小鳥が突くような、一瞬だけ触れるキス。
数秒の沈黙の後、白磁の肌が火を点けたかのように真っ赤に染まる。
「……え? どうした急に?」
『ふふ。したくなったので』
「そ、そうか……」
『私、自分からキスしたの人生で初めてです』
「エッ」
間抜けにも大口を開けたまま、ルシファーは固まった。そんな恋人の姿が面白くて、今度はアラスターから抱き締める。機嫌よくコロコロ笑う恋人の姿を、ルシファーは熱心に見つめていた。
幸せだ。こんなにも幸福に感じるのは、母と過ごした幼少期以来かもしれない。
これからアラスターは、ルシファーに様々な初めてを差し出すことになるだろう。
初めてのデート。初めての恋。初めてのキス。初めての愛。
彼にあげられるものは何でもあげよう。それがアラスターなりの、ルシファーの愛に応える方法だった。
そして──盛大に利用してやろう。
アラスターの自由の為に。アラスターが愛する自分自身を取り戻す為に。
例えその結果──ルシファーから憎まれることになろうとも。
だって仕方がない。ルシファーは三番目なのだ。
アラスターはこの世で最も己を愛し、次に母を愛し、その次にルシファーを愛した。
だからルシファーよりも、自分自身の自由を優先する。
どれだけ胸が傷んでも。どれだけ心が苦しくなろうとも。アラスターの優先順位は変わらない。
だからそれまでは、この幸せを噛み締めよう。できるだけ長く。できるだけ多く。
──この関係が終わるまで。
『愛しています。ルーシィ』
アラスターは心を込めて囁く。そこに嘘はない。
九十九本の薔薇は、今もアラスターの部屋で馨しい香りを漂わせていた。
END
九十九本の薔薇の意味「永遠の愛」