さん「ジュン、うちの合鍵渡してましたよね? 返していただけますか」
茨からなんの前触れもなく、いつもと変わらない落ち着いた口調で告げられるセリフ。オレはすぐには理解できず、しばらく動けなかったと思う。
合鍵、ある。茨の家の合鍵。家っつっても、あれは仕事場みたいなもんだ。ESには仮眠室はないし、茨の立場上、泊まり込みで仕事を続けるのも周囲に示しがつかないし。持ち会社じゃお偉いサンなのに、そこで仮眠室に泊まるのも良くない、と本人が以前言っていた(そういう理由ならESでだってお偉いサンだから同じだろう)。確かに、社長(自分の会社ってことは社長……でいいんだよな?)が会社の仮眠室に泊まるとか、なんか変な感じしますねぇ?
その『仕事場』の合鍵を、オレが持っている。呼び出されたとき、二人きりで過ごしたいとき、隠れ家みたいなマンションの一室でそれなりな感じで過ごしてきた。それなり……なんつうか恋人っぽく、みたいな。
「ジュン? なくしてませんよね?」
「あっはい、いやなくしてねぇって。ありますよぉ~」
怪訝そうな茨に慌てて返事して、鍵、もちろんキーケースに入ってるけど躊躇する。これを返しちまったら、オレらはどこで二人きりで過ごせばいいんだろうって悩んでしまう。やっとちょっと恋人らしくなってきたと思ったのに。恋人として不満があったのか、やっぱり信用がないのか、それとももっと別の――。
「なんて顔してるんですか」
ぐるんぐるん渦巻くオレの不安や疑問、全部顔に出ていたらしい。ぺちん、と軽く頬に当てられた手のひらが、オレの顔を物理的に無理やり上向かせる。視線がぴたりと合わさって、頬に添えられていた手のひらがそのまま上に向けて差しだされる。早く寄越せ、のポーズ。
「……なんでですか?」
逃げたって意味がないのに、それでも平気では渡せなくて、せめて理由が聞きたくて一歩後ずさる。茨はいまだにちょっと幼さの残る仕草でことりと首を傾げて、本当に何でもないように口を開いた。
「引っ越そうと思いまして」
「え」
「ほら」
答えましたよとばかり、あらためて手のひらが突き付けられる。
「あ、はい」
オレは慌ててバッグの中からキーケースを探り出すと、そこに付いていた合鍵を取り外して青いキーホルダーごと差し出した。茨はまったくの無感情でそれを自分のバッグに放り込む。
「まったく。何を警戒しているんだか」
ついでに呟かれたそれは、明らかにオレに向けた呆れだ。
「いや、ぅ、だって」
だって茨の言い方が、なんて子どもみたいなことはさすがに口にできなくて、続きをもごもごと飲み込んでいくと、茨は冷たくオレを眺めて息を吐いた。
「自分、ジュンほど考え無しではありませんので」
鍵を返したからすぐ「では別れましょう」って言われるとか、そこまではオレだって思ってない。別れるようなそぶりはなかったし、付き合い始めた頃に比べると、茨からオレに対しての怒りは収まってきた。
茨を怒らせたのはオレだ。プロデューサーとしてオレの希望を叶えることを優先してくれた茨に、恋愛なんかを軽々しく持ち掛けたオレのせいだ。表向きは今までどおり、いや、今まで以上にオレをサポートしてくれるようになった茨に、何ひとつ気付かず甘えた結果だった。ふつふつと湧き上がる怒りと、オレへの情を綯い交ぜにして過ごしてきた茨相手に、ちゃんと約束は守ったでしょう?なんてとても言えない。プロデューサーとしての茨に対してなら、言ったとしてもこいつは「そうですね!」と作り上げた笑顔で頷くんだろうけど。
だから、今のオレには自信がない。本当に大切にできているのか。茨がいつ「もう嫌になった」と言いだしたって、きっと怒ることもできない。茨はとにかく自分の感情を抑えるのがうまい。オレができることはただ、好きです、大切ですって伝えることだけだ。
あ~、なんで告白なんかしたんだろ。もちろんオレは自分の選んだ道を後悔はしていないし、それがEdenのためになると信じていた。けど。伝えちゃいけなかったのかもしれないって、それだけは今でも時々考えてしまう。
想いが返ってくることを望むべきじゃなかった。オレが、アイドルとしてのオレを優先するなら――。
「あなたは周りのことなんか考えず突っ走ればいいんですよ。やりたいように。それが『漣ジュン』をつくり上げているんですから。どうせ考え込んだってろくな考えも出てこないでしょう」
「ひでぇ言い方っすねぇ」
「今だって、しょうもないことばかり考えている顔をしてるのに?」
思わず自分の顔に手を当てた。どんな顔してるんだ、オレ。
そんなオレの動きには大した反応もなく、茨はくすりと小さく笑ってみせた。
「自分、まだ血まみれに見えます?」
「……いや……」
「ジュンが揺らぐと困ります。自分、いまだに『恋愛』はうまくできていないようなので」
すみませんね、と言葉こそ軽い謝罪が、なにかとても重いものみたいに響く。茨は真面目に向き合っている。プロデューサーとして、オレが見ようともしなかったことを隠しきったままにするんじゃなくて、恋人としてオレと向き合おうとしてくれている。
「オレだって全然うまくできてませんけど……」
「そうですね」
間髪入れずに深く頷かれて、それはそれで腹が立つけれど。
「それでもいいんです。ジュンが思っているほど、俺は怒っていませんし。見たくないなら見せませんけど」
温度を孕んだ響きが、少しの笑い声を伴ってオレに降りかかる。
「ジュンには思い知らせたいので。……俺がいることを」
茨がいること。十分に知っているのに。オレにはまだ、茨の言いたいことが分からない。もっとうまく『恋愛』できるようになれば分かるだろうか。
それでも、茨が「やりたいようにやれ」と言うなら、オレはアイドルも、そして勝手に突っ走って始めた恋愛も、どっちも大事にしたい。アイドルだけで手いっぱいです!って、だって茨はそんなこと一度だって言ったことがない。いつだっていくつもの結果を全部手に入れるつもりで走っていくのを、一番近くで見てきた。
「じゃあオレも、二足のワラジ?ってやつ、やってやりますかねぇ~? 『漣ジュン』も『七種茨』も、どっちも貪欲に掴みに行きます!」
だけど、……だから。
「……だから茨、オレ、あんたをぎゅーってしたくなったら、これからはどこでなら許してくれますか……?」
駄目です、って言わないでほしい。あの部屋がなくなってしまったら、オレは茨を好きな場所へ攫ってしまっても許されますか? 自分でも勢いの全部が急速にしょんぼり消えていくのが分かって、目の前の茨が鼻で笑った。
「……どこでも? できるものなら」
意地悪な答えは、今までならきっと「駄目です」とイコールだったけれど。
パッと顔を上げてきらきらした青を見つめたら、微かに弧を描く唇から「ちゃんとすきですよ」って聞こえてきたのは幻聴なんかじゃない。それからついでみたいにその唇が三日月のまま頬に触れたから、オレはバカみたいにぽかんとして、ここって外だよな……?って寒空の下で10回ぐらい繰り返し再確認してしまった。