夢に眠る林檎/ニコセイ‐お題ガチャ「ニコ君、落ち着いて聞いてね。」
珍しく研究部のノヴァからのコールに、ニコは嫌な想像を抑えきれずにいた。頼む、その続きは聞きたくない、と心から祈った。
「セイジ君の意識が戻らないんだ。」
電話の向こうから無情な事実が告げられる。冷静なその声に、悪い夢を見ているかのように足元がぐらりと揺らいだ。
夢に眠る林檎
ニコは連絡を受けてから動けずにいた。どうしたらいいのか、頭が真っ白になった。セイジのもとに駆け付けなくてはいけない、とわかってはいる。それでも身体が言うことを聞かない。まるで現実を受け入れることを拒否しているかのようだった。幸いにも、ニコにはクラックディメンションという能力がある。それは相手の意表を突くことにも、自分が楽することにも、そして大切な人の一大事に駆け付けることも。3年も共に過ごしてきた能力だから自分の手足のように思ってはいたが、そんなことも頭から抜けてしまうほどの衝動に駆られて、思わず走り出した。エレベーターを呼び出すためのボタンを数回押したところでやっと能力のことを思い出すほどにニコは焦燥していた。
「セイジ!」
医務室の扉を勢いよく開くと、白いベッドに横たわるセイジが目に入る。その横にはノヴァとヴィクターがたっていた。
「ニコ君、忙しかったかな?」
普段は能力を使って移動をしていることから、まさか走ってきたとは思っていないノヴァがいつものように間延びした声で語りかける。
「大丈夫。それよりセイジは?」
セイジの眠るベッドに駆け寄り手を取る。一見するが何か機械につながれているわけではなく眠っているだけのようだった。大きな怪我をしている様子はなく、ニコは少しだけ安堵した。
「セイジ君はね、今サブスタンスの影響で意識を失っている状態なんだ。でも大丈夫。この症状は何人も見てきたしみんな改善しているから。」
不安げに揺れる黄金へ差し伸べられた手は暖かで、優しかった。ノヴァとヴィクターに連れられてきたのは、ヴィクターのラボだった。そこには怪しげな電気椅子が鎮座しており、ニコは警戒を強める。
「あは、やっぱ怖いよねぇこれ。大丈夫、電流は流れないよ。」
どうでしょう、と真偽のわからない冗談を言うヴィクターに情けない声をあげながらも、ノヴァはニコに向き合う。
「セイジ君を目覚めさせるにはね、精神世界の中でセイジ君に触れる必要があるんだ。ニコ君、やってくれるかな?」
いつもの穏やかさは身をひそめ、まっすぐな瞳に射抜かれる。思わずニコは身を固くしたが次の瞬間、その瞳が再び緩む。
「大丈夫。おれたちもついてるから。ニコくんはこの椅子に座って、セイジ君を探すだけでいいよ。」
それから機械の説明をされたがニコにはあまりよくわからなかった。要するに、精神世界の中でセイジを探してくればいいだけだという。
「でもね、精神世界でケガをすればどうなるかわからないから気を付けてね。」
その言葉にうなずいてから、ニコはヘルメットを手に取る。
「セイジをひとりにはしない。」
再びセイジと囲む食卓を浮かべ、ニコはそのヘルメットを頭に装着した。
「じゃあ、気を付けて」
ノヴァの言葉を最後に、ニコは意識を手放した。
次にニコが目を覚ましたのは、懐かしい場所だった。一目見ただけでここはセイジの精神世界であることは明らかだ。耳に手をあてれば、いつの間にかインカムが装着されていた。少しのノイズのあと、聞きなれた声がした。
「ニコ君、聞こえているかな。」
ニコはノヴァからの通信に短く答える。いつの間にかニコのポケットの中に小さなインカムが入っていた。これをセイジに渡してセイジが触れれば元の世界に戻れるらしい。ノヴァの激励を後に通信を終えると、ニコは家の中を見渡した。もう戻らない場所を懐かしむかのように、ひとつづつ確かめるように。そんなに昔のことではないのに、懐かしさで胸がいっぱいになった。キッチンに立って目を瞑ると、懐かしい声が聞こえたような気がした。ここはロビンが住んでいた家だ。
リビングには人の気配はないものの、ソファの前に置かれたローテーブルの上にはしおりの挟まれた本に湯気の立ったホットチョコレート、食べかけのクッキー、それから乱雑に置かれたブランケットがあった。まるでついさっきまで誰かがいたかのようなぬくもりがそこにはあった。その光景はセイジから聞いたものや、ロビンの残した写真で垣間見た光景に近い。ここはきっとニコたちに出会う前のロビンの家なのだろう。セイジが話していたように、そこは静かで陽の当たる暖かな空間だった。ニコはリビングを出て寝室やバスルーム、パントリーまで家じゅうを探してみたが、ロビンの姿どころかセイジと出会うこともなかった。人の精神世界というものは思ったよりも広いようだ。玄関の扉に手をかけると、何事もないかのようにハンドルが回る。外に出たら戻れない気がして、ニコは少しためらった。ニコは振り返って部屋を一瞥する。
「ロビン、じゃあ。」
もっとこの場所にいたいとは思う。戻らない時間を、もう会えない人のぬくもりを恋しいと思う気持ちはニコにもある。しかし、それは逃避だ。どんなに戻りたいと願ってもロビンがいないという現実は変わらない。もういない彼を想うなら、セイジを引き戻すことが今の自分のやるべきことだとニコは思う。今を生きるセイジと歩む明日のために、ニコはひとつ呼吸をしてから扉を開いた。
扉から一歩踏み出すと、ニコは暗い闇の中に放り出された。後ろを振り返ったが、扉はもうなかった。目の前に広がるのはうす暗い空間と、壁一面に広がる大きな建造物。ぴちゃと水の音がして足元に視線を落とすと、水面が広がっていた。嗅いだことのある陰湿な空気に思わず顔をしかめた。ここはきっとトロニスの教会だ。閑散としたこの場所はやはり不気味で、セイジの精神世界の中だとわかっていてもニコは身を硬くする。なんとなくだが、セイジはここにいるような気がした。周りを警戒しながらも祭壇に近づくと、祭壇のすぐそばで影が動いた。黒い布をまとったその影はニコの気配を察知すると脱兎のごとく駆け出した。ニコは能力を発動させようとしたが、それはかなわなかった。どうやらここでは能力を使うことはできないようだ。ばしゃばしゃと音を立てて走り去る後姿を、ニコは追いかけた。
無我夢中で追いかけていたため気が付かなかったが、いつの間にか暗闇を抜けて市街地に差し掛かっていたようだ。先ほどまでニコの足を捕らえていた水面はすでになく、硬いコンクリートがニコの靴の底に打ち付けられる。変わらず人の気配はないものの、跡形もなく崩れたビルや吹き飛ばされたであろう横転した乗用車、なぎ倒された街路樹が目の前に飛び込んできた。ここはあの日、リヒトと出会った日のニューミリオンなのだろう。どこか遠くで爆発音が響く。熱風が押し寄せる中、ニコはその人影の腕を捕らえた。
「みないで、離して」
フードを深くかぶったその人物は逃れようと腕を振り払う。
「嫌だ。離さない。」
小さな悲鳴が上がるがこの手を離したらこの影が、セイジが遠くに行ってしまう気がした。セイジを失う恐怖からニコはさらに力を込めた。
「セイジ、お願い。逃げないで。」
悲痛な声でニコは叫ぶ。それでもなおセイジの抵抗は続いた。
「セイジがいない世界は、見たくない」
「でも僕のせいで、いろんな人の人生がめちゃくちゃになった!皆の人生を全部奪ったのは僕だ……!」
あの日からセイジが押し込めていた後悔であることは、ニコも知っていた。ニコたちの心配に対して大丈夫だと笑うセイジを信頼していた。大丈夫なはずはないのに、誰よりも優しいセイジがその事実に傷つかないはずはなかったのに。それでもニコが信じていたのは、優しさを越えるセイジの強さだった。きっと今はその強さを忘れてしまっただけだ。その強さを思い出してほしくてニコはさらに腕に力を込めた。
「セイジのせいじゃない。」
「僕がいなければ先生も、リヒト君も幸せに生きられたのに。僕さえいなければ……!」
それ以上聞きたくなくて、泣き叫ぶセイジの言葉を遮るようにニコはセイジを抱き寄せた。ニコの腕の中に収まったセイジは驚きから、一瞬だけ動きを止めた。
「ロビンは、セイジと過ごした日々は幸せだって言ってた。おれも、セイジといると幸せ。」
腕の中で逃れようと藻掻くセイジの頭を撫でつけ、ニコは続けた。
「おれは、セイジと一緒に生きたい。ご飯だってセイジと食べたい。セイジは?」
いつだって、ニコの世界を鮮やかに彩るのはセイジだった。占いの結果が良くなくて少し落ち込んでいる顔も、パトロール中に憧れのヒーローに出会えてご機嫌に揺れる髪も、嬉しそうに好物をほおばる姿も、目標に向かって一生懸命トレーニングに励む背中も。どれだって愛しい景色なのだ。
「セイジは、これからリヒトを幸せにすればいい。セイジのことは、おれが幸せにする。それがおれの幸せ。」
次第にセイジの力は弱まり、落ち着いたようにニコに体を預けていた。フードの中で涙をいっぱいにためた青空が、ニコの黄金をとぶつかる。
「かえろう、セイジ」
セイジはニコの腕の中で静かに頷いた。ニコは手を伸ばし、セイジの耳にインカムを着ける。それからノヴァへ一声かける。
「今から戻る。」
セイジの手を取り、ニコはセイジのインカムへ触れる。すると浮遊感とともに視界が白く染まりだした。薄れてゆく意識の中で、セイジはつぶやいた。
「ありがとうニコ。」
――
ニコとセイジが目を覚ますと、そこは見慣れた景色だった。周りを見渡すと、ノヴァとヴィクターが二人を守っていた。
「セイジ君、ニコ君。無事でよかったぁ」
いつものように間延びした声に、ニコは内心ほっと息をつく。戻ってくることができたのだ。愛しい人がいるこの世界に。もう一つの椅子の上では、目を覚ましたセイジが照れくさそうにノヴァの質問に答えていた。ニコは静かに椅子から降り、セイジに向かい合う。
「夕飯、用意する。」
その声にセイジの表情は一気に明るくなる。ノヴァ曰く、意識を失ったのも一時的であることから体調面で問題がなければそのまま戻っても構わないとのことだった。数日後、再度検査に来るようだけ伝えるとニコは待ちきれないとばかりにセイジの腕を引く。ノヴァのお大事に、の言葉を聞くまでもなく二人は粒子に包まれて消えてしまった。
「伝えなくてよかったのですか?」
セイジたちのやり取りを黙って見つめていたヴィクターが口を開く。とぼけた返事を返すノヴァにあきれながら、ヴィクターは続ける。
「セイジが受けたサブスタンスの効力です。人の心の弱さを引き出して意識の中に閉じ込めてしまうサブスタンス、前例などありませんでしたが……。賭け事のような真似なんて貴方らしくないですね。」
気の抜けるような声をあげながら、ノヴァは遠くを見つめた。
「あの二人なら大丈夫、あとはヴィクが作ったものだし、その辺の心配もない、そう思ったんだ。」
いつの間にか淹れていたコーヒーを差し出しながらヴィクターは問いかける。
「人を見る目はある、ですか」
「そのとおり」
いたずらっぽく笑うノヴァは、ひとつ伸びをしてから報告書~と歌い始める。駆け付けた時の様子から既に二人の関係性を見抜いていたうえでの提案だったのだろうか。きっと様々な面でもノヴァに敵うことはないのだろうと、琥珀色を飲み下しながらヴィクターは思った。