窓辺の謎 まぁ、大方終わったか。筆を持つ指先に限界を感じ、一旦休憩と窓の外をふと眺めれば視界を黒い線が横切った。
「あれは……」
空中を円形が動いているが、質感は墨の様だ。恐らくこの不可思議な現象を起こせるのは馬岱殿の妖筆だろう。鍛錬でもしているのかと竹簡に再び移そうとした視線を、留めざるを得ない瞬間が訪れる。
「ん……?」
何と言えば良いか解らないが、墨で描かれた虎が何時もの虎では無い。いや、虎なのかどうか。次に横切ってきたものも生物ではありそうだが、鳥なのだろうか。
明らかに普段の、写実的に見事な動物を描く馬岱殿の描き方では無かった。次々と現れる謎めいた墨の蠢きに、戸惑いを隠せない。
しかし、何故だろう。
「ふ……っ」
自然と、笑みが溢れてしまう。何の動物か明確ではないのに、鑑賞する程に妙な可愛気を感じる。他に類を見ない、何処か味がある様な。想像力を掻き立てられ、次は何かと期待が膨らんでしまう水墨画に暫し眼を奪われ続けていた。
「徐庶……これに、何でも良いから描いてみろ」
「え、どうしたんだい」
昨日は結局、画が浮かんで来なくなるまで眺めてしまった。直接馬岱殿に聞くのも癪だ、偶には仕事の合間に謎解きも悪くないかと軍議のついでに正体を探ってみる。
「ええと……こんなところかな」
筆を取り、竹簡へ繊細に描かれた龍の絵に思わず深い溜息を吐いた。
「……違うな」
「ええっ、駄目かい?!馬岱殿には結構褒められたんだけれど……」
「いや、上手いとは判る」
「……?」
確かに馬岱殿に近い画風で緻密だが、求めているあの味が無い。軍議自体は折り合いが付き、再び新たな竹簡を用意し回廊を歩いてみると。
「おお、法正殿ではないか!」
大声で、しかも嬉しそうに俺を呼ぶ奴など一人しか居ない。鉢合わせすれば想像通りに煌めく金髪を揺らす武人に、一応声を掛けてみることにした。
「……馬超殿、少し宜しいですか」
「うむ、俺に出来ることなら何でも構わん」
強く意志を見せる眼差しに吸い寄せられそうになるのを堪え、竹簡と筆を突き付ける。
「何でも良いんで、動物を描いてみてください」
「?……それで良いのか」
「それが良いんです」
首を捻りながらも、墨を付けた筆を握りしめる。竹簡に躍動した瞬間、視線が釘付けになった。昨日空に浮かび上がった、虎とも何とも言えないあの画。
「それだ……!」
「?!」
解き明かした歓喜でつい竹簡を掴んでしまい、驚きと疑問が混ざる表情へ咳払いで鎮める。
「……失礼……馬超殿、昨日……妖筆を使っていませんでしたか?」
「ああ、昔から偶に馬岱のを借りて俺も鍛錬してみるのだが……どう描いても馬岱と違うものが出来る」
同じ環境で育った従兄弟でも、画力に違いや差は出るものの様だ。
「ちなみに、これは」
「虎だ」
「やはり、虎……ふ……」
改めて何かと噛み締めて眺めても、何故か笑みを抑えきれない。異様に丸みを帯びた虎に寧ろ、妙な愛おしさが膨らんでくるのが不思議だ。
「良いですね、これ……」
つい本音を漏らすと、馬超殿が突如眼を見開いた。ところがすぐ、此方も疑問を感じる程頬を染め口元を緩められる。
「本当か、法正殿」
「え、ええ」
「そうか……俺はあまり、幼い頃から絵で褒められたことが無くてな……」
まぁ、あれだけ実力のある方が傍に居ますからね。それでも、俺の感性へ引っ掛かる何かがあるのは確か。描いた者を、知りたいと思う程に。
「馬超殿、龍は描けますか」
「ああ」
成程、あれが龍で此方は鳳凰だったのか。描かれる程に、謎の正体が暴かれていき胸が弾む。何とも興味が湧き、楽しみが尽きず強請ってしまう。
「……あと、猫もお願いします」
「法正殿」
「はい」
頼み過ぎて竹簡一杯に動物が犇めく頃、馬超殿が何時もの音量よりも幾らか小さく囁く。
「……喜んで貰えると、嬉しいものだな」
どうやら、伝わってしまったらしい。ふと零す柔らかな笑みに心音が跳ね上がってしまい、此方の頬も染まるのだけは隠そうと指先で髪を梳いた。
「いえ、まぁ……癖にはなりそうですよ」
筆先から、貴方の真っ直ぐな思念が残る様で。決して上手くは無い筈なのに、大人気なく惹かれるものというのはあるらしい。
再び眺めてみたい衝動に駆られる竹簡を、今は静かに閉じた。