神様はいったいなにがしたいんだろう。
風信機長のことが気になりだしてから、やけにその姿を見つけてしまい動揺していたら、今度はぱたりと、すれ違うことすらなくなった。フライトの予定も見事にずれている。とはいえ変わりやすいパイロットのスケジュール、ひょっこり出会うこともあるかもしれないと、空港のロビーを心持ちゆっくり歩いてみたり、社内の共有スペースを意味もなくウロウロしてみたりしてしまう。そして、そんないじましい自分に溜息が出てしまう。その姿を見ることすらないだけで、自分はこんなに気落ちしてしまうのかと。
南風の気持ちを映したかのように、このところ、どんよりとした天気が続いていた。
「今日も雨か……」
溜息をついて、キャップをのろのろと被りながら、フライト前の機体チェックのために外に出る。朝から風まで強い。
これから飛ばす飛行機の周りをチェックしながら歩いていると、滑走路に南陽航空の飛行機が降りてくるのが見えた。
そういえば風信機長は今朝戻りだっただろうか。
そんなことを思うと、もうその飛行機の操縦席に座っているのは風信機長だとしか思えなくなった。
この天気にも関わらず滑らかに着陸し、ゆっくりとこちらへやってくる飛行機に、心の中で「お帰りなさい。おつかれさまです」と手を振る。だが、自分は入れ違いにこれから飛び立たないといけない。口からまた溜息がこぼれた。
どんよりと覆う灰色の雲も、その上に抜けてしまえば太陽の光が降り注ぐ空が待っている。だが、見渡す限りの雲海、そこから顔を出す山——コックピットから眺めるそんな大好きな景色すら、色を失った面白味のない風景のように思えてしまい、そのことがまた一層南風を打ちのめした。
それでもフライト中は考えることもやることも山ほどあるからまだいい。上がってすぐ降りる、忙しい近距離のフライトが続いているのは幸いかもしれないと自分に言い聞かせる。
だが、地上にいると、またどんよりとした気分が戻ってくるのだ。
オフィスの一角にあるフリースペースでコーヒーを飲みながら、鞄から取り出したフライトログブックを開く。
これまでのフライトの記録。いつどこに飛んだか。そして最後に添えられたそのフライトの機長のサイン。
殴り書きのような、お世辞にも綺麗とは言えない風信機長のサインのある箇所をじっと見つめる。
このフライトの時はこんな話をしたっけ、こんな注意をされたんだったな——数えきれないほどのフライトの中にたまに現れるそのいくつかのフライトだけは、不思議なほどはっきりと思い出せるのだ。
一つひとつをたどるように、ぼんやりとページをめくり続けた。
「南風副操縦士、ほんと最近元気ないよな」
となりから突然声をかけられ、睨んでいたパソコン画面から目を上げた。となりで椅子にもたれかかっている同僚の視線の先に目をやる。職員のデスクが並ぶエリアから少し離れて、職員やパイロットが自由に使うフリースペース。その隅っこに座っている南風副操縦士が見えた。
「ああ、確かに。体調が悪いんじゃないといいけど」
いつもはオフィスで職員と明るく会話していく彼が、ここ最近は絵にかいたようにどんよりとした顔をしているのには気づいていた。
「いやあ、あれは——」意味ありげに寄越された視線に眉を寄せる。
「なんだよ」
だが、彼は何も言わず、じっと目を細めて南風副操縦士を凝視している。そして手元のペンをカチカチといじりながらニヤリとこちらを見た。
「あれはたぶん、フライトログの風信機長のサインを撫でてるとみた」
「なんだそれ。恋する乙女じゃあるまいし」
賭けてもいい、と笑う彼に冷たい視線を寄越す。「そんなこと考えてる暇があったら——」
だがそこで女性社員が南風副操縦士に近づいていくのが見えた。さっきお土産で配っていたチョコレートの箱を持っている。だが、差し出された箱に顔を上げた彼が、首を振るのが見えた。女性社員は驚いたような顔をしたが、そのまま他の社員の方へ行った。
「まじか」
二人で思わず顔を見合わせる。
「あの南風副操縦士がチョコレートを断った……?」
風信機長と並んで甘いもの好きと名高い彼が——。またテーブルに肘をついて俯く彼の姿を、二人の視線がじっと見つめた。
「なあ、俺、最近料理始めたじゃん?」
向こうを見つめたまま、彼が唐突に言った。
「昨日、初めてホウレン草を茹でたんだけどさ、鍋から零れ落ちるんじゃないかってくらい入れたのに、茹でたら可愛そうなくらいちっさくなってしんなりしちゃうのな」
「まあ、それはそうだろうけど。なんでまた突然——」
「いやあ、なんか南風副操縦士見てたらそれ思い出しちゃった」
「……パイロットとホウレン草を一緒にするなよ」
だが、なおも頬杖をついて窓の外を見ながら肩を落としている彼を見ると、あながち間違っていない気がしてくる。
「ホウレン草なら報告書は出してくれなきゃ困る」
突然上から声が降ってきて、二人同時に振り返った。別の課の職員が立っている。彼はすたすたと南風副操縦士のほうに歩いて行った。
「南風さん、すみません」
突然声をかけられて、ぼんやりとしていた南風ははっと顔を上げた。眼鏡をかけた職員が立っている。
「は、はい、なんでしょう?」急いで姿勢を正す。
「この間の訓練の報告書なんですけど、もう三週間たつのでそろそろ出して頂きたいんですが……」
「報告書……」数秒考えたところで思い出した。
「あっ……す、すみません! 忘れてました!」
「そろそろ出さないと上に目をつけられちゃいますよ」
あわあわと立ち上がる。
「ロッカーにあるので……すぐ取ってきます!」
ばたばたと部屋を走り出る。
「走らなくていいですよ! 今更急がなくても——」という声が頭の上を通り過ぎていく。
ミスだミスだミスだ……。大事な報告書を出すのを忘れたのなんて初めてだ。
別に重大なインシデントを起こしたわけでもない。それでも、泣きたい気持ちになりながら走る足は止まらなかった。
* * *
上空の神様は暇なんだろうか。
風信はどんよりとした空を見上げた。
やたら頻繁に南風の姿を捉えるようになってしまって動揺していたら、ここ最近は打って変わって、その姿をみかけることが全くなくなった。なにやら気まぐれな神様に弄ばれているような気分になってくる。
スケジュールも、南風が近場のフライトで頻繁に社に顔を出しているときは自分は数日間のフライト、こちらが地上勤務のときには向こうが遠方という具合だ。もっとも、スケジュールについては、神様というよりうちの社員の采配によるものだが。しかしそれはそれで、自分と南風の間のぎこちない様子に気づいての配慮だったらと思うと冷や汗がでる。
南風の姿に心が揺れることもなくなったなら安定飛行が実現しているはずなのに、気分はずっと低空飛行だ。飛行機ならどうやって高度をあげるか知っているのに、何十年も付き合ってきた自分の心の操縦がままならないなんて。いい年をして思春期の学生みたいにイジイジとしている自分に溜息が出る。
ステイ先でも、いつもは美味しい店を調べて行ってみたりするのに、最近はそんな気分も起きなかった。だが、どんなに自分の心が沈んでいようが、飛行機は飛ばさなければいけない。上空ではそんなことは忘れてしまえた。——忘れてしまえるはずだった。
着陸が近づくと混雑する空港周辺を飛ぶ飛行機の無線が飛び交う。その日の戻りのフライトで、その一つが風信の耳を捉えた。
南陽航空のコールサインを伝える雑音混じりのその声が、南風の声に聞こえた。いや、そう思った途端に、南風だと確信している自分がいた。無線の声は高度を上げる許可を貰っている。
そういえば今日は往復の中距離フライトだっただろうか。心の中で「頑張って行ってこいよ」と声をかけ、そして自分のほうは高度を少しずつ下げていく。同じ空域にいながらも、目視もできない距離を隔ててすれ違う自分たち。
だが今は余計なことを考えている場合ではない。ぐるりと首を回して雑念を振り落とし、操縦桿を握りなおした。
着陸後、オフィスで残務処理をしながら、窓の外のどんよりとした曇り空をぼんやり見つめる。
同じ空の下、というのはよく聞くが、自分たちの場合は「同じ空の中」なのかもしれない。二人の間の距離は二次元ではなく三次元なのだ。その複雑さにまた溜息が出そうになる。
体までずしりと重く感じ、家に帰りシャワーを浴びると、ベッドに倒れ込んだ。明日は休養だ。思いっきり寝てやろう。だが、疲れているのによく眠れず何度も目が覚めた。ぼんやりと天井を見ながら、気が付けば、南風は今どうしているだろうと考えていた。
前は、フライト先で食べた美味しいものやら、たわいないことをたまにメッセージでやりとりしたりしていたのに、最近は何やらきっかけが掴めず、それもめっきりなくなっていた。そんな些細なことに、惨めにしょぼくれてしまっている自分がいる。
時計を見る。この時間なら南風はそろそろ——そんなことを考えながら、なぜ自分は南風のスケジュールを覚えているんだと愕然とする。これではまるで——。
ハラスメント対策室、監査室呼び出し——そんな言葉が過り身震いする。
と、そのとき着信音が聞こえた。急いでスマホに手を伸ばす。会社からだ。あまりのタイミングにドキリとしながら耳に当てる。
体調不良で乗務できなくなった機長の代わりに、急遽飛んで欲しいという連絡だった。心の中で溜息をつきながら、わかりましたと言って電話を切る。送られてきたフライト情報の副操縦士の名前を確認する時に思わず緊張してしまう。だがそこに載っている名前はもちろん南風ではなかった。
集合の時間まではまだ何時間もある。少しでも体を休めたいと焦る気持ちでもう一度枕に頭をうずめる。
浅い眠りの中で夢を見た。
南風と二人で知らない街を歩いている。フライトのステイ先という感じでもない。南風は終始楽しそうに笑っている。それを見る自分も気分を躍らせている。二人でホテルに戻り、一緒に風呂に入り——。
そこで目が覚めた。一緒に風呂……? いったい自分はなんの夢を見ていたんだ?
頭はぼんやりとしているのに、胸だけがどきどきと早鐘を打っている。思わず頭に手をやろうとしたところで時計が目に入った。
しまった……! ベッドから転がるように下りる。
出社して集合まであと一時間。目覚ましをかけずに眠り込んだ自分を呪いたいところだがその暇すらない。荷物をひっつかんで玄関から飛び出した。
遅刻などパイロットとして許されない。何をやっているんだと自分を叱責する。
空港のオフィスにつき、なんとか間に合いそうだと思いながら、廊下を必死の小走りで急ぐ。
焦る気持ちに駆り立てられるように、勢いよく角を曲がったその途端——
「……!」「わっ……!」
向こうから突っ込んできた人影に思い切りぶつかりそうになり、思わず腕で受け止める。
「すみませ……」
相手が頭が上げた途端、二人は固まった。
「南風……」
「風信機長……」
大きく見開かれた目が見つめ合う。だが、ふたりとも同時にはっと我に返り、風信は抱きとめていた南風の肩から手を離し、南風は思わず手をついていた風信の胸元から手を下ろした。
「し、失礼しました……」「あ、ああ、すまん」
顔が熱いのは走ったせいだろうと思いながら、お互いに視線を泳がせる。
「その、大丈夫だったか?」風信が聞くと、南風はこくんと頷いた。「だ、大丈夫です。あの、機長のほうも……?」「ああ」
ぎこちなく互いの無事を確認するとしばし沈黙が流れた。だが、こうしている場合ではない。
「すまん、ショーアップぎりぎりなもんで……」
「あ、僕も報告書を……」
風信がぎこちなく手を軽くあげ、南風も軽く会釈し、二人はまた別々の方向へ急いだ。
無事なんとか間に合い、飛行機に向かう途中、風信のスマホが震えた。
『さっきは失礼しました』南風からのメッセージだ。こっちも悪かった、と返すとすぐに返信が返ってきた。
『代替だそうですね。お気をつけて』
思わず口元が一瞬緩む。『ああ。行ってくる』と短く返した。
スマホを胸ポケットに戻しながら、受け止めた南風の感触を思い出す。
ほんの一瞬の出会い。ほんの短いメッセージ。
ただそれだけなのに、心がすっと高度を上げる。
ロビーの窓の外を見ると、久しぶりに雲の間から青空が覗いていた。