コックピットに入ってくる人の気配に、南風は振り向いた。
「長かったですね、機長。何か異常でもありましたか?」
出発前の機体の外部点検を終えて戻ってきた風信は、いや、と首を振った。その顔は、まだこれからフライトだというのに、すでに若干疲弊していた。
「外部は何も異常なかったんだが、戻ろうとしたら中に入る扉が開かなくてな」
左側の席に入りながら外を顎で指す。機長席の窓の外に見えている飛行機と搭乗口を繋ぐボーディングブリッジ。その飛行機側の部分に繋がるように、地上から上がるタラップが横づけされている。南風もそちらをちらりと見た。
「ここって、かわったロック方式でしたっけ?」
風信は首を振った。
「いや、別にそうじゃないんだが……なんか調子が悪かったのか押しても引いても全然開かなくて」
ふうと溜息をつきながらタオルで顔と首を拭う。コックピットの窓に雨粒が叩きつけられている。風も強くなってきたらしい。レインコートを着ていても防ぎきれないほどに。
「それは……大変でしたね」南風も思わず同情する。
「寒かった……」風信はタオルを置いて両手を揉む。この気温に雨風となれば外は相当寒い。
「あんまりにっちもさっちも行かないから、中から開けてもらおうかと思ってお前の方を見てみたんだが——」
「えっ……すみません、全然気づきませんでした」
風信が外部点検に降りている間、南風はフライトのためにコックピットで機器に数値を入力していた。
風信が首を振る。「いや、そりゃ入力中は気づかないだろうしな」
ああそういえば、と南風は頭を掻いた。「入力が終わって暇だったので搭乗ロビーの窓の方を見てたら、お客さんがこっちを指さして話してたので手を振ってみたんですけど、あれ、風信機長を見てい——」
そこまで言ったところで、風信の顔を見た南風の声が尻すぼみになっていった。
「あっ、あの、すみません……!! まさか風信機長がそんなとこで奮闘しておられたとは知らず……!」
そんなとこで奮闘していたのを見られていたと知って風信の眉間がぴくぴくと震える。それを見て南風はおろおろと目を泳がせた。
「すっかり手がかじかんでしまった。操縦に支障が出ないといいんだが」
いつになく当てつけがましい風信の口ぶりに、南風はぐっと言葉をつまらせたが、寒そうに両手で指を揉んでいる風信の手元に視線を止めた。
「あの、機長、手を貸してください」
「は?」風信は手を止め、怪訝な顔で横を見た。だが、じっと見つめる南風に、訳が分からないまま右手を差し出す。すると南風がすっとその手を取った。
「え……」
「僕、体温だけは高いので」
冷え切った風信の手に触れた南風の手は確かに暖かかった。
「もう片方も」
真面目な顔で促す南風に、思わず風信は左手も差し出す。
操縦席の間のスラストレバーの上で風信の両手を南風の両手がぐっと包み込む。
指先まで冷え切った風信の手は、次第に感覚を取り戻した。同時に風信の理性も戻ってくる。
「い、いやいやいや、ちょっと待て」
パイロット二人がコックピットで手を取り合っている図でしかないことに今更気づき、風信はさっと手を引いて前に向き直る。
「あ……」南風が何か言おうとしたが、後ろから「失礼します」という声が聞こえて二人はさっと振り返った。整備士が出発前の確認書類を持って入ってくる。
危ないところだった、と風信は心の中で額を拭った。だが、書類にサインしながらも、その手はまだ南風の柔らかな手の暖かさを思い出していた。
「なあ、南風」
声をかけられて南風は隣を見た。だが、隣を歩く風信の視線は、南風ではなく、彼が引いているキャリーケースの手元のほうを見ている。
「鞄、開いてるぞ」
「あ」
キャリーケースの上に乗せているフライトバッグのチャックが開けっぱなしになっていた。
「コックピットから急いで出たから……」そう言いながらも、まあいいやと南風は歩みを止めない。
「まあ、バスまですぐですし」
「それはそうだが……」
操縦では細部まで完璧な彼も、こういうところはズボラなところも自分と似ていると風信は妙な親近感を覚えながら苦笑いした。
各空港のチャート図やら諸々の書類をつめて、いかにもパイロットといった風情の四角い大きなフライトバッグを引くこともなくなって久しい。それも、南風のバッグの口から覗いているタブレット端末のおかげだ。無造作にキャリーの上に置ける程度の荷物で済んでいる。
「鞄の中身をお客さんに見られても知らんぞ」
そう言いながら、風信自身が思わずちらりと覗き込んでしまう。一緒に働いている仲間でも、鞄の中身などあまり知らないものだ。だが、そこにはその人の一部が垣間見える。だからこそ、有名人の鞄の中身を紹介する動画なんていうのもあったりするのだろう。
もちろん、中身がすべて丸見えなほど開いているわけではない。だが——
「南陽航空のパイロットがなんで玄真航空オリジナルの茶のペットボトルを入れているのか、とかな」
風信がそう言うと、南風も下を見た。
「あっ……いやこれはそのぅ——」
南風がモゴモゴと言い淀む。「——扶揺に押し付けられて……」
だがそこで歩きながら風信がすっと顔を南風に寄せた。
「あれ、結構うまいよな」
耳元で囁く声に、南風の肩が小さく跳ねる。
「…ゃ、あの、はい——」いっそうしどろもどろになる南風をよそに、風信はすっと首を戻す。
「って……風信機長も飲んだことあるんですか?」
「え……あぁ、まあ」今度は風信の方が落ちつかなげに髪をかき上げる。
「それにしても、そのバッグ、使い勝手いいよな」
やや不自然に話題を変えた風信に南風も頷く。
「そうですよね。軽いしポケットもいっぱいあるし、撥水加工だから雨がふっても中身の心配はないし」
「そうやって無造作においても型崩れしないし」
「風信機長だって結構ハードに使ってるじゃないですか」風信のキャリーの上に乗っているのも同じバッグだ。
「いいですよね、この南陽航空オリジナルバッグ」
南風のいささか大きめな声に風信は目をちらりと周りに向ける。
「ちょっとあまりに宣伝くさくないか?」風信が囁くと南風も囁き返した。「どうせお客様に聞こえるならと思って」
二人が使っているのは会社の支給品だが、南陽航空のオンラインショップでも同じものが販売されている。
「あっ、それにこのキーホルダーもいいですよね。南陽航空クルー気分が味わえる、クルータグ風のキーホルダー」
「いや、お前はクルーだしな」
風信の突っ込みに南風は、そういえばそうかと真顔になる。
行きかう人のなか、二人の間ではしばしキャリーを引く音だけが響いた。
「……俺たちは広報には向いてないな」
「……そうですね。操縦だけやってたほうが良さそうです」
出口の自動ドアの前で一瞬足を止めた二人は、見つめ合いながら苦笑した。