やっぱり非常識だっただろうか。ホテルの部屋のドアをノックしてからそう思ったが、しかし逡巡する間もなく、目の前のドアが開いた。
「どうした、南風」
「……!?」
南風は思わず固まった。突然目の前に現れたのが、風信機長の裸の上半身だったからだ。
「ん? まあとりあえず中に入れ」
促されて機長の部屋に入る。シャワーを浴びたばかりなのか、どことなく上気しているその胸から目を逸らす。
「どうかしたか?」機長の怪訝な顔に、ステイ先の機長の部屋を訪れるには遅い時間だと改めて気づく。
「あ、あの、それが……へやに、おっきな虫が出まして……!」
「虫?」
「そ、そうなんです。見たこともないような真っ黒で10センチくらいの……」
「フロントには言ったのか?」
「はい。でもスタッフが来てくれたとたんにベッドの下に入っちゃって、出てこなくて。他の部屋も空いてないそうなんです」
戻っていったときのスタッフの呆れたような顔、あれは扶揺みたいだった。
「明日、朝起きたら隣にいたりしたら嫌で……」
そう言うと風信機長も小さく身震いした。「そ、それは嫌だな」
「機長なら捕まえられるかなと思ったり……」南風が言うと風信機長は目を逸らし、「う……いや、それが俺も虫は苦手で」と尻すぼみに言った。
「機長も虫ダメですか……」南風が言うと風信機長は、うーんと小さく唸って、そして言った。
「俺の部屋で寝るか?」
「え? でも」部屋の中に目をやる。今日の部屋は機長も普通のシングルだ。ベッドも辛うじてセミダブルといったところか。
「機長の部屋もベッド一つだけですよね……?」
「でも虫と一緒じゃ安心して寝られないだろ」
こうなったら電気をつけたまま椅子で寝るしかないか、と思っていた南風は曖昧に頷いた。
「寝不足は明日のフライトに響く」
そう言われると否とは言えない。
「ほ、ほんとにいいんです、か?」南風が小声で言うと機長は笑った。
「ああ、べつに構わない」
「機長って、寝るときに着ない派なんですか」
自分の部屋から荷物を持って戻ってきてもまだジャージの下を履いただけの機長に思わず尋ねる。
「ああ、冬場じゃなければ着ないことも多──」と言いかけた風信機長は、南風の顔を見て急いで「いや、今日は着るから心配するな」と言い、トランクからTシャツを出した。上半身生身の機長と一緒にベッドに入る図を考えてしまい、心の中で頭を振る──なにを想像してるんだ。
機長がベッドの布団をまくり、ぽんと叩く。「ちょっと狭いが我慢してくれ」
「いやそんな」南風はおずおずと反対の端に腰を置く。「で、では僭越ながら……」
我ながら何をいってるんだと思うが、今になって緊張が急上昇している。
「電気、消すぞ」「はい」
パチンという音とともに部屋が真っ暗になる。
いつもは横向きに寝る派だが、風信機長の方を向いて寝ることなど到底無理だし、かといって、背を向けるのも失礼だろう。結果として、仰向きに直立姿勢で天井を見つめる。
布団の中の確かなぬくもり。
風信機長が動いたのか、マットレスがわずかに揺れる。よせばいいのに、同じマットレスの上にいるのだと全身が敏感に感じ取ってしまう。
自分も少しでも動くと風信機長が感じるのだ。そう思うと身動きなど取れない。暗闇の中でおもわずぎゅっと布団の端を両手で握る。
いま、自分は風信機長と一緒にベッドに入っている。
──頭の中で言語化したのは間違いだった。全身に一層緊張が走る。
「南風、もっとこっち来ていいぞ」
突然隣から声が聞こえて心臓が跳ねる。
「は、はい」
緊張しきって細かい操作ができなくなった体をぎこちなく動かした途端、二の腕にあたたかい体温が触れた。
急いで体をずらそうとしたがうまく動かない。
「おやすみ」小さな声がそう言うのが聞こえた。
風信機長は気づいていないのかもしれない。いやひょっとしたら、自分が意識しすぎて勝手にその接触を妄想しているのかもしれない。
ランニングでもしているかのような動悸が布団越しに伝わらないことを祈るだけで精一杯だった。
朝まですでに数時間という頃になんとかまどろんだだろうか。だが昇り始めた朝日に目を開けた瞬間、南風の頭は一気に覚めた。
目の前に風信機長の顔があった。
寝ているうちに、慣れた横向きの体勢になっていたらしい。
目を閉じていてもなお、美しく整った顔。昼間と違って無造作に額にかかった髪が、少しばかりの野性味を演出して、その色気に拍車がかかっている。薄く開けた口の間から規則的な寝息が漏れているからまだ寝ているらしい。
だがそこで、もっと大事なことに気づいた。
南風の腰に、固くがっしりとした風信機長の腕が回されていた。まるで抱き寄せるかのように。
頭が突如、大気圏外まで飛んでいったのち、一気に戻ってくる。
一体これはどういう状況だ。
──ベッドの中で、風信機長に抱かれて……「……ひっ」思わず喉から変な声が漏れそうになるのを必死で抑える。
風信機長が小さく頭を動かし、思わずどきりとする。だが寝息はそのままで、その顔にほんの薄っすらと柔らかい笑みが浮かんだ。
待て、こんな幸せがあっていいんだろうか。
自分の部屋を一晩堪能しているであろう虫に思わず感謝しそうになる。
だがしばらくして頭は現実に戻ってきた。この状態で風信機長が目を覚ましたら、あまりに気まずい。絶対に今日のフライト中、集中できなくなってしまう。だが寝ていたフリができるほど器用でもない。
意を決して体を僅かに動かしてみる。機長の寝息は乱れない。そのまま、少し、ほんの少しずつ体をベッドの端のほうへ動かしていった。
やっぱりまずかっただろうか。
電気を消した直後の暗闇にまだ慣れない目で、風信は天井を見つめていた。
困り果てた顔の南風を前に、つい自分のベッドで寝るかと言ってしまったが、しかし――
これはどう見ても、後輩と一緒にベッドインしている、としか言いようがない。
だが、得体の知れない虫が部屋にいるせいで寝不足になるのはパイロットとして良くない。だからしょうがない、そう言い聞かせる。
いつもは横向きが寝やすいが、南風の方を見ながら寝ては南風を萎縮させてしまう。かといって尻を向けるのもまずいだろう。本当は、ベッドに枕が二つあれば一つを抱いて寝るのが一番よく眠れる。だが今日はもう一つの枕は南風の頭の下だ。
結果として、ベッドの上で仰向けに直立姿勢で固まっているというわけだ。心電図の検査の時だってこんなにガチガチにはならない。だが今心電図の検査を受けたらパイロット資格の危機だろう。
南風が同じベッドの中にいる――。
一緒に体を包んでいるマットレスと布団を通してその体温を感じるような気がする。
そのことに高揚する自分と、何を不埒なことをと諫める自分が、にこやかに微笑みながらテーブルの下で足を蹴り合うかのように、固まった体の中で静かな取っ組み合いを繰り広げている。
眠れない――眠れそうな気配がない。
シャワーを浴びながら寝られそうな程だった眠気は、すっかり身を潜めてしまったらしい。
慣れない姿勢で横になっていると、意外と腰にくる。少しだけ腰を動かすとベッドのスプリングが反応する。起こしただろうかとちらりと横を見ると、南風は落ちそうなほどベッドの端のほうにいた。
「南風、もっとこっち来ていいぞ」
囁くと、南風もまだ起きていたのかこちらのほうへそっと体を動かした。ベッドが遠慮がちにわずかに揺れ、そして――
肩の下に温かなものが触れた。
思わず胸が跳ねる。だがここで体を離せば、まるで嫌がっているみたいだとそのまま身を固くする。しかしそれは良識的な大人の判断を装った、体のいい言い訳だ。
本当は、その小さな接触点から南風の体を感じたくて堪らない自分がいる。
まるで初めて好きな子と手を繋いだ子供のようだ、と言いたいところだが、実はその経験はなかった。
手を繋いだことはある。だが、生暖かい他人の体が触れるのはどうにも心地よくないのだ。潔癖ではないはずなのに。犬や動物ならどれだけ触れても舐められても全然気にならないのに。自分は人間が苦手なのかもしれないと思うほどに。
だが南風だけは別だった。その体温を感じるだけで幸福感と安心感に満たされる。
しかしだからといって、むやみに触れてはいけないとはわかっている。
わかっているが、しかしこんなに近くで同じ温もりに包まれてそのことを考えないようにするにはどうすればいい。
訓練のシュミレーターがあり得ないような緊急事態を投げ込んできたとき並みに、頭はフル回転していた。
結論はすぐに出た。――寝よう。寝るしかない。
寝てしまえば全ての思考は締め出される。
「おやすみ」小さな声で口に出してみる。ベッドの反対側に動きはない。南風はもう寝てしまっているのだろうか。そりゃそうだ。
こんなに意識しているのは自分だけだろう。ますます、こんな煩悩が隣に漏れてはいけないと体が緊張する。
だめだ、とりあえず目を閉じよう。だが目を閉じると余計に肩と腕を通して体温が伝わってくる気がする。
そうだ羊を数えればいいんだったか。
ゆっくりと深い呼吸をしながら数えた羊は、ゆうに数千は超えていたと思う。
これは夢だとわかっていた。なぜなら、とうに死んだはずの昔飼っていた犬が目の前にいたからだ。尻尾を振りながら期待に満ちた目で見上げるその体を両腕で包み込む。今の自分には昔ほど大きくないはずなのに、その暖かい体は思い出と同じく大きく、心に安心感が広がる。
「あ……」
犬がするりと腕から逃げ、ぺたぺたと走っていく。その後ろ姿が開いたドアを抜け――
「待っ……」
手を伸ばした先には、青空と雲が広がっていた。
腕を伸ばした姿勢で目が覚めた。
「う……」体の節々がやけに凝っている。ベッドの中に南風はいなかった。だがベッドの反対側はまだわずかに温かい。夢ではなかったらしい。片手で腰をさすり、もう片方で目を擦りながらベッドから立ち上がった。
「おはよう、風信」
一階のレストランへ朝食に降りたところで声をかけられた。三人体制の今回のフライトで一緒のキャプテンだ。
「おはようございます」
「ん? 腰をどうしたのかね」
腰を擦っている風信を見ながらキャプテンが聞く。
「あ、いや……。昨日、なりゆきで南風と一緒に寝たんですが……」
「ほう」
「ちょっと無理な体勢で朝方まで――」よく眠れなくて、と続けようとして口をつぐむ。
「いえ、でも睡眠時間は短めでも大丈夫なほうなので……! それに夕方のフライトまでにはもう一休みします」と急いで言い足す。
キャプテンの口元にわずかに笑いが浮かぶ。
「風信、君ももう南風ほど若くはないんだからあまり無理するなよ」
「はい」苦笑いを返す。
「南風もさっき腰が痛いとか言っていたが」キャプテンがそう言ってレストランのほうを見やったところで、ちょうど折よく本人が出てきた。
「あ……風信機長」南風が立ち止まる。「お、おはようございます。昨日の夜はどうも……」
「体は大丈夫か? 無理させてしまったな」風信が言うと南風の顔がわずかに赤らんだように見えた。
「はい、だ、だいじょうぶです」
ぎこちなく言葉を交わす二人をキャプテンが見る。
「聞いたよ昨晩のこと」そう言うキャプテンに、南風が恥ずかしそうに目を泳がせる。
「いえ、そのぅ、本当におっきかったんです」
そう言って上げた南風の両手の間は、ざっと30センチはありそうだ。
「いやいや、そんなに大きくないだろ」いくらなんでもそんな大きな虫がいて堪るかと首を振る。
ふぅんとよくわからない表情を浮かべるキャプテンも、信じていなさそうだった。
「まあ、夜をどう過ごすのも勝手だが、フライトには支障がでないようにな」笑いを浮かべながら言うキャプテンに、二人とも急いで、はいと頷く。
「このあともう一回寝ます」