ちょはん 麻婆豆腐編 ソンヒが椅子に座ったまま、そっくり返って爆笑している。
「いや、そんなに笑わなくてもいいじゃん」
「趙、無理を言うな!こんな……ふふっ……」
コミジュルの執務室は壁も扉も厚い。だがソンヒの笑い声は何もかもを貫通する勢いだった。ここまで騒いでいれば何事かと、扉一枚隔てた向こうで控えている参謀がすっ飛んできそうなものである。
「それで?あいつは何て答えたって?」
もう何回目だ。3回、いや4回は話した気がする。
『好きな食べ物ですか?……ありません』
一言でばっさりとやられてしまった。中華料理が得意だと会話の継続を試みたが、
『中華料理は脂質と糖質が多すぎるため、私の身体づくりには適しておりません』
と、二度目の袈裟斬りときたものだ。下心もなければ毒を盛るつもりもない。純粋な好意を袖にされるというのは、ここまで悲しいものなのかと思い知らされた。
当然ながら俺の「個人的なお願い」が彼の上司に伝わっていないはずもなく、念願のキムチを受け取ったその日の内に呼び出しを食らったというわけだ。
電話越しの開口一番「私はエビチリが食べたいぞ!」とリクエストされた時は、コミジュルの仕事が忙しすぎてソンヒがついに気の毒なことになってしまったと憐れんでしまった。
取り急ぎリクエストのエビチリと青菜炒めを岡持ちにいれて、出前のふりをしてコミジュルに立ち寄ってみれば何ということはない。
「いや、すまんな趙。あいつがそうゆう対応をするとは予想外で……ふふっ……」
「笑うか話すかどっちかにしてくれない?ソンヒぃ」
「まぁ、あれも悪気があって断ったわけではない。お前に一服盛られる可能性をゼロにできなかったんだろう。それに御所望のキムチを手に入れられたではないか」
「そう!そうなんだよソンヒ!!やっぱりさ、地元の味って言うのかな。そうゆうのってあるよね。買ってきてもらったキムチを使ったキムチ炒飯が大好評なんだよ。まぁ、さすがにキムチの出所は言えないけどね」
本当に5種類とも美味しかった。キムチを買ったらおまけでついてきまして、と貰ったカクテキもかなり美味かった。
「だがそうか。好物は無い……か」
ソンヒの声に寂しさが混ざる。
「ソンヒも知らないんだ。ハンくんの好きな食べ物」
「ハンくん……いつの間に親しくなったんだお前」
「仲良くないよ?仲良くなりたいなぁとは思ってるけど。その方が仕事楽でしょ?」
そうか?とソンヒが訝しむ。諜報と暗殺をメインのシノギにしているなら、そう思って当然だろう。それは俺たちも言えた義理ではないのだが。
「というわけで、ソンヒぃ。お願い!ハンくんって何が好きなの?このままじゃ俺、他の組織の幹部をパシらせた事になっちゃうから座りが悪いのよ」
なるほどな、とスプーンに山盛りのエビチリを乗せて口へと運ぶ。かたち良く開いた口はスプーンごと中へ納めた。そして間を置かず、するりと最初から何も乗ってなかったかのような匙が現れる。目を忙しく輝かせたり細めたり表情がころころ変わる様は見ていて楽しい。何杯でも食わせたくなる。
「そうだな。あいつが普段食べているものなら知っているが」
「ほんとぉ?教えてよソンヒ」
「鳥胸肉」
鳥胸肉ね。定番だが棒々鶏がいいかもしれない。
「ブロッコリー」
ブロッコリーか。アーリオオーリオなら簡単に作れる。
「あとはプロテイン」
「……アスリート飯じゃん」
そうだな、とソンヒはエビチリをもうひと掬いした。
「完全に筋トレする時の調整飯じゃん。それって好きとか嫌いとかそうゆうレベルの食事じゃないよね?カツ丼食べたい!ってならない?」
ソンヒがさらにエビチリをひと掬いするのを止める。フードファイターがカレーに挑むスピードでエビチリを食べられるとは一体どういった構造をしているのだろうか。
「ちなみにカツ丼は糖質脂質カロリー共にオーバーするらしいぞ。その分動けば良いのにな」
「その意見は俺も賛成するよ。活動量を考えると多少のカロリーオーバーなんていつでも修正できそうなもんだけどなぁ」
「まぁ、あいつもようやくまともに食事する気になってくれて医療班も安心していたのだが……これは少々心配だな」
これは今ここで俺が聞いてしまっても良い話なのだろうか。
あの日、平安樓で総帥と参謀として合う前、何度か彼の姿は見かけていた。毎月の楽しみである近未来工場見学の予定が、偶々メンテナンス中とのことで暇ができてしまった日があった。材料の検品はそれなりに時間がかかる。そういった時はモニタールームで時間を潰すのだが、その日は先客がいた。
コミジュルの幹部や実働部隊とは挨拶こそしないものの顔馴染みだ。しかし、彼は初めて見る顔だった。モニタールームに入ってきた俺に気がつかない程に、目の前の映像を食い入るように見ていた気がする。長い前髪とを下ろした男の目元は見えなかったが、半端にブリーチがかかった髪と簡素な服装にサンダル履きで立ち尽くす姿には鬼気迫るものがあった。
ぎょっとしたのと同時にモニタールームの出入り口が開いて、数人がやってきて彼を回収していった。服装から医療班らしいことは判断できたので、彼らも大変だなと眺めていると、入れ替わりにソンヒが戻ってきた。彼女の気まずそうな顔は久しぶりで、どうやらこれは重要な情報を掴んだと得をした気になったのを覚えている。
彼が、ハン・ジュンギだった。
「つまり、あまり調子良さそうじゃないわけ?」
いや、とソンヒはスプーンを置いた。いつの間にかエビチリも青菜炒めも完食している。
「むしろ逆だな。調子が良すぎる。少なくとも趙、お前と会話しているじゃないか。個人的に」
「そう言うけどさ、俺は振られちゃってんですけど?」
「だが、用事は聞いてもらえたんだろう?それなら、かなり良い。大変よろしい。医療班に報告しておこう。」
そんなにか?とその後も何度かモニタールームで見かけた彼を思い出してみる。話しをした覚えはないし、誰かと会話しているのも見たことがない。
明後日の方を見ながら考えていると、目の前の女が勢いよく立ち上がった。きびきびと扉まで向かい勢いよく開ける。そして、スマホを片手に持ったままの暗黒てるてる坊主の手を引いて戻ってきた。
***
気のせいかもしれないが、ハン・ジュンギの目は俺に助けを求めていた。それは俺もだよと目線を返すと、そうですかと彼は両目を瞑った。
「聞いているのかハン・ジュンギ。お前の好きな食べ物は何だ!はやく吐け!!」
尋問かなこれは。
「趙は何でも作れるぞ!ちなみに今私が食べたエビチリと青菜炒めは最高に美味い」
ソンヒは完食した皿を指差してふんぞり返っている。なぜそんなに偉そうなのかさっぱり検討がつかない。それは突然呼び出された参謀も同じようで、ただただ困惑している。
「さっきから何故黙っているハン・ジュンギ!四の五の言わず、食べたいものを言うが良い!!」
その言い回し、時代劇以外で初めて聞いたな。
「好物……ですか。急に仰られましても……では、鳥胸肉で」
「それは貴様の調整メニューだろうが!何か無いのか?プルコギとかカレーライスとか」
「じゃあプルコギで」
「じゃあとは何だ貴様!答える気があるのか!!」
かなり気合が入った尋問だ。ハン・ジュンギが俺を見る。目は救助を訴えていた。
「あ~、そうそうハンくん。ソンヒから鶏胸肉をよく食べてるて聞いたよ。棒棒鶏なんてどう?」
「黙れ趙!助け舟を出すな!!」
「すみません」
突然の小僧あつかいに反射的に謝罪してしまった。とはいえ、この理不尽な尋問はさすがに気の毒だ。俺が得意な中華料理は油が命で、ヘルシーや筋トレとは相性が悪い。比較的罪悪感のないものとなると、
「麻婆豆腐ならどうかな」
「趙……」
ソンヒが呆れた顔をこちらに向ける。
「まーぼーどうふ……」
上司に詰められていた男が、はてと俺の言葉を復唱した。
***
「麻婆豆腐ってメニューに無いんですね」
ハン・ジュンギが熱心に佑天飯店のメニューを眺めている。
あれから数週間。ミレニアムタワーの荒川組事務所から見つかったデータの解析に難儀していると、足立さんから聞いていた。内容が内容だけに、外注するわけにもいかずハン・ジュンギが金の流れを洗っているそうだ。
「今日はもう看板出してるから、作ろうか?麻婆豆腐」
「いいんですか?」
彼の目が丸く輝く。以前一度だけ見た彼の目だった。
冷蔵庫から豆腐と挽肉を出す。中華鍋をあたためている間に、材料を調える。
「そういえば、みんなで蒙武飯店行ったときはびっくりしたよ。いきなり『私は麻婆豆腐が好物です』なんて言うんだもん」
「あれ、言ってませんでしたっけ?そうそう趙が酢豚のパイナップルが嫌いなのは意外でしたね」
挽肉を炒めて調味料と和えて煮立てる。基本に忠実に。水に溶いた片栗粉でとろみをつけてひと煮立ちさせれば完成だ。
「俺にだって苦手な食べ物くらいあるんだよ」
「私はパイナップル好きですよ。得した気分になって」
いつもの中皿に盛りつけてカウンターに出す。
「ハイお待ち~。趙天佑特製麻婆豆腐でございます」
ハン・ジュンギの瞳は眩しかった。