【桐智】結構いい趣味してるじゃん開店前の清掃を終えた。ショーケースに並ぶリングやネックレスは、今日も新しい持ち主に選ばれるため、丁寧に整えられ、陳列されている。準備の仕上がりに満足し、今日の予約のお客様を確認する。お昼前は、店長が打ち合わせに出ているので、可能な限り一人で接客しないといけない。
今日は開店直後に予約の方がおひとり。要圭さんとおっしゃる方で、店長が野球選手だというから調べたら本当に野球選手だった。私はスポーツ全般に全く興味がない。学校の体育の時間に良い思い出がない。子供の頃の鬼ごっこだって、楽しくなかったし……などとスポーツという単語だけで自分の嫌な記憶を呼び覚ましてしまうくらいにはコンプレックスを抱いているため、あまり他人が競技をしているのにも関心がなかった。
ただ、友人が野球選手の強めのファンをしているので、その子が話題にする選手は名前は覚えている。初耳では全くピンとこなかったけれど、そういえば要圭の名前も、その子の口から聞いたことあるな、と思いながら予習として氏名を検索すると、写真も試合結果のニュースもわらわらと大量に表示された。
関東のチームでキャッチャーをしているらしい。へええ。さらに検索を続けると、メルカリで個人グッズが高値で取引されているのも確認できた。それも驚かないのは彼の人目をひく容姿のせいかもしれない。イカつい野球選手のはずなのに、親しみやすい垂れ目が可愛らしく、その上にちょうどよく配置された眉毛はキリリと上がり意志の強さが感じられた。小さめの鼻は筋が通り、口元は猫口のようにキュッと端が上がっていた。全体的に小作りでバランスが良く、可愛いらしい顔立ちで、さぞかし人気があるんだろう、とよく見れば、左目の下に涙黒子まで備えつけていた。色男として完璧だ。
そのわりに、浮いた噂は見当たらなかったけど。
予約の際にマリッジリングを購入したいとご連絡いただいたので、今日、購入するであろうリングの贈り先は、女子アナなんかではなく、一般人の彼女なんだろう。学生時代からのお付き合いかも。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
果たして、扉をくぐってきたのは、予習していたとおりの素敵な男性だった。要選手だ。プロで活躍しているのだから、もっと大きいのかと身構えていたが、目の前に立たれても、それほど圧迫感は感じない。厚みはありそうだが、背はそれほど高くないのだと気がついた。
が、続いて扉付近に現れた影は大きかった。明らかに女性ではない。男性にしても日本人じゃないかも?と不安がよぎり、要選手の職業を思い出した。そうだ、この人が怖くないだけで、周囲の人はイカついに違いない。
「ああ、俺は付き添いやから、気にせんどいてください」
気を取り直した私が「ご一緒のお客様でいらっしゃいますか」と質問する前に、件の男性は話しかけていた。声をかけてくださったのはありがたいのに、先制パンチを受けた気がするのはなんでだろう。
いや、でも、しかし、この顔は、もしかして。
「しゅ……うと様……でいらっしゃいますか?」
落ち着け、私。
接客のプロなんだから、慌てている場合じゃ無いだろう。
予約とは別に入店してきた男が友達の推しだからって、動揺しすぎだ。口篭ってる場合じゃ無いからしっかりしろ。俯け。息を吸って吐け。気を取り直して客を見つめて、無理矢理にでも口角を上げるんだ。
「はいはい、秋斗ですよ。もしかして、俺のこと知ってたりします?」
涼しげな切れ長の瞳が印象的な美男が軽い雰囲気の笑顔を浮かべていた。入店時の印象は明るく軽く、良く言えば人当たりの良い、悪く言えばチャラついた雰囲気だったが、私に語りかける声は低めの落ち着いたものだった。不思議なバランスだ。口調は関西弁なのに柔らかく、関西弁だからかテンポがいい。お気に入りのラジオを思い出す。できればずっと聞いていたい。
桐島ファンの友達からは写真ばかり見せられていたので、こんな魅力的な話し方だなんて知らなかった。へえ、智子って男の趣味は結構いいじゃん。
「もちろん存じ上げております。その、秋斗選手の大ファンの友人がいるものですから、ご活躍のお話もよく伺っております。今日はご来店いただき大変光栄です」
「せやから、俺は付き添いやから、そんなに畏まらんでも大丈夫やで」
ね?
角を上げて笑う口元は柔らかく、優しかった。いかにもスポーツ選手といった大柄な体躯にも関わらず、にこりと微笑む姿は可愛らしくもあった。が、細めた瞳をよく見ると、奥は暗く翳っていた。なにか、値踏みされているかのようなざわめきがする。顧客に査定されるなんて珍しくもないのに、桐島選手の視線に感じるものはいつもと違う。なんだろう、この感じ。
「桐島さん、そういうのいいですから、さっさと始めましょう」
すみません、どこで買えばいいですか?
スーパーで卵を購入するかのような事務的な口調で質問をする要選手は、これから女性のために装飾品を購入する男性の態度としてはかなり珍しいタイプだと感じた。効率重視だから、新婦の方といらっしゃらないのか。
「かしこまりました。どうぞこちらにお掛けくださいませ」
部屋の中央にあるソファーにご案内する。コーヒーか紅茶、緑茶か水かを伺うと、水とコーヒーをご希望とのことで、すぐにお持ちした。
リングについてはゴールドでもプラチナでもよいとのことだったため、カラーではなく、形状や雰囲気を重視してご提案することにした。おそらく、上品で、シンプルかつ粋なものが良いのだろうと推測し、いくつか準備する。
誂えたものを要選手の前に設置し、ご説明した。要選手は事務的な態度はそのままに、いくらか興味深そうに眺めていた。おそらく卵を買う時よりは、真剣に説明を聞いていたと思う。授業を受ける学生のようだった。お隣の秋斗選手は身を乗り出して、リングと要選手を交互に、楽しそうに眺めていた。二人掛けのソファーではなく、一人一脚のものにご案内したのに、肘掛を乗りこえて、要選手に身を寄せていた。ふむ。仲良しだな。
「桐島さん、どれが良いですか?」
私の説明が終わるなり、要選手は隣の付添に話を振った。要選手は、先ほどまで真剣に、メモでもとりそうな雰囲気で聞いていたはずなのに、一言も感想を言わず、選ぶそぶりも見せず、桐島選手にボールを投げた。
え、もしかしてさっきまでの相槌って空返事だった?とりあえず、聞く態度を見せただけ?
ビジネススマイルを顔に貼り付けながら、私は内心混乱し、要選手を観察した。澄ました顔でグラスに口をつけ店の奥を眺めている要選手は、どうもリングには心底関心が無いようで、判断を放棄している様子が窺える。え?ほんとにそれでいいのかな?彼女さんにバレたら怒られない?
「これが似合うんちゃう?」
混乱が加速しつつある私に気づいているのかいないのか、飄々とした風情を漂わせながら、桐島選手は右端のシンプルなプラチナリングを選んだ。
「じゃあ、それにします」
「決断早過ぎやろ」
重大な判断を丸投げされた桐島選手は、だからといって呆れるでもなく、なぜかクスクスと笑った。軽く俯いていたが、覗く口端はとても嬉しそうだった。
そうか、これ、付き添いじゃないのか。
桐島選手の口元には、嬉しさと同時に幸せが滲んでいた。どう見ても、要選手だけのためにリングを選んでいる顔ではない。
なあんだ、そうなのか。智子は、知ってるのかな。
「一回くらい試着したらええのに」
状況を理解し、雲が晴れた時のようなすっきりとした気持ちになった私は、じゃれあう二人をぼんやりと眺めた。もしかしたら、少し口元が緩んでいたかもしれない。
「着けたって、似合うかどうかなんて俺には分かんないですよ。センスないし、全部同じに見えるんですから」
「嘘やん」
桐島選手は呆れたように嘘だと断定した。少し笑っていたので、怒っているわけではないらしい。呆れているからには、頻繁にあることなのかも。
「ほな、俺が別のを選んでも『じゃあ、それにします』って言うんやで」
桐島選手による要選手の物真似がテンポといい、間の取り方といい、抑揚がないところといい、寸分違わず要選手の話し方とそっくりだったので、私は勤務態度などかなぐり捨てて笑い出しそうになった。私が吹き出すのを我慢している間に桐島選手は並べてあるリングの中から端の方のひとつを選び、隣の方に「どやっ、これにしよ」と見せた。
それは大きくハートの形があしらわれたエタニティのリングで、ピンクのカラーダイヤも散りばめられており、愛らしいが、豪奢で派手な面は否定できないものだった。要選手の雰囲気には合わないな、とは思ったものの、ディスプレイのつもりで並べたものだ。マリッジリングを選ぶにあたって、渋いだけの雰囲気にしても盛り上がらない。そもそも、ペアリングのお相手がどんな方かも、最初は分からなかったわけだし。女性相手であれば、可愛いらしさは保証できるのだよその品番は。
桐島選手は「ほれほれ」と仔犬にオモチャを見せびらかすように摘んだリングを見せつけたが、要選手は微動だにしなかった。それはそうだ。だって桐島選手が派手リングを摘んだ時点で、要選手はその可愛い顔の上にこの世の終わりみたいな表情を浮かべたのだから。
いやいや、でもそれ、うちの三番人気だし。激可愛いし。キッチンの黒い虫を素手で摘んだ空気を読めない男を眺めてる時と同じ顔をして見つめないで……!
「ほら、要くんかて、好き嫌いあるやろ」
はあ、とため息をついて、絞り出すように要選手は呟いた。
「さっきのにしましょう」
満足げに桐島選手は頷いた。指輪が決まったからというよりは、自分の作戦が決まったから嬉しいんだろう。ゲームの決め技が決まった時のような良い顔だった。ピッチャーだというし、三振が決まったらこんな表情なのかもしれない。今度、智子に試合に連れていってもらうのもいいのかも。こんな笑顔が見れるのなら、楽しそうだ。
「ほら、ピッタリやん」
サンプルのリングを要選手の左手薬指に嵌め、桐島選手は要選手の左手を楽しそうに眺めていた。上手にできたプラモデルを眺めるように、手のひらで要選手の指を大事に抱え、右に左に揺らしている。
「わかりました。じゃあ、これですね」
要選手は自分の指を確認することもなく、外したリングの内側を覗いて、やっぱり20号ですね俺、と呟いていた。似合うかどうかなんて、本当に関心がないのだろう。
「すみません。このリングの、20号と22号をください」
既に二人の関係を隠すつもりもないらしい要選手は、自分と桐島選手の指のサイズを私に伝えた。
かしこまりました、と一礼し、カウンターに納品手順を確認に行く。通常よりも少し大きめの珍しいサイズだが、この商品なら早めに準備して、お渡しできたはず。
必要な手続きをPCに打ち込みながら、チラチラと二人を観察する。やれやれようやく終わったな、という気持ちを隠さず、水を少しずつ口に含む要選手と、そのグラスを奪い取って残りの水を飲み干す桐島選手は明らかに普通の距離感ではなく、付き添いの空気感ではなかった。もっと早く気がつくべきだったな。
いや、でもよく考えたら、要選手は、桐島選手のことをどういう関係とも一切口にしなかったし、購入すべきものが誰と誰とのリングだとも言わなかった。私が伝えられたのは、予約の際にマリッジリングを購入すると言われた、それだけだ。桐島選手が付き添いだというから、彼女がいるはずだという私の偏見が固定されただけで、最初から、要選手はふたりの関係性を隠してもいないんだ。話してくれたわけでもないけど。
入店時、付き添いだ、と私に告げた桐島選手と、何も言わなかった要選手が事前に打ち合わせをしていたかどうかは、分からない。わざわざ口裏合わせなんかしなくても、その場の状況を見れば、そのくらいの連携プレーくらいはできるんだろう。だいたいだ、あの距離感なら、テレパシーが使えると言われても驚かない。
「お姉さん、お名前は?」
全ての手続きが終了した後、秋斗選手は席から立ちながら私を見つめ、名を問うた。接客中に名前を確認されることは珍しくないけど、わざわざ改まって、有名人に個人名を聞かれるのは不思議な気持ちだった。友達の推しに私の名前を答えてもいいんだろうか、という無駄な逡巡がコンマ一秒起こり、プロ意識がそれを掻き消した。今は、勤務中だ。会話を途切れさせてはいけない。
「佐藤でございます。本日は、担当させていただき、ありがとうございました」
「佐藤さん?」
「はい、佐藤でございます」
確認するように、覚え込むように、彼は名前を繰り返した。私の名前なんか覚えてどうするんだろう?
「佐藤さん、今日はほんまおおきに、ありがとう。いいもん選べて良かったわ」
「ご満足いただけたようで、私も安心いたしました」
「佐藤さんの説明がよかったからやで。プロやなぁ」
「もったいないお言葉ありがとうございます」
「プロやしな、これからもよろしく頼むわ」
ね?
桐島選手はそう言って私の手を握り、ぐっと力を込めてから、暗い瞳で私を捉え、口だけで笑った。ニヤリ、と音が聞こえた気がした。
そうか、そういうことか。
プロだから、黙っといてくれるよな、これからも。よろしく頼むわ。
ということなんだろう。
わざわざ私の名前を聞いて、覚えたふりをしたのも脅しのためだ。そんなことしなくても言いふらしたりはしないのに。でも、念には念をいれて釘を刺さないと、という意図が握手の圧力から伝わってきた。
ああ、智子。あんたの男の趣味、結構いい趣味してるじゃん。
「ってことがあったわけ」
「あんたさあ、秋斗に『今後ともよろしく』って言われて、握手までしてるくせに、ここでベラベラ話しちゃうわけ?」
ちょっと触らせてよ、と智子はテーブルの向かいから腕を伸ばし、私の右手を掴んだ。
「もう、十年くらい前の話だし、『秋斗と要圭がペアでつけてるリングって、あんたのところのブランドじゃない?』って聞いてきたのは智子の方じゃん」
もう十年も前だから私の指なんか触ったって意味ないじゃん。私は右手を覆う智子の指をそっと退けた。
「単にリングの特定がしたいだけだったのに、まさか友達が直接接客してたとは思わないじゃん」
「そうだね。初めて話したしね」
軽く息を吐き、冷めかけたカフェオレに口をつける。なんとなく、秘密を手放し気は軽くなったのを感じながら。
「……もしかして、あんたが昔、急に試合に行きたいって言い出したのって、そのせい?」
「そう」
「なんだよー!全然気がつかなかった!あんたもようやく秋斗の魅力に気がついたんだとばっかり思ってた」
「魅力には気がついたじゃん」
「別のことにも気がついたじゃん」
智子の突っ込みに私は微笑む。なんと返すのが正解なのかは、まだ分からない。
「まあ、私もペアのリングに気がついたのは最近だしねえ……そんな、十年も前からペアリング持ってるなんて思ってなかったよ」
「そうなの?」
「ふたりとも引退するまで、プライベートでリングしているところなんて見なかったし」
「そうかあ」
「あれが、ペアのリングなんだって、私も、ファンのみんなも、気がついたのも最近なんだよ」
「そうなんだ」
「大学時代からずっと仲が良くて、嬉しいよ」
仲が良くて、という智子の声には、少し笑みが混ざっていた。秋斗のファンとして、ずっと見守っていた智子は、あの二人のことを、すごく大事に思っているんだろう。どんな関係かなんて、本当は分かっているのだ。そんな風に、長く応援してもらえる秋斗選手と要選手のことが、好きになる。私の友達をこんな笑顔にしてくれてありがたい。なんだかんだ、面白い人たちだったよな。
古くいい匂いのするアルバムをめくるみたいに、十年前のことを思い出す。智子、あんたほんとにいい趣味してるよ。
「私も、あの時、選んでいただいたリングを大切にしていただけて嬉しいよ」
黙って微笑みながら、私たちはカフェオレに口をつけた。ずっと、彼らが、仲良く幸せでいてほしい、と願いながら、私たちは幸せなお喋りを続けた。
〆