蜃気楼「暑い……」
茨はだらりと四肢を投げ出して、床に寝そべった。
民間軍事会社の室内練習場は誰もおらず、がらんとしている。遠くでは上官が何やら叫んでいるが、茨の耳には届いていなかった。
暑い。本当に溶けてしまいそうなほどだ。うんざりする気分になって、ごろんと寝返りを打つ。ちょうどリノリウムの冷たい床が頬に触れて気持ちいい。火照った茨の肌から熱が奪われていった。
その冷たさになんだかうとうとしてきて、茨は目を閉じた。
***
目を閉じればあの日のことが鮮明に思い出される。他でもない弓弦がこの施設を去ったときのこと。
『このままここにいたほうがいいのかも』などと馬鹿げたことを言う相手を一蹴して。そのまままともな会話をすることもなく、弓弦はこの施設を出ていった。最後に大人に連れられて挨拶にやってきた弓弦は、今まで見たこともないような顔をして、見たこともない上等な服を着ていた。
(やっぱり最初に思ったとおりじゃん。どうせすぐ帰っちゃうんだから)
そう思う一方で、きっとこれが『正しい』世界なんだろうなとも思った。施設を出るときの、綺麗なおべべを着ている男の子は、もう茨の知っている『教官殿』ではなかったのだ。
……伏見弓弦。数カ月前ここにいた、茨と同い年の男の子。ちょっとだけ茨より背が高くて、偉そうな奴。
(ま、もういないんですけど)
そもそも彼には帰る家があって、ここにいる理由も全然違っていて。弓弦のいなくなった現状に、なんだかぽっかり穴が空いたような気持ちになるのはお門違いなのだけど。
そうして思いを馳せながら意識を飛ばしかけていたときだった。
「~~!!」
外から大声が聞こえて茨は飛び起きた。大人の声である。聞き間違いでなければ外にいた上官のものだろう。
「……うげ、もしかして俺のこと呼んでる?」
そういえば、茨は大人たちの目を欺いて勝手にサボっているんだった。
「……こんな暑い中、あんな馬鹿みたいな訓練するほうがおかしいでしょ」
炎天下の中、水分も自由に取らせてもらえずひたすら指示通りの運動をする。そんなことでは効率も落ちるというのに、忍耐力を鍛えるためだのなんだの大人たちの都合のいい理由で、今日もそんな『訓練』が行なわれているのだ。
面倒くさいなあ。なんて。そんなことを思いながらも、重い体を起こし声のする方へ向かっていった。
「どこに行ってたんだ」
ぎょろりと大きな目が茨を捉える。茨と同じ迷彩服に身を包んだ大きな男は、ジトっとした目でこちらを見下ろし低い声でそう言った。
茨はぷいっとそっぽを向いてやり過ごす。もうこの施設で過ごして五年近く経つ。ここの大人たちのことも大体わかってしまっている。この上官は強面で強い口調で呼びかけてくるけれど、子供の扱いが苦手なのか茨相手にはあまり厳しいことをしてきたことはないのだ。
「……早く訓練に加われ」
茨が質問に答える気がないことを悟ったのか、上官は顎で前方を指してそう言った。彼の眼前では数人の男たちがめいめいにスクワットをしている。
ちらりと上官の方をもう一度見るが、彼はもう茨の方を見ていなかった。ふーっとため息をついて彼の指示通り、スクワットをする人々の後ろまで歩いて行った。
(……)
思い出すのは、以前のことだ。弓弦と訓練をしていたときは、数をカウントする声と動きをずらして欺こうとしていたっけ。
(……いつも見抜かれては数を倍以上にされてたなぁ)
茨はスクワットに加わりながら、前方で腕組みをしている上官を盗み見る。眉を吊り上げてこちらを睨んでいるが、見ているのは茨ではなく、『スクワットをしている部下たち』という集団であって個ではないのだろう。
ふーっと何度目かのため息をつく。こめかみを汗が流れて額に前髪が貼りついていた。ちらりと上を見上げれば、照り付ける太陽がぎらぎらと輝いている。まだまだ暑い時間は続きそうだった。
あぁ、うんざりする。さきほどまで彼がうるさいほど茨の名前を連呼しているのを聞いていたからか、僅かに頭が痛いような気さえしてくる。茨はスクワットする振りをして、時折しゃがみこみはじめた。一度見つからないことがわかってしまうと、真面目にやるのがばからしくなってくる。徐々にスクワットする時間より、しゃがみこんで、周囲の陰に隠れて時間をやり過ごす時間の方が増えてきた。
(あほらし)
弓弦がお屋敷に帰って、茨の日常は戻ってきたはずなのに。なんでこんな気持ちになるんだろう。地面にしゃがみこんで、スクワットする大人たちの影から怒号を飛ばす上官を見る。
(つまんねー世界……)
伏見弓弦が居た数年間こそが茨にとってはイレギュラーだったというのに、それが当たり前になっていた。だから慣れたくなかったのに。
茨はしゃがみこんだままもう一度目をつぶる。今でも目をつぶれば鮮明に思い出せる。弓弦がいたこの施設での出来事も、弓弦がこの施設を出ていくときのことも。
(……弓弦)
頭に思い浮かべた紺色の頭が、茨が目を開けたときに振り向いて優しく微笑んだ気がした。