27人目の最愛なら君へ 二十六歳、名前は伊地知潔高。それが、私。
五条の恋人である伊地知潔高は毎日欠かさず日記をつけている。どのような内容を書いているのかと訊けば、その日出会った人との出来事や自身の心情を事細かく書いているそうだ。実に律儀な男だな、と五条はこの時そう思った。
「すごくあるね」
「小学生の頃からつけてますから」
五条が二十二歳で伊地知が二十一歳の、恋人として付き合い始めた頃だ。初めて伊地知の自宅に行った日に見た五条の背丈と同程度の本棚には、今まで伊地知がつけてきた日記が上から下、さらには端から端までびっしりと詰まっていた。
「見てもいい?」
「どうぞ」
持ち主の了承を得て、五条は本棚から適当に一冊を手に取りパラパラとページをめくる。ノートの中身も、本棚と同じようにびっしりと文字が並んでいた。なるほど確かに事細かく心情などが書かれていて、読む分にはなかなかに面白い。
「よくこんなに書けんね〜。ある意味才能だよ、これ」
「子供の頃からつけているので習慣づいてしまいましたよ。日記もすごい量でしょう? 誕生日を迎えるたびに新しいノートへ替えて一年一冊に収まるようになるべく書いているのですが、最近は書きたいことばかりあって、収まりきらないんです。時々、見返したりもするので整理しようにも捨てきれず……。なのでちょっと、保管場所に困っています」
「ふーん」
パタン、と手のひら同士を叩くように日記を閉じて、五条は一つ伊地知へ提案した。
「じゃあ、その保管に困ってる日記さ、僕にちょうだいよ」
「えぇ? 私の日記なんてもらって、どうするんですか?」
「どうするもこうも、困ってる伊地知を助ける為に僕が持ってるだけだよ。それと、」
伊地知を見やりながら、五条はニヤリと笑った。
「日記の内容面白いしね。オマエの心の中読んでるみたい」
「……助けるというより、私を揶揄うネタを探す為では?」
「そんなことないって〜。で? いい?」
じっと伊地知を見つめて返事を待つ。数秒後、考え耽るようにうつむけていた顔を上げた伊地知は、いいですよ、と小さく頷いた。
「大切に、してくださいね」
それからというもの、伊地知の日記は五条が保管することになった。毎年、伊地知の誕生日を迎えた日に日記は新調されるが、伊地知の誕生日前日まで使われていた日記はすぐに五条の手元に届くことはなかった。日記が渡される日は決まっており、その決まった日が五条の誕生日だからだ。毎年、誕生日のプレゼントは伊地知の日記がいいと五条が希望した為だ。
「二十七歳のお誕生日、おめでとうございます」
「ん、ありがと」
そして今年も例年通り五条の誕生日に、伊地知の去年の誕生日から今年の誕生日前日までが記された日記を贈られた。
「お、今回もびっしり。読み応えあるわ」
五条は手慣れた手つきでページをめくっていく。
「そんな本を読む時みたいな言い方……、こんなのが本当に毎年の誕生日プレゼントでいいんですか?」
呆れと、少し詫びるような視線を伊地知は五条へ向けてきた。
「いいよ。だって、これ以上の贈り物なんて他にないし」
「本当ですか?」
「ホントホント。この日記読んでるとさ、伊地知のことを今よりもっと知れた気になれるんだよね」
日記の中に紡がれた言葉の数々を、五条は優しく指先で撫でる。この中には、五条の知らない伊地知のことが描かれているのだ。
「この日オマエが誰と出会って何を思ったのか、知れることがすごく楽しくて僕は嬉しい。毎年日記をもらって、僕が知らなかった伊地知を知れる度に、僕はもっともっと、オマエのことを好きになる」
と、ちょっと素直に気持ちを伝え過ぎたか。五条は恥ずかしがり屋な恋人が、五条の言葉に照れて顔を真っ赤に染めていないかと、隣に立っている伊地知を見やった。しかし、彼はうつむいておりその表情を確認することはできなかった。
「五条さん……」
顔をうつむかせたまま、伊地知は静かに五条を呼んだ。
「なーに、伊地知」
ゆっくりと身を屈めて、横から伊地知の顔を覗き込む。いつにない恋人の神妙そうな表情に、五条の中に案じる気持ちが芽生えた。
「どうした? どっか痛い?」
「いえ……あの、」
歯切れの悪い返しと、先程まで無かった重く居心地の悪い空気に一瞬にして五条は懸念を抱いた。視界の端に伊地知の手が見えて、人差し指と親指の先を擦り付け合っている。緊張している時の伊地知の癖だ。
二人を取り巻く空気と伊地知の様子に、五条は察した。五条にとって良からぬことを、伊地知は口にしようとしている。
「……このような日に、話すことではないとわかってはいるのですが、私……」
「別れないよ」
「っ……、え?」
伊地知の言葉を遮るように五条は言葉を投げる。日記を五条へ渡してからずっとうつむけていた顔を、ようやく上げた伊地知は目を丸々と広げて、五条を正面から見つめてきた。驚きを隠そうともしない態度に、五条の眉間に皺が寄る。
「いいよ、別れようか。とでも言うと思った? 別れるわけないじゃん。つか別れたくねぇし。僕さっきオマエに好きって言ったよね? なのに何で別れ話しようとしてんだよ」
「えッ!? いや、あのっ……」
「まさか僕の愛が信じられない?」
「いえ、そんなこと……っ、五条さん誤解ですっ」
「誤解って何。……それとも、僕のこと好きじゃなくなった?」
「……っ」
その息を呑む音が聞こえた瞬間、五条もつられるように息を呑んだ。末端から体温が下がっていくのを自覚し、身体の芯まで冷えるとはこういうことか、と他人事のように思う。
「は、……え? マジ……?」
戸惑いをあらわにして訊く五条に、伊地知は再び顔をうつむかせて答えなかった。
「他に好きなヤツ……できた?」
「……好きな方は、いません」
〝好きな方はいません〟とは、五条も含まれているのだろうか。
「……僕、伊地知に嫌われるようなことした?」
「いえ……」
「単純にもう、僕のことが好きじゃないってこと……」
「それは違いますっ」
「違うって何? 僕の気持ちを信じていない訳でもない。他に好きなヤツがいることでもない。なら、別れる理由としたら一つしかないだろ」
「違いますッ! 五条さんのことを嫌いになってなんかいませんっ、別れたいとも……、ただ……」
勢いよく顔を上げ言葉を放った伊地知は、グッと唇を噛み締めた。そしてしばらくして、苦しげな表情のまま、きつく締めた唇を解いた。
「五条さんのことを愛しているのかどうか、自分自身の気持ちが信じられないんです……私、記憶が……一年しか保てないので……」
「………………は?」
日記にも書かれていない、伊地知が明かしてきた事実に、五条は言葉を失った。はっ、と息を吐くのが聞こえ、伊地知が緊張を解こうとしているのがわかった。
「……五条さんは、私の過去の日記を読んで昔の私を知って、今よりもっと私のことを好きになると言ってくれましたね。……でも、その〝昔の私〟を、私は何一つ覚えていません」
あまりに現実味のない話に、五条は伊地知が話す内容をうまく整理することができなかった。
「私のことだけではなく、家族や仲間や他人も……人に関することだけ、一年経ったら記憶が無くなってしまいます」
「…………それは、僕のことも?」
「……はい」
ドクドクと五条の鼓動が激しく鳴り始める。そうしてその鼓動に急かされてやっと、五条は伊地知の話を呑み込めた――――いや、無理矢理呑み込んだ。
「無くなるってオマエ……でも、普通に高専の……硝子や学長とか、話したりしてるじゃん」
「過去の日記を読んで、覚えるんです」
〝覚える〟。その言葉の違和感に、五条は気付いた。
伊地知の言葉通り、彼の記憶は一年しか保てず消え去ってしまうのだ。思い出すことが不可能になってしまう程、記憶を忘れるのではなく、〝無くなる〟のだ。
「一年前までの日記は、五条さんへお渡しするまでの間に読んで覚えます。それよりも以前の日記は、五条さんのご自宅にありますから、お邪魔させて頂いた時に読むんです」
確かに、五条が伊地知の日記をもらうようになってから、伊地知は五条の家に来た時よく日記を見返していた。懐かしんでいるのかと、読み耽っている伊地知を見てはそう軽く思っていたが実際は違った。あれは〝過去の自分〟を頭の中に叩き込んでいたのだ。
「私、記憶は一年しか保てないですが、記憶力はいいんですよ」
瞼を伏せて伊地知は控えめに笑った。その表情を、五条はどう表していいのかわからなかった。
「記憶は、いつ無くなるの?」
「わかりません。なので、日記は欠かさず毎日つけてます」
伊地知にとって日記をつけることは習慣ではない。必須なのだと知った。
「五条さんは……」
伊地知は瞼を開けて、五条を見上げた。
「五条さんは……こんな私が、嫌ではありませんか? 一年経ったら記憶のすべてを無くしてしまう、私が。あなたのことを愛しているのか、自信を持てない私が……」
「嫌じゃない」
咄嗟に口にした言葉は、五条の本音だった。
「嫌じゃないよ、嫌になる訳ないじゃん。伊地知が僕のことを覚えていなくても、愛しているのか、まだわからなくても、僕は伊地知を愛してるよ。だから、〝こんな私〟なんて言わないで」
「……ありがとうございます、五条さん……でも、」
無理はしないでくださいね。この時、そう言われた言葉の意味を理解できたのは、伊地知が二十六歳になる、次の年のことだった。
冬を越し、春が来て。柔らかな日差しが徐々に厳しいものになっていく頃のある日、五条は高専の廊下を歩く愛しい姿を見つけた。ここのところ海外出張が多く、最後に会ったのは約一ヶ月前で、伊地知の誕生日の前日だった。当日は祝えないからと、誕生日の前日を二人して丸々休みを取り前祝いを五条の自宅でしたのだ。その日一日中、恥ずかしげに笑う伊地知の幸せそうな姿は五条の心の奥深くに記憶している。
一年で記憶が消えてしまうと伊地知が五条へ明かした日からすでに半年が経とうとしているが、あの日から今日まで何事もなく五条と伊地知は恋人として過ごせていた。はじめはいつ記憶が無くなるのだろうかと不安があったが、いつ無くなってしまおうと伊地知を愛していることは変わらないではないか。そう思った五条は早々に懸念することをやめた。伊地知と過ごす時間が増える度に、五条は今よりもっと深く伊地知を愛するのだ。
五条を愛しているのか自信を持てない、とも伊地知はあの日そう話していたが、この半年間五条は伊地知からの愛を確かに感じていた。五条を思いやる言葉と、五条を見つめる時にだけ綻ぶ目元と黒い瞳が、伊地知から愛されているのだと五条は自信を持って言えるのだ。
前を歩く伊地知に気付かれないように忍足で近づく。伊地知は資料を見ながら歩いているのか、普段より歩調が緩い。ムズムズとする口が笑わないようにグッと我慢し、伊地知の背後から五条は勢いよく顔を出した。
「ばあ」
「ヒ……ッ!?」
ビクッ!! と目に見えてわかるほど身体全体を震わせた伊地知は五条の顔を見つめ、そしてしばらく固まってから、ポツリと声を溢した。
「……五条さん……?」
きょとり、と黒い瞳が見つめてくる。
「うん。オマエの愛しい五条さんだよ〜。久しぶりだね、伊地知」
普段通りの口調で、五条は伊地知へ話しかけた。
「はい、本当にお久しぶりです。海外出張お疲れ様でした。お怪我は……ありませんね」
伊地知が安堵したように溜息をついた。
「マジでね。さすがの僕も一ヶ月の出張はキツいわ」
口角に力を込めて、口元の笑みを保つ。
「はは、そうですよね。今日はもう任務等の予定はありませんから、ゆっくり休んでください」
「ん〜、そうしよっかな。オマエは?」
「この資料を片付ければ終わりです」
「なら僕も一緒に片付ける。そんで今日は伊地知の家に帰ろうよ」
「え、いいですよ。五条さんお先に帰って……」
「つべこべ言わずに、ほら行くよ〜」
「わっ」
伊地知の肩に腕を回して、五条は無理矢理伊地知を引きながら歩き出す。バクバクと嫌に響く鼓動から意識を逸らすように、五条は伊地知に話しかけ続けた。
異常に驚く姿。じっと見つめてくる黒い瞳。確認を取るような呼び方。人違いではないことに、安堵したような溜息。
(いつ、いつだ……。伊地知はいつ、僕のことを……)
五条は伊地知と会話をしながら考えた。考えて、考えたが……しかし、わからなかった。
ただ一つわかることは、二人が会わなかった約一ヶ月間のどこかで、伊地知潔高の記憶から五条悟は無くなった。それだけだった。
◇ ◇ ◇
「昔から変わらず優しいね、伊地知は」
五条の方は見ずにそう口にした家入の視線の先を追う。そこには怪我で休養をしていた、最近復帰したばかりの術師と話している伊地知がいた。少し離れたところにいる為、会話の内容は聞こえないが術師の体調を気遣っているだろうことが伊地知と術師の間に流れる雰囲気で窺える。
「忙殺されると、相手を気遣うことを忘れがちになるのが常だが、彼は忘れないね」
「……そうだね〜」
「なんだ、浮かない顔してらしくないな」
「そ? 気のせいでしょ」
顔色を見てくる家入に、五条は表面上なんてことのないように応えた。が、先の家入の言葉に五条の心はつかえを覚えていた。
記憶が無くなる前も今も、伊地知は〝変わらず〟優しい。伊地知の記憶について知っているのは当の本人である伊地知と、去年明かされた五条のみである。その為、記憶の事実を知らない周囲は伊地知を〝変わらない〟と話す。付き合いが長く、深い関係のある学生時代からの仲間でさえ気付けない程、記憶を無くした後の伊地知の〝覚えているふり〟は完璧だったのだ。
「話、終わったみたいだよ」
家入の言葉掛けと同時に、術師との話を終えた伊地知がこちらへ向かってくる。距離が近づくごとに鮮明に見えてくる黒い瞳から意識的に視線を逸らした五条は、鬱憤した気分を晴らすように、目前まで来た伊地知へ努めて軽く揶揄った。
「おっそいよ伊地知。置いて行こうと思っちゃったじゃん」
「えぇっ、そんな掛かってました?」
慌てた所作で腕時計が示す時間を確認した伊地知は、すぐに胡乱げな目を五条へ寄こす。
「数分ではありませんか。そのくらい待っててくださいよ」
「やだ。僕以外に時間を使うなよ」
「そんな無茶な……」
呆れたような溜め息を吐いた伊地知はこれ以上反論しても仕方がないと思ったのか、お待たせしてすいませんでしたと謝罪をした後すぐに車を回してくるから待っていて下さいと立ち去って行った。
出張明けの日、記憶が無くなったことはその日の伊地知の様子で確信したが、五条は記憶について伊地知へ問いただすことはしなかった。また、伊地知の方からも記憶のことで何か話されることもない為、伊地知の記憶が無くなる以前のように二人は変わらず恋人同士の関係を続けている。伊地知と恋人の関係を続けていく為には、気付いていないふりをしたほうがいいと五条は思った。そして、伊地知もきっと同じように考えているから、覚えているふりをしていて、自分に何も話してこないのだろう、とも。