①出会い「ああ、君がスネイル君だね?」
アーキバス本社主催の、親睦会。
ホテルのワンフロアを貸し切って盛大に、かつ豪勢に行われるそれは、大企業故に顔を会わせることもない支社や他部署の面々と交流すると言う文字通りの役目もあるが、スネイルにとっては、別の意味を持っていた。
「お久しぶりです」
一見穏やかそうな風貌の、老齢というには少し早い年頃。
アーキバスの中でも遥か上層、上級役員という肩書がついた男は、目の端のしわを深くしながら柔らかく微笑み、それからスネイルの働きぶりを讃えた。
「まだ若いのに、強化人間部隊のナンバーツーなんだろう? その上あのフロイトをうまく使うとは……。苦労も多かろうに、よくやってくれているね」
どれほど実力が優れていても、コネがなければ上がれない地位がある。
スネイルにとって上級役員はその「限界」を超えるための足掛かりに過ぎない。
だが受けはよさそうだ。この反応なら、可能性がある。
彼の役職を思い出しつつ、スネイルは彼にとって有益な話を持ち出そうとしたのだが――
「君、まだ独身なんだろう? 恋人はいるのかい?」
「え? いえ、」
「ならちょうどよかった! 私の孫娘が来年大学を卒業するんだが、いい相手を探していてね」
男が振り返って知らない名前を呼ぶ。
すると人ごみの中からさっと素早く、しかし決して慌ただしさを感じさせない仕草で、女が現れた。
女は「お爺様」と男を呼び、手にしたシャンパングラスを傍のテーブルに置く。
「ヴェスパー部隊、ナンバーツーのスネイル君だ。挨拶しなさい」
「あら、あの強化人間部隊の? 初めまして」
女は言われるがまま会釈をし、それから不快感を与えない程度にちらりとスネイルを見て、それから男に視線をやる。
「スネイル君、彼女は私の孫娘だ。さっきの話、是非前向きに考えてくれないか?」
「お爺様、何のお話?」
「お前の結婚相手に、という話だよ。大学は、来年卒業だろう」
「……ええ、そうね」
女は男同様、一見すると穏やかな顔で頷く。
だがその声色がかすかに揺れたのを、スネイルは聞き逃さない。
揺れに含まれていたのはおそらくは不満だ。当然だろう、アーキバスの上級役員、その孫娘、令嬢という立場の自分が、格下の男と結婚させられようとしているのだから。
「後で君の都合のいい日を教えてくれないか? ゆっくり話をする席を設けようじゃないか」
「ええ、ありがとうございます」
男が差し出した名刺を恭しく受け取り、自分の名刺入れにしまってから、スネイルは女を見た。
彼女はもうスネイルに興味はないらしい。どこか遠くの一角に、目をやっている。
「お爺様、私、ちょっとあちらに行ってきてもいいかしら? ご挨拶していない方がいらっしゃるの」
「ああ、わかった。お前も、スネイル君のために予定を開けておくんだぞ」
「わかっているわ。では失礼いたします、お爺様、スネイルさん」
ぺこりと会釈して、彼女が去っていく。
スネイルには一瞥もせず。
だが自分とてあの女に興味がないのは同じだ、とスネイルは思った。
欲しいのは彼女ではなく、彼女と結婚することで得られるものなのだから。
「じゃあ私も行くよ、今日は話ができて良かった」
「こちらこそ、お嬢さんをご紹介していただき、光栄です」
「そうだろうとも」
男が去る。
スネイルはふう、と小さなため息をついた。
◇◇◆◇◇◆◇◇
「ホーキンスおじ様」
賑やかな親睦会会場、囲まれた部下たちに紛れて聞こえた可憐な声に、ホーキンスは声を上げてその名を呼んだ。
従順な犬を思わせる微笑ましい仕草で「お久しぶりです」と笑顔を見せた彼女はしかし、ちらりと後方に目をやってから、やや小声で「相談があるの……」と話を切り出す。
「ここじゃないほうがいいかい?」
「ここでも大丈夫よ」
「それで、相談っていうのは? ああ、こちらに座りなさい。何か飲み物は?」
「ありがとう、大丈夫よ。さっき少しシャンパンを頂いたの」
「ああ、今日のは甘くておいしかったね。あまり君好みではないかもしれないけれど」
「おじ様には何でもわかるのね」
「君のことは小さいころから知っているからね」
上級役員の孫娘、令嬢としておそらくは生まれた瞬間から躾けられてきたであろう彼女のことを、ホーキンスは良く知っている。
だが彼女は基本的には昔も今も変わらず、楚々として賢く、控えめで、何より従順だ。自分の意志よりも祖父の言葉が優先で、だが決して何も考えず従っているわけではない。
自分が裕福に暮らし、望んだ勉強をするために大学に行き、こうして華やかなパーティで同じ年頃の子たちが飲むことはないであろう高級なシャンパンに文句をつけられるのも、祖父のお陰だと理解している。
従順に従うのは、与えられた恩恵に応えるため。或いは恩恵を与えられ続けるため。だが聡明であるがゆえに、思う所もあるらしく、いつかこっそり「面倒だけれど、従っていればいいのだもの、大丈夫よ」と当時まだ十代の少女らしくない、諦念を含んだ笑みを見せられたことも、ホーキンスは忘れていない。
ともあれ、そんな彼女が相談というのだから、事はそれなりに重大なことなのだろう。「私に応えられるなら、なんでも言っておくれ」とホーキンスは続ける。
彼女はぽつりと話した。
「私、貴方のところのナンバーツーの方と、結婚するみたいなの」
「えっ?」
「フロイトの尻ぬぐいができるような人なのだもの、優秀なのはわかっているわ。さっきご挨拶したけれど、髪もきちっとまとめていたし、スーツもネクタイも皺がなくてきれいで、きっと所作も勉強なさっているのね。強化人間だけれど眼鏡をかけているのは、何か理由があるのかしら? ともかく、少し厳しくて難しそうだけれど几帳面で、仕事が出来そうな人、という感じはしたわ」
「……そ、そうだね。彼はすごく、出来る人だよ。ACの腕もかなりいいしね」
「そうなのね。でもやっぱり、厳しい人なのかしら? お爺様も厳しい人だけれど、我儘を言ったりしなければ甘いじゃない? 私きっと、四六時中監視されてなんでも言いつけてくるようなタイプの人とはちょっと無理かもしれない、って心配で……。彼、そういうタイプではないのかしら?」
ご令嬢が結婚適齢期、もうすぐ大学卒業を控え、結婚相手を募集するのでは、という噂は以前からあった。
実際、彼女の相手にと名乗りを上げている人物も、何人か知っている。
だが以外だ、とホーキンスは思った。
今のところ彼女の夫候補生は、本社勤務のデスクワーク勢ばかりだ。現場に出るAC乗りは、スネイルしかいない。
「彼は忙しいから、当面はあまり家には帰らないんじゃあないかなあ。それに、彼も役目を果たしていれば目をつむってくれる程度の度量はあるから、大丈夫だとは思うけれど……。それより、いいのかい? 彼、AC乗りだよ? それもヴェスパー部隊だ。戦場に出て戦って、そのまま帰ってこないことも、あるかもしれない」
「それは……」
いくら昔馴染みとは言え、あまりにも言い方が生々しかっただろうか。
言葉を詰まらせた彼女に、ホーキンスは胸を痛めた。だが。
「それは、私にとっては好都合なの」
彼女は聡明なのだ。従順だが、考えなしではない。人形のようでいてそうではなく、その内には自身のしっかりとした考えがある。
ホーキンスはそのことを思い出し、同時に驚き、言葉を失う。
「未亡人になれば、早いうちにそうなっても、もう結婚しろと言われることもないでしょう? 彼を忘れられないから、って言えば世間体的にも問題ないし、お爺様もきっと強要はしないわ。きっと、よっぽどのことがない限りは」
「君は……」
「結婚して大学院に進めないのは仕方がないけれど、でも未亡人になってから通いなおせるかもしれないでしょう?」
「……そう、だね」
大学に行って、好きな植物のことを学びたい。
それが、彼女が生涯で唯一通した我儘であることを、ホーキンスは知っている。
結婚話さえなければ、望み通り大学院に進んだだろう。
「それと、おじ様、彼は、その、女性に対して、旺盛なタイプかしら?」
「えっ?」
突然変わった話題、令嬢が小声とはいえ公の場では口にすべきでない内容に、ホーキンスは再び驚き、今度は声を上げた。
彼女も恥ずかしい話をしている自覚はあるのか、その頬がほんのりと赤らんでいる。
「彼も私も、お互いのことを好いて結婚するわけではないけれど、結婚する以上子供を求められるのは仕方がないことでしょう? だから、そのために最低限我慢するつもりではあるんだけれど、旺盛なタイプだったら困るわ、と思って……。ごめんなさい、こんな話、おじ様でもするべきじゃあなかったわ」
パッと両手で顔を覆ったその仕草が愛らしい。
ホーキンスは「構わないよ」と笑い、それから日ごろの第二隊長殿を思い返した。
野心高く仕事は熱心で自分にも他人にも厳しい。だが女遊びをしていると聞いたことはない。むしろその地位に目がくらんですり寄ってくる女性たちを、軽蔑するような目で見ていたことはある。
だが実際のところは、ホーキンスにもわからなかった。
「少なくとも、砕けた酒の席で、下品な話題をするような人でないのは確かだね」
「そう」
「君たちは……そうだね、相性は悪くない、と思うけれど、スネイル次第だなあ。君はきっと、お爺様と同じようにうまくやるだろうけれど」
「何かあったら、助けてくださる?」
「ああ、もちろんだよ」
「ありがとう、おじ様!」
本心を隠してスンとした顔でいる。或いは微笑みを絶やさず、他人に不快感を与えない。
普段はそう振舞うよう躾けられているけれど、やっぱりありのままの表情でいるのが一番かわいい、とホーキンスは思う。
この、パッと花咲くような笑顔を見てときめかない男なんていないだろう、と。
「きっとスネイルも、君を気に入るよ。彼は立場を弁えている人間には寛容だし、君は賢いからきっと彼が求めていることも理解できるだろう。たぶんそのうち、彼の方から君のことを好きになって、熱を上げてくるさ」
「別に、そういうんじゃなくていいのよ」
「そう言わずに。せっかく夫婦なんだから、お互い愛し合っていたほうが幸せじゃあないかい?」
「まだ結婚が決まったわけじゃないわ」
「でも他の候補は、君より二十も離れたヤツもいるんだよ? それなら六つ離れた彼の方がお似合いだと思うなあ」
「え? 彼、十歳ぐらい年上だと思ってたのだけれど、若いのね……」
しみじみと言う彼女に、ホーキンスは思わず笑う。
そして近くを通りがかった給仕に声を掛け、温かい紅茶を持ってくるよう言いつけた。
「せっかくだし、お茶が来るまでもう少し話そうじゃないか。最近はどうだい?」
「研究室で飼っていた蜂の、蜂蜜を食べたわ。専用の防護服を着るんだけれど、アレ、すごく暑いのよ」
「ふふ、令嬢がすることじゃないねえ」
「でも美味しかったし、楽しかったわ。次はおじさまにもお裾分けするわね」
肩の力を抜いて、ただ好きな研究について話す彼女は本当に可愛らしい。
いつかスネイルもこの表情を見るだろうか。見て、彼女に対して温かく優しい気持ちを抱いてくれればいい。
ホーキンスは静かに願った。