①起 ちらりと見えた廊下の先の人影に、ナマエは思わず俯き加減で進む足を速める。
かつてはBAWSの関係機関としてひっそりと稼働が行われていたこの工場も、レイヴンと共に解放戦線がルビコンを企業から解き放った今は、多くの人で賑わっていた。
当然廊下には、彼と自分以外の人間も行き交っている。
できるだけ足早に、そして何も気づいていないように、声を掛けられたりする前に彼の視界から消えなければ。
ナマエはそう思いつつ、腕に抱いたファイルをぎゅっと握り締めた。
瞬間、バン!と何かを叩きつけるような音が近くで聞こえて、びくりと肩を震わせ足を止める。
敵襲か?!と振り返ったが、ナマエと同じように動きを止めた人々は、むしろナマエを見つめていた。正確にはナマエの後ろ、その拳を壁に叩きつけ、彼女の進行方向をふさぐように立ちはだかる、ラスティを、だったが。
「つれないな」
振り返る前に声を掛けられ、ナマエは再びびくりと肩を震わせる。
恐る恐る振り返れば、そこにはレイヴンと共に解放の英雄と名高い男・ラスティがいた。
彼はにこりと笑って見せるが、強化人間の拳によってひしゃげた鉄の壁が示すように、本当に笑っているわけではなく、ナマエはただ背中にひやりと伝う汗を感じながらきゅっと唇を引き結ぶ。
一方でそんな彼らを見ていた人々は「またやってるよ」と言わんばかりの生暖かい目線を向けると、何事もなかったように再び動き出し、やがて廊下にはラスティとナマエの二人だけになった。
「またいい店を見つけたんだ。味は間違いなく美味い。きっと君も気に入るはずだ」
「……」
レイヴン、そして未だ彼にしか聞こえることのないコーラルの意志・エアが声を上げ、企業からこの星を取り戻したあの日。
いち早くその声に応えて戦ったラスティは、突如現れた不明機体によって、大きな損傷をした。
スティールヘイズ・オルトゥスは大破したが、彼自身は一命を取り止め、新たな強化パーツや再建手術も必要なく、レイヴンにいち早く賛同した二人目の英雄として、戦線内では憧れの的になっている。
ナマエにとっても、レイヴン同様、雲の上のような存在であるはずの彼が「やあ、君がナマエだな?」とある日突然声を掛けてきたときは何事かと驚いたが、オルトゥスが再び使えるようになるまでの復旧・整備チームにナマエも参加していたので、その縁だろうと深く考えもしなかった。
話してみれば朗らかでいながら洞察は鋭く、どこか少年めいた風もあって、アーキバスに潜入していた密偵のわりには親しみやすく、さらにあのアイスワーム作戦での活躍を聞いたときは、なるほど誰もが好きになるわけだ、と納得さえした。
だがまさか、そんな彼に「君に惚れているんだ」と頬を赤らめ告白されたばかりか「気が付けばいつも君のことを考えている。私をこんな気持ちにさせられるのは、戦友か君ぐらいだ」などと熱い言葉をささやかれ――付きまとわれることになろうとは、想像もしていなかった。
「恋人になってくれと言っているわけじゃない。一緒に食事をしてくれないかと誘っているだけだ。まあ私はデートのつもりで誘っているんだが、君がどう思うかは君の自由だし、そこまで干渉はしない。構わないだろう? それとも、私とは食事できない理由がなにかあるのか? 恋人はいないと言っていたじゃないか」
問い詰めるような口調。ナマエはもうその顔を見ることもできないが、きっと獲物を追い詰めている時の肉食獣めいたぎらついた目をしているのだろう。
そのくせ漂わせる空気は息をするのも躊躇われるほど冷ややかで、怖い。
ナマエは胸元のファイルをいっそうぎゅっと抱きしめた。
「なあ、私の、どこが気に入らないんだ?」
「!」
耳に触れる、硬い指先。
生暖かな吐息と共に吹き込まれる、不機嫌を隠しもしない声色。
それでもナマエは唇をきつくきつく引き結んで、声を堪えた。
ナマエはとっくに自分の気持ちを伝えている。嫌いなわけでもなければ、気に入らないわけでもなく、今はルビコンのために働きたい、恋人を持つ気もなければ、誰かのために時間を割くつもりもないのだ、と。
ナマエはAC・MTの整備士兼技術開発員だ。かつてはエルカノに所属しており、鹵獲したシュナイダーのパーツをバラしてオルトゥスに使用しているフレームのベースを設計したこともある。もちろん単独ではなくチームでの開発設計だったが、それがルビコンの解放につながったと思えば誉れ高い。
そして今は、アーキバスやベイラムが残していった基地から、或いは解放戦の際に鹵獲した、撃墜したままの機体をサルベージして回収しつつ、日々新たな発見と研究が行われ、AC技術開発員は多忙を極めている。
はっきり言って、色恋沙汰にうつつを抜かしている場合などではないのだ。
その上ラスティとナマエは、彼が挨拶をしてきたときが初対面で、惚れられるような心当たりもない。平凡を絵にかいたようなナマエとは違い、ラスティは見目も良く実力もある上に、今や英雄の肩書さえ手に入れた男だ。
そんな彼が自分に惚れただのなんだの言っても、はっきり言って恐怖でしかない。
一度「何故私なんですか」と尋ねた時、ラスティはふと苦笑いを浮かべて「言わなくてもわかるだろう?」なんて言った。
わからないから尋ねているんだろうと苛立つと同時に、ナマエはそこで、彼との対話を諦めた。話が通じない男には、何を言っても無駄だ、と。
そうして彼の唯一の弱点を使うことに決めた。
「ラスティ」
「……戦友。これで三度目か? こうなってくると、偶然ここを通りがかったというわけではないんだろう?」
「偶然だよ。それよりも、明日の調査について確認したいことがある」
「待ってくれ、今大事なところなんだ。彼女がうんと言ってくれたら、すぐに向かう」
「ラスティ、女性を困らせるのは良くない。行くぞ」
「戦友に免じて、今日は撤退するが……次こそは良い返事を聞かせてもらう」
さらりとナマエの髪を一撫でしてから、ラスティが去っていく。
彼とレイヴンの姿が廊下の角に消えると、ナマエはようやくほっと息をついた。
ファイルに隠した端末はこういう事態に備えてレイヴンにつながるよう設定されている。
ラスティが言う通り、これで三度目。見返りは、技研のコーラル技術を応用してエアの日常行動用素体を作ること。
RaDに残っていた資料も参照しながら、もう間もなく試作が出来上がるところだ。レイヴンもナマエに対するラスティの行動には思う所があるらしく、完成品が出来上がったとしても協力関係は続けてくれるだろう。
本当に、いつ諦めるのか。どうして自分なのか。
「はぁ……」
ナマエはため息をついた。
もしあんな距離の詰められ方でなければ――例えば、オルトゥスの整備を通して毎日それとなく顔を合わせて挨拶やちょっとした世間話をしたり、そうして互いの情報と信頼関係を積み重ねたうえで告白されたのであれば、きっと自分だって他の大勢のように彼を好きになり、その気持ちに応えることもできただろう。
でも、彼は違った。
「やあ、君がナマエだな? ずっと会いたいと思っていたんだ」出会ってそう言われ、しばらくは他愛のない話をしていた。スティールヘイズのこと、レイヴンのこと、明るくなった解放戦線内の空気、でもまだ多くの課題があること。
人に好かれる人なのだと納得したのは前述の通りだ。だがまさか出会ったその日に「君に惚れているんだ」なんて熱っぽく言われ「気が付けばいつも君のことを考えている。私をこんな気持ちにさせられるのは、戦友か君ぐらいだ」なんて囁かれても、恐怖しかないに決まっている。だって自分たちはつい先ほど会ったばかりで、なのに何故そんなに自分のことを想っているのか、尋ねても答えてくれないのだから。
「はぁ……」
ナマエは再びため息をついた。
企業からルビコンの支配権を取り戻し、これからは明るい未来が来る、多くの企業ACを研究して新たなACも作れる、忙しくも楽しい日々が始まる。
そう思っていたのに。