今も、ずっとその通知音を聞いた瞬間、シンヤは思わず手を止めた。
「……え?」
スマホの画面に浮かんでいたのは、見慣れた名前だった。
ウシミツ
「今度、日本に行くことになったでござる。時間があれば、お会いできるだろうか」
それだけの、簡素なメッセージ。
それでも、シンヤの心臓はひときわ大きく鼓動を打った。
金髪のセミロングを揺らしながら、無垢に微笑むあいつの姿が、脳裏によみがえる。あまりにも自然に、鮮やかに。
(……まさか、また連絡が来るなんて)
3年前、ウシミツがイピリスの実家へ帰るのをきっかけに別れてからも、しばらくは連絡を取り合っていた。誕生日、季節の挨拶、たわいない報告。けれど、やがて返信は数日に一度となり、週に一度に、そして月に一度。
気づけば、ここ1年は一切の音沙汰がなかった。
シンヤもまた忙しくしていた。大学に通いながら、家業の温泉宿を手伝い、観光業の研修や帳簿、地元の会合――
いずれ継ぐことが決まっているからこそ、毎日はめまぐるしく過ぎていった。
けれど、どれだけ忙しくても、心の片隅から、ウシミツの存在が消えることはなかった。
宿のロビーにあるテレビで時代劇が流れていると、「拙者」なんて単語を聞けばハッとし、
商店街の灯りがにじむ夜道で、ふと隣にいる気がして振り返ってしまう。
忘れた方が楽なのに、忘れられないまま。
届かないと知っていても、つい誕生日にメッセージを送ってしまったりもした。
……もう、会えないと思ってたのに
そんなある日、突然の連絡。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。
……また、隣にいられたら――
あの頃のように笑って、くだらない話をして。
ほんの少しでも、また一緒の時間を過ごせるなら。
叶わなかった続きが、今になって始まる気がしていた。
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3年前ウシミツが告げたのは、あの日、街が静まった夜のことだった。
「……拙者、卒業と同時に、実家に戻ることになったでござる」
河川敷の風は冷たく、白い息が視界を揺らす。
「…断れないのか?」
「無理でござる。……拙者は、あの家に生まれた身。義務からは逃げられぬ」
その声には、諦めと覚悟が混じっていた。
あの頃のシンヤは、大学に入ったばかりだった。
試験、授業、バイト、慣れない人間関係……地元に戻ってくる回数も減っていた。
二人の時間が、少しずつ減っていくのを、どこかで感じていた。
今週も予定が埋まってて…そんな言葉を繰り返す自分に、どこか罪悪感もあった。
でも、仕方ないことだと思っていた。
だからこそ――別れを切り出されても、怒ることすらできなかった。
「拙者、殿のことが……好きでござる。でも、それだけではどうにもならぬ」
「……俺は、そんな終わらせ方したくねぇよ」
「拙者が、ただの“ウシミツ”だったなら……そう言いたかったでござる」
言葉を失った。
ウシミツの目は、まっすぐだった。
「……そう、かよ」
シンヤは小さく呟いた。
それが、最後の会話だった。
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再び訪れる再会の時を前にして、シンヤの心は揺れていた。
過去は変えられない。
けれど未来に、少しでも彼と重なる時間が残っているのなら――
「会いてぇ…」
それは、ごく自然な願いだった。
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空港の到着ロビーは、どこか懐かしいざわめきと機械音に満ちていた。
シンヤは指定された時間より少し早く到着していた。
胸の奥が落ち着かないまま、スマホを握りしめる。
(……本当に、来るんだよな)
数年ぶりに会うウシミツ。その姿を想像しようとしても、思い出されるのは高校時代のままの、制服姿とあの柔らかな金髪。
「……殿!」
その声が聞こえたとき、時間が一瞬止まった気がした。
振り向いた先、そこにいたのは――
確かにウシミツだった。けれど、以前とはどこか違っていた。
少し背が伸びていて、細身のシルエットに長い金髪が風に揺れる。頬も顎のラインも、以前より少しだけ大人びていた。けれど、そこにあったのはどこか儚くて、見る者を惹きつけるような美しさだった。
「……久しぶりだな」
平静を装った声を出すのに、少しだけ時間がかかった。
ウシミツは、にこりと微笑んでうなずいた。
「ほんとうに……お久しぶりでござる」
(……なんで、こんなに綺麗になってんだよ)
そう思った自分を、シンヤは心の奥で戒める。
(ダメだ、期待するな。ただの“再会”だ)
だから、あえて軽く肩を叩き、昔と変わらない調子で言った。
「観光したいって言ってたな。案内するよ」
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ウシミツは、嬉しそうに街を歩いていた。
昔ふたりで訪れた浅草の商店街、喧騒と香ばしい匂いに包まれる中、嬉しそうに人形焼を手にして「これ、覚えてるでござるか?」と笑うその表情が、どこか高校時代の彼をそのまま連れ戻していた。
(あの頃に戻ったみたいだ)
少し前まで隣にいたような気がしていたのに、もう何年も会っていなかったなんて、信じられなかった。
笑い合うことが、こんなにも自然で、そして嬉しいことだったなんて。
シンヤの胸の奥で、何かが静かに温かくなっていく。
(付き合ってなくても、一緒にいられるなら、それでいい。俺は、それで……)
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ホテルの部屋は、ツインルームだった。
同じ空間にふたりきり。それでも、空気はどこか静かで落ち着いていた。
ウシミツはソファに座り、観光パンフレットを静かに眺めていた。
シンヤは、ずっと我慢していた言葉をようやく口にする。
「なあ、ウシミツ。……なんで、日本に来た?」
ウシミツが振り返る。
「観光だけが目的じゃないだろ?……もしかして、また……一緒に、」
けれど、その言葉は、最後まで言い終える前に遮られた。
「――拙者、結婚することになったでござる」
その声は、静かで。
だけど、確かに震えていた。
「……本当は、伝えるかずっと迷ってたでござる。でも……このまま何も言わずに帰るのも、卑怯な気がして……」
シンヤの口が開きかける。けれど、言葉は出なかった。
「おめでとう」、そう言わなければいけない。わかってる。けれど、どうしても声が出なかった。
代わりに、沈黙が降りた。
「……ごめんなさい、でござる」
シンヤは目を伏せたまま、拳をぎゅっと握り締めていた。
堪えきれないものが、胸の奥でぐらりと揺れる。
(言わないって決めてたのに)
(過去は過去だって、自分に言い聞かせて……)
「……ふざけんなよ」
ぽつりと、低く、喉からこぼれるような声が出た。
「なんで今さら連絡してきたんだよ。何のために……俺に、会いに来たんだよ……」
ウシミツは何も言わず、シンヤを見つめていた。
声が、少しずつ震えてくる。
苦しいほど胸の奥が熱くなって、呼吸すらまともにできなかった。
「……俺は、ずっと、お前のこと……」
言葉が、詰まる。
これ以上言ったら、もう後戻りできなくなるとわかっていた。
でも――止められなかった。
「……今でも、ずっと好きだった」
ついに、こらえていたものが溢れた。
一筋の涙が、頬を伝って落ちる。
もう言葉にならなかった。
ただ、静かに涙が落ちる音だけが、部屋の空気を揺らしていた。
ウシミツは、動かなかった。
シンヤの言葉を遮らず、慰めもせず、ただ黙って見つめていた。
その瞳の奥には、強く抑え込まれた感情と、深い寂しさが滲んでいた。
それでも――ウシミツは何も言わなかった。
ただ、自分のせいで泣くシンヤの姿を、受け止めるように見つめていた。
(また、殿を泣かせてしまった
……こんなにも、大切だったのに)
静寂の中、シンヤは涙を拭おうともしなかった。何も隠せない。抑えてきた気持ちが全部、言葉になってしまった。
自分で自分がみっともないと思いながらも、それでも止められなかった。
そんなシンヤを、ウシミツはただ黙って見ていた。ほんのわずかに、その喉が揺れ、唇がかすかに震えていた。
そして――ウシミツが、そっと口を開いた。
「……拙者も、ずっと、殿のことが忘れられなかったでござる」
その一言に、シンヤの呼吸が止まった。
「どれだけ離れても、どれだけ時が経っても……拙者の心には、ずっと殿がおりました」
静かで、穏やかな声。
でもそこに込められた想いは、あまりにも深くて、切なくて。
ウシミツは、ゆっくりと歩み寄った。
「でも、拙者はもう――戻れぬ立場でござる」
言いながら、シンヤの頬にそっと手を添える。
涙で濡れた頬を、優しく撫でる指先。
その温もりが、懐かしくて、やさしくて、痛かった。
「だから……最後に」
ウシミツは、ほんの少しだけ目を伏せ、そして――唇を重ねた。
それは、静かなキスだった。
けれど、すべてを伝えるためのキスだった。
言葉では語れなかった想い、
触れられなかった時間、
抱きしめられなかった日々。
そのすべてを込めるように、ウシミツは唇を重ねた。
やがて、唇が離れると、ウシミツはそっとシンヤの体を抱きしめた。
細くて、でも確かに温かい腕が、ゆっくりと背中を包み込む。
「殿が……くれた時間、全部、拙者の宝物でござる」
シンヤはもう、言葉を返せなかった。
ただ、その胸に顔をうずめ、残された温もりを必死に焼き付けるように、目を閉じた。
これで最後になると、分かっていたから。
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空港のロビーは賑やかで、旅立つ人、見送る人であふれていた。
けれど、シンヤとウシミツの間だけは、時間が静かに流れていた。
搭乗口の手前。
保安検査場の前で、ウシミツは静かに振り返る。
「……拙者、きっともう日本に来ることはないでござる」
その声は、あまりにも静かで、まるで自分に言い聞かせるようだった。
「最後に…殿に会えて、本当に良かった」
ウシミツの目が揺れている。
けれど、涙はこぼさなかった。ただ、強く、まっすぐにシンヤを見ていた。
「どうか……殿は拙者がいない世界でも、幸せになってください」
それは、願いであり――
祈りであり――
さよならだった。
シンヤは、言葉を飲み込んだ。喉が詰まりそうで、息が苦しかった。
それでも、目をそらさず、口を動かす。
「……お前も……」
声にならない。
それでも、伝えたかった。
「……お前も、幸せになれよ」
ウシミツは、そっと微笑んで――
「ありがとう、でござる」
そう言い残し、くるりと背を向けた。
そして、ゆっくりとゲートへ向かって歩き始めた。
その背中は、小さく、どこか遠くに感じた。
けれど、ひとつひとつの足取りが確かで、どこまでも美しかった。
シンヤは、ただ黙って、その後ろ姿を見つめ続けた。目が霞んで、どこまでが現実でどこまでが夢なのか、もうわからなかった。
けれど、はっきりしていたのは――
あの背中が、もう戻ってくることはないということ。
保安検査場の奥に、淡い金色の髪が消える。
それでも、シンヤはしばらく動けなかった。
まるで何かを取り戻すかのように、立ち尽くしたまま――
その後ウシミツが乗る飛行機が見えるデッキまで、歩いていた。
やがて、イピリス行きの便の飛行機がゆっくりと滑走路を進み、大きく羽ばたくように、空へと舞い上がっていく。
シンヤは、ただその機体を見上げていた。飛行機が小さくなって、雲の中に溶けていくまで、ずっと――。