SilverBullet【仁+玖】 ――嗚呼、面白くない。
踵を強く打ち鳴らしながら廊下を往く。肩をそびやかし、界隈を渡る風に制服の裾をはためかせ、緩く編んだ三つ編みを背中の向こうで踊らせながら。
舎利弗玖苑はその日、最高に不機嫌であった。
――仁武は何も分かっていない。どうして、いつも無茶ばかりして……!
誘いを断られるのはこれが初めてではない。ただ、どういう経緯であれ、最終的には折れてくれるのが鐡仁武という男だ。例えば代案、例えば埋め合わせの品、そういった諸々で、臍を曲げてしまった玖苑の機嫌が少しでも良くなるよう立ち回ってくれる。
……けれど。
仁武の責任感と生真面目さは、時に余計な業務まで引き寄せる。人が好いのも手伝って、皆が彼を頼りにする。そうなると、真っ先にないがしろにされるのが自分だ。親友というだけでは、所詮『お仕事』とやらには――政府要人との会合や、机上を埋め尽くすほどの書類や、鳴り止まない電話には勝てないのだ。
――見て分からないのか。職務中だ。
仁武の冷めた声が、不意に蘇った。取り付く島もない彼の対応に、玖苑は反感と憤りを覚えた。
――お前の我が儘に、いつまでも付き合ってやれると思うな。
ぴしゃりとはねつけられ、返す言葉もなく黙り込む。仁武はそれ以上玖苑を構うこともなく、大きく息を吐き、くるりと背を向け『お仕事』を再開する。呼吸をすることさえ憚られるほどの重い沈黙の後、玖苑は「じゃあいい」と吐き捨て、司令室を後にした。振り返りもしなかった。腹いせとばかりにもの凄い勢いで閉められた扉が、バタンと大きな音を立てた。
――困らせようと思ったわけじゃない。……でも。
――仁武の身体は、もう……。
ふと浮かんだのは母の顔だった。よく出来た陶器の人形のように、美しくも蒼白な……
漠然とした不安が全身にのしかかってくる。暗い海に独りぼっちで放り出されたような感覚に、途端に呼吸が落ち着かなくなる。玖苑はそれらを意識的に抑え込み、唇をきゅっと引き結んで前を見据えた。大丈夫、大丈夫、ボクは完璧なのだから、こんな不安など何でもない、と何度も自分に言い聞かせる。
その足はやがて中庭に至る。草いきれを含んだ蒸し暑い風が、ざっと頬を洗う。
目映いばかりの陽光は建物を銀灰色に染め、輪郭のはっきりした影をそこここに落とす。手庇の向こうに仰いだ空は青々として、地平に沸く入道雲の色と形を一層際立たせる。街路樹にしがみついたアブラゼミが、葉擦れのまにまにかまびすしく鳴いている。
目指す先に当てなどなかったが、とにかく気を紛らわせたかった。人の多い繁華街へ赴けば、往来の賑やかさが、行き交う人々の喧騒が、胸のつかえを晴らしてくれると信じた。
「うらうらに照れる春日にひばり上がり、心悲しもひとりし思へば……」
旧世界の和歌をすらすらとそらんじて、肩を竦めた。
「仁武なんて、……もう知らない」
ぽつりと独り言ち、玖苑は殊更足に力を込める。そうして防衛本部を出て行く彼の後ろ姿を、烈々たる夏の陽ばかりが追い掛けていく。
そうして、仁武は顔を上げる。
立て続けであった雑務にようやく終わりが見え、ひと息吐いたタイミングであった。買い置いてあった花輪を手に外へ出たなら、むっとするような空気が全身を包んだ。夏の昼下がり、陽が傾き始めたとはいえ、日盛りの暑さは未だに尾を引く。世界は白く目映く、立ち上る陽炎が遠景を滲ませる。
覆い被さるような木々の隧道を抜け、開けた視界の先には慰霊碑があった。蝉時雨を聞きながら、献花台に花を手向け、静かに手を合わせる。
盆も近いからだろうか、既に先客があったようで、献花台は色とりどりの花々で埋まっていた。むせ返るような花の香は、あの、大敗を喫した新宿再生戦後の合同葬を思い起こさせる。
かつての親友は、その最奥で、沢山の慟哭に囲まれていた。うだるように暑い、夏の盛りのことだった。あれから六年、……あの日の喪失は未だに胸の内にある。片時も忘れたことはない。今も尚、有事の時以外は欠かさず持ち歩いている、灰色のウサギのぬいぐるみのように。
――碧壱、俺は、……きちんとやれているだろうか。
合掌したまま、仁武は静かに問いかける。陽の光に煌めく墓碑は沈黙したままだが。
――純の志献官に恥じぬような立派な活躍が、出来ているだろうか……。
「おー、やっぱりここにいたか、仁武」
不意に耳に入った、低く、張りのある人声。
仁武は鷹揚に頭をもたげた。肩越しに振り向いたのなら、そこに、着流しに制服を引っ掛けた、飄飄とした男の姿を認める。無精髭の生えた顎を擦りながら、笑っている。
「十六夜……」
「いやぁ、あれから六年だっけ? 早いもんだねぇ」
カラコロと軽快に下駄を鳴らしながら近付いてくる男――清硫十六夜の手には、豪奢な花束がぶら下がっている。おそらく十六夜も、かつての知り合い、あるいは同僚の霊を慰めに来たのだろう。今や最年長となったこの純の志献官は、多くの作戦に臨み、多くの仲間を見送ってきたのだから。
「あんときの仁武の落ち込みようったら、ほんと、端から見て心配になるくらいだったなぁ。何とか吹っ切ったようで良かったけどさ」
「玖苑のおかげですよ」
ぼそりと応えると、十六夜は微かに頷き、次いで意味ありげにニヤリと笑む。
「でも、……さっき、その玖苑と大喧嘩したって聞いたけどねぇ?」
「……それは、……」
喧嘩、というほど派手な言い合いをした覚えはない。
ただ、厳しい物言いになってしまったのは確かだ。自身に余裕がなかったのも手伝い、苛立ちを抑えきれなかった。八つ当たりだと言われても仕方ない。
一瞬だけ言葉に詰まったときの玖苑の瞳――あの寂しげな、構って欲しいと言わんばかりの表情に気付かないふりをして背を向けた。彼は怒って踵を返し、そのまま司令室を出て行った。おそらく、すぐに追い掛けるのが最適解だったのだろうが、残務がそれを許さなかった。もの凄い音を立てて閉じられた扉を、ただ黙って見遣るばかりだった。
もしや、と仁武は思った。十六夜は、わざわざ俺に苦言を呈しに来たのか? 玖苑をないがしろにしたことを、責めに来たのか?
「余計なお世話かも知れないけど、拗らせる前に仲直りしといた方がいいよ? 大人の喧嘩っていうのは、結局最後は意地の張り合いになるんだからさ」
年長のふたりが険悪なままだと、下の者に示しが付かないでしょうが、……そう言って低く笑う十六夜を、仁武は静かに見返した。
分かっている。……そんなこと、言われずとも分かっている。
十六夜の言いたいことだって分かる、のだが、……
「善処します」
「固いねぇ」
十六夜は声を立てて笑った。仁武の隣をそのまま行き過ぎ、献花台に屈み込んだ。がさりと小さな音がして、供花に新たな色が加わる。辺りに漂う花の香に、煙草の匂いが一時、ふわりと混ざる。
「……そうだ、仁武」
どれくらい、そうしていただろうか。
そろそろ仕事に戻らねばと、仁武が立ち去ろうとしたときだった。何かを思い付いたかのような軽い響きに、仁武は思わず去りかけた足を止めた。
振り向けば、十六夜はちょうど立ち上がったところだった。懐に手を遣っている。
「さっき小耳に挟んだんだけど、ここのところ、燈京駅付近で妙な浸食圧の上昇を観測しているようだなぁ。もしかしたら形成体が出現しちゃうかも?」
「かも、って……」
呆れたように返し、けれど、仁武は素早く考えを巡らせる。観測部から、そんな報告が上がっていただろうか。聞き逃したか、あるいは……あの堆く積まれた紙束の中に呑まれてしまったのだろうか。
「そんな情報、何処で知ったんですか」
「ま、おじさん、こう見えて最年長だし? 何でも知ってるっていうか?」へらりと笑い、顎を擦る。「とにかく、そんな不穏な動きがあるもんで玖苑が現場に向かったみたいだけど……いくら玖苑といえど、単騎はちょーっと厳しいかなって、おじさん思うんだよね」
――一体、何を言っているんだ?
仁武は胡乱げに十六夜を見る。十六夜はただ、ニヤニヤしている。
――玖苑が飛び出していったのは、俺が誘いを手酷く断ったからであって、決して現場の動向を探ってこいという話では……。
「あ、……」
そこで、気付いた。間抜けな声が漏れた。十六夜は腕を組み、ますます笑みを深くする。
「良いんじゃない? 原因すらよく分かっていない浸食圧の上昇だし、司令代理自ら、現場の視察に赴くのも悪くないよねぇ。おじさんも付いてきたいところだけど、他のところが手薄になったら困るだろうからお留守番かな」
「……、分かりました」
手短に答える仁武に、十六夜は、早く行けとばかりに顎をしゃくる。「報告書の改ざんは任せておけ」と笑っている。「とにかく、お前さんが玖苑を連れ戻すまでは、本部に入れてやらないからな」
――さらりと、とんでもないことを言う。
――けれど今は、……有り難い。
仁武は苦笑し、軽く一礼した。そのまま足に力を込め、慰霊碑を後にする。鮮やかな緑と蝉時雨に溶けていく褐色の背中を、十六夜は、ひらひらと手を振って見送った。
玖苑が立ち止まったのには、特に、明確な理由など無い。
ただ何となく、……何となくではあるが、妙な予感があった。だから彼は足を止め、辺りを見渡した。周囲に変わった様子など、何ひとつ見当たらないというのに。
夕刻の燈京駅の裏通りは、陽が陰っても尚蒸し暑いばかり。暮色の迫る空は西に僅かな茜の残映を這わせ、差し伸べた夕陽の名残で建物の輪郭を金色に象る。行き交う人々の喧騒と物音ばかりが満ちる界隈は、食事時ということもあり、それなりに賑わっていた。飲食店も多いこの通りには、食欲をそそるような良い匂いがあちこちから漂ってくる。
普段であれば空腹を覚えたからと、手近な小料理屋に飛び込む頃合いだ。けれど玖苑は敢えてそれをせず、往来をぶらぶらと冷やかしている。食欲がないとか、内容を決めかねているとか、そういうことではなく、……何となく、気が進まない。
――誰かに、付いてきて貰えば良かったかなぁ……。
溜息を吐き、玖苑は再度歩き出す。残照に亜麻色の髪が煌めき、制服を纏った華奢な背中で、緩く編まれた三つ編みが揺れる。
今このときの繁華街は活気に溢れ、どこもかしこも楽しそうに見える。大口を開けて笑い合う女学生、犬の散歩をする老夫婦、井戸端会議に余念の無い主婦たち。ヒグラシのまにまに響く呼び込みの声は、目抜き通り特有の、浮き足立つような雰囲気に溶けていく。
――面白くない。
往来に紛れれば寂しさも薄れるかと思ったのだが、全くの真逆であった。楽しそうに歩く人々を眺めても、居並ぶ露店を冷やかしても、心は躍らず孤独が際立つ。
――今日は何だか、全てがつまらなく映る……。
そんな折だった。