クラウ・ソラス【仁玖】 鐡仁武はつまらない男だ。少なくとも舎利弗玖苑は、彼をそう評した。
志献官に重用されてすぐの燈京湾防衛戦で戦線が崩壊し部隊は壊滅、辛うじて彼だけが生き残った。絶望は彼の心をいたく傷つけ、その反動からか、彼はひたすらに強さを追い求めた。もしかしたら、身体を限界まで痛めつけることで自分を罰していたのかもしれない。ただ、仁武のあまりに頑なな態度は、玖苑の興味を失わせるのに十分だった。
――仁武、キミってなんてつまらないんだい?
その言葉が決定打となり、ふたりは互いに関わらなくなった。玖苑は半ば呆れながら、かつての級友を見限った。以来、仁武を構うこともなく、仁武も意図的に玖苑を避けた。
取るに足らない奴だ。過去は変えられないというのに、強さにばかり拘泥して、一体何になるというのだろう。
ああ、なんてつまらない男なんだ――少なくとも玖苑は、彼をそう評していたのだ。
……あのときまでは。
***
「おいっ……舎利弗純壱――」
呼び掛けられた声は唐突に途切れた。
後ろ手にバタンと扉を閉めた後、舎利弗玖苑はひとつだけ小さく息を吐いた。背後からはそれでも尚、喧々囂々と言い争う声ばかりが漏れ出ている。自分の行いは決して褒められたものではないが、あの意味も無い会合とやらに時間を費やすよりは遙かにましだ。そう考え、以降を構わず、さっさと歩き出す。
そもそも、作戦会議は実際に前線に立つものが参加すべきだろうと、玖苑は考えている。政府要人の都合など知ったことではない。
そうだ。幾ら激論を戦わせたところで彼らは所詮後方支援、安全地帯から石を投げるだけの楽な職分なのだ。いくら彼らが完璧な作戦を立てても敵は死せる元素であるデッドマター、あっさり覆されるであろうことは今までの戦果から鑑みても明らかである。
――まぁ、ボクは完璧だから、そんなもの必要ないけれど。
そもそも玖苑は、自分の行動を誰かに逐一定義されるのが好きではない。相手がどう出るか分からないのだから、その時々で臨機応変に対応するだけだ。玖苑は、そうできるだけの確かな実力が備わっていると、自負している。
ふと目を向けると、廊下にずらりと居並ぶ窓から、目映く照らされた中庭が見えた。青々と茂る常緑樹の葉はそこここに影を落とし、ざわざわと揺れている。空はすっきりと晴れ渡り、太陽はこれ幸いにと、遮るもののない超高高度より世界を白く炙っている。
新和十七年、七月――
長く、鬱陶しいばかりであった梅雨が明け、燈京は夏のはしりにあった。窓から吹き込む風は生温く、蒸された空気は肌に纏わり付く。それほど動いたつもりもないのに、全身がじっとりと汗ばんでいく。玖苑は極めて不快そうに、額に滲んだ汗を拭った。
「……なんで、舎利弗の奴ばかり、……」
蝉の輪唱のあわいにぼそぼそとした話し声が聞こえてきたのは、そんな玖苑が階段を降りきったときだった。普段であれば日常の背景のひとつとして片付けたところだが、その中に自分の名前が出てきたこと、そして何よりかの声音が悪し様に聞こえ、玖苑はひたりと足を止めた。そのまま壁際に貼り付き、気配を潜める。
声の主は、どうやら廊下に佇む二人組らしい。片方は腕を組み、片方は両手を腰に当て、向かい合って何やら話し込んでいる。志献官の制服を纏ってはいたが、顔も、声も、玖苑には何ら思い当たる節がない。
「あんな勝手な奴が、なんで今回の作戦に呼ばれてんだよ……大したことないだろ、あいつは……」
「仕方ないよ、上層部のお気に入りなんだからさ」
「クソッ……」
玖苑は黙ったまま、彼らを見遣った。唇を緩く結んだまま、その双眸を眇めて。
強すぎる光は時に濃い影を生む。優れた容姿を持つ玖苑にとって、このようなやっかみは日常茶飯事だった。陰口だけに留まらず、面と向かって嫌味を言われたこともある。
完璧なボクが悪いのだ。完璧ではない彼らが嫉妬するのも、仕方のないことだ。
だから、今回も見逃すつもりでいた。彼らの前を通るほど気まずいものはないだろうからと、逆方向へ足を向けようとした。けれど、続く彼らの会話に、玖苑は足を留めた。
……否、留めざるを得なかった。
「顔が良い奴は得だよな! 何を言っても、何をやっても、許されるんだからよ」
「おい、声が大きいぞ」
「今回の作戦も、どうせ、上に媚を売って取り入ったんだろうな! 枕でも、したんじゃねぇのか?」
あれほどやかましかった蝉の声が、刹那、すっと遠ざかった。廊下は変わらずに蒸し暑かったが、玖苑は、自分の周囲が急速に冷え込んでいくのを感じた。
最早彼は存在を隠さなかった。唇をきゅっと引き結び、派手に踵を鳴らし、今も尚、下卑た物言いを続ける彼らに向かっていこうとした。
――のだが。
「おいっ……!」
唐突に響いた声に、びくりと身を引く。それは玖苑も、そして彼らも同様だった。
何度も瞬く視界の向こう、廊下の奥の方からずかずかと向かってくる青年の姿。白く目映いばかりの世界に、浅黒く武骨な体躯と、纏った制服がやけに際立つ。
「玖苑を、仲間を侮辱するな。今の発言を取り消せ!」
「ッ……」
息を呑んだ意味合いは、多分、玖苑と彼らとで正反対だろう。
玖苑は、仁武、と青年の名を呟いたまま、呆然と立ち尽くしている。
「あいつは、……あいつの実力は、俺が一番良く知っている。そんな下劣な手段を用いずとも、あいつは……ッ」
今にも掴み掛からんばかりの剣幕に、彼らは明らかに鼻白んだ。舌打ちをひとつ、顔を見合わせ、おい、行こうぜ、と互いを突き合って去って行く。仁武はけれど、それ以上を追わなかった。蘇芳色の眼差しをきつく、鋭くして、黙って彼らの背を見送るだけで。
――え……?
玖苑は、未だに、自分の目の前で繰り広げられた事象を理解できない。
――庇った? ボクを、……?
かの燈京湾防衛戦以降、一度だって言葉を交わしたことがない。なのに、一体どうしたことか。こちらから見限ったのは確かだけれど、仁武だって、頑なにかかずらわなかったのに。
ただ、助けてもらったのは事実だ。思い直し、玖苑は口を開いた。今にも去らんとするその大きな背中に向かい、仁武……と呼び掛けようとして。
「全く、流石だなぁ、仁武」
「……!」
聞こえてきた声と拍手に、そのまま留まった。そうして、唐突に視界に飛び込んだ影を視認し、ハッと身を引く。壁にぴたりと背を付け、そっと様子を窺う。
夏の日差しに、彼の銀灰色の髪が透けていた。ざっくりと切り揃えられた前髪から覗く瞳は、晴れた空を映したような綺麗な水色だ。それをすっと細めたまま、仁武を見ている。
「あまりからかうなよ、碧壱」
仁武は苦笑している。それでも、彼を取り巻く雰囲気が多少柔らかくなったのが、玖苑の目から見てもはっきりと分かった。
「からかってはいないよ。あんな風に、仲間のために、まるで自分のことのように怒れる仁武は凄いって思っただけさ」
「俺は、事実を述べたにすぎない」
拗ねたように言いつつも、満更ではなさそうだ。多少頬が赤く見えるのも気のせいではあるまい。彼でもあんな表情をするんだ、と玖苑は変に感心する。愛想の欠片もなく、常時むすっとしているばかりであったのに。
「玖苑が純壱位まで上り詰めたのだって、ひとえに、天賦の才があったからだ。第一、下衆な手で取り入ったのであれば、とっくに戦線離脱してるさ。デッドマターとの戦いは、それほど甘くない」
「そうだね」
ふたりはひとしきり笑い合った。朗かな空気がそこにはあった。話題は玖苑のことから訓練のこと、先ほどの作戦の改善点や後輩の指導など様々に移っていったが、ふたりは終始和やかで楽しげだった。
玖苑はといえば壁の向こうに隠れたままで、仲睦まじく話すふたりを何とはなしに見つめている。瞬ぎもせずに、ずっと。
――そういや、……。
その脳裏にふと、閃く言葉がある。
――最近、ふたりでいるところをよく見掛ける……。
昇位試験のすぐ後から、純壱位と純弐位であるふたりは積極的に浸食防衛任務へ赴き、片っ端から戦果を挙げてみせた。その勢いや破竹の如し。玖苑ですら、重要な作戦以外の出番を殆ど奪われてしまったほどである。
戦場以外でも、訓練場や廊下、食堂に至るまで。警邏中であったのか、街中で遭遇したこともある。確かに、いつ、いかなる時でも彼らは一緒だ。無論、玖苑は彼らに毛ほどの興味もなかったから、通行人のひとりとしてしか認識しなかったのだが。
「舎利弗純壱位っ……」
呼び掛けられて、はっと我に返った。振り向けばそこに、息を切らせた混の志献官を見る。確か、先ほどの会合に同席していた――そこまで考え、名前を失念してしまったことに思い至り、やぁ、と曖昧に微笑む。
「やぁ、じゃないですよ……ほら、会議に戻りましょう、みんな待ってるんですよ」
ははぁ成る程、と玖苑は思った。この若者はボクを捜しに来たのだ。全くご苦労なことだ。戻るつもりなど毛頭無いというのに。
だが、今このときだけは、大声で騒がれては困る。玖苑はそっと首を伸ばし、未だ雑談に夢中なふたりを確認して安堵の吐息を付いた。どうやら気付かれてはいないようだ。
「しッ、……静かにしたまえよ」人差し指を口に当て、殊更に声を潜める。「今、大事なところなんだから」
「会議以上に大事なことなんて、あるんですか?」
彼は呆れている。苦笑しながらも、近付いてくる。
「一体、何を見ているんです?」
玖苑は静かに顎をしゃくった。志献官の青年はちらちらと玖苑を気にしながらも、壁際から向こうをそっと覗き込んだ。ああ、と声を漏らす。
「鐡純壱位と、源純弐位じゃないですか。相変わらず仲が良いんですね、あのふたり」
「へぇ……」
気のない返事になったが、志献官の青年は特に気にする素振りもない。あれ、知らなかったんですか、と小声で問いかけてくるので、玖苑は返事の代わりに目をぱちぱちと瞬いた。
「あのふたり、最近はずっと一緒にいますよね。まさに親友、って感じで」
「しん、ゆう……?」
しんゆう――親友。
玖苑は、再度、角の向こうに目を遣る。話し込むふたりを見る。
いつも一緒。いつも傍にいる。いつも、……
「親友、か……」
玖苑は独り言つ。
その言葉を確かめるように。一語一語を噛みしめるように。
「……いいなぁ」
「何がいいんですか。沢山の人に愛され、求められているあなたが」志献官の青年は、変わらず苦笑している。「ほら、戻りますよ、舎利弗純壱位」
返事を、玖苑はしなかった。ただ、親友と呼ばれるふたりを呆然と見つめていた。
彼らは笑い合い、言葉と視線を交わしながら、肩を並べて去って行く。モノトーンのその背中が夏の陽光に包まれて薄まり、溶けていくまで、ずっと目を離さなかった。……離せなかった。
「親友、……」
喉に刺さった小骨のように、飲み下せない小さな単語。
「親友とは、……どんなものなんだろう」
ぽつりと呟いた言葉は、蝉の声に紛れて静かに消えていった。
漆黒の闇に、一条の光が走る。
普通の形成体なら、その一撃で十分だった。だが、相手取るのはデッドマター乙型である。深海に棲まうラブカのように細長い身体を持ち、体表にびっしりと生えた鱗は見た目に違わず頑丈で、攻撃を通すにはそれなりの技術を要する。戦いが長引けば、不利になるのはこちらの方だ。いくら賦活処置を受けているとはいえ、人の身ではどうしても限界がある。
建物の間隙に滑り込み、敵を振り仰ぎ、仁武は歯噛みした。眼前でとぐろを巻く巨大な虚無――デッドマター乙型は、先ほどの攻撃など全く効いていない様子で悠々と首をもたげている。奴らに意思はないというのに、顔面にぽっかりと開いたふたつの穴は、嘲笑うかのように歪んで見える。
初動を誤ったと感じた。奴の追撃が無かったのは、単に、幸運が味方したからに過ぎない。
そもそも乙型が相手の場合は短期決戦が推奨される。顕現直後であれば鱗の強度も十分ではない。強化を施される前に攻撃を集中させ、一気に光壊させる。これが乙型に対する最適解であった。
仁武も、それは十分に理解している。だからこそ、奴の姿が見えた直後に斬りかかった。否、斬りかかろうとしたのだ。その瞬間に、己の身体の内で、嫌な鼓動を感じなければ。
――錆。
鉄の志献官は身体に掛かる負担が大きい。鉄の力を振るう度、生じた錆が身体を蝕むからだ。代々、鉄の志献官が短命なのもそのせいだろう。そして、仁武も例に漏れない。
違和感は容赦なく仁武の体勢を崩した。動けなくなるほどではなかったが一瞬だけ呼吸が止まった。その僅かな合間を縫って放たれた乙型の叫喚で、手に持った得物は明らかに力を失い、敵の鱗はより強固に煌めいた。何度か攻撃を重ねても、手応えは全くない。遅すぎたのだ。
――どうする。
――どうすれば。
今回組んだ相手が碧壱でないことも、仁武の焦りに拍車を掛ける。碧壱であれば、立ち回りや位置取りなど、手に取るように分かる。例え不測の事態が起きたとしても、碧壱とであれば立て直せるし、どうとでもなる。そう思えるような力が、碧壱にはある。
けれど。
――舎利弗玖苑……。
同じ純の志献官という存在であっても、碧壱と玖苑では天と地ほどの差がある。単純にデッドマターを討伐する力となると純壱位である玖苑に軍配が上がるが、彼は碧壱とは違って協調性が皆無だ。恐らく、人と合わせるつもりなど更々ない。同期であり、同じ指導官に師事した仁武でさえ、彼とはやりづらいと感じるのだから尚更だ。
ただ、このやりづらいという感情には、玖苑の勝手気ままな行動以外の意味も含むことを、仁武は分かっている。……十分に、理解している。
未だ吹っ切ることの出来ない過去の、あったかもしれない可能性の体現。
努力では覆せず、決して追い付くことのできない、大きな隔たり。
――俺は、……。
その玖苑は今、周囲にはいない。浸食領域内に逃げ遅れがいないかどうか、確かめに行ったのだ。彼であれば、例え道中で形成体が発生しても単騎で撃破が可能であるし、回りに誰もいない方が彼も戦いやすいだろう。
あぁ、でも。それは少し意味合いが異なる。
本当は向き合いたくない。まだ、その勇気が出ない。
出来れば彼の不在の間に決着を付けたかったのだ。けれどそれは、最早叶うはずもない。
仁武はひとつ、息を落とした。何気なく手を突っ込んだポケットの奥に、柔らかな感触があった。わざわざ戦場で引っ張り出すようなことはしないが、ここには、碧壱がくれた灰色のウサギのぬいぐるみが隠れている。温かく、ふわふわとした塊は、迷ってばかりの仁武を勇気づけてくれるようだ。
――集中しろ。
仁武は、ふーっと長く息を吐く。額の汗を拭い、刀の柄を再度、握りこんだ。
――今は、目の前の敵に集中しろ。考えるのはそれからでもいい。
乙型が、ぐるりと首を巡らせた。奴に感覚器官は存在しないというのに、肌で、全身で、はっきりと視線を感じた。見つかったのだ。仁武は唇を引き結ぶ。迎撃の態勢を崩さぬままで、通りに躍り出る……――
そのときだった。
銀の光が、漆黒を裂いた。
驚き、立ち止まり、目を見張る仁武の前で、乙型がびくりと大きく身悶える。
何らかの攻撃が敵を打ち据えたらしい。頭部が見事に抉れている。
その、……何かとは。
「やぁ、お待たせ、仁武!」
飄飄とした声が、戦場に響いた。
はっと声の方を振り仰いだ仁武は、建物のちょうど上階に佇む、ひとつの影を見る。
「玖苑……?」
その名を呟くか否かのところで、音も無く乙型が飛んだ。抉れた頭部が、がぱりとふたつに割れる。建物ごと、小柄な影を飲み込むつもりだろう。
だが、そうは問屋が卸さない。
「ふふっ、熱烈な歓迎、痛み入るね!」すんでの所で、玖苑の華奢な体躯が跳ねる。この、押し潰されそうなほどの浸食圧の中で、重力を感じさせないほどに軽々と。「デッドマターまで虜にしてしまうとは、……ああ、ボクはなんて罪作りなんだ!」
浮かんだ瓦礫を足掛かりにして、彼は更に、高々と跳躍する。蛍石の瞳が閃き、コートの裾が翻り、彼の得物が激しくしなる。その一撃は的確に敵の装甲を剥がし、抉り、絡め取る。乙型は呻いた。身を捩った。やがてその巨体がぐるりと回転し、墜落する。玖苑が蹴り飛ばしたのだと気付くのは、もう少し後のことだ。
「ッ……!」
迫り来る土埃が、砂つぶてを運んでバチバチと肌を打つ。ピークが行き過ぎた頃には、かの気配はすぐ傍にある。「思った通りだ」と笑っている。その呼吸は、あれほど激しく動いたというのに少しも乱れていない。
「あの鱗の強化は永続じゃない。時間経過と共に脆くなるみたいだね。まぁ、時間という概念がない彼らにとっては、意味が無いものかもしれないけれど!」
仁武は、そこで改めて声の主を見た。隣に並び立つ美丈夫――舎利弗玖苑を見た。かつての級友は裾の埃を払いつつ、余裕の態度でそこに佇む。いつぞやの、……なんてつまらないんだと呆れたことなど、どこぞに置いてきたような晴れやかな表情で。
「未だ、光壊を確認していない」
仁武は言った。きつい物言いになったが、構わなかった。
それを受けた玖苑が少しだけ、ムッと頬を膨らませる。
「武器を構えろ、舎利弗純壱位。……来るぞ!」
無音の世界に響く叫喚が、戦闘再開の合図となった。
もうもうと立ち上る土煙の中、乙型の振り切った尻尾が周囲の建物を薙ぎ払った。ガラガラと派手な音を立てて壁が崩れ、うら枯れた木々が片っ端からなぎ倒される。
ただ、仁武も玖苑も、ことデッドマター討伐に於いては最強の一角、純の志献官の最高等級たる純壱位である。これの何倍もの質量を持ち、脅威指標で等級分けをされ、星の名で呼称されるデッドマターらと幾度となく刃を交えているのだ。
そんなふたりが揃えば、いくら巨大な乙型といえど硬いだけのただの的だった。強化する隙も与えず、矢継ぎ早に攻撃を繰り返し、あっという間に瀕死にまで追い込んだ。
「仁武!」
「応!」
玖苑が呼び掛け、仁武が走った。飛んでくる弾を紙一重で躱しながら、刀を構え、そうして、未だ暴れ続ける乙型の胴体を目掛けて振り下ろした。
紫電一閃。放たれた一撃は乙型の体躯を寸分違わず捕らえ、大地に縫いとめた。断末魔が鼓膜を、世界を揺さぶり、身体に掛かっていた浸食圧がふうっと軽くなる。眼前の、ぼろぼろに崩れ始めた形成体から光が溢れ、界隈を目映く照らし出す……――
徐々に蘇るヒグラシの声に、仁武はゆるりと面を上げた。
さんさんと降り注いでいた太陽は今や地平の向こう、名残惜しそうに茜色の手を差し伸べている。ぐるりはいつの間にか夕暮れの中にあり、橙のグラデーションに染め上げられた空には、幾つもの薄い雲が浮いていた。
生温い風が草いきれを運び、塵埃で汚れた頬を撫でる。視界を隠す髪を撫で付け、何気なく目線をやった先、ひとりの青年が手を振りながら駆けてくるのを見た。その背で、緩く編まれた三つ編みが踊っている。
「仁武、お疲れ様!」
「……玖苑」
ぽつ、と呟いた声は、ざっと響いた葉擦れの音にかき消された。流石に無視をするわけにもいかず、身体ごと向き直った仁武は、何らかの違和感を覚えて思わず目を眇める。
――傷が……。
暮色が迫る中にあっても、その鮮烈な赤は隠しようもない。
頬に。腕に。足に。致命傷とまではいかないものの、幾筋もの赤い線が目立つ。一部は未だに血が滲んでいるものもあり、打ち身の痕が痛々しい。
――避けきれなかったのか……? 形成体の攻撃を……?
「……大丈夫か?」
いたわりの言葉は、自然に口を突いて出た。近付いてきた玖苑が、その瞳を、え、とばかりに丸くする。黒いブーツが砂地を踏んで留まり、ざり、と乾いた音を立てる。
「何が?」
「怪我を、……」
言い掛けて、その先を噤んだ。思い至ることがあった。
――俺を、庇った……?
もしかしたら事実は異なるのかもしれない。単なる自惚れであるのかもしれない。
けれど、先ほどの戦闘。思い返したなら確かに、こちらを狙ってくるものは少なかった。一時体勢を崩したときだってそうだ。形成体からしてみれば、邪魔者を排除する絶好の機会であったというのに。
あれは単に幸運であったのではなく、彼が、乙型の攻撃のほとんどを引き受けていたのだとしたら。
あの派手な物言いも、立ち回りも、全て……自身が囮となるため、だったとしたら。
止まった言葉の先を待つようにして、玖苑は首を傾げ、目を瞬く。界隈を吹く風が、彼の亜麻色の髪をそっと巻き上げた。
「もしかして」随分と長い沈黙を経て、彼は呟く。「心配して、くれるのかい?」
――心配。
噛みしめるような、味わうかのような、含みのある言い方だった。
不思議そうに、けれど、真っ直ぐにこちらを見つめる視線に耐えきれず、仁武は頭を振って目を伏せた。「当たり前だろ」ぼそりと告げる。「仲間、……なんだから」
「仲間、……」
オウム返しに繰り返し、玖苑は、それ以降を黙った。何かを考え込むように、その視線がふっと逸れた。
仲間――自分で玖苑をそう呼称しておいて、仁武もまた戸惑った。同期であり、同じ頃に志献官として重用されながらも、あの悪夢のような作戦を経て、一切かかずらわなかった相手である。仲間意識があるのかと問われても、即答は出来ない。
だけど。
今は……。
「仁武!」
唐突に名を呼ばれ、仁武は、続く言葉を呑んだ。
はっと目を向けると、観測班や調査班らがたむろする手前に、ひとりの志献官が立っている。長い手足で、颯爽と、きびきびと、こちらに向かって歩いてくる。普段は銀灰色をした髪が、夕陽を受け真っ赤に色付いている。
「碧壱……」
親友の姿を目の当たりにして、何故かひどく安堵した。仁武が相好を崩すと、碧壱もまた笑った。視界の端で玖苑が面白くなさそうな顔をしたが、気にも留めなかった。
「浸食防衛任務、お疲れ様。随分と掛かったようだけど、大丈夫だった?」
「ああ、俺は大丈夫だ。相手が想定以上に暴れたから物的被害は免れなかったが、人的被害は報告されていない。くお、……舎利弗純壱位が救援に入ってくれたからな、問題は無いと思う」
「へぇ……」
立ち止まり、ちら、と玖苑を見遣る碧壱の目が、一瞬、剣呑な光を帯びた。けれどそれは本当に一瞬であったから、仁武が目を瞬く合間に消え去っていた。確かめる間も無かった。
「やぁ、舎利弗純壱位。仁武と一緒だったんだね。道理で時間が掛かったわけだ」
「こんにちは、いや、……こんばんはかな、源純弐位。キミの代わりに救援に向かったっていうのに随分な物言いじゃないか」玖苑はにこりと笑った。だが、目が笑っていなかった。「源のお坊ちゃんは、どうやら、目上に対する口の利き方というものを存じ上げないようだね」
それはまるで、他愛ない日常会話のようだった。それなのに、言葉の端々に相応の棘が含まれていた。口喧嘩というほど派手なものではないし、言い争いというには大人しい。けれど、ぴり、と空気が張り詰めるのが、端から見ている仁武にもはっきりと感ぜられた。
以前、二階の窓から二人を盗み見ていたときと同じような、妙な緊張感が。
「おい、ふたりとも、……」
だから仁武は、割って入った――否、割って入ろうとした。仲間割れなど言語道断だ。今は互いに手を携えていかなければならない状況であるのに、互いを信じられぬようでは今後の作戦にも影響が出る。そう考えた。
……のだが。
「そうだ」やけに弾んだ玖苑の声と、ぽん、と手を叩く音が同時に耳元を過ぎった。「すっかり忘れてた」
何を、と聞くまでもない。
ぐ、と肩を掴まれ引っ張られた。勢い、傾いた頬に、何やら柔らかな、湿ったものが当たった。ふわ、と鼻先をくすぐるのは白百合の甘い匂いだ。
仁武ははっと目を見開いた。頬を押さえ、弾かれたように玖苑を見れば、彼は直ぐ傍で微笑んでいた。「御礼がまだだったと思ってさ」ぱちりと片目を閉じてみせる。「仁武、この前は、庇ってくれて有り難う」
「え、……」
――この、前……?
「じゃあね」
そう言ってひらりと手を振り、玖苑は、くるりと踵を返した。ヒグラシの声のまにまに響いたご機嫌な鼻歌が、彼の姿と共に暮れなずむ界隈に溶けていく。
「何なんだ……」
頬に触れたまま、呆然と仁武は呟く。その声音に明らかな困惑を滲ませて。
碧壱は黙っていた。一度は驚愕に見開いた目は今は静かに眇められ、玖苑の去っていった通りを眺め遣っていた。唇を僅かに引き結び、両の拳を僅かに固めたまま、ずっと。
ただ、その表情に浮かぶ微かな悔しさに、焦りの色に、仁武は、最後まで気付かなかった。
――……最期まで、気付けなかったのだ。