真夜中のレンジどう見ても市販のものではない焼き菓子がテーブルに放置されていた。
ラップに包まれて全貌は見えないが、おそらくはパウンドケーキだ。
「なんですか、この菓子」と問う声に力が入った。少々ふくらみが足りず、山なりではない不格好さでありながら、焼き色は絶妙なそれに様々な背景を感じてしまったせいだった。
家に入るときに「おかえりなさい」と顔をのぞかせた隣の女。年が近いという恋人の同僚。あるいは、ませた彼の教え子たち。
ラップをめくりながら「あざとい」と思う。完ぺきではないお菓子を差し出された彼が、何を思うのか付き合いが長い影山には容易く想像がついた。
菅原は男としてチョロいと感じる場面が以前から多々あった。誠実な人間ではあるし、愛されているとも思う。もちろん信じてはいるのだが、つけ込む隙はいくらでもあると感じる以上、「見たことか」と思わずにいられない。
菅原は上着をハンガーにかけながら振り返り、影山の視線がテーブル上のパウンドケーキに注がれているのを見て「ああ」と言った。
「腹減ってる?飯、まだ準備に時間かかるし食べてもいいよ」
「そういうことじゃない」
菅原ははじめて影山が苛立っていることに気付き、「なんだなんだ」と目を丸くした。
「なに怒ってんの」
「誰にもらったのか聞いてんですよ。わざわざ買ってくるほど甘いもん好きじゃないでしょ」
菅原が隣に立つと、ひょっこりと影山の肩越しにテーブルを覗く。
「わはは、やきもち妬いてんだ、飛雄くんは」
赤インクで汚れた白い指が、数枚カットされていたうちのひとつを手に取る。それは影山の口元に運ばれた。
「あーん」
一回は顔を顰めて身を引いた影山だが、菅原はさらに距離を詰めて唇にケーキを押し付けてくる。
恋人のしつこさというか、諦めの悪さを知っている影山はしぶしぶ口をあけてケーキに齧り付く。
口いっぱいにバナナの香りが広がる。生地はしっとりしていて、見た目ほど味も悪くなかった。
やさしい甘さに舌が刺激され、じわじわと痛みに似た鈍い感覚が広がっていく。
思えば甘いものは久しぶりだった。
「どう?」
菅原が尋ねるも、美味いです、と返すのが癪で無言で咀嚼を続けた。
「俺がつくったんだけど」という発言に、動きが止まる。
笑顔を浮かべてこちらをのぞき込む菅原に、「そんなわけないだろうが」と思った。
この人は、一人暮らしをはじめたときこそ「丁寧な暮らしを目指す」と宣言し、無駄に広い2口のガスコンロがついた部屋に越したものの、早々に丁寧な暮らしをあきらめ、「自炊は効率が悪いことがわかった」と言い訳をしながらコンビニとスーパー、近所の総菜屋で命をつないできた男なのだ。
生姜焼きはギリギリつくれるが煮物は作れない、目玉焼きはかろうじて焼けるが卵焼きを作ろうとするとスクランブルエッグが出来上がる男なのだ。
甘いものを食べるときは誰かの誕生日か疲れたときか、めでたいとき。そんな人間の私生活にお菓子作りなんてものが割り入ってくるなど、不自然にも程がある。
「信じてねえな」
「信じられるわけない。どんな心境の変化ですか」
菅原もひときれ口に入れながら「夜眠れないときとかさ、変に起きてるより何かした方が有意義なんじゃないかって思って」と語り始めた。
「眠れないんですか?」
あまり弱みを見せないこともあり、不安になって聞き返すと菅原は「そんな日もあるって話」と苦笑した。
「最近はさ、ネットで簡単レシピとかたくさん見られるじゃん?ホットケーキミックスとか使うと簡単でさ。あ、ホットケーキミックスって”ホケミ”って略されてんの。知ってた?知らない?それでさ、クッキーとかスコーン?とかいろいろつくったんだけど、結局パウンドケーキが一番楽だな。バターは高いからケーキ用のマーガリンとかなんだけど、分量もそんなに難しくないし具も何入れえても基本ハズレないし。これは野菜室の奥から発掘されたバナナ入れた。あ、影山しばらく試合ないよな?いやただの確認だけど」
ねっとりしたバナナの果肉を舌に感じ、思わず口に手をあてる。そんな様子を見て、菅原はケラケラと子どものように笑った。
その夜、シャワーを浴びて再びベッドに戻ってきた影山は、横になっても一向に眠気が訪れないことに気付いた。
また調整を失敗した、と反省する。向こうはまだ夕方だ。機内で変に寝るんじゃなかった、と思いながら寝返りを打つと、菅原の明るい瞳が至近距離でぶつかり、少しだけ驚く。
「眠れない?もう一回やる?」
首を振ると菅原は笑った。「お菓子つくんない?」
「今からですか?」
「だって半信半疑だろお前。お手並み拝見させてやる」
無茶苦茶な日本語を使いながら、菅原は身を起こした。
「別に疑ってない……菅原さん、眠いでしょ」
「影山がいるのに勿体ねー!寝てらんねー!って体が言ってる」
差し出された手を取ると、影山は無駄に広く、妙に綺麗なキッチンへと連れていかれた。
「っていってもマーガリンもうないんだよな……なんか食べたいものある?」
そんなこと突然聞かれても、と困惑する。菅原同様、影山も甘いものを普段口にする習慣がない。
フルーツはビタミンを補うために食べるが、いわゆるベイクと呼ばれる焼菓子はトレーナーにも注意するよう言われていた。
「あ、俺、プリン食べたいかも」
影山が作り出した沈黙を、菅原がふわりと破る。やはり本当は少し眠いのだろう。ぼんやりとして低く、そしてやわらかい声だった。
「プリンって家で作れるんですか?」
「レンジで作れるんだよ。一回カラメル作んのに失敗してマグカップ割ったけど」
タブレット端末を操作しながら「あったあった」と菅原ははしゃいだ声を出した。
レシピを見ながら材料を小さく呟き、食器棚からマグカップを2つ取り出すと、卵、牛乳、砂糖を調理スペースに並べる。
「まず砂糖をこのくらいと、水を入れます。ちょびっと」
影山も見よう見まねでマグカップに水を入れる。それをレンジに入れると、少しずつ加熱した。真剣な表情でレンジを覗く菅原の顔が、オレンジ色の光に照らされる。影山の視線に気付き、頬だけを緩めてみせた。
「加熱しすぎるとここで割れるから注意しないと」
度々扉を開けながらマグカップを揺らし、ようやく「こんなもんかな」と言って鍋敷きの上にコトン、と置く。底を覗き込むと砂糖水は茶色く変色している。スプーンで少し水を追加すると、ジュジュッと小さくも激しい音を立てる。マグマを連想させる音だった。
「これで少し置いておこう」
レンジで加熱している間にボウルの中でかき混ぜておいた卵に、砂糖、牛乳を入れ、それをマグカップに注ぎ入れた。
「レシピにはバニラエッセンスって書いてありますけど」
「バニラエッセンスなんぞ一般家庭には置いてない」
ここは一般家庭ではないと思うが。影山が妙に綺麗なキッチンを見渡す間に、マグカップは再びレンジへ投入された。
「すぐにボコボコいうからよく見とけ。仕上げは影山にやってもらうから」
ふたりで小さな窓からレンジを覗く。マグカップから生地の様子を伺うのが難しくて、立ったり座ったりを繰り返しているうちに、突然ボコボコッと泡が湧き上がる。慌てて扉を開けると、何もなかったかのように波は静まった。レシピを見ながら熱々のマグカップを運び(火傷をしないよう、鍋つかみを菅原がつけてくれた)、渡されたタオルで包み込む。
レシピを読むとキッチンに向き合い、もう一度レシピを読む。
しかめた表情のまま、「え、菅原さん、これって……」とつぶやく。
「ほら、早く仕上げしないと」
「え?だってこれどういうことですか?意味ないですよね?」
「レシピに逆らうな!初心者は忠実に」
影山がやや狼狽えながらもゆっくり持ち上げた手で鼻を掴む。
「これって“プリンプリンプリン”ってことですか?それとも“プリンプリン、プリンプリン、プリンプリン”ってこと?」
「どっちでもいいんじゃね?」
忠実に、などと言っておきながら適当なことを言う。菅原をチラリと横目で追うと、こちらにスマートフォンを構えているのが見えた。完全に楽しんでいる。
影山は、これは早々に諦めたほうがいいと判断し、鼻をつまみながら「プリンプリン、プリンプリン、プリンプリン」と呪文を唱えた。レシピにそう書いてあるのだ。
予想通り、呪文を唱えたところでプリンに変化があるようには見えなかった。代わりに、鼻の詰まったような影山の声に、菅原がゲラゲラと笑い出した。
冷蔵庫でプリンが冷えるのを、ソファで待っていた。
こんな時間に見たいテレビなどあるわけがなく、知らない芸人が出ているバラエティ番組をただ見ていると、手洗いから戻った菅原が「あ、うちイレブンスポーツ見られるぞ」と言う。
「え、マジすか」
キッチンに置きっぱなしになっていたタブレットを持って、菅原が隣に座る。
画面にうつるのは日本の配信サービスでは見られないはずの、海外で行われた試合のアーカイブ動画だった。
「もしかして俺の試合、見てたんですか?」
「おうよ、リアルタイムで見たいからさ、有料プラン入った。いや~苦労したんだよ。日本のじゃ見られないって知らなかったから一時期日本のとイタリアの同時にサブスク入ってさぁ。イタリア語全然わかんないから調べながら登録してようやく見られるようになった、頑張った、よくできました」
菅原は照れ隠しをするようにパチパチと手を叩いて己を褒めたたえる。
「……真夜中じゃないですか」
「全部見たかったんだよ、いち早く」
だって俺、お前のファンだから。菅原はそう言ってはにかんだ。そして影山の視線から逃れるように、「そろそろ冷えたかな~」と立ち上がった。
その瞬間、試合が始まる前の時間を持て余し、キッチンに立つ菅原の姿が目に浮かんだ。
しきりに時計を確認しながら台所を粉まみれにし、型に生地を流し込んでオーブンに入れると、慌ててソファの前につく。
試合にかじりつき、時々聞こえるわけもないのに声援を送りながら、喜んだり肩を落としたりする。甘い香りに満ちたワンルームで、真夜中を過ごす恋人の姿が目に浮かんだ。
もちろんそれは影山の想像に過ぎないのだが、まるでその場にいたかのように、鮮明に見えたのだった。
こんな時間にふたりで食べたプリンは、食べたことのない味がした。
バニラの香りもなく、若干の卵くささと牛乳の味。パウンドケーキとは違って優しい甘さが舌をつるんと滑っていく。
せっかくだからと皿にひっくり返したそれは思いの他大きく、ふたりでつつき合ってもなかなかの量だった。カラメルはプリンの頂からこぼれ落ち、皿に溜まっている。
スプーンを咥えたままの菅原が、影山の肩に頭を乗せる。
手にするスマートフォンの画面には、鼻をつまみながら呪文を唱える間の抜けた自分の姿が映っていた。怪訝そうな声が隠しきれていない。
「ナイス呪文」と笑う菅原の口から、スプーンと歯がかちあう音がした。スプーンを抜き取ると、菅原はおとなしく口を開いた。
「ふふ」
動画が終わっても、菅原はその場を動かなかった。影山も動かずにいた。
目を瞑った菅原の熱が、肩を通して段々と熱を帯びていく。
恋人の寝顔が見られることを、ふと幸せだと感じた。
終わり