10.interval(side:M) エドマンド辺境伯は書斎に通された妹の娘を見た瞬間に泣いた。目をきつく強く閉じたせいで頬をこぼれ落ちた涙を手巾で拭きながらもすぐ書類を取り出せたことからも分かる通りずっと前から用意していたのだろう。自分や妹と同じ水色の髪と目をした娘は言われるがままに署名しマリアンヌ=フォン=エドマンドとなった。
「ただいま戻りました」
マリアンヌが帰宅の挨拶をするため義父の書斎に顔を出すとエドマンド辺境伯は棚の上に作った小さな祭壇の蝋燭に火を灯していた。マリアンヌの両親を偲ぶもので彼女の実母が家を出る前に残していった髪の毛と彼女の実父がエドマンド辺境伯に当てた直筆の手紙が飾ってある。彼女の亡骸は見つからず妻の死に関係があったであろうマリアンヌの父は失踪したのでこの髪の毛しかマリアンヌとエドマンド辺境伯には残されていない。
「おかえり。リーガン家のひよっこはなかなかやり手のようだ。誰か一人くらい捕虜になるかと思ったが皆見事に逃げおおせた」
義父は皆、と言ったのできっと東に逃げた者たちも無事に帰宅できたのだ。
「はい、クロードさんはすごい人です。でもすごい人はクロードさんだけではありません」
「マリアンヌ、入学前は友人など出来るはずもないと言っていたがそんなことはなかっただろう?」
「はい……」
「色々大変な目にもあったとは思うがマリアンヌをガルグ=マクへやって良かった。私があいつと知り合ったのもガルグ=マクでね……」
マリアンヌはヒルダと選んだ手巾を義父にそっと差し出した。義父は滅多にマリアンヌの父について語らないのだが語り始めると泣いてしまうことが多い。
「お義父さま、そんなに話すのがお辛いのでしたらその、私の父のことは……」
「いいや、話したいんだ。少しずつしか話せないが……いつも取り乱してしまって申し訳ない。明日の午後仕立て屋が来るまでゆっくり休みなさい」
「仕立て屋……ですか?」
「そうだ。リーガン公の葬儀に間に合うように新しい喪服を作りなさい」
エドマンド辺境伯は同盟きっての論客で交渉の場に立てば彼に勝てる者は殆どいないと言われている。ローレンツの父であるグロスタール伯もマリアンヌの義父は敵に回したくないのだという。多分こういうところが原因だ。
数節後、マリアンヌは作りたての喪服を身に纏って義父であるエドマンド辺境伯と共にデアドラのリーガン邸にいた。侍女を帯同させているのでガルグ=マクにいた頃のように編み上げから髪の毛がこぼれ落ちることもない。リーガン邸は長く盟主を務めていたオズワルドを悼む弔問客でごった返している。その中に見覚えのある髪型をした桃色の頭が見えた。
「私はリーガン家の家臣たちと少し話をしてくる」
「あの……私は……」
マリアンヌは辺境伯の地位を継ぐ者として養女となったので義父の出る会合には帯同せねばならない。眉尻を下げている養女を見て義父は実母と同じ場所に笑窪を浮かべた。
「お友達がいたのだろう?せっかくだから話しておいで。私は少し時間がかかるからね。ああ、弔い酒は飲んでも構わないがもう無理だと思ったら私の名を出してきちんと断りなさい」
許可を得て広い邸内を再び探し歩いたがヒルダはなかなか見つからない。もしかしたら人違いなのかもしれなかった。マリアンヌは後継者として顔と名を売らねばならないがヒルダはそんなことをする必要がない。きっとゴネリル家を代表してリーガン公の葬儀に出席するのはヒルダではなく彼女の兄か父だ。
「マリアンヌさん!」
騒々しい邸内でもよく通る声がマリアンヌの鼓膜を叩く。振り向いてみればそこに喪服姿のローレンツが立っていた。見慣れた制服姿ではないので少し違和感がある。
「ローレンツさんお久しぶりです。あの……ヒルダさんを見かけませんでしたか?」
ローレンツは給仕たちが注いで回っている弔い酒を空けると首を横に振った。脱出行の際に伸びた髪は整えられている。
「ふむ……クロードとリシテアさんには会ったがヒルダさんは見かけていないな。良かったら探すのを手伝わせてもらえないだろうか?」
コーデリア家はリシテアが主体となって近々爵位を返上するのだという。その関係でデアドラに来ていてもおかしくはない。
「ありがとうございます。ヒルダさんから手紙はいただいたのですが直接お会いできるならお会いしたくて」
ローレンツはマリアンヌの言葉を聞いて小さく頷いてくれた。彼はいつからかマリアンヌの言葉を黙って待ってくれるようになった。背が高いローレンツが見渡してくれればすぐに見つかるような気がするし口籠もってしまうマリアンヌが声をかけるより本来は朗々と語るローレンツが声をかければすぐに気づいてもらえるだろう。ところが中々ヒルダは見つからない。
「人違いだったのでしょうか?」
「いや、マリアンヌさんが彼女を見間違えるはずはない。今日は前夜式でごった返しているから会えないだけで明日には貴賓席で会えるだろう。リシテアさんの居場所なら分かるが挨拶していくかい?」
マリアンヌが頷くとローレンツは弔問客用の軽食が用意されている部屋に連れて行ってくれた。そこにはリーガン家の使用人たちが総出で作った菓子や弔い酒用の肴がおいてある。
「また会いましたね、ローレンツ。ああ!マリアンヌ!元気にしてましたか?この揚げ菓子最高ですから食べた方がいいですよ」
リシテアは生地に干し葡萄が練り込んである揚げ菓子を頬張っていた。
「ええ、私は元気です。リシテアさん、ヒルダさんを見かけませんでしたか?」
「あれ?ヒルダ居ないんですか?私はここについたばかりの時に会ったんですが……帰っちゃったのかもしれませんね。まあ焦らずとも明日にはヒルダにもマリアンヌにも貴賓席で会えますよ」
リシテアはローレンツと同じことを言った。そもそもデアドラでヒルダと会う約束をしていたわけでもない。それでも少し残念に思いながらマリアンヌはようやく給仕から弔い酒受け取り杯に口をつけた。死者に捧げる杯なので空ければ空けるほど良いとされている。
「私だけお会いできないなんて……」
「いやマリアンヌさん、僕もヒルダさんに会えていないのだからそれは違う」
空きっ腹に流し込んだせいか酒の周りが早くマリアンヌの頬は赤く染まった。給仕がまたマリアンヌの杯に酒を注いでくれたので空けようとするとローレンツにそっと取り上げられてしまった。
「それ以上は明日に障りが出てしまう」
おかげでマリアンヌも義父からもう無理だと思ったら断るようにと言われていたことを思い出せた。
「すいません、ありがとうございます。ふふ……ローレンツさんは私が義父の名を出さなくても止めてくれるのですね」
マリアンヌは酒を飲むと気持ち悪くなってしまうことの方が多いのだが今日は違った。いつも心から離れない重りはどこへ行ってしまったのだろう。リシテアが絶賛していた揚げ菓子のように心がふわふわと軽い。
「マリアンヌさん、それは当然のことだ。貴族というか男として守らねばならない一線がある」
その後のことをマリアンヌはよく覚えていないのだがきちんと義父と共にデアドラの上屋敷へ帰り帯同していた侍女にずっとローレンツの話をしていたらしいということは翌朝義父から聞いた。