4.C(side:H) マリアンヌの鉄筆をすぐに拾ってやれたことからも分かる通りローレンツは気になることがあるとつい目で追ってしまう癖があるようだ。そして自分が見られていることには無頓着らしい。断りきれずに食事を共にした女子学生はさぞ居心地が悪かっただろう、とヒルダは思う。
「マリアンヌちゃん、何か困っていることはない?」
先日、マリアンヌに書庫整理の手伝いをしてもらった結果全て自分で作業をする羽目になったヒルダは本格的に彼女が心配になった。マリアンヌには何か根本的な欠落がある。
「特にないつもりです……」
養父であるエドマンド辺境伯はマリアンヌとの関係を良好たしたいと考えているのだろう。こまめに手紙や差し入れが届く。だがローレンツから託された手紙をヒルダが渡した時マリアンヌは戸惑っていた。きっと理由を聞いても教えてくれないのだろう。無駄なことはしないに限る。身内になれない他人が踏み込むべきではない領域があるのだ。そう思ってヒルダがマリアンヌに対して引いていた線を数日前、ローレンツはあっさり越えた。
「いや、お父上のことを思い出していたのだ。君との共通点はあるのだろうか、と」
何か揉めごとがあっても基本的に面白そうだ、という態度を崩さないあのクロードが褐色の手で顔を隠し首を横に振っていたのがヒルダには忘れられない。挨拶のついでに出すような話題ではないからだ。幸運なことに教室前の中庭は人がまばらであの会話が聞こえてしまったのはヒルダとクロードだけらしい。だがヒルダが無言で顔を顰めるとクロードが親指で無人の教室を指差した。
「ローレンツくんはどうすれば言動に気をつけるようになるの!!」
「あいつ俺にも胡散臭いって直接言ってきたぜ」
女子学生の意見を取りまとめてベレトにローレンツへの苦情を寄せたのはヒルダだ。
「うぅ……どうして本人が全く気にしてないことを私が気にしなきゃならないの……」
「あいつあれで周りとうまくやってるつもりなんだよ」
クロードのいうことは正しい。ローレンツはヒルダに利用されているが彼自身はそれを彼独自の理屈で良しとしている。ヒルダは思わずため息をついた。
「見てるだけで居た堪れないんだけど」
「でもあいつ嘘はつかないんだよなどこかの誰かと違って」
少し厚めの唇は端が上がっているし目も細められている。だがクロードは笑っていないような気がする。
「ひどーい!私は本当にか弱い乙女だもん!」
「ま、そういうことにしてやってもいいぜ。今のところはな」
そういうとクロードはいつものようにどこかへ去っていった。これ以上クロードと話していると色々と見透かされてしまいそうな気がする。問題はそれが別に嫌ではないということだ。
ベレトは隔週で週末を休養日にする、と決めているらしい。ヒルダが先週からずっと買いたかった小物を市場で探していると珍しくマリアンヌを見かけた。小物屋で色んな手巾を手に取っている。
「マリアンヌちゃん新しい手巾探してるの?」
「ヒルダさん……はい、義父から持たされた手巾をローレンツさんにさしあげましたので」
一体どういうことなのか全くわからなかったのでヒルダはマリアンヌに経緯を説明してもらった。先日はローレンツの発言に冷や冷やさせられたがマリアンヌも負けていない。ヒルダは流石にローレンツが気の毒になった。そして彼をほんの少しだけ見直した。迂闊に外見を褒めると本人がそこを気に入っていない場合かなり気まずくなる。ヒルダの場合で言えば背が小さくてかわいいと褒められたら良い気分がしない。もう少し背が高かったらと思うし自分の意志ではどうにもならない背の低さを褒められるより制服の着こなしや付けている香水を褒められた方が嬉しい。だからローレンツはマリアンヌが選んだものを褒めたくて彼女の手巾を褒めたのだろう。
「小物、自分で選んでないの?!全部?!」
「はい……」
やはりマリアンヌには根本的な欠落がある。ヒルダはなんだか悲しくなってしまった。彼女が自分の持ち物に全く愛着がないのは自分で選んでいないからだろう。ヒルダはガルグ=マクでの新生活が少しでも快適であるようにと願いを込めてお気に入りの小物を厳選し荷造りをした。だがマリアンヌは違う。ここでの生活がどうなろうと構わないと思っていたから義父任せだったのだ。
「これがガルグ=マクに来てから初めての個人的な買い物です」
マリアンヌは絹で出来た刺繍入りの手巾二つを見比べている。持たされていた物よりだいぶ地味だがそれでも雰囲気が似ていた。きっと養女であるマリアンヌが持つに相応しい物を、と辺境伯が心を込めて用意したからだろう。
「どっちも素敵だね。私は両方買っても良いと思うなー。ねえ、それ買い終わったら他の小物も見に行こうよ!見るだけで良いから!」
手巾二枚程度エドマンド家の財力からすればなんてことはない。ローレンツは見ていると苛々するが彼はヒルダがマリアンヌに対して引いた線をあっさりと越えた。多分悪いことではない。