雲深不知処の山門には藍家の師弟が二人立っていた。
江澄が白梅を連れていくと、その二人は慌てふためきつつも、家規に順じて藍家宗主を呼びに行き、客坊へと通してくれた。
その頃になると白梅は体に力が入らなくなっており、しかたなく江澄は彼女を臥床に寝かせた。
すぐに藍曦臣と藍忘機、魏無羨までもがそろってやってきた。
「雲深不知処をお騒がせして申し訳ない」
「江宗主、お気になさらないでください」
藍曦臣は首を振りつつも、しょうとうに視線を移す。
「ところで、そちらの女人は」
「雲夢の民だ。魏無羨、力を貸してくれ」
江澄はあらましだけを語った。
白梅が妹を亡くしたこと。妹の報復を行おうと呪術に手を出したこと。彼女の命がかかっていること。
魏無羨はともかく、あとの二人につまびらかに語るには内容があまりに生々しかった。
「呪紋をどうにかできないか」
「見てみないとなんとも言えないけど……」
「わかっている」
ここで江澄は困った。
呪紋を見せるには白梅の胸元を広げなければいけない。
しかし、それを堂々と行うには魏無羨の背後にいる藍忘機の目が怖い。
「魏無羨、呪紋はな、その」
「あー……、藍湛、沢蕪君、ちょっと出ててもらえないか」
「魏嬰」
「女の人だからさ、男ばかりに囲まれてちゃかわいそうだろ」
藍家の二人は釈然としないままにも、房室の外へ出た。
江澄は白梅に断って、彼女の袷をくつろげた。魏無羨は胸元の呪紋を食い入るように見つめ、なにやらぶつぶつとつぶやいている。
「これ、術が不完全だ」
「不完全?」
「術の効果と対価がつりあっていないせいで、余った力が宙に浮いているんだよ。それをうまく取り除いてやれば……」
魏無羨は突然顔を上げて、江澄に向かって「紙くれ」と手を差し出した。江澄が慌てて紙と筆を手渡すと、彼はそこに呪紋を書き写し、腕を組んで考え込む。
「取り除く、ってのは無理だな。つりあわせればいいんだよな」
「どういうことだ」
白梅も不安そうにして魏無羨を見ている。
魏無羨の言っている意味がまったく分からない。
「つまりだな、術が男に与えている影響よりも、白梅への影響のほうが大きいんだよ。この影響同士を同じくらいになるように調整してやれば、命を落とすほどのことにはならない」
江澄は眉をひそめた。つまりふさわしい対価を甘受すればいいということか。女人の体に与えられる対価とはいかほどのものだろう。
「お願いします」
先に白梅のほうが声を発した。彼女はいつの間にか体を起こしていて、魏無羨に頭を下げた。
「何が起きるかは予想できない。ふつうは初めから呪紋に仕込むもんだからな」
「問題ないわ。初めは命を失おうとかまわないと思っていたのだから、何が起きても文句は言わない」
「それなら、やってみるか。江澄」
呼びかけられてハッとした。
魏無羨は「呆けてるなよ」と江澄の肩をたたいた。
「準備をしてくる。藍湛には説明しなきゃいけないし」
「しかし、それは」
「御宗主、あたしはかまわないわ」
白梅は笑顔だった。彼女にとっては術が変換されるのであれば、誰に見られようとかまうものではなかった。
魏無羨が客坊を出ていって、江澄は手持無沙汰になった。
白梅をひとりにするわけにはいかないし、かといってやることはない。
しばらくして白梅が「御宗主」と声をかけた。
「あんたも立ち会うつもりかい」
「呪紋の変換に俺がいても役立たずだろう。魏無羨が戻れば雲夢に帰る」
「はは、そうだね。それがいいさ」
江澄は首を傾げた。彼女の笑顔がさきほどとは違うように見えた。
こういう顔を見たことがある。まずいものでも飲みこんだような、がまんをしている顔だ。
魏無羨には拒否された手だが、このひとには受け取ってもらえるだろうか。
「ここに、いたほうがいいか」
「ばかを言わないで。仕事があるんでしょう」
「あるにはあるが……、居るだけで役に立つのならとどまる意味がある」
白梅は雲夢の民だ。その命がかかっているのなら江家宗主として、かかわる必要があるだろう。
それだけではない。この数日を過ごしただけだが、江澄は白梅に並々ならぬ想いを抱いていた。
妹のために、命を懸けようという彼女の生き方は己と重なって見えた。
「江宗主」
「藍、宗主」
突然現れた藍曦臣に、うっかりといつものように呼びかけそうになって、江澄はなんとか体裁を保った。
「魏公子からだいたいの話は聞きました。ひとまず食事を運びましょう。朝食を取っていないでしょう?」
「ああ、助かる」
「あなたも、かゆなら召し上がれますか」
「沢蕪君、お気遣いいただき……」
白梅は平伏するように顔を伏せた。
江澄は思わずむっとした。自分のときと比べるとまるで態度が違う。白梅といっても、沢蕪君の前ではしおらしくなるものか。
この後、運ばれてきた朝食は、薄味なことを差し引いても、いつも以上においしくなかった。
魏無羨の話によると、呪紋の書き換え自体にはそれほど時間はかからないらしい。しかし、その後にどのような現象が起きるのか、予想がつかないことから少なくとも一時は見守りが必要だという。
結局、江澄は部屋の端に藍忘機と並んで座り、いそいそと道具を準備する魏無羨をながめる羽目になった。
呪紋の書き換えには白梅自身の血を使った。元の呪紋も彼女自身が自分の血で描いたという。
指先を傷つけて絞り出した血を筆に含ませて、女の胸元に慎重に呪紋を描く魏無羨の姿を、藍忘機は無表情で、江澄から見る限りはまったく表情を動かさずに見守っていた。
その氷のような横顔を横目で盗み見て、江澄は魏無羨が彼をここに置いた理由をさとった。
藍忘機の同席を拒否すれば、魏無羨は呪紋の書き換えをできなかったに違いない。彼の大切なものは今や道侶ひとり。情け深い魏無羨のことだから見捨てることはなかっただろうが、直接彼女の肌に触れることはしなかっただろう。
「よし、終わり」
書き換えは本当にすぐ終わった。
そして、異変もすぐに起きた。
呪紋は禍々しい光を放ち、四方に蔦が生え伸びるように赤黒い筋が走る。
「白梅!」
江澄は臥床に駆け寄り、彼女の手首を取った。
その肩を魏無羨の手が押しとどめる。
「大丈夫だ、江澄」
「そんなわけがあるか!」
白梅は顎を引き、歯を食いしばっている。
「彼女は覚悟の上だったよ。だから、大丈夫だ」
そう言われたところで、か細く漏れる痛みをこらえる声に、江澄の胸は締め付けられた。
どのくらいそうしていただろう。
次第に光はおさまっていき、白い肌にはくっきりと赤黒い筋が刻まれた。
これが相当の対価というものなのだろう。
白梅は額に大粒の汗を浮かべ、ぐったりとしたまま気を失ったようだった。