プレイバック「お待たせしました。ご注文の品です」
テーブルに運ばれる一枚のピザ。Lサイズのマルゲリータは焼きたてらしく、その香ばしい匂いは食欲をそそるものだ。生地は厚め。トマトとバジルの鮮やかな色が均等に並んでるのに加えて、ふつふつと膨らむチーズはいったいどれほどとろけてしまうのかと見る者の想像をかき立てる。
その姿を目にしたこはくは思わず息を呑んだ。彼が店でピザを頼むのは、これが人生で初めてのことだった。
「ご注文の品はお揃いでしょうか〜。ごゆっくりお過ごしください」
テーブルに冷たいウーロン茶を二杯置くと店員はお決まりの確認をして去っていった。あんずはテーブルを挟んで向かいに座るこはくに視線を移すと、彼の表情を興味深そうに見つめて、連れてきて正解だったと微笑んだ。
「いただきます」
「い、いただきます」
「はい。取り皿と、フォークもいちおう」
「おおきに」
八等分されたピザをそれぞれ取り分けて食べるのだとあんずに教わりながら、こはくは見よう見まねでピザを手で掴んだ。持ち上げると持った部分と反対の、カットされて三角にとがった端がだらんと落ちるので慌ててしまう。フォークでもうまく支えきれない。チーズが重力に負けそうなのを見て、ますます焦ったこはくは自らの口で迎えに行った。
行儀が悪い、と思う暇もなかった。
「チーズがとろけて生地はもちもちで具の味が濃い!」
目を見開いて感動を訴えるこはくに応じるように、あんずは嬉しそうな表情で頷いている。見事な食レポだ。
「美味しいね!」
「……なんやそのだらっとした表情」
フォークを離した手を動かしてジェスチャーでその感激ぶりを伝えていたこはくだったが、あんずに見られているとわかると急に動きを止めた。
「微笑ましいなぁと思ってるだけだよ〜。ほら、まだあるからね」
「あ、あかん! これ以上は」
両腕を伸ばし、自分の取り皿に手のひらを当て遠ざけようとするこはく。その様子にあんずは首を傾げて聞き返した。
「これ以上は?」
「口が味濃いもんになれてしまうっ……」
きゅっと目を閉じるこはくにあんずは悪魔のごとく優しい声で囁いた。
「へーきだよ」
「ううっ」
「食べたくないならしょうがないけど、残り全部私が食べるのかぁ。少し多いなぁ」
腕を組んで難しそうな顔をしながら、けれどあんずはなんてかわいい抵抗だと口の端をゆるめていた。ピザの美味しさに抗えるはずがないとふんでいるのだ。
「あんずはん、なんや斑はんに似てきてへんか……?」
「何か言った?」
「なんでもない。ほな、こっちいただくで」
「うん。食べよう」
次第にコツを掴んできたのか、こはくは比較的スムーズに一口めを食べられるようになっていた。残り一切れずつになる頃には、あんずの視線を気にする余裕もあった。
「なんや食べてるところ見られるん恥ずかしいわ」
「ごめん、あまりに美味しそうな顔して食べてるから……苦手だった?」
「そういうわけでもないねんけど」
「けど?」
「照れくさい、言うんかな……。なんや。ぬしはん、まただらけた顔してるで」
こはくが目をすぼめて見るのも意に介さず、あんずはにこにこと楽しそうしている。そんなあんずに対しこはくは思うところがあった。
「かわいいなぁと思って」
歳上の女性にからかわれているようで、悔しいのだ。そういうあんずだって、口の端にトマトソースをつけてまるで子どもと変わらないような格好をしているのに。その気持ちが衝動的に表に出た。
「……あんずはんこそ」
こはくは腕を伸ばして親指でその汚れを拭うとすぐに、ふん、と怒ったようにそっぽを向いた。
「え? ついてた?」
手で頬と唇の間をぺたぺたと触るあんず。その動きを見てとたんにかすめた唇の感触が思い起こされ、自分のしたことが恥ずかしさをまとってこはくを襲った。
「子どもみたいでかわいいやん」
言ってみたものの次第に小さくなる声に内心頭を抱えた。しかも目をそらしているからまるで決まらない。性に合わないことをするんじゃなかったと後悔する。正面にいる彼女はぽかん、としたままあっけに取られているからなおさらそう思う。
急に心細くなったこはくはウーロン茶を手に取り口に運ぶ。喉が乾き切っていた。それを目にしたあんずも気を取り直すように、ハッと音がしそうなほど勢いよく顔を上げると、同じようにウーロン茶を飲み始めた。そのあんずの頬が紅潮して見えるのは気のせいではない。
グラスの中が氷だけになった頃合いで、ほとんど同時に最後の一切れを取り皿に分けた。
すっかり慣れた手つきで頬張ると、こはくは味わうように咀嚼する。トマトの酸味とバジルの香りにチーズのまろやかな舌触り、冷めてもくどくない生地は甘さすら感じられた。
「ピザって美味しいねぇ」
「せやな……」
しみじみとした会話は先ほどまでのできごとを水に流すには不十分だったが、それでもピザが美味しいことはたしかなので、この場はなんとかなってほしい、と、祈るような気持ちで最後の一口を頬張るこはくなのだった。