ciao bella bambina!ciao bella bambina!
その日。しばらく掛かりきりになっていた仕事を終えて、久しぶりにCR:5の本拠地に顔を出したルキーノ・グレゴレッティは、電話を片手に忙しく指示を飛ばすベルナルド・オルトラーニの姿にふと違和感を覚えた。
「――それは、こちらに。俺のほうで処理をする」
「市長には好みの赤毛の美女でもご紹介しておけ。今は嘴を突っ込まれては困る」
「ああ、了解した。ボスには報告しておこう」
矢継ぎ早に下される命令。ベルナルドはこの部屋の中にいながら、デイバン中の情報を、蜘蛛の網のように張り巡らせた電話線を通じて掌握している。
初めてそのからくりを聞かされた時には、想像もしていなかった彼の“シノギ”に驚愕した。年月を経て、ベルナルドの張った網はより精緻に、より濃密にデイバンを覆っている。収集機能を部下に分散させて危機管理を図るなど、この機構は今も成長を続けていた。
いくつもの店を経営し、能力を遺憾なく発揮しているルキーノだが、ベルナルドの仕事振りを見るたびに感心してしまう。市民の心をCR:5に惹きつけるための顔見世や慈善事業などの面倒臭さはなれたものだが、自分には、相手の顔も見えないコード越しの仕事は性に合わない。自分があの電話線に囲まれた椅子に座ることになったとしたら、三日で忍耐の限界を超えて机ごとひっくり返しているだろう。
ベルナルドは今日もひっきりなしになり続ける電話を片っ端から取り上げては、瞬時に指示を返していた。
――よくやる。
感嘆しつつ、ルキーノは室内のソファに腰掛けた。
ルキーノが部屋に入ったときからこちらの存在に気づいていたベルナルドは、電話の向こうと話したまま、小さく頭を下げる。もうしばらく待ってくれ、と視線が言っていて、火急の用事があるわけでもないルキーノはおとなしく座って待つことにした。ベルナルドの部下の一人が、コーヒーを運んでくる。
ひきたての芳醇な香りが鼻孔をくすぐった。素材の豆そのものだけでなく、淹れた人間の腕前も一級なのだろう。一口含むと、風味豊かな味わいが広がる。
その白い湯気の向こう側に、ベルナルドの姿を透かし見る。
彼は珍しくスーツのジャケットを脱いでいた。細身のベストと、仕立てのいいシャツ。
ルキーノの視線は、はじめに感じた違和感の正体を追う様に彼の全身を彷徨い――
「すまない、ルキーノ。待たせたな」
チン、と小気味よい音を立てて電話を切ったベルナルドが立ち上がった瞬間、理解した。
「お前、メシ食ってるか?」
「はぁ? なんだ、藪から棒に」
「どこのバンビーナだ、その細腰は。男としてありえねぇぞ」
座っていた間はかすかな違和感レベルだった。けれど、立ち上がった姿を見てしまえば一目瞭然。もともと痩身の男ではあったが、しばらく見ないうちにずいぶんと肉付きが薄くなっていた。
「……大の男を捕まえて、気色の悪いことを言うな、ルキーノ」
一気に険悪な表情になったベルナルドが、なにを馬鹿なことを言っているのかとルキーノを睨む。長年CR:5の幹部をやっている男だ、その迫力は変わっていない。けれど、確実に痩せている。頬の輪郭も細くなったせいで、余計に鋭さを増した視線を受け流しながらルキーノは思った。
「片手で腰が持てそうだぜ。今度エスコートしてやろうか」
「謹んで辞退しよう。お前に恋い焦がれるレディに刺されて死ぬには、俺は惜しすぎる人材だ」
「コルセットでも付けて見せてやれば、ボスも大笑いしてくれると思うぞ」
目を眇めながら検分するルキーノに、ベルナルドはとてもとても嫌な顔をした。ジャンならば笑うだろう。どころか、腹を抱えながら装着を手伝ってさえくれそうだ。ルキーノは目の前の男が女ものの優雅なコルセットを付けている姿を想像して、自分の脳裏に浮かんだベルナルドの壮絶な仏頂面に爆笑した。
「ケッパレ――女装趣味を楽しみたいなら一人でやっていろ。俺を巻き込むんじゃない」
ベルナルドのこめかみが引き攣っている。
そろそろからかうのも潮時か。ルキーノは笑いの残滓をひっこめて、ベルナルドを尋ねた本来の目的であるいくつかの案件を切り出した。
ルキーノのコーヒーが半分ほどに減った頃、伝えるべきことを伝え終えて、二人は息をついた。もともと、たいした問題でもない。議題はあっさりと解決をみていた。
「……っと、俺の用事は以上だ」
「了解した。今の件に関しては、基本的にお前の判断にまかせる。必要に応じてジャンに報告をあげてくれ」
頷いて、ベルナルドは自分の分のコーヒーをぐいとあおった。話の途中で彼の部下が運んで来たカップは、まだうっすらと湯気をたてている。一緒にテーブルの上に置かれたミルクやシュガーポットは一度も手を触れられないまま残っていた。悪魔の飲み物とも呼ばれる黒い液体を飲み下したベルナルドは、自らの嗜好品のはずのそれに苦い視線を落とす。眼鏡の奥の瞳が、手付かずのミルクを見た。
コーヒーの風味に問題はないはずだ。彼のカップから漂う芳香は、ルキーノの飲んだコーヒーと寸分違わない。
では、何が彼にあんな表情をさせるのか?
「あんた、本当にメシ喰ってるか?」
考えられる原因は、ベルナルドの体調だ。からっぽの胃袋には、時にブラックのコーヒーは負担が大きい。
再び問うたルキーノに、ベルナルドは一瞬また蒸し返すのか、と嫌な顔をして、
「ここしばらくは忙しくて簡単に済ませていたが。別に、問題はないぞ。仕事も一段落したし、すぐに戻る」
もごもごと、言い訳をした。
――ガキかよ。
年上の筈の同僚の姿に、ルキーノは苦笑した。そんな会話を始めた自分にも。何百人もの構成員を束ねるCR:5の幹部が、なんと垢抜けない会話をしていることか。考えて、ふと気付いた。ラッキードッグと出会う前の自分達は、今みたいに互いの内側に踏み入った会話はしていなかった筈だ。ベルナルドもルキーノも、互いに許す領域の境界線がもっと厳然と存在していた。ジャンカルロ――ベルナルドが首ったけのあの青年は、少しずつカポとしての階段を昇りながら、自分達の中で存在を増していく。彼は変わり、そして自分達も変わっていた。
他愛ない瞬間にそれを感じて、くすぐったい感覚を覚える。面映ゆい。が、悪い気分はしない。
ルキーノは多少気掛かりそうに自分の腰周りを見下ろすベルナルドに、一番効果があるだろう台詞を思い付いた。
「おい、ちょっと立てよ」
「は? 何故だ?」
「いいから。その場でいい、立ち上がれって」
「お、おい……」
戸惑うベルナルドの腕を引いて、立ち上がらせる。そして、すばやく彼の腰回りに両手を回した。手で作った輪の中、女の腹の様に一周はしないが、それでも両手の指先はかなり近づく。
「……やっぱりな」
「おい、何がやっぱりだ。ふざけるなよルキーノ」
急速に冷えていくベルナルドの声音を右から左へ受け流して、ルキーノはたった今確認した事実を口にする。
「あんた、ジャンよりも細いぞ」
「……何?」
「さすがの俺も見ただけじゃ男のサイズはわからねぇが、触りゃ間違いようがない」
「待て、触ったとはどういうことだ。お前、ジャンと……」
「反応するのはそっちかよ。ったく、俺があいつのスーツやら仕立てさせたの知ってんだろ。そのときに測ったんだよ」
指先に力をこめると、肋骨の隙間に入った手の感触が気に喰わなかったのかベルナルドは鳥肌を立てて、ルキーノの手を振り払う。
にぃ、と口の端をあげる肉食獣めいた笑みを浮かべて、ルキーノは離した手をひらひらと振って見せた。
「あいつのカポ就任で、あんたが気張ってんのも判るさ。だがな、自分の身体の手入れはしとけよ、ベルナルド。――駅弁の最中にギックリ腰です、じゃ、最高にかっこ悪いぜ」
直截な表現はベルナルドを絶句させ――
「余計なお世話だ、バッファンクーロ!」
笑い転げるライオンの赤毛は、投げつけられたコーヒーシュガーによって白く染められた。
その日の、夜。
「んだよベルナルド、今日はやたら喰うのな。腹減ってた?」
「あ、ああ。なんだか今日はたくさん食べたい気分なんだ」
「しかも肉ばっかりじゃん。うまそーだけど、すげーボリューム」
「……男には、食べなきゃいけない時もあるんだ、ジャン」
「は? 何言って……」
「ふはは、なんでもないさ。お前とテーブルを囲むと、なんでもおいしくて食べ過ぎて……しまうんだよ……うぷ……」
「ベルナルド!? おい、ベルナルド――!?」
食卓にはジャンの悲鳴が響き。
ベルナルドは壮絶な胃もたれに丸二日悩まされることになった。
更に後日、CR:5の筆頭幹部が人知れず腹筋に励んでいた姿は、うっかり目撃した彼の恋人をわけのわからない混乱に陥れる。
悩みぬいた末にジャンが相談に赴いた先は序列第二位の幹部の屋敷。
そこで男前のライオンが涙を流して爆笑していたことを、ドン・オルトラーニは幸いにも知らない。
2009/07/24
雑誌のSSではベルナルドの不調にジャンより先に気づいていたし、ルキーノはこういうの目敏い人なのかな、と。
ていうかバンビーナ呼ばわりされて嫌がるベルナルドが書きたかったんです。