handcuffs on a kitchenhandcuffs on a kitchen
スコン、ガタッ、ゴロゴロゴロ。
間抜けな音を立てて、トマトが転がる。
薄皮に切れ込みが入っただけの切れそこなったトマトはまな板から転がってシンクに落ちそうになって、ジャンは慌てて追いかけた。右手で持っていた包丁を置いて、その手を伸ばして真っ赤なトマトを拾い上げる。
拾ったトマトをもう一度まな板に置き、手近なタオルで指先についたトマトの汁を拭って、再び包丁を取る。
すべての行動を右手だけで。
効率が悪いのは百も承知しているが、今の彼には左手を動かせない理由があった。先ほどつけた切れ込みに包丁の刃を合わせながら、ころころと揺れるトマトに苦戦したジャンは隣に立つ男に声をかける。
「んー、やっぱ片手だと包丁使い辛いな。なあベルナルド、こっちちょっと押さえてくれよ」
「ちょっとだけ待ってくれ。パスタを湯掻かないと、くっついちまう」
「おう。って、危ねっ! 気をつけろよ、熱湯こぼしたら洒落になんねえぞ」
「悪い悪い。左手だけだとどうにも扱いづらくてね」
たっぷりの湯を沸かした鍋の前に立ったベルナルドは、左手に持ったトングを扱い難そうに不器用に操っていた。鍋のふちに引っ掛けて、危うくひっくり返しそうになっている。ジャンは包丁を置いて、ベルナルドの前の鍋を支えた。グラーツェ、言いながらジャンの頬にキスを贈るベルナルド。またもトングを操りそこねて、余所見すんなよと怒られた。
湯の中で踊るパスタを慎重に湯掻き、トングを置いて今度はまな板の置かれたシンクの前に。包丁を握りなおしたジャンを助けて、新鮮なトマトを横から支える。ざくざくと刻まれたトマトは、こぼさないように気をつけながら用意してあったボウルの中へ。
すべての行動は、左手だけで。
利き腕と逆の手では動きはぎこちないが、ジャンと同じくベルナルドにも理由があった。
右手だけしか使わないジャンに、左手だけしか使わないベルナルド。
いつもは手早く済ませる食事の支度に、今日はもうずいぶんと時間がかかっている。
両腕を使えば早いこと。しかし、使えないその理由とは。
「俺らなにしてんだろーなぁ」
「まあ、ちょっと間抜けだなってのは否定できないね」
苦笑して、揃って見下ろす先にあるのは、使っていない方の互いの腕。
そして二人の手首に嵌った、銀色に光る無骨な――手錠。
「その間抜けな姿になっちまったのは誰のせいだ?」
「嵌めたのはお前だったと思うけどな、ハニー?」
「まさかンなアブノーマルなグッズを準備してきておいて、鍵を忘れてるだなんて思わないじゃないのダーリン」
つまりは昨夜、お楽しみの一環としてベルナルドが取り出したその道具を、面白半分で互いに嵌めて、そのまま取れなくなったとそういうわけだ。
理由はあった。しかし、果てしなくどうしようもない理由だ。
まあこんな日もたまにはいいんじゃないか? 上機嫌に、ベルナルドが笑う。
繋がれたまま眠りについて、朝になってようやく鍵がないことに気がついた。どこかで落としてしまったようだ。部下に探してきてくれと連絡をした後、離れられないせいで二人で同時にシャワーを浴びた。顔を洗うのにも苦労しながらどうにかこうにかバスルームを出て、不自由な格好で互いの着衣を手伝った。ちなみに腕を片方繋がれているせいで、シャツはどうしても身に着けられずに二人は今も上半身は裸のままだ。
馬鹿みたいに騒いだり、転びそうになったりと慌しいながらも目新しかった体験は思いの外楽しかった。また、小恥ずかしいトラブルを楽しめるだけの余裕がある休日だったこともあって、ジャンもベルナルドも、小さな鍵を――しかも、ボスと上司のセックス用品であるそれを――探して届けにくるようにと命令された哀れな部下が訪れるまでの時間を満喫していた。
風呂に入っていちゃついて、服を着ながらいちゃついて、髪を乾かしながらいちゃついたりして、そしてまた、料理をしながらいちゃついたり、して。
「おい、ジャン。オリーブのビンを取ってくれ」
「えー、届かねえよ。お前、もうちょいこっち来いって」
腕の長さに、1フィートほどの長さのある鎖。あまり使わないからとさして広く作らなかった簡易キッチンの中は、それだけの余裕があれば十分に行動できる程度の狭さでしかない。しかし端のラックに置かれた小瓶にまで、実際にジャンの腕はとどかなかった。
足りない距離は約1フィート。
届くはずの距離を、届かなくしているのは……
「うん? これくらいで大丈夫かい?」
「んー、あとちょっと……つかこれ、手ぇ離せば簡単に届くんだけどな」
「それは却下」
指と指を絡め合わせて、繋ぎ合わされた二人の手だった。
どうせ繋がれているのだから、と理由にもならない理由を持ち出して先に手を握ったのはベルナルドで。
どうせ繋がれているのだから、と理由にもならない理由を呑み込んでその手を振り払わなかったのが、ジャンだ。
ようやく取れたビンをベルナルドに差し出す。片手ではあけにくいそれを、ジャンが持ったままベルナルドがふたを開ける。フライパンの上でさっと混ぜ炒めて、出来上がったパスタをさらに盛り付け。
手を繋いだまま料理をした二人は、手を繋いだまま完成したパスタを見て満足げに頷いた。ジャンは右手に、ベルナルドは左手に、それぞれ自分の皿を持ってテーブルへ。
手錠で繋がれている方の手は、拘束具よりもなお強く互いの指で繋がれたまま、
「繋がってるから、仕方がないな」
「まあ、繋がっちまってるかならぁ」
隣り合わせの椅子を引いて、眼を細めながら嘯いた。
要するには、ただのバカップルなのだ。
* * *
バカップルの詰まった部屋の前、黒いスーツを着こなした男が俯いたまま硬直しているのを、通りかかった同僚が見つける。
「なにやってるんだ、お前。ボスとコマンダンテに頼まれたもの、持ってきたんだろう? さっさと届けろよ」
「行ったさ! ただ、チャイムが切れてたみたいで中に入って行ったら、その……」
「……まさか。ベッドルームが使用中だった、とか?」
「いや。二人で手をつないで、料理してた」
「…………」
「思わず逃げ帰ってきちまった。――入れねえだろ!? さっさとしろって言うなら、お前届けてきてくれよ!」
「……食事が終わるまで、一時間てとこか。様子を見て、行って来い。俺は遠慮する」
「……なァ」
「なんだ」
「一時間たって届けに行って、今度はほんとにベッドルームが使用中だったらどうすればいいと思う?」
「テーブルの上にでも置いて来い。ソファが使用中じゃないことは、俺も一緒に祈ってやる」
同僚にポンと肩を叩かれながら、男は深々とため息をついた。この部屋の中に入っていくのに要する勇気に比べれば、GDのアジトに一人で突っ込んでいくほうがどれだけ楽だろうことかと己の不運を嘆きながら。
* * *
「つかさ、ベルナルド」
「なんだい、ジャン?」
「片手でって、食べるのもやりにくくねえか?」
「それは、食べさせて欲しいっていうおねだりかな、マイスイート?」
「あんたがおねだりするんなら、食わせてやってもいいぜって言ってんのよダーリン」
はたしてこの二人は本当に手錠を外したがっているのか否か。
そして扉の外で頭を抱えている哀れな部下が無事に務めを果たせるのか。
その答えは神のみぞ知る――が、きっと神様も知ったことかと匙を投げるに違いない。
2009/10/12
バカップルというよりはただのバカ共。