さようなら私の靴下私を最後の女にしてくれと言われて操をたてていたが縁談が舞い込んだ。いつもは忘れられない女がいると断っていたが、世話好きな旧友が会ってみるだけでもと言うので付き合いで会う。開口一番断ってくれと頼み込むと事情を聞かれたので正直に話すと女はこう言った。
「私、それで十分です。結婚でもしないとお父様が家から出してくれなくって」
女の顔をまじまじと見る。ガワも物言いも最後の女と正反対で、性別ぐらいしか共通点がなかった。そうして我々は名ばかりの結婚することになり、ささやかな居宅を構えて生活をおくることになった。
「その方、どんな方だったの?」
結婚した女がそう聞いてくるがもはやどんな女だったかも覚えていない。勝気で恥知らずで捨て鉢な態度の不躾な女だったのは覚えている。愛していたかも曖昧だ。
女との別れは唐突だった。早い話が捨てられたのだ。他に相手を見つけたようで、置き手紙ひとつなく消えた女の行方は今になってもわからず、私は夜逃げ後のがらんどうなマンションの部屋で呆然とするしかなかった。たけど妙に腑に落ちた。いずれこうなるような予感がしていた。そんな捨てられ方をしたのに義理立てなんてする必要があるのかと自分でも思う。ただ渡り鳥が南に向かうようにあいつは最後の女なんだと受け入れた。もはや意地と言ってもいい。強情な奴めとあの女の声がした気がして、やかましいと言い返そうとしたが、言い返す相手がおらず口を閉ざす。そうやって何百年かが過ぎ、あの女が生きているはずもなかった。いつどこで誰と人生を共にしたのか、添い遂げた人はいたのか子どもはいたのかどんな最期だったのか、想像を巡らすしかない日々は意外と楽しいものだった。想像上のあの女はいつだって楽しそうで好きな物に囲まれ高らかに笑い、歯に衣着せぬ物言いをした。あんな女を好む物好きがどこにいるのだろうかと自分を棚に上げてほくそ笑むが、結局想像上の女が1人でいるところを夢見ることはなかった。何だかんだで憎めないやつだったのだ。
「変わった奴だったよ」
一言で言おうと思えばそう言うしかない。
今夜は穏やかな月夜だった。息を吸うだけで肺の在り処がわかるくらいきっぱりとした冷気が張り詰めている。何を言っても響かない結婚した女によく似た夜だった。
「愛してらしたのね」
そう言って傍に腰掛ける女の声色に少しも妬み嫉みが混じることなく、だからこそこうやって我々は月日を共にしている。きっと大概の事に興味が無い女なのだと気づいたのは最近のことだ。
「さあ、愛していたのかも覚えていない」
「でも今笑っていました」
女は自分の言葉に呼応するように微笑む。
「いい思い出ばかりあるのは幸せなことです。悲しくて辛いことばかりが記憶に残るでしょう?」
そうは言っても楽しいばかりではなかった。あいつとの日々は喜びと悲しみを表裏一体にし、色んなものを見て見ぬふりすることで成立する拮抗した生活だったのだ。それでも情がわくには十分すぎて、お互いにお互い貪って、貰いすぎているとも与えすぎているとも思った。自分がすり減ると同量あいつが中に入り込んで、最終的には境目がわからなくなった。きっとあのままでは破綻していたのだろう。そんな危うい日々だった。
「あなた、どうして私との結婚を承諾されたの?」
女は桃の皮を剥いている。切込みを入れた桃の皮は紙が捲られるように剥がれていくが、思った以上に水気が落ちる。女は細切れにした桃を紅茶に落として飲み込んだ。こうすると冷めて飲みやすくなると以前言っていたことを思い出す。
「さあ、ただの同情だ」
嘘偽りなくそう言うと、女は満足気に微笑んだ。
「きっとあなた、昔から優しい人なのね」
「利用されるのに慣れているだけだ」
女の顔が翳る。すっと感情が抜け落ちて口許だけが笑っている。
「私、実家で居場所がなかったのに意味もなく据え置かれてうんざりしてたの。お見合いは渡りに船だった。相手があなたで幸運だったと思う。」
女はなんの感情も含めず話す。
「居場所を与えることも与えられることに無自覚で、利用され慣れているなんて嘆くのは捨てられて当然と思うわ」
そう平然と言ってのけて静々と茶を飲む女の姿が似ても似つかないあいつの顔に重なった。
私は無意識に自分が靴下を履いていることを確認する。
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いつかどこかで読まれた手紙
『先立つ不孝をお許しくださいとは親に言う言葉だからお前に言うのは筋違いだろうが、事実私は死んでしまった訳でお前は今この手紙を読んでいる。遅かれ早かれこうなるのは分かっていたからこうして柄にもなく手紙をしたためている次第だが、私は宵越しの金を持たぬが如く死ぬと思っていたか?ところがどっこいタビコさんは思案家で、やると決めたことはやり通す一方、今後の行末を案じていたりもしていたのだよ。策略家と呼んでくれ。何ならお前が今何を思っているのかもわかるし何をしでかそうとするかも分かっている。多分お前は死ぬはずだ。私がいない世を儚んでとかそんな理由じゃない。きっと刷り込みされた雛鳥みたいに私の後を追って、死後の世界まで私を探しに来るはずだ。言っておくがそんな事私は望んじゃいない。そもそも死後の世界が存在するとも思えないし、お前がそこまでする必要性は全くないからだ。私は生き、そして死んだ。それで十分のはずだ。
私はお前に3つのものを遺す。しかと受け取るよう。1つは靴下。私たちの始まりだ。私たちの倒錯した日々、その出発地点だ。私はそこで産まれて育って生かされた。全てのものが輝いて見えるなんて聞く度に安っぽいことを言うもんだと思っていたが、実際輝くのだと知って驚いた。色んな奴に迷惑をかけたが後悔はしていない。後悔しようがない。後悔なんてするやつは行動の前の思案が足りないか覚悟が足りないかあるいは両方足りなかった奴だ。その分私は満ち足りていた。足りないものと言えば更なる刺激と技術の研鑽だけだった。楽しかった。それだけだ。とは言えこういった事情であれば持ち主に返さねばならない。さようなら私の靴下。
もうひとつはあの言葉、最後の女にしてくれ。別に誰とも添い遂げるなという訳では無い(そんなことがあったら大事だ)誰と番おうが構わないが絆されるのは私で最後にしてくれと言う意味だ。利用するだけしておいてなんて言い草かと思うだろうがお前は情に深すぎるきらいがある。もっとわがままになって私を振り回してくれたらよかった。その方がお互いがお互いの居場所になったと思うのだ。恐らく2人とも情熱的過ぎた。それだからこそ夢中になれた。だけど、それに終わりが来るなんてこと想像もしていなかった。考えが足りなかった。
もうひとつはこの薬。例によってあの科学者に作ってもらった。簡単に言えば記憶が操作できる薬をお前用に作ってもらった。この薬を飲めばお前はどうして私の家に来ることになったのか、私に何を奪われたのか思い出せなくなる。お前との出会いにロマンスがないとは言わないが些か矜恃に欠けるところがある。私はお前に気高い吸血鬼でいてほしいのだ。あとは飲むタイミングだ。諸々の処理が終わって薬を飲めば私はどこかに行ってしまっただけと思い込む。そうすれば憎しみや絶望が一時のよすがになる。時間は1番の傷薬だ。
もう一度言う。お前は私を追う必要はない。私がお前を見つけ出す。何年経とうが見つけ出してお前の居場所になる。その再会を思えば今生の別れなんて大したことは無い。
お前はただ期すべき時を待って以前のように靴下を履きこの手紙を燃やして私を最後の女と思った上で薬を飲めばいい。私の最後の願いだ。
この手紙がお前の手許に残らないことを切に願う。 タビコ』