慣れぬくらいならその腕に ――冬、か。リィンは仕事が一段落した寮のベッドで、バタリと倒れながらそう思う。《黄昏》が終結してから三度目になるその季節に、そろそろ拭えていい筈の不安がまだ心の奥底で突き刺さっていた。
「流石に通信は女々しいかな」
流石に三度目ともなれば慣れなくてはならないと、彼は思う。今は異国を巡りながら情報収集やら遊撃士協会の協力者やらで忙しい悪友を、年末には必ず帰ってくる優しい人を心配させない為に。開いたり、閉じたりしてどうも定まらない思考をなんとか纏めようとする。
「今年は帰ってこなくても大丈夫だって、言おうかな……」
移動距離だってそんなに短くないのだ、忙しい時間を自分に割かせるには余りにも勿体無さすぎる。そもそも、帰ってくるという表現さえ正しいのかは分からないが。導力メールで今年は帰ってこなくても大丈夫だという旨だけ書いて送信して、そのまま目を閉じる。通信を告げる着信音がやけに遠く感じながら、リィンはそのまま眠りについた。
「チッ、出ねえな」
クロスベルのジャズバーで、一人酒を嗜むクロウは届いた導力メールに目を通した後すぐに通信を繋げようとしたが一向に出る気配がなかった。もう十二月になるのだ、一年の終わりを告げるこの時期はどうしても知り合いは皆クロウの安否を心配してしまう。――かつて、死んでしまった事があるからだ。その中で一番酷く心配してくるのは、相棒とも悪友とも呼べるリィンだ。深すぎる傷を心に負い、今でもそれは塞がる事はない。頻繁に帰れなくとも十二月末は絶対リーヴスに戻ると決めていて、今年もそのつもりでいたというのに突如来たメールには“今年は戻ってこなくても大丈夫だ”という内容が書かれていた。一度目は酷い顔色に全身冷えていてとんでもない有り様だった。二度目は早めに戻っていた事もあってそこまで酷くは無くとも、恐る恐るといったように体温を確かめられた事があった。これでもかという程抱き締めてきちんと体温がある事を教え、安心させるように頭も撫でた。そして、今年が三度目。考えている事は予想がつく。そろそろ慣れないと、だなんて思っているのだろう。いなくても生きていると知ってるから、何時までも甘えてなどいられないと。リィンには言っていないが、去年も今年も十二月付近の行動範囲は帝国周辺にすると決めている。いつでもリーヴスに戻れるように。癒えてない傷を無理矢理治ったかのように見せなくていい、そう思っているのだから。
「誰かと思ったらクロウかよ、クロスベルに来てたのか」
「……ああ、アンタか」
隣に誰か座ったかと思えば、見覚えのある赤毛。《黄昏》や《逆しまバベル》で共闘した経験のある特務支援課の一人、ランディだった。支援課ビルから近い距離であるし、裏通りの一軒にある店だ。行きつけなのだろうとクロウは容易に想像ができた。
「相棒とやらはどうしたんだ?」
「ん?ああ、ロイドか。誘ったけど明日は平日だからって断られたぜ。ったく、真面目すぎるっつーか」
「ま、あのお巡りさんならそうだろうな」
そんな事を思いながらグラスの中身を揺らす。彼の相棒といえば仲間から聞いた程度でしか分かってはいないが、帝国のクロスベル占領時にやり合ったという話を思い出す。実際リィン自身はそれを負い目に感じていたし、彼はまたリィンから強い意志を感じ取ったのだとか。その時死んでいたクロウには分からないが、必要以上の無理や苦しみがあったのではと思うのだ。
「そんで、お前さんがそんなにイラついてる理由はなんなんだ?」
「……は?」
ランディに指摘されて初めてクロウは自分が苛々しているのが顔に出ていた事を知り、一瞬表情が消えた。その気持ちを抱えていた事は否定しないのだが誰かに悟られてるとは思わなかったのだ。
「ま、リィン絡みなんだろうな?」
「……分かってんなら聞くな」
「そう言うなって」
誂われているのを分かっていて話す程、クロウも馬鹿ではない。否、こんな話を他の誰かにしたいとは思わないだけなのだが。ランディは頑なな彼の姿に少し考え込むと、とても真剣な表情で言う。
「まさか、フラれたか?」
「なんで付き合ってるかコクった前提なんだよ。んな訳あるか」
マスターに一睨みされ、二人は黙る。その後沈黙を破ったのは、クロウだった。
「……フラれたのかもな、ある意味」
もう一人で立っていられるから、心配しなくていいという意味ではそうなのだろうと彼は思う。本当は自分無しで立っていられなくしたい位なのだが、そんな事言おうものなら恐らく多方面から手痛い攻撃が降ってくる。その悲惨さを、よく知っているが故に。
「手が届かなくなってからじゃ遅いぞ」
ランディは何時にも増して真剣な表情だった。どういう意味なのかは、あえて問わない。彼なりに得た経験がそう言わせているのは明白だからだ。まだ手が届く、それがどれ程大切な事なのかクロウ自身も知っているではないか。
「飲んでる場合じゃねぇな、今日はもうホテル戻るわ」
そう言ってカウンターにミラを置いて去る彼の背中を見送って、ランディは一人呟くのだ。――お前の事を語ったリィンがどんだけ見てられないかを知らねぇからフラれたって寝言を言えんだよ、と。
翌日からクロウはリーヴスに向かってひたすら導力バイクを走らせた。今のリィンから長く離れてはいけないと思ったのだ。何事もないように振る舞っても、それが本調子でない事くらい周りだって気付くというのに。法定速度内で、かつ速く。目的地へ近づくにつれ、リィンがどんな表情をしているかが心配になる。せめて、目の下に隈が無ければいいのだが。考えているうちにリーヴスに着いた。夕方になってしまったが、彼が戻ってくるちょうどいいタイミングなのは確かだった。格納庫はまだ開いている時間だろうとバイクを押して向かうと、その姿に気付いた誰かがクロウに近付いた。
「あ、クロウくん!お疲れ様、今年は早いね?」
「おう、トワもお疲れさん。頼まれてた事は終わったから今年は早めにな。アイツは?」
寄ってきたトワにそう問えば、少し困ったような表情に心配の色を乗せ言葉を返してきた。
「まだ校舎の中にいるよ。……無理矢理、帰らせてくれないかなぁ?」
クロウがその辺り容赦なく引き剥がす事を、トワは知っている。リィンの無茶する癖をあの手この手で諭して止められるのはただ一人、彼だけなのだ。そして彼女も相当の圧を時々持ち合わせるが、それでもダメならば確かに重症である。
「分かった、引き剥がしてくるわ」
「うん、お願いね!まだ見回りもあるし、格納庫に寄ってからでいいから!」
そう言ってトワはクラブハウス方面へと向かっていった。格納庫に導力バイクを置かせて貰うと、目的を果たすべくクロウもまた目的の場所へと向かう。一応ノックして入るも、見える背は集中しきっているせいか、彼の気配にも気付いていないようだった。いつもならもうとっくに気付いている距離の筈だが、と声をかけた。
「リィンきょうかーん?程々にしないと鍵閉まっちまうぜ?」
ビクリと背を震わせて、こちらを見る紫苑の瞳。疲れが滲む表情と、青白い顔色。隈がないだけでも及第点ではあるが思った以上に酷い有り様に、思わず抱き締めた。
「クロウ、なんで……」
「お前が変なメール寄越してくるからだろうが!そんなツラ生徒に晒す位なら我慢しないで俺を呼べばいいだろ!」
リィンは本気で理解できていなかった。大丈夫だと、本当に思っていた。最初は眠れないかと思ったが眠れていたし、他の授業にだって支障があるわけではない。ただどうしてかいろんな人から心配されていて、トワにも早く帰ってねとも言われる始末で。それでも本当に大丈夫だと、彼自身は思ってもみなかったのだ。
「言っとくが、俺はノックもしたし気配も消してねーぞ?」
「っ……。本当にすまなかった。俺は」
「大丈夫って言うなら鏡見てから言えよ」
どんな顔をしているのか、本人も気付いていないのはクロウにも分かった。それでも大丈夫とは言わせたくはない。
「リィン、俺がこのままリーヴスに定住すんのと十二月だけ俺が帰ってくんの。どっちがいい?」
酷な選択だ、それはクロウ自身も承知の上。――だがこんな酷い顔をされてしまっては、この二択を突き付けるしか方法はないのだ。
「どちらか選ばないと、ダメか?」
「ああ、ダメだな。俺の都合は一切なしな」
そう言われ、リィンは考え込む。自分のせいでクロウに時間的拘束をしたくないのは事実だ。彼をを縛り付けてしまう理由は五十ミラの利子だけで十分であるし、それ以上は望まない。だから迷わず大丈夫だと言うべきなのだ。それなのに、クロウは必ずどちらかを選べと言うのだ。
「十二月だけで、大丈夫だ。一日だけ顔を見せてくれればいい」
リィンの中に、クロウの都合を考えないという選択肢はまずもって存在していない。必ず選べと言うのなら、十二月のどこか一日だけ会いに来てくれればいい。それだけで彼にとっては十分なのだ。だが、と思う。もしクロウが定住してくれるなら、もう得体の知れない恐怖に取り付かれなくていいのだろうか、と。隣に彼がいない事、他の誰かがいるのではないかと思ってしまう心。リィンは余りにも身勝手が過ぎるとそれを否定する。何をこの場合優先すべきかなど、議論する間でもないからだ。
「リィン。言っただろ、俺の都合は一切なしだってな。その上でどうしてほしい?」
「俺は……」
今度こそ、観念しなくてはいけないかもしれない。リィンはそう思いながら、心の奥底にあった恐怖を吐き出した。
「ずっと一緒に、いてほしいっ……!」
その後、リィンは倒れ込むように眠った。クロウが支えるようにして受け止めた甲斐もあってか、床に投げ出される事はなく。トワに連絡してそのまま抱き上げると、《バーニーズ》で一部屋借りて彼が目覚めるのを待つ。外泊許可は取っておくと言ってくれた彼女には感謝しかない。それ程目に見えて酷い有り様だったのだろう、これはまたきつく言わなくては。それもあるが、クロウは本格的に今後について悩んでいた。定住する以上、あまり頻繁にリーヴスを離れるような事はしたくない。かといって他にと言われると難しいものもある。そうやって頭を悩ませていると、リィンが目を覚ました。直前まで悩んだ事は一旦頭の隅においやる。
「おはよ、つってももう夜だけどな。さっきよりは顔色良さそうだが、体は平気か?」
「ああ、まさかここまで疲れているとは思わなかった。お陰様で体が少し軽い気がするよ」
そう言って彼は起き上がると、じっとクロウの顔を見る。すると一言、彼はこういうのだ。――何か悩んでるんじゃないのか、と。
「これからどうやって生活すっか悩んでるだけだ、心配すんな」
「我が儘言った身だし、そんな訳にはいかないだろう?……今まで通りでいいんだ。ただ、一つ約束して欲しい。絶対、俺の所に帰ってくるって」
それだけで頑張れるんだが、どうだろう。そう言われて一瞬クロウも唖然とした。まさか告白を通り越してプロポーズのような言葉。しかも何があってもずっと帰りを待つというのだ、リィンは。勿論、願ってもない。
「それ、プロポーズか?」
「……そうだな、そうかもしれない。クロウは嫌だろうけど」
照れくさそうに言いながら、自分の言った事を彼は否定的に捉える。そんな訳がある筈なかろうに、当然かのように言うのだ。
「嬉しいに決まってんだろ」
予想していなかった答えにリィンは呆気に取られたが、現実だと言うように口付けられた手の甲。
「約束する、俺はリィンの元に絶対帰るってな」
クロウがそう告げると、安心したように彼は頷いて笑うのだった。
――それから数日して、リーヴスに二人の帰る場所が出来る。だがそう遠くない未来でクロウが定住し、末長く二人で暮らしていく事になるのだった。
【終】