医者と味噌は古いほどよい リィンは《黒の工房》から救出されて以来、違和感に気付いた。《巨イナル黄昏》より前に感じ取れていた味が、分からなくなっていたのだ。一か月近く食事をしていなかったこともあり気付かなかったが、しばらく食べているうちにようやくその違和感に辿り着いた。原因は分からないが、相克に向かうこの状況で他の心配事を出来ればリィンは作りたくなかった。だから、黙っている事にした。――目に見えて減っている食事量を前に、既に全員が気が付いているだなんて思わないまま。
「そういうワケでクロウ、よろしく」
「いや待て、どうしてそうなる」
セリーヌとデュバリィに足止めさせて始まる新旧Ⅶ組大会議。答えは出ているも同然だったが、それでも認識の擦り合わせが必要だと集まったのだが。驚く程分かりやすいリィンの事だ、擦り合わせる間でもなかったが。それが分かれば押し付ける先は一つしかない。フィーの直球な言葉にクロウは予想もしていなかった為狼狽えた。リィンは無自覚ではあるが彼に甘える。そしてクロウは彼が甘えてくる自覚はあれど甘えさせているという自覚はなかった。何も自分に持ってくることはないだろうに、それがクロウの言い分だがそれに呆れている様子もまた感じ取っている事もあって困っている。
「だって、ねえ?」
「うん、クロウにしか甘えぬのだから仕方なかろ」
アリサの言葉に困っている様子にラウラが続ける。それに全員が頷くと、クロウは解せないとでも言いたそうな目を向けた。自分の居ない一年半という時を、彼らは現実に打ち砕かれながらも向き合い続け成長して見せたのだ。それは誇らしいし、感心もしている。――もう自分が居なくてもいいだろうという安堵も、ある。だがその言葉に皆が首を振るのだ。
「クロウは確かに、僕たちが前に進むきっかけをくれた。だけど、リィンにとってはそれだけじゃないんだよ?」
エリオットが悲しそうにそう言うとガイウスもまた言葉を続ける。
「リィンにとっては支えであり、また戒めだったのだろう」
前へ、前へ。誰もが自分の決めた道を必死に走った。それが今後の《何か》に繋がり、自分達がⅦ組としての在り方を間違っていないと信じているからこそ。今度こそ大切な誰かを失わない為に。リィンは誰よりも強く感じていただろう事は、クロウにも想像が出来た。
「リィンさんを置いて卒業することが私たちの心残りでした。傷付いても尚、要請をこなし続ける事で壊れてしまわないかと」
「結果、僕達にはもう弱い所を見せなくなりました。先輩、あなたに笑われてしまうからって」
エマとマキアスの言葉にクロウはまさかと思う。あれ程散々、周りを頼れと教えたのにそんな訳がないだろう。彼は口酸っぱく言ってきたが未だそんなことを言うのか。ただでさえ一人で抱え込みがちで、それでも誰かに手を伸ばし続ける。どんな困難も先陣切って足掻いていた、そんな彼を笑う理由などありはしない。こうして仮初ではあるが蘇って予備知識として内戦後の事も調べたが、どれもリィンには酷な事に持ち上げられ称賛されている。真実とはかけ離れた誇張表現も見て取れたし、優しさを利用してこんな事を受け入れる状況を作った奴らも到底許せそうにはなかった。
「フン、どうせ貴様の事だ。またボーナスステージ等とぬかすのだろう?」
「それが現実だとしても今のリィンには酷だわ。アンタだってリィンに辛い思いさせたい訳じゃないんでしょう?」
それは勿論そうだ、だがそういう行為が尚リィンを傷付けるとクロウは知っている。それこそ、学院に居た時から。中途半端に懐にいれて取っておけるような思い出は作りたくないのだ。本当は利子だってスッキリ清算させたいというのに。
「リィン教官が要請の間、何があろうと貴方の言葉で奮い立たせている姿をわたしは何度も見てきました。今思えばあれは悲しさや寂しさ、だったんですね……」
常人なら心折れるだろう場面にリィンが立ち会った事をアルティナは知っている。それでも彼は折れる事も、立ち止まる事もしなかった。遺された言葉を少しでも受け継いで、そして自分がⅦ組や自分自身として誇れるように。そして彼女はもう一つの思いも知っている。クロウの人生を無駄ではなかったとせめて自分だけでも理解して証明したいのだと。だから必死に前を向いて背伸びをして、そして立ち止まらない。
「ランディ先輩に、ほんの少し聞きました。リィン教官があなたの事をとても悲しそうに語っていて、今でも癒えない傷口だって。でもだからこそ、今はクロウさんが必要なんだと思います」
「あなたをとても大切に思っている事は僕達にも伝わってきました。そんなあなたが今教官に寄り添わなくてどうするんですか?」
ユウナとクルトの詰め寄りにクロウも言葉を無くす。癒えない傷すら抱えて、それすら大事というのかと。こんな最低な男が勝手に縛り付けた、呪縛さえ。アルティナに言われるならまだしも、新Ⅶ組の面々にも言われてしまえばそろそろ反論する余地もない。そもそもそこまで分かりやすく引きずっているのもどうなのだろうか。
「まさか、このままトンズラとかしねぇよなぁ?」
「しませんよ、アッシュさん。愛しい人を甘やかすというのは殿方の憧れでしょうし」
誂うように止めを刺しにくるアッシュとミュゼに、とうとう白旗を上げざるを得なかった。まあ、釣れる餌が無い訳ではない。後はあちらが掛かってくるかだけ、だ。
地上へ降りた時に揃えた食材を広げる。キッチンを借りて作り始めたそれは、リィンならば必ず食いつくであろうもの。かつて一度だけ振る舞ったそれを、リィンも独自で作っていた事は仲間からの証言で既に知っている。たった一度だけ作ったものに対する執着が大きすぎる。
「あ、クロウ。何か作ってるのか?」
「まあ偶にはな。おら、お前も付き合え」
かかった、そう思いながらカウンターに座らせて作っていたものを出した。――フィッシュバーガー。内戦の際にパンタグリュエルで振る舞った故郷の味。それを見たリィンの表情はとても悲しそうだった。
「遠慮しないでいいんだぜ?」
「……いや、俺は」
「まあ、そうだよな。味が分からねえともなりゃな」
ドキリ、と変な風に鼓動が鳴る。リィンがクロウを見ると悲しげに笑っていた。そんな風になって欲しくはなかったとでも言いたげな顔。
「俺が不死者として蘇ってしばらくはお前さんと同じように味覚がなくってな。今は平気なんだが十中八九、体内の霊力が乱れてるか安定してないからだろ」
そう言って行くぞと手を引かれれば、連れてこられたのはエリンの里だった。
「ふむ、シュバルツァーの霊力か。どれ、診てみるとするかの」
事情を聞いたローゼリアはすぐ様リィンの霊力を診てくれた。クロウの言う通り霊力の乱れが原因であり、下手をすれば次の五感を失いかねないとの事。今のうちに処置すれば正常に戻ると言われ、直ぐに始める事になった。
「アームブラスト、そなた他の五感を失った事でもあるのか?」
処置が済んで足りない霊力を補うように暫くリィンが眠る。その傍らで発せられたローゼリアの言葉にクロウは黙り込んだ。
「……まあ、な。今も働いてねえ五感が一個ある。ま、こればっかしは仕方ねえな」
彼はじっと己の手を見る。何を失ったのか、それはこの数日後に明らかになるのだった。このボーナスステージの間に知られることがないように。叶いもしない願いをそっとクロウは抱いた。
(黄昏を経てクロスベルの再独立を経たその後、という感じで無自覚から付き合って同棲するまでみたいな話)