おやすみからおはようまで◇◆──────────
天馬が寮に到着したのは、日付が変わって少し経ってからだった。車を降り、マネージャーの井川に「こんな遅くまで悪い」と頭を下げると、井川は「とんでもない」と爽やかに笑った。
節電に厳しい左京がいるにも関わらず玄関の電気が点いているのは、遅くに帰る天馬のためだ。ふう、とひとつため息をついて、サングラスを外す。皆もう寝静まってしまったようだけれど、この灯りを見ると仲間たちの「おかえり」が聞こえる気がして、安心する。
乳酸の溜まった脚を引きずるようにして、寝床のある二〇一号室へ向かった。明日はオフだから、風呂は起きてから入ろう。
「明日じゃなくてもう今日か…………」
頭の中で呟いたはずなのに、口に出ていた。疲れている証拠だ。こんなときはすぐに寝るに限る。
そっとドアを開けると、部屋の電気は最小にしてあった。同室者を起こさぬように注意しながら部屋に入ると、ロフトベッドの方から「おかえり」と声がした。
「幸、起こしたか?悪い」
「…おかえり」
「……ただいま」
キャリーケースの中身を片付けるのは後回しにして、天馬はクローゼットから部屋着を出して着替え始めた。
「遅かったじゃん」
声がなぜか真上から聞こえる。天馬が見上げて目を凝らすと、幸が入っているのは天馬のベッドだった。
「なあ、そこオレのベッド」
「知ってる」
「風呂入らないから、お前のところでは寝られない」
「いいよ」
「はあ?」
しかたなく幸のロフトベッドに上がろうとすると、「違う」と抗議の声が上がった。
「なんだよ、床で寝ろっていうのか?オレは疲れてるんだぞ」
いい加減にしろ、と言いそうになったとき、ごそ、と音がした。天馬の布団から顔を出した幸が、こちらを見下ろしている。
「そうじゃない。一緒に寝てよって言ってんの」
消え入りそうな声だった。たった数秒前までの苛立ちが嘘のように引いて、天馬の口がゆるむ。午前一時半にして本日二度目のため息をついた。
「そういうことか。別にいいが、オレ汗臭いと思うぞ」
「いい」
「…………それはどっちの『いい』だよ」
「アンタなら、いい。早くしろ」
「はいはい、わかったよ」
梯子を上り、布団の端を開けて身体を滑り込ませる。幸が比較的小柄ではあるけれど、男二人ではさすがに狭い。
「…………汗くさ」
「だから言っただろ。イヤなら自分のベッドに帰れ」
「いいの。おつかれ」
「お、おう…………オレは寝るぞ」
「やだ。オレは寝ないで待ってたんだからアンタも待ってよ」
幸は身体を反転させて、天馬の方を向いた。暗くてよく見えなかったが、近くでよく見ると、その目は潤んでいた。
「…………何かあったのか」
「フラ高なのに、専門学校行くのって言われた」
「誰に」
「センセー」
「この間言ってた無神経な奴か」
「うん。そうですけどって言ったら、ふーん、美大ならわかるけど、専門学校かぁって。言い返したかったのに、それだけ言ってすぐいなくなっちゃった」
他の誰にも言わなかったのだろう。モヤモヤしたことを天馬にだけ話そうと待っていたのだと思うと、目の前の華奢な少年が愛おしくて仕方がない。
「フラ高から専門学校行く奴は少ないのか?」
「大体が四年制大学に行くから、年に二、三人いるかいないか」
「そうか。ならその教師は、『毎年ほとんどの卒業生が四大に行くフラ高で、専門学校を目指すなんて珍しいな』以外のことは考えてない。多分な」
「…ほんとに?嫌味にしか聞こえなかったんだけど」
「あのな、幸」
天馬は口を尖らせる幸の両目を見つめて、ゆっくりと話した。
「世の中には特殊な奴がいてな。オレらには嫌味にしか聞こえない言い方をするけど、そいつらは言葉通りのことしか思ってない。だから言葉の裏側を想像してムカつくのはナンセンスだ」
「…………そっ、か」
「でもまあ、たしかに無神経だな、担任でもないのに。イヤな思いしたな」
大きな瞳から涙が溢れ、天馬の枕にこぼれていく。天馬は幸の目元を親指で拭ってやった。
「また同じこと言われたら、オレ様がフラ高に乗り込んで抗議してやる」
「…はは、バカ。ネットニュースになっちゃうじゃん」
幸は涙で濡れたままの睫毛を震わせてくすくすと笑った。
「ほら、寝るぞ」
「うん。ありがと、天馬」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ」
さっき汗臭いと言ったくせに、幸は天馬の胸元に顔を埋め、猫のように丸まって、静かな寝息を立て始めた。その緑色の髪を撫でながら、遅いくる眠気に身を任せ、天馬も目を閉じた。
──────────◆◇おわり